仁田山城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]
←三ノ郭背後の堀切
仁田山城は、里見氏が一時期城主であったとされる城である。元は南北朝期にこの地を領した山田氏が築いたが、1351年に筑後守則之がこの城で桐生城主桐生国綱に攻め滅ぼされたと伝えられている。室町中期には、二階堂氏が仁田山郷を与えられ、その家臣里見蔵人家連が城主となった。 桐生氏の最盛期を築いた桐生助綱は、仁田山城の里見上総入道を客将として遇し厚く信任していたが、助綱の養子の親綱の代になると、失政により桐生家中は乱れ、里見氏も讒言によって攻撃され、谷山城で自刃に追い込まれたと言う。
しかし仁田山城の歴史には不明な部分もあり、黒田基樹著『戦国北条氏五代』では、北へと勢力を伸ばす小田原北条氏に対して、越山した上杉謙信が1575年10月、沼田衆が守る桐生領仁田山城に対する向城として金山城主由良氏が築いた谷山城を攻略したと記載している。この間、どの様な変遷で仁田山城に沼田衆が入るようになったのかは、よくわからない。
仁田山城は、標高505mの石尊山に築かれた山城である。あまり意識していなかったが何気に高い山で、麓からの比高は265mもある。尾根筋に築かれた曲輪群を堀切で分断した、連郭式の細尾根の城で、主郭・二ノ郭・三ノ郭の背後にそれぞれ堀切が穿たれている。二ノ郭には小さな土壇があるが、物見台であろうか?三ノ郭の前面には堀切に沿って低土塁が築かれている。主郭前面の大手筋には多数の段曲輪群が築かれ、いくつもの祠や不動明王像が立っている。城のある尾根の背後の標高510mのピークの西の尾根には遠堀とされる小堀切があるが、これは向城の谷山城に対する備えであろうか?この他、登り口近くに緩斜面の平場があり、蔵等があった可能性がある。尚、登山道の案内も出ているは助かるが、入口付近のがさ藪はマダニの巣窟らしく、降りてきてから車に乗る前に確認したら、ズボンに10匹近くもマダニがくっついていた!ここに登る時は注意しましょう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465938/139.323850/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
仁田山城は、里見氏が一時期城主であったとされる城である。元は南北朝期にこの地を領した山田氏が築いたが、1351年に筑後守則之がこの城で桐生城主桐生国綱に攻め滅ぼされたと伝えられている。室町中期には、二階堂氏が仁田山郷を与えられ、その家臣里見蔵人家連が城主となった。 桐生氏の最盛期を築いた桐生助綱は、仁田山城の里見上総入道を客将として遇し厚く信任していたが、助綱の養子の親綱の代になると、失政により桐生家中は乱れ、里見氏も讒言によって攻撃され、谷山城で自刃に追い込まれたと言う。
しかし仁田山城の歴史には不明な部分もあり、黒田基樹著『戦国北条氏五代』では、北へと勢力を伸ばす小田原北条氏に対して、越山した上杉謙信が1575年10月、沼田衆が守る桐生領仁田山城に対する向城として金山城主由良氏が築いた谷山城を攻略したと記載している。この間、どの様な変遷で仁田山城に沼田衆が入るようになったのかは、よくわからない。
仁田山城は、標高505mの石尊山に築かれた山城である。あまり意識していなかったが何気に高い山で、麓からの比高は265mもある。尾根筋に築かれた曲輪群を堀切で分断した、連郭式の細尾根の城で、主郭・二ノ郭・三ノ郭の背後にそれぞれ堀切が穿たれている。二ノ郭には小さな土壇があるが、物見台であろうか?三ノ郭の前面には堀切に沿って低土塁が築かれている。主郭前面の大手筋には多数の段曲輪群が築かれ、いくつもの祠や不動明王像が立っている。城のある尾根の背後の標高510mのピークの西の尾根には遠堀とされる小堀切があるが、これは向城の谷山城に対する備えであろうか?この他、登り口近くに緩斜面の平場があり、蔵等があった可能性がある。尚、登山道の案内も出ているは助かるが、入口付近のがさ藪はマダニの巣窟らしく、降りてきてから車に乗る前に確認したら、ズボンに10匹近くもマダニがくっついていた!ここに登る時は注意しましょう。
大手の段曲輪群→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465938/139.323850/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城