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斐ノ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6030.JPG←主郭
 斐ノ城は、有賀城とも呼ばれ、葛西氏の家臣渋谷氏の居城と伝えられる。現地標柱の解説によれば、1063年に八幡太郎源義家がこの地で越年したと言われる。しかし同じ様な伝承は東北各地にあり俄には信じ難い。建暦年間(1211~13年)には八幡神社の別当清原氏が居住した。戦国後期の天正の頃には、葛西氏の家臣渋谷備前の居城となったが、渋谷氏の戦死により廃城となったとされる。
 一方、沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、古くは延喜年間(901~23年)に鎮守府将軍藤原利仁の陣城であったとの伝承が残る。明応年間(1492~1501年)に大崎氏の家臣菅原兼長が斐ノ城に居城し、1533年に兼長の子明長が田子屋城に移ると、同じく大崎氏家臣の高玉茂兵衛の居城となり、1556年に高玉氏が福岡城に移ると大崎氏家臣田野崎玄蕃照道が城主となった。元亀年間(1570~73年)以来、大崎・葛西両氏は度々交戦し、1573年に大崎氏が大敗するとこの地域は葛西氏の支配下に入り、葛西氏の家臣渋谷式部が居城したとされる。廃城は、1590年の奥州仕置による葛西氏改易の時とされる。

 斐ノ城は、官庭寺裏山に当たる標高45.6m、比高30m程の丘陵上に築かれている。官庭寺の墓地から主郭に登ることができ、主郭南西辺に標柱が立っている。土塁はなく、切岸だけで囲まれた曲輪で、外周に腰曲輪を伴っている。切岸に厳しさはなく、簡単に登れてしまう感じである。主郭の北側に城内通路を兼ねた堀切があり、その北に二ノ郭が築かれている。この堀切も鋭さに欠けるが、主郭側には櫓台が築かれている様である(薮でわかりにくい)。ニノ郭の周りには低土塁が築かれ、外周には腰曲輪群が築かれている。前述の堀切から東に下る小道があり、鞍部の平場(現在は畑地)の東に、御賀八幡神社が祀られた小丘がある。ここにも腰曲輪があり、堡塁であったことがわかる。この堡塁となった神社境内には矢立の杉・弓立の杉がある他、多くの祠と共に斐ノ城跡と刻まれた小さい石碑と八幡神社の由来が刻まれた大きな石碑が立っている。大きな石碑の刻文には、斐ノ城のことも書かれている。矢立の杉・弓立の杉の標柱には由来が書かれていないが、おそらく源義家にまつわるものだろう。神社堡塁の北に宮司家の建つ低地があり、その北にもう一つ小丘があり、ここも腰曲輪が見られ、堡塁であったと思われる。その北東に数段の畑があり、切り通し状に車道が貫通している。これも往時の堀切であった可能性がある。この他、斐ノ城には、武鑓城と同じく西に続く尾根に曲輪群が築かれている。一部は官庭寺の墓地となって改変されているが、薮の中には途中堀切が2本穿たれている。また尾根上には土塁が築かれ、その側方両側に腰曲輪が築かれており、普請は明瞭である。物見台らしいピークも見られる。斐ノ城は、ネットに全く情報がないのであまり期待していなかったが、遺構は比較的良く残っている。しかし主郭と神社境内以外は全体に薮が多く、遺構の確認に少々苦労するのが残念である。
 尚、宮城県遺跡地図では、遺跡範囲から肝心の主郭と神社の堡塁が外れてしまっている。
神社の建つ堡塁→IMG_5987.JPG
IMG_6044.JPG←西尾根曲輪群の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803965/141.104236/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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