鶴ヶ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]
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鶴ヶ城は、御田鳥城とも呼ばれる。『日本城郭大系』によれば、1549年に大崎氏の家臣菅原太郎明長が田子屋楯から移り住んだが(明長は田子屋楯の前は斐ノ城に在城)、その孫・掃部助長国は1573年の大崎・葛西の合戦で討死した。この合戦で大崎氏は大敗を喫し、この地域は葛西氏の支配下に入り、鶴ヶ城には葛西氏の家臣尾形新右衛門が入って1590年まで在城したと言う。
鶴ヶ城は、標高60m、比高40~50m程の丘陵上に築かれている。頂部に主郭を置き、南に伸びる緩やかな尾根上に曲輪群を連ねている。主郭は、珍しい三角形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らしている。南尾根の曲輪群は、段々に並んだ長い平場群で、一部に小堀切や側方の竪堀が見られる。主郭の北東にも広い曲輪があるが、現在は田畑に変貌している。その北に土塁状の遺構らしきものが見られるが、物見台だったのか何なのか意図は謎である。鶴ヶ城は、主郭以外のほとんど全域が薮に覆われ、特に南端の曲輪群は耕作放棄地で深い薮に埋もれており、進入は困難である。一応、市の史跡に指定されており、登り口には標柱も立っているのだが、その標柱も薮に埋もれており、かなり残念な状況である。尚、主郭付近までの登道は南麓から辛うじて残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.811256/141.092219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
鶴ヶ城は、御田鳥城とも呼ばれる。『日本城郭大系』によれば、1549年に大崎氏の家臣菅原太郎明長が田子屋楯から移り住んだが(明長は田子屋楯の前は斐ノ城に在城)、その孫・掃部助長国は1573年の大崎・葛西の合戦で討死した。この合戦で大崎氏は大敗を喫し、この地域は葛西氏の支配下に入り、鶴ヶ城には葛西氏の家臣尾形新右衛門が入って1590年まで在城したと言う。
鶴ヶ城は、標高60m、比高40~50m程の丘陵上に築かれている。頂部に主郭を置き、南に伸びる緩やかな尾根上に曲輪群を連ねている。主郭は、珍しい三角形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らしている。南尾根の曲輪群は、段々に並んだ長い平場群で、一部に小堀切や側方の竪堀が見られる。主郭の北東にも広い曲輪があるが、現在は田畑に変貌している。その北に土塁状の遺構らしきものが見られるが、物見台だったのか何なのか意図は謎である。鶴ヶ城は、主郭以外のほとんど全域が薮に覆われ、特に南端の曲輪群は耕作放棄地で深い薮に埋もれており、進入は困難である。一応、市の史跡に指定されており、登り口には標柱も立っているのだが、その標柱も薮に埋もれており、かなり残念な状況である。尚、主郭付近までの登道は南麓から辛うじて残っている。
主郭周囲の腰曲輪→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.811256/141.092219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1