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明徳寺城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9815.JPG←東腰曲輪の横矢掛かりの屈曲
 明徳寺城は、小田原北条氏から真田昌幸が奪取した城である。元は南北朝期に、荘田城主沼田氏が会津の葦名氏の来攻に備えて天神山砦を築いたのが始まりと推測されている。明徳年間(1390~94年)に僧の松庵が城郭の下に明徳寺を開山したことから、明徳寺城の名が一般的になった。戦国後期になると、関東管領上杉憲政を駆逐した北条氏の勢力が一旦は沼田城まで伸びたが、1559年に上杉謙信が越山するとその後しばらくは越後上杉氏の勢力下に入った。1579年、上杉家の家督を巡る内訌「御館の乱」が上杉景勝の勝利で終結すると、上杉氏の勢力圏は後退し、明徳寺城は北条氏の領有する所となった。この頃、東上州進出を窺っていた武田氏重臣の真田昌幸は、岩櫃城を拠点に名胡桃小川両城を攻略し、利根川西岸の支配を固めた為、北条氏家臣の沼田城代藤田能登守は明徳寺城を構築し、沢浦隼人・渡辺左近・西山市之丞・師大助等を置き、名胡桃・小川両城と対峙した。翌年8月1日の夜半、昌幸は明徳寺城を急襲して奪取した。明徳寺城の守将矢部豊後守は奮戦の末に敗れ、沼田城に撤退した。昌幸は弥津志摩守・出浦上総守等を明徳寺城に置き、更に城を補強した。その後、北条氏から沼田領帰属問題の裁定を求められた豊臣秀吉は、1579年に裁定を下し、)の盟約により、名胡桃城を除く利根、沼田の地が北条領として認められた。しかし、鉢形城主北条氏邦の重臣で沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を奪取したことで、秀吉の惣無事令違反となり、小田原の役が開始され、北条氏は滅亡した。その後、再び利根・沼田の地は真田氏の所領となり、明徳寺城は廃城となった。

 明徳寺城は、三峰山南西の山裾の標高460m、比高60m程の丘陵上に築かれている。茄子の様に大きく西向きに湾曲した広い主郭を持ち、外周に腰曲輪を廻らした縄張りで、ほぼ単郭の城となっている。しかし主郭は広く、内部は南に向けて下り勾配となって傾斜している。主郭の外周には高さ2~3mの土塁が築かれ、先端部の南西辺と西辺の北1/3以外は全て土塁で防御されている。主郭周囲の腰曲輪は北斜面以外の全周に築かれている。主郭西側は単に弓なりに緩やかに湾曲した塁線となっており、腰曲輪には土塁もないが、主郭東側はところどころ複雑な折れを持った塁線で、腰曲輪への横矢掛かりを強く意識している。途中数ヶ所に虎口も確認できる。腰曲輪外周にも土塁が築かれ、こちらも横矢の屈曲が多く見られる。また更に東下方にも腰曲輪が築かれている。主郭の台地基部には二重堀切が穿たれ、大土塁で大手虎口を防御し、主郭は食違い虎口となっている様である。全体を見ると、東側に対する防備を厳重にしていることがわかるので、真田氏が北条氏から奪取した後に沼田方面からの攻撃に備えて改修したものかもしれない。
 明徳寺城は、遺構はよく残っているが、主郭内部以外は全体に激薮とバンブー地獄で、あまり見栄えしない。みなかみ町、もっと史跡整備に頑張れ!
主郭東辺の土塁→IMG_9705.JPG

IMG_9669.JPG←主郭の大手虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683718/139.005718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

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  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


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