令和最初の訪城は霧の七尾城 [日記]
10連休を使って、妻が以前から行きたがっていた七尾城を中心に、
7日間掛けて石川県の城めぐりを敢行。
特に狙ったわけではなかったのだが、
日程的に令和年間の最初の訪城先が七尾城になった。
しかし5月1日朝の七尾の山中は深い霧で覆われており、
霧に包まれた七尾城の石垣だけ見学して、すぐに他の城に目的地を変更した。
ただこの霧に包まれた石垣がなんとも幻想的で、素晴らしかった。
遠隔地からの訪問者には滅多にお目に掛かれないであろう情景を
堪能することができたのは、幸運だった。
愛宕山城(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]
←主郭北の堀切状腰曲輪
愛宕山城は、愛宕山館とも呼ばれ、伊達氏重臣亘理元宗の家臣坂元大膳隆俊の居城である。隆俊は、1570年に愛宕山城を築いて、新城館から本拠を移したと言う。しかし翌71年、相馬盛胤父子の攻撃を受けて落城し、隆俊は討死した。1572年に、隆俊の子三河俊久が坂元氏を再興すると、愛宕山城が父大膳の討死した不吉な城であったことから、新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。
愛宕山城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。南麓の高さ10m程の高台の畑の手前を奥に進むと登り道が付いている。主郭にある愛宕神社への参道で、竪堀状になっているが、勿論後世の改変だろう。山頂には南北に長い長円形の主郭があり、内部は僅かな段差で北南二郭に分かれていた様である。南郭の西辺には土塁が築かれ、その上に杉の大木がそびえている。この土塁の北側、ちょうど主郭西辺の中央部に虎口がある。また主郭の北には堀切を兼ねた腰曲輪があり、その北にニノ郭が広がっている。ニノ郭は南端に土塁を築き、北には堀切が2条と中間の小郭が置かれている。ニノ郭南西部に内桝形虎口が築かれている。主郭とニノ郭の周囲には腰曲輪が広がっているが、薮が多く、全部は踏査していない。また主郭の南から東の斜面には腰曲輪群が幾重にも築かれている。地形的には西尾根にも遺構がありそうだったが、この日は日没でタイムアウトとなり、未確認である。愛宕山城は、遺構はよく残っているが、主郭とニノ郭以外は薮が多く未整備である。登り口と主郭に、それぞれ解説板が設置されているのに、ちょっと残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.924887/140.890968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
愛宕山城は、愛宕山館とも呼ばれ、伊達氏重臣亘理元宗の家臣坂元大膳隆俊の居城である。隆俊は、1570年に愛宕山城を築いて、新城館から本拠を移したと言う。しかし翌71年、相馬盛胤父子の攻撃を受けて落城し、隆俊は討死した。1572年に、隆俊の子三河俊久が坂元氏を再興すると、愛宕山城が父大膳の討死した不吉な城であったことから、新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。
愛宕山城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。南麓の高さ10m程の高台の畑の手前を奥に進むと登り道が付いている。主郭にある愛宕神社への参道で、竪堀状になっているが、勿論後世の改変だろう。山頂には南北に長い長円形の主郭があり、内部は僅かな段差で北南二郭に分かれていた様である。南郭の西辺には土塁が築かれ、その上に杉の大木がそびえている。この土塁の北側、ちょうど主郭西辺の中央部に虎口がある。また主郭の北には堀切を兼ねた腰曲輪があり、その北にニノ郭が広がっている。ニノ郭は南端に土塁を築き、北には堀切が2条と中間の小郭が置かれている。ニノ郭南西部に内桝形虎口が築かれている。主郭とニノ郭の周囲には腰曲輪が広がっているが、薮が多く、全部は踏査していない。また主郭の南から東の斜面には腰曲輪群が幾重にも築かれている。地形的には西尾根にも遺構がありそうだったが、この日は日没でタイムアウトとなり、未確認である。愛宕山城は、遺構はよく残っているが、主郭とニノ郭以外は薮が多く未整備である。登り口と主郭に、それぞれ解説板が設置されているのに、ちょっと残念な状況である。
ニノ郭北の堀切→
←ニノ郭の内桝形虎口と腰曲輪お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.924887/140.890968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1