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陣林楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4451.JPG←一騎駆けの土橋
 陣林楯(陣林館)は、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の中で相馬義胤が陣取りしたとされる陣城である。伊達政宗が本陣を置いたとされる冥護山楯からは、直線距離で3.5km程の位置にあり、両軍が睨み合っていたことがよく分かる布陣である。

 陣林楯は、国道113号線が通る大内集落東側の比高40m程の丘陵上に築かれている。城全体はT字型のハンマーの様な形をしており、主要部は大きく3つの曲輪で構成されている。北西から順に三ノ郭・ニノ郭・主郭と並んでいる。西麓から登道が付いており、登り切ると丘陵上の耕作地に出る。そのすぐ東側に城があり、西端の段曲輪が構えられ、その脇に土塁が築かれた虎口があり、段曲輪の脇をすり抜けるように土塁で防御された城道が奥に通じている。段曲輪の東に三ノ郭があり、城道の前面にその塁線が立ちはだかっている。三ノ郭に入らず城道を進むと、腰曲輪に通じる木戸口が構えられ、物見台が築かれている。一方、三ノ郭への入口は小型の枡形虎口となっている。三ノ郭が最も大きな曲輪で、ハンマーのT字の部分に当たる。削平の甘い曲輪で内部には起伏がある。北東部に土壇と堀状通路が見られるが、普請が甘く形状がわかりにくい。三ノ郭内を南東に進むとハンマーの柄の部分に至り、二ノ郭との間に小堀切が穿たれ、桝形虎口が形成されている。ニノ郭側も桝形虎口となっていて、堀切の横を迂回するように動線が設定されている。ニノ郭は幅が狭く縦長の曲輪である。ニノ郭の東に堀切を介して主郭が築かれている。ここも主郭側は桝形虎口となっており、また南側の腰曲輪からも登れるように、虎口の小郭が置かれている。主郭は最も防備が厳重で、末広がりの形状の曲輪の北・東・南の三方に城内通路を兼ねた堀切が穿たれ、その前面にそれぞれ独立堡塁が築かれて尾根筋からの接近に備えている。北尾根の堡塁は、その先にも堀切が穿たれ、段曲輪も築かれている。北尾根からの搦手道があった様で、これらの段曲輪・堡塁の脇を抜けて腰曲輪に通じる道が確認できる。主郭東にも腰曲輪上に堡塁があり、その東に長い一騎駆け土橋が築かれている。相馬方面からの補給路と、万一の際の撤退路であったと思われる。前述の堡塁はこの土橋の前面に立ちはだかるようにあり、土橋の監視所であったのだろう。主郭南は規模の堀切の前面に2段の曲輪が築かれている。この他、三ノ郭~主郭の南側には延々と腰曲輪が築かれ、2ヶ所ほど更に外側に段曲輪が築かれている。またニノ郭北側にも腰曲輪がある。陣林楯は、陣城らしい比較的簡素な普請であるが、それでもしっかりとした防御構造が構築されており、冥護山楯ほどでないにしても見応えがある。伊達氏の冥護山楯との構造の違いが見比べられるのも面白い。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_4388.JPG
IMG_4395.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
主郭北の堀切と堡塁→IMG_4420.JPG
IMG_4297.JPG←腰曲輪の木戸口・物見台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.868527/140.830865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
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