SSブログ

那波城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8549.JPG←本丸跡の石碑
 那波城は、堀口城とも呼ばれ、この地の豪族那波氏の居城である。那波氏は、大江広元の3男政広を祖とし、上野国那波郡の郡地頭としてこの地に入部し、那波氏を称した。元々この地には、藤姓足利氏庶流の那波氏がいたが、藤姓那波弘澄は討死し、その子宗澄には子がなかったため、政広は弘澄の娘を娶って入嗣し、那波氏の名跡を継承した。その子孫は鎌倉幕府引付衆に、また室町時代には鎌倉公方足利持氏の奉公衆となって活躍した。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、赤石城を攻略して北条方の那波宗俊を没落させ、宗俊は嫡男次郎(後の顕宗)を人質として謙信に差し出した。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられた。宗俊は間もなく没し、人質となっていた次郎が跡を継いだ。顕宗は今村城を本拠とし、後に北条方に付いて旧領回復を図った。1584年に由良氏が北条方から離反し、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。その後、攻勢に出た北条氏に抗しきれず由良氏が降伏すると、大和晴親が北条氏から派遣されて那波城に在城した。1590年に北条氏が滅亡すると、顕宗は上杉景勝を頼ってその家臣となり、同年の仙北一揆の鎮圧の際に討死し、那波氏は滅亡した。

 那波城は、名和幼稚園の南の平地にあったらしい。現在は一面の耕地と学校敷地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。第二次大戦中の航空写真を見ても、既に城の痕跡は見られないので、早くに遺構が失われた様である。耕地の只中の道端に「那波城址 本丸跡」の石碑が立ち、西の名和小学校敷地の県道沿いにも「那波城址」の石碑が立っている。小学校の石碑の方には、裏に碑文が刻まれているらしいが、残念なことに学校敷地に入らないと見ることができない。時節柄、校地への入場を避けたので、碑文を見ることができなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.290846/139.184654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条五代 (星海社新書)

戦国北条五代 (星海社新書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/04/27
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー