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飯山城(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0731.JPG←本丸の石垣と枡形虎口
 飯山城は、上杉謙信が築いた北信と春日山城防衛の拠点である。元々は常岩牧一帯を所領とした小土豪の泉氏の居城であった。泉氏の祖は、鎌倉前期の1213年に執権北条氏の専横に抗したが敗れて、信濃飯山へ逃れた泉小次郎親衡とも言われる。戦国中期に武田信玄が北信に侵攻すると、北信の土豪達は武田氏に降る者と抵抗して越後の上杉謙信を頼る者とに二分され、泉氏は上杉氏に属し、更に中野に勢力を誇った高梨政頼も武田氏の圧迫により飯山城に退去した。1561年の第4次川中島合戦の後、戦略に長けた信玄は奥信濃に深く侵入し、上杉方の防衛線は飯山付近を残すだけとなった。そこで1564年頃、謙信は武田氏の侵攻に備える重要拠点として飯山城を大改修し、また上杉氏の信濃出陣の拠点ともなった。その後、信玄は長沼城を拠点として飯山城攻略を目指したが、上杉方は飯山城を死守した。その後、謙信が急死し、その後継を巡って御館の乱が起きると、武田勝頼は上杉景勝と同盟し、見返りとして飯山地方を割譲され、武田氏の属城となった。1582年に武田氏が滅亡すると北信4郡は織田信長の部将森長可に与えられ、飯山城も森氏の手勢が占拠したが、間もなく本能寺の変が起きて織田勢が信濃から撤退すると北信4郡は上杉景勝が占拠し、山口城主であった家臣岩井備中守信能を城代に任じて本格的な整備を行った。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封になると、岩井氏も会津に移った。その後は、江戸時代を通して関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多と多くの大名が相次いで城主となり、幕末まで存続した。

 飯山城は、千曲川西岸の標高340m、比高25m程の独立丘陵上に築かれている。城内は公園化されているので、夏でも訪城可能である。丘陵全体を城塞化した城で、この地域では矢筒城の縄張りに類似している。南東端の丘陵頂部に本丸を置き、その北側に切岸だけで区画された二ノ丸・三ノ丸を連ね、西側には帯曲輪と2段に分かれた西曲輪を置き、三ノ丸の北側にも外郭を築いている。城内に堀切はないが、北中門から三ノ丸に至る城内通路は横堀を兼ねており、通路外側には大きな土塁が築かれている。また城全体を囲んで水堀が廻らされていたらしい。この堀跡は湮滅が進んでいるが、東側と南側は低地となって名残を留めている。本丸の北辺にはしっかりした石垣が残り、大型の出枡形の虎口が構築され、この城の大きな特徴となっている。これらは近世初頭の構築と考えられている。二ノ丸の北辺には土塁が築かれ、三ノ丸からの動線はこの土塁を迂回してつけられている。三ノ丸と外郭との間にはL字型の水堀が穿たれていたが、現在はグラウンドに変貌して湮滅している。現地解説板には「三日月堀」とあり、江戸時代からの呼称と思われるが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは、「甲州流軍学」という架空の兵学に捕われた悪しき風習である。技巧性のある縄張りではなく、現在の姿からはそれほど要害性が高い城とも思われないが、往時は全周を水堀で囲まれ、多数の兵で防衛した屈指の要塞だったのだろう。甲越両軍の抗争を語る上で、避けては通れない城である。
三ノ丸西側の横堀兼用の通路→IMG_0688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.856051/138.366483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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