宮城県の中世城郭の謎 [城郭よもやま話]
宮城県は、全国でも有数の中世城郭の密集地帯である。
それは、宮城県遺跡地図を眺めているとよくわかるが、
平地を取り巻く丘陵地や山地の至る所に城あるいは楯(館)が築かれている。
その中には、歴史不詳、城主不明のものも多い。
というか、不明のものがほとんどだろう。
先日、そうした城のいくつかに行ってみた。
ネットには勿論、『日本城郭大系』にも情報がほとんど無く、
従って縄張りの詳細も、実際に行ってみないとわからない。
ただ、国土地理院地形図の傾斜量図やアプリのスーパー地形で、
明確な遺構があるかどうかは事前に把握できるので、
遺構がしっかりしていそうなものを選んで行ったのである。
(事前に城郭遺構の良し悪しがわかるなんて、便利な時代になったものだ!)
踏査したところ、あまりにもしっかりした臨戦的な遺構が残っているのでビックリした。
各地の城でよくありがちなのは、
城があったという伝承はあるが、実際に行ってみるとほとんど遺構が確認できないとか、
あってもわずかな小城砦だったりする。
しかし私が行った宮城県の城は、遺構が良く残っているだけでなく、
二重堀切あり、横矢掛かりのクランクあり、しっかりした竪堀ありの、
立派な普請がされたバリバリの中世城郭だったりするのである。
しかもそれが狭い地域に密集して存在しているのである。
今回私が行った地域は大崎氏の勢力圏で、
一部の城には城主として大崎氏家臣の名も伝わっているが、
大崎氏に臣従しただけの「一土豪」が築くには城の規模が大き過ぎる。
かといって、戦国大名としては脆弱だった大崎氏に
これだけの数と規模の城を築く勢威があったのであろうか?
城の歴史が伝わっていないということは、
付近で行われた合戦時の臨時築城の可能性もあるが、
そんなに大軍勢が四六時中、戦闘を行っていた地域なのだろうか?
確かに大崎氏は、足利一門の中でも最高の家格とされた斯波氏の一族で、
「御所」と呼ばれるほどの権威を有した奥州探題の名家であった。
しかし戦国時代には伊達氏の風下に置かれたことからもわかる通り、
その権力構造はそれほど強固なものではなかったはずで、
このような密度と規模で城郭群を築けるようには思えない。
宮城県の中世城郭群は、行けば行くほど謎が深まるばかりである。
それは、宮城県遺跡地図を眺めているとよくわかるが、
平地を取り巻く丘陵地や山地の至る所に城あるいは楯(館)が築かれている。
その中には、歴史不詳、城主不明のものも多い。
というか、不明のものがほとんどだろう。
先日、そうした城のいくつかに行ってみた。
ネットには勿論、『日本城郭大系』にも情報がほとんど無く、
従って縄張りの詳細も、実際に行ってみないとわからない。
ただ、国土地理院地形図の傾斜量図やアプリのスーパー地形で、
明確な遺構があるかどうかは事前に把握できるので、
遺構がしっかりしていそうなものを選んで行ったのである。
(事前に城郭遺構の良し悪しがわかるなんて、便利な時代になったものだ!)
踏査したところ、あまりにもしっかりした臨戦的な遺構が残っているのでビックリした。
各地の城でよくありがちなのは、
城があったという伝承はあるが、実際に行ってみるとほとんど遺構が確認できないとか、
あってもわずかな小城砦だったりする。
しかし私が行った宮城県の城は、遺構が良く残っているだけでなく、
二重堀切あり、横矢掛かりのクランクあり、しっかりした竪堀ありの、
立派な普請がされたバリバリの中世城郭だったりするのである。
しかもそれが狭い地域に密集して存在しているのである。
今回私が行った地域は大崎氏の勢力圏で、
一部の城には城主として大崎氏家臣の名も伝わっているが、
大崎氏に臣従しただけの「一土豪」が築くには城の規模が大き過ぎる。
かといって、戦国大名としては脆弱だった大崎氏に
これだけの数と規模の城を築く勢威があったのであろうか?
城の歴史が伝わっていないということは、
付近で行われた合戦時の臨時築城の可能性もあるが、
そんなに大軍勢が四六時中、戦闘を行っていた地域なのだろうか?
確かに大崎氏は、足利一門の中でも最高の家格とされた斯波氏の一族で、
「御所」と呼ばれるほどの権威を有した奥州探題の名家であった。
しかし戦国時代には伊達氏の風下に置かれたことからもわかる通り、
その権力構造はそれほど強固なものではなかったはずで、
このような密度と規模で城郭群を築けるようには思えない。
宮城県の中世城郭群は、行けば行くほど謎が深まるばかりである。
川井城(群馬県玉村町) [古城めぐり(群馬)]
←主郭櫓台跡の八千戈神社
川井城は、烏川対岸にある金窪城の支城である。金窪城主斎藤定盛の弟・石見守基盛が在城したとされる。定盛・基盛の兄弟は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に加賀国篠原で木曽義仲の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の末裔とされる。戦国末期には、小田原北条氏に属し、1582年の神流川合戦の際には、滝川一益の軍勢の攻撃を受け、落城した。その後、箕輪城主長野氏の家臣清水内記邦正が定盛の長女を娶り、この地を譲り受けたと言う。
川井城は、滝川北岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、往時は4つの曲輪から成る城だったようだが、現在は城の西から南にかけては堤防建設で失われ、その他の部分も宅地化で遺構はほぼ湮滅している。唯一主郭の櫓台が、八千戈神社が祀られた高台となって現存しているだけである。また前述の縄張図には記載されていないが、昭和30年代の航空写真を見ると、城の北東側にも大きな方形の外郭があった様に見受けられる。それは、北辺と東辺に堀跡の様な低い水田が写真に写っているからである。しかしそれも現在では耕地整理で失われているので、実際にどうであったのかは現在では知るすべもない。櫓台跡に城の解説板があるのだけが、せめてもの救いである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285571/139.139829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
川井城は、烏川対岸にある金窪城の支城である。金窪城主斎藤定盛の弟・石見守基盛が在城したとされる。定盛・基盛の兄弟は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に加賀国篠原で木曽義仲の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の末裔とされる。戦国末期には、小田原北条氏に属し、1582年の神流川合戦の際には、滝川一益の軍勢の攻撃を受け、落城した。その後、箕輪城主長野氏の家臣清水内記邦正が定盛の長女を娶り、この地を譲り受けたと言う。
川井城は、滝川北岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、往時は4つの曲輪から成る城だったようだが、現在は城の西から南にかけては堤防建設で失われ、その他の部分も宅地化で遺構はほぼ湮滅している。唯一主郭の櫓台が、八千戈神社が祀られた高台となって現存しているだけである。また前述の縄張図には記載されていないが、昭和30年代の航空写真を見ると、城の北東側にも大きな方形の外郭があった様に見受けられる。それは、北辺と東辺に堀跡の様な低い水田が写真に写っているからである。しかしそれも現在では耕地整理で失われているので、実際にどうであったのかは現在では知るすべもない。櫓台跡に城の解説板があるのだけが、せめてもの救いである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285571/139.139829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城