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末吉城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6437.JPG←主郭背後の堀切
 末吉城は、堀松城とも言い、七尾城主能登畠山氏の直轄支城である。創築は応永年間(1394~1427年)のこととされるが、完成したのは応仁の乱後の1477年と言われる。応仁の乱後に帰国した能登畠山氏3代義統は、堀松庄の領国化を図り、能登口郡北部の外浦地区を防衛する為に末吉城を完成させたと考えられている。城将は、最初は畠山氏の家臣平(ひらか)氏(或いは手筒氏とも伝えられる)であったが、1554年に遊佐続光が叛乱した際、遊佐勢5000に攻撃されて末吉城は落城した。その後は、守護畠山義続の家臣河野藤兵衛続秀が城将となり、天正年間(1573~92年)には河野肥前が城将となった。1576年に上杉謙信が能登に侵攻した際にも、上杉勢の攻撃によって再び落城し、河野肥前は討死したと推測されている。時代は不明であるが、畠山氏の一族松波丹波守義行が城将となったこともあったらしい。その後、前田利家が能登を領すると、重臣の中川家範が末吉城に置かれたと言う。廃城時期は不明。

 末吉城は、標高53.8mの城山に築かれている。しかし主郭は頂部ではなく、峰から南西に伸びた尾根の先端に築かれている。現地解説板の縄張図によれば、主郭の背後を堀切で断ち切り、背後の尾根上に延々と平場を設けた広域の城としている。大手は西来寺の脇にあり、奥に散策路が伸びている。山林入口に大手虎口があり、櫓台が右手に築かれている。櫓台の奥は高台上の平場群となっている。大手道を少し奥に進むと、枡形虎口が形成されている。しかし虎口の正面にも竪堀が穿たれていて、囮虎口か何かだったかもしれない。枡形を通って丘陵地を登っていくと、二ノ郭の平場に達する。その西側にそびえているのが主郭である。主郭は方形に近い形状の曲輪で、郭内は北東に向かって上り勾配となっており、北東隅に櫓台が構築されている。その北側には、前述の通り堀切が穿たれている。この堀切は薬研堀ではなく箱堀状で、二ノ郭と繋がっているので、二ノ郭の一部としても機能していたと考えられる。二ノ郭の東側には谷戸状の平場があり、馬場とされている。主郭背後の尾根にも散策路が通っており、三角点のあるピークが狼煙台・物見台とされている。狼煙台跡は「土塁囲みで希少価値の高い城郭遺構」と解説板に記載されているが、残念ながら四阿の設置でよくわからなくなってしまっている。尾根上は自然地形が多いが、所々に段曲輪や土塁・虎口らしい地形が確認できる。光念寺の奥に観音堂と高宮が鎮座し、ここが搦手だったとされ、尾根上の散策路を歩くと、ここに降りてくる。末吉城は、交通の要衝を押さえる重要な城ではあったが、遺構を見る限り堅固に固めた大規模な城ではなく、比較的少数の兵で街道の監視を主任務とする城だった様である。
大手道の枡形虎口→IMG_6420.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.012200/136.785042/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城を攻める 城を守る (講談社現代新書)

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