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丹生城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7902.JPG←主郭背後の二重堀切
 丹生城は、岩松氏が築いたと推測されている。後閑氏の系図では、新田義貞の末弟に新田四郎義重なる人物がいて、足利方として戦功を挙げて丹生を与えられたと言うが、そもそも新田四郎義重の実在が確認できない。しかも新田一族の多くが敵対し続けた足利氏に、義重だけが属したと言うのも奇異である。後閑氏による系図の創作であろう。実際には岩松満長が鎌倉公方足利持氏から丹生郷を与えられて丹生城を築いたと考えられている。岩松氏は、新田氏と足利氏の両方の流れを汲み、足利氏に従って軍功を挙げ、新田嫡流家が南北朝内乱で滅亡すると、新田氏に変わって新田荘を支配し、後には新田姓を称した。1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略し、59年には武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。以後は後閑城が本拠となり、丹生城の帰趨は不明である。

 丹生城は、標高290m、比高90mの山上に築かれている。北尾根の先に車道が通っており、案内板が出ているので、訪城は容易である。城内は一部の曲輪が整備されているものの、少々薮が多い。広い城域の城で、山頂に主郭を置き、主郭周囲に腰曲輪を廻らし、南・南南東・南東の3つの尾根に曲輪群を築いている。ところどころ堀切が穿たれているが、規模は大きくなく、全面に土塁を盛ってちょっとした障壁の様な形で築かれているものもある。南東の先端のピークには物見曲輪が築かれている。主郭の北側腰曲輪から東に伸びる尾根が大手筋で、切り通し状の坂虎口や曲輪の先の長い尾根に、4~5本の堀切が穿たれている。この尾根は、一部が墓地などに改変されているが、堀切はよく残っている。この他、主郭の背後には二重堀切が穿たれ、その先に二ノ郭群、三ノ郭が続き、また小さな二重堀切を挟んで四ノ郭があり、その先を北端の堀切が穿って城域が終わっている。全体に多数かつ比較的大きな腰曲輪群が築かれているが、横矢掛かりはほとんど無く、あまり技巧性は感じさせず、面白みにはやや欠ける。ただ二重堀切が多用されているところなどは、武田氏勢力による普請の可能性を感じさせる(静岡などは、二重堀切と言うとほとんど武田氏の専売特許の様になっていたので)。
大手尾根に残る堀切→IMG_8031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264380/138.815260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世山城
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