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猿ヶ京城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2163.JPG←横矢の掛かる主郭の大空堀
 猿ヶ京城は、宮野城とも言い、関東に出馬した上杉謙信に所縁の城である。築城年代は不明であるが、1560年に謙信は宮野城に一泊し、吉夢を見て宮野を猿ヶ京に改めたという伝説がある。古文書では1570年の謙信から家臣の栗林政頼宛の書状に「猿京近辺之証人共」とあるのが初出とされる。その後、1578年の謙信の急死でその後継を争う「御館の乱」が勃発し、上杉景虎(北条氏康の7男)支援のため、北条勢は越後へ進軍し、途中の猿ヶ京城を支配下に置いた。しかし1580年に武田勝頼の部将真田昌幸配下の海野輝幸に攻撃され、北条方の城将尻高左馬介義隆は降伏した。以後、真田氏が領主となり、武田氏の持城となった。武田氏滅亡後も真田氏がそのまま城を維持して北条氏に対抗した。廃城時期は不明。江戸後期の寛政年間(1789~1801年)に徳川幕府は三国街道の猿ヶ京関所を設置した。戦国時代から江戸時代まで、猿ヶ京は関東と日本海側の境界を守る要衝であり続けた。

 猿ヶ京城は、赤谷湖北岸に突き出た台地上に築かれている。しかし赤谷湖は戦後の人工湖なので、往時は湖はなく、谷戸に突き出た断崖上の城であった。三角形の台地を2つの堀切で分断した縄張りで、南端が主郭、北側に二の郭を配置している。主郭には現在湖城閣というホテルが建っている。主郭内部は2段に分かれており、そのままの地勢でホテルの温泉施設が建てられている。主郭北側には立派な土塁と大空堀が残り、この堀切は東側では横矢の屈曲が見られる。二ノ郭は民家などが建っており、中を探索することは不可能だが、遠目に土塁が辛うじて分かる。また張出し櫓台跡と思われる土壇上に民家が建っている。私は今回、湖城閣に宿泊したので、遠慮なく主郭内を歩かせてもらったが、そうでない人はホテルの方に断ってから探索して欲しい。また猿ヶ京は温泉でも有名で、湖城閣で入った夕闇の露天風呂は、折しも煌々と輝く月が湖面に映え、美しい光景だった。もしかしたら謙信もこんな景色を眺めたのだろうかと思うと(当時は湖がなかったにしても)、なんとも感慨深かった。
西斜面に落ちる主郭大空堀→IMG_2173.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.722873/138.888216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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