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村田氏居館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2301.JPG←民家の周囲の石垣
 村田氏居館は、村田城主であった村田氏の移転後の居館である。村田氏の事績は村田城の項に記載する。1591年に村田万好斎宗殖(実は伊達稙宗の9男)が、故あって村田3万石を没収され、この地に移されて幕末まで存続したと言う。尚、村田氏は仙台伊達家の御一家の格式であった。

 村田氏居館は、永井城のある永井丘陵の南麓、高さ20m程の丘の上に築かれている。河北地区の『ふるさとの文化財』に、「一部石垣を廻らし,永井城の1郭をなしている」とある。場所は非常にわかりにくく、以前に一度探索したが、近所のお婆さんに聞いてもわからず、その時は断念した。今回、おそらくここ、という場所を見つけたのでリベンジしたところ、ようやく場所が特定できた。現在は民家の敷地になっているので、内部の探索はできない。民家への登道を登ると、『ふるさとの文化財』に掲載されている写真の石垣が確認できる。しかし石垣の積み方から考えると、ほとんど近代に積み直されているように思える。東日本大震災の後なので、地震で崩れたのかもしれないが・・・。『ふるさとの文化財』の写真では、張り出しの隅部に算木積みの様な石垣も見えるが、訪問したのが9月だったので、薮でちょっとだけしか見えなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/141.280457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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上野館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2219.JPG←神社裏に残る土塁
 上野館は、仙台伊達藩で松山を領した重臣茂庭家の屋敷地である。1603年に茂庭周防良元は松山を与えられ、千石城(松山城)の三ノ丸に屋敷を築いて居住した。1631年、千石城三ノ丸が手狭であったため、新たに下屋敷として上野館を築いた。1651年に隠居すると、良元は上野館に移り住んだ。その後1657年、良元の子定元は作事の完成を待って正式に居館として移住し、以後幕末までの約200年間、茂庭氏は代々上野館を居館とし、松山統治の中心となった。

 上野館は、標高40m弱、比高25m程の丘陵上に築かれている。現在は県立松山高校の校地に変貌している。大型の方形単郭居館であったらしく、現在の校地の形状は、概ね往時の形を残している様である(但し、南部だけ校舎拡張で屋敷地外まで突出している)。古絵図によれば、東に表門、西に裏門が構えられており、表門は現在の高校正門にあったらしい。正門の道は、校地の中で左に折れており、往時の枡形の名残である可能性がある。校舎の北西に稲荷神社があり、その側方に西下からの登道が付いているが、これが裏門跡であろうか?また神社の裏には土塁が残っている。また校地の周囲は切岸地形をそのまま残している。館周囲には家臣団の屋敷が立ち並んでいたが、現在はおそらくその末裔の方の宅地となっている。館の南東には、御坂という登城道が車道となって残り、その下に駒池が復元されている。上野館は、遺構はかなり失われているが、往時の雰囲気は町割りの中に色濃く残っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.512445/141.049529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台城下の町名由来と町割―辻標八十八箇所を訪ねて

仙台城下の町名由来と町割―辻標八十八箇所を訪ねて

  • 作者: 古田義弘
  • 出版社/メーカー: 本の森(仙台)
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


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兵庫館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2175.JPG←櫓台らしい土壇
 兵庫館は、中ノ目館とも言い、奥州探題大崎氏の重臣中目兵庫頭隆政の居城と伝えられる。中目氏はこの地の豪族で、大崎氏が奥州探題として下向すると、大崎氏に臣従したらしい。戦国末期の中目氏当主の隆政は、仁木遠江守隆家・里見紀伊守隆成・渋谷備前守隆時らと共に大崎四家老に名を連ねる重臣であった。その活躍は、1588年、大崎氏の内乱に伊達政宗が軍事介入した大崎合戦でも見られ、桑折城に立て籠もった大崎勢の侍大将の一人とされる。1590年の葛西大崎一揆では、中目相模が兵庫館に立て籠もったと伝えてられている。伊達政宗の家臣で松山城主遠藤出羽高康の父遠藤心休斎の軍勢によって兵庫館は攻め落とされ、中目氏は没落した。

 兵庫館は、鳴瀬川北方の平野部の独立低丘陵に築かれている。大きく2~3段の曲輪で構成されていたらしく、北東の一番高いところが主郭で、その西から南にかけて平場が広がっている。主郭は西辺に低土塁があり、北西角には櫓台らしい土壇がある。ここに小さな神社が建ち、館跡の標柱が立っている。それ以外は草薮で覆われている。主郭の西から南に広がる曲輪は畑に変貌している。この他、館跡の外周には腰曲輪らしい平場も見られ、東と南の裾を流れる水路は堀の名残りであるらしい。往時は、西方2.5kmの位置にある師山城と同様、低湿地帯に囲まれた浮島の様な城館だったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.544037/141.005520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

  • 作者: 遠藤 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本


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朴沢新城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2129.JPG←土塁と堀跡
 朴沢新城は、国分氏の家臣朴沢蔵人の居城と伝えられている。朴沢蔵人は、この地域に入部した地頭大江戸氏の一族で、根白石朴沢を分知された大江戸経家が朴沢蔵人を名乗った。最初は朴沢古城(所在地不明)に居たが、朴沢新城を築いて居城を移したと言う。
 朴沢新城は、興禅院とその北にある早坂市之進家の屋敷地一帯に築かれていた。現在は遺構はほとんど湮滅しているが、民家の裏にわずかに北西隅の土塁と堀跡が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.366005/140.789505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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内館館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2002.JPG←この水田の下に堀があるはず
 内館館は、南宮館とも言い、戦国時代に留守氏17代顕宗が隠居後に暮らした居館であったと伝えられている。顕宗は伊達晴宗と対立し、その圧迫を受けて1567年に晴宗の3男政景の入嗣を受け入れ、隠居を強いられた。この時、政景に居城の岩切城を譲り渡し、自身は内館館に移ったらしい。

 内館館は、現在は一面の水田地帯となっており、表面観察できる遺構は残っていない。しかし、水田の中に現れたクロップマークによって、堀跡の全容が確認されている。クロップマークとは、地下の堀状遺構の部分にだけ水分が多く溜まっている事により、地上の稲の生育に影響して、そこの稲だけ成長して遺構の状況が現れる現象である。2018年に猛暑に見舞われたイギリスで、クロップマークが各地の畑の中に浮かび上がり、多数の古代遺跡が新発見されている。内館館では、クロップマークに基づいて2016年に発掘調査が行われ、実際に堀があったことが確認されている。またクロップマークとして現れた堀の形状は、昭和20年代前半の航空写真でも水田の形として確認できる。しかし現在は跡形もなく埋め戻され、調査以前の水田に戻っている。せっかく発掘調査を行ったのに、解説板はおろか館跡を示す標注すら立っていない。いつの日か、解説板が立つ日を期待したい。
 尚、前述の航空写真では、内館館のすぐ西側にも方形の堀跡の様な水田が見られるので、こちらも中世の城館遺構ではないかと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.304318/140.972636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗 謎解き散歩 (新人物文庫)

伊達政宗 謎解き散歩 (新人物文庫)

  • 作者: 佐藤 憲一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
  • 発売日: 2014/03/11
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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化粧坂城(宮城県利府町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1997.JPG←羽黒神社跡
 化粧坂城は、留守氏18代政景が築いた城と伝えられる。政景は伊達晴宗の3男で、貞山公政宗の叔父に当たり、伊達一門の重鎮として活躍した。伊達上野介とも称している。化粧坂城の詳細な歴史は不明であるが、留守氏の居城であった岩切城の目と鼻の先にあり、岩切城防衛の為の出城として築かれたのではないかと思う。

 化粧坂城は、比高わずか5m程の低丘陵に築かれている。現在は市街化で遺構は完全に湮滅し、往時の縄張りを想像することも難しい。賃貸マンションが建っている場所が最高所なので、主郭はここにあったものと推測される。また住宅地の片隅に、ひっそりと羽黒神社跡があり、解説板によれば化粧坂城の2段目の郭内にあったものらしい。従ってこの付近が二ノ郭だったのだろう。羽黒神社は、元々1190年に留守氏の祖伊沢家景が勧進したものと伝えられ、留守氏にとって所縁のある地であった様である。昭和20年代前半の航空写真を見ると、化粧坂城があったのは南北に長い低丘陵で、主郭と思われる平場の西側に2段の腰曲輪状地形が見られ、また主郭南側に切岸で区切られた二ノ郭があった模様である。尚、城跡付近には「館の内」の地名が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.309167/140.952766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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松森城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1945.JPG←主郭北西の堀切
 松森城は、戦国時代に仙台平野の中央部から北部を支配した国分氏の居城である。戦国時代に国分盛顕がこの地に移って居城としたとされるが、盛顕については歴史に混乱があり、事績が明確ではない。松森城の最後の城主は、国分氏17代の盛重である。盛重は、伊達晴宗の5男で、貞山公政宗の叔父に当たり、国分氏の家老堀江掃部允の支持を受けて国分氏に入嗣した。しかし国分氏家中の反発を受けながら強行された入嗣であったため、当主となってからも家中の反乱が度々起き、政宗の不興を買って、国分氏家臣は伊達氏に編入された。盛重は伊達氏の家臣として活動したが、1596年に佐竹氏の元に出奔し没落した。その後松森城は、伊達氏の重要な城の一つとなり、江戸時代には仙台藩の正月行事である「野始」(狩猟、軍事訓練)の舞台となったと言う。

 松森城は、七北田川の北側の比高65m程の山上に築かれている。東方1.8kmには、かつて国分氏と敵対した留守氏の居城岩切城がそびえている。城跡は現在、鶴ヶ城公園となっているが、夏場は雑草が伸び放題で、遺構の確認が大変である。山頂の主郭を中心に、四方に舌状曲輪を配したX字状の曲輪配置となっている。主郭と各曲輪の間には堀切が穿たれ、これらの堀切を繋ぐ様に主郭外周に武者走りが築かれている。主郭に次いで大きいのが南東の曲輪で、これが二ノ郭であったらしい。二ノ郭の先にも尾根が伸び、曲輪がある可能性があるが、雑草がひどくて確認できなかった。岩切城と比べるとかなり小規模な城で、歴史に名を刻む国分氏の最後の居城にしては、随分とささやかな城という印象である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.317602/140.919678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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茂庭周防屋敷(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1920.JPG←屋敷跡に建つ仙台大神宮
 茂庭氏は、伊達氏の歴世の功臣である。元は鬼庭姓で、鬼庭左月斎良直が伊達輝宗の評定役に抜擢されて以来、伊達氏の重臣となった。良直の子綱元は、伊達政宗(貞山公)に仕え、朝鮮出兵の際にも政宗に従い、豊臣秀吉に謁して寵遇を得た。この時、秀吉の命により姓を茂庭と改めたと言われる。藩政時代に茂庭氏は、代々志田郡松山城(千石城)を領し、伊達騒動などでも重要な役割を果たした。

 茂庭周防屋敷は、仙台城下にある茂庭氏本家の屋敷である。現在は仙台大神宮となっている。市街化が激しく、遺構はおろか往時の雰囲気も望むべくもないが、仙台城の大手筋にも近く、仙台藩内での高い地位が伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.258124/140.865412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


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葛岡城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1909.JPG←西側の堀と土塁
 葛岡城は、国分能登守盛氏の家臣で一族衆の馬場筑前入道清説(きよもり)の居城と伝えられる。
 葛岡城は、広瀬川に臨む段丘の南西辺に築かれている。現在は民家となっているが、周囲に土塁や堀跡が明瞭に残っている。東側の土塁はわずかだが、城址標柱が立っている。ここから北側を回って西側まで、低い水田がコの字型に廻っており、堀跡であることが明らかである。最もよく残る遺構は西側のもので、土塁と堀が往時の姿を残している。仙台という大都市の中で、奇跡的に残る良好な城跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.263507/140.817969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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高林代官陣屋(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1808.JPG←陣屋遺構の門と長屋門
 高林代官陣屋は、徳川家の旗本本多氏8000石の代官陣屋である。本多氏は三河国西端を本領としており、この地には来住せず、代官に在地の富沢氏を任じて所領支配を行った。
 高林代官陣屋は、現在は民家になっている。東側に立派な門と長屋門があり、これは陣屋の遺構であるらしい。これほど立派なのに、なぜ市の文化財になっていないのか、不思議である。北側には土塁と空堀が残るようだが、店舗敷地の裏手にあるため近づけず、見える部分も夏場だったので雑草で土塁しかわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.260020/139.369447/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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仙石城(群馬県大泉町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1782.JPG←大堀切の跡
 仙石城は、岡山城とも言い、赤岩六郎左衛門尉厚親と言う武士が築いた城と伝えられる。築城の時期は、元弘・建武の頃(1331~36年)と伝えられていたが、近年の研究では1415年頃とされているらしい。その後、厚親の子孫は奈良原氏を称したと言う。戦国末期には、小泉城主富岡氏の家臣岡山播磨守が仙石城を守ったと言う。

 仙石城は、利根川北岸の比高10mに満たない低台地に築かれている。現在、いずみ総合公園の西側にある南北に長い台地と、その北側に広がる広い住宅地が城域である。総合公園となっている場所には、かつては東武鉄道仙石河岸線の貨物駅、仙石河岸駅があり、南北に長い台地の先端を線路が貫通していたので、破壊を受けている。また戦後には線路の西側も採石場となって削られたらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、北から南に向かって鷲の爪のように台地上の曲輪が伸びていたことがわかる。この航空写真を見ると、長く伸びた爪の部分は、3つの曲輪に分かれていたようで、南東端に笹曲輪、その西に主郭、その北に堀切を挟んでニノ郭、更に大堀切を挟んで北に広がる外郭で構成されていた様に見える。現在は笹曲輪全部と主郭の南東半分は削られて消滅し、主郭の残り部分と二ノ郭が残っている。主郭の主要部は民家が建っているので確認できず、二ノ郭は夏場だと雑草が伸び放題で台地があること以外の確認は困難である。それでも主郭と二ノ郭の間の堀切跡は、中央部は民家が建っているものの両側は窪地状になってわずかに見られる。最も明確なのは、二ノ郭と外郭を分断する大堀切で、深さはないが幅が広く、往時の堀の様子を忍ばせる。外郭は前述の通り全域が住宅地に変貌しているので、遺構は湮滅しているが、曲輪の北側塁線の名残りが住宅地内の段差となって残っている。解説板も標柱もないが、城跡らしい名残りは残っている。
外郭北側に残る段差→IMG_1802.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.240535/139.386270/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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中島将監屋敷(群馬県千代田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1756.JPG←土塁跡らしい土盛り
 中島将監屋敷は、中島館とも言い、舞木駿河守持広の居館とされる。また現地石碑の刻文によれば、古く宝亀年間(770~81年)頃に中島三郎太郎家綱という土豪の居館であったとも伝えられる。諸国巡検のため都から下向した藤原小黒麿が中島館に滞在し、家綱の娘との間に男子をもうけた。この子が佐貫太郎資高で、資高は外祖父中島将監家綱の訓育と、朝廷で大納言まで昇った実父小黒磨の後援により、無双の壮者に成長して佐貫太郎資高を称し、佐貫氏の祖となった。その後、子の太郎資綱、孫の次郎太郎嗣綱と続き、いずれも知勇に優れ、赤岩城を築いて佐貫荘一円(邑楽・館林地方)を治めたと言う。

 中島将監屋敷は、中島神社の東側にあったらしい。現在は畑などが広がり、遺構らしいのは道端の土塁跡らしい土盛りが1ヶ所だけ残っている。この上に、中島将監屋敷の石碑が立っている。尚、周りにある道端の木は、最近問題になっているクビアカツヤカミキリによって食い荒らされており、被害が甚大である。幹に網を巻くなどの対策が取られているが、痛々しい状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.225823/139.420688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


武士の誕生 (講談社学術文庫)

武士の誕生 (講談社学術文庫)

  • 作者: 関 幸彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/01/11
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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舞木城(群馬県千代田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1753.JPG←城跡に立つ藤原秀衡の石碑
 舞木城は、享禄年間(1528~32年)に俵秀賢とその子五郎秀覧の居城であったと推測されている。俵氏は、承平天慶の乱の際に平将門討伐で功を挙げて鎮守府将軍となった藤原秀郷の末裔とされ、舞木城も元々は秀郷が承平年間(931~8年)に築城したとの伝説もある。またそれだけでなく、秀郷の誕生地であるとの伝説も残る。また『館林盛衰記』には、享禄の頃に大袋城主赤井照光が舞木城の俵氏の元へ年賀に行く途中で子狐を助け、その狐の導きによって館林城を築いたとの伝説も記されている。虚実入り交じった伝説の多い城である。

 舞木城は、現在は公園や住宅地となっており、遺構は完全に湮滅している。元々は小学校があったらしく、南にはわずかに堀跡もあったと言うが、小学校は昭和44年に移転しており、その後たわら住宅団地が造成されたため、わずかに残っていた遺構も消滅したらしい。すぐ南を利根川が流れており、赤岩城と共に赤岩の渡しを押さえる城だったのかもしれない。尚、現在公園には舞木城の解説板の他、藤原秀衡公誕生之地と刻まれた大きな石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.212026/139.432511/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


伝説の将軍 藤原秀郷〈新装版〉

伝説の将軍 藤原秀郷〈新装版〉

  • 作者: 野口 実
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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羽生陣屋(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_1738.JPG←陣屋跡とされる高山稲荷
 羽生陣屋は、江戸時代最末期に築造された陣屋である。1867年7月、徳川幕府は羽生領18ヶ村を天領(幕府の直轄領)とし、岩鼻代官木村飛騨守勝教の支配下とした。そして岩鼻代官所を羽生に移転するため11月に陣屋の築造を開始し、翌年2月に水堀で囲まれた11棟の建物が完成したと言う。羽生陣屋は利根川の渡河点である川俣関所に近い交通の要地であった。川俣には、日光脇往還と言う街道の重要な宿駅川俣宿があり、関東16渡津の一つ川俣渡船場もあり、渡船者の厳重な取締りが行われる江戸防衛の拠点であった、そのため羽生陣屋には、鈴木蠖之進を取締として歩兵350人が配置された。しかし陣屋完成前の1月に鳥羽伏見の戦いで幕軍は敗れ、兵力を立て直して衝鋒隊を組織した古屋佐久左衛門は、3月1日に江戸を出て、7日に羽生陣屋に入った。翌8日、850余名を率いて梁田(足利市)に泊まったが、9日に官軍の奇襲攻撃を受けて壊滅した(梁田戦争)。勝に乗じた官軍は川俣関所から羽生陣屋に迫り、陣屋を焼き払った。こうして完成からわずか十数日で陣屋は焼き払われた。

 羽生陣屋は、現在は市街化により遺構は完全に湮滅している。具体的な場所も現況では明確ではないが、羽生城址の一角に当たる高山稲荷神社(城山稲荷)付近にあったらしい。今から見れば、羽生陣屋の急造は徳川幕府の最後のあがきであったように思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.175262/139.544220/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


富原文庫蔵 陸軍省城絵図

富原文庫蔵 陸軍省城絵図

  • 作者: 富原 道晴
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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堀越館(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_1713.JPG←北側の堀跡
 堀越館は、堀越屋敷とも言い、歴史不詳の城館である。『日本城郭大系』では鎌倉時代の土豪の居館と推測している。羽生城から500m程しか離れていないことから、羽生城主木戸氏の家臣などの関係を推測する説もあったが、発掘された遺物の年代から戦国時代の城館との推測には疑問が持たれている。

 堀越館は、現在は堀越家の屋敷地となっている。堀越家の祖先が代々居住していたことからこの名称が付けられたとのことで、遺跡名称と館の歴史との間には関係がない。発掘調査の結果、二重の堀で囲まれた屋敷跡であることが判明している。何でも、随分前に史跡保存の為に所有者から羽生市に土地が寄付されたらしいが、現在でも手付かずのまま竹林となっており、立入禁止となっている。しかし夏でも遠目に外堀跡が確認でき、竹林の中にも内堀らしいわずかな溝地形が見えた。ただ、スズメバチ数匹が近くを飛んでいたこともあって、早々に切り上げた。
 尚、館の南東の民家の裏に大型の五輪塔が残っており、鎌倉末期のものと推測されている。堀越館との関係は不明であるが、館主に関係する遺物であると考えたいところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.180181/139.551344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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羽継原古戦場(群馬県館林市) [その他の史跡巡り]

IMG_1692.JPG←戦死者の供養塔と石碑
 羽継原の戦いは、享徳の乱における古河公方足利成氏・関東管領上杉房顕両軍の激戦の地である。1455年、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことで発生した享徳の乱は、またたく間に関東全域を覆う大乱となった。兄の跡を継いで関東管領となった上杉房顕は、室町幕府の支援と上杉一族の総力を結集して成氏と戦ったが、成氏は古河に本拠を移して古河公方となり、利根川を挟んで上杉勢の大軍と対峙し、一歩も譲らなかった。一方、房顕は武州五十子に本営を置き、ここに越後守護上杉房定や扇谷上杉持朝、京都から加勢に来た上杉中務少輔教房らの軍勢を集結させた。1459年10月14日、上杉軍は武州太田荘に進出して成氏軍と戦い、次いで翌15日早朝には海老瀬口(現在の板倉町海老瀬地区)で、更に同日夕方には羽継原に陣を移して死闘を繰り広げたと言う。終始優勢であった成氏方だけでも死傷者2千余人を出したと伝えられる激戦であった。

 羽継原の戦いにまつわる石碑と戦死者の供養塔が宝秀寺の山門前に建っている。戦後550年を記念して建てられたものらしい。尚、宝秀寺にはなんと、楠木正成の紋で有名な菊水紋が刻まれていた!境内の由緒書を読んだら、楠木神社の別当寺だそうである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.229337/139.571364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱: 関東の戦国動乱を読む

もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱: 関東の戦国動乱を読む

  • 作者: 水野 大樹
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2018/03/27
  • メディア: 新書


タグ:古戦場
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御壇塚(埼玉県加須市) [その他の史跡巡り]

IMG_1685.JPG
 御壇塚は、犬懸上杉氏庶流の上杉中務少輔教房の自刃の地である。1455年、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことで発生した享徳の乱は、またたく間に関東全域を覆う大乱となった。兄の跡を継いで関東管領となった上杉房顕は、室町幕府の支援と上杉一族の総力を結集して成氏と戦ったが、成氏は古河に本拠を移して古河公方となり、利根川を挟んで上杉勢の大軍と対峙し、一歩も譲らなかった。一方、房顕は武州五十子に本営を置き、ここに越後守護上杉房定や扇谷上杉持朝、京都から加勢に来た上杉中務少輔教房らの軍勢を集結させた。1459年10月15日、上州羽継原で両軍は激戦を交え、上杉勢は足利勢を敗走させた。上杉勢は勝に乗じて足利成氏の本拠古河を衝くべく、邑楽郡海老瀬に進出し、同年12月、太田荘に押し寄せて足利勢と再び交戦した。しかし激戦の末に上杉勢は五十子に敗走し、上杉教房は自刃した。それが御壇塚である。(「1459年…」以降の記述は、概ね現地の石碑の刻文に依った。この内容は、羽継原古戦場の石碑やWikipediaの記載とは前後関係などが相違している。)

 御壇塚は、東武日光線 柳生駅にほど近い地方道の北側にある。標柱や誘導標識は全く無いので、それと言われなければ誰もわからないであろう。砂利敷の空き地の北側に、生け垣と多くの石碑が立ち並び、その中央に御壇塚の由来を刻んだ石碑が立っている。歴史の貴重な記録であり、もっと多くの人の目に止まるようにして欲しいものである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.204581/139.662538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)

享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/10/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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寺家砂田館(石川県羽咋市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1600.JPG←館跡の現況
 寺家砂田館は、歴史不詳の城館である。昭和55年に能登海浜有料道路(現在ののと里山海道)建設に伴って発掘調査が行われている。寺家砂田館は中世の居館跡であるが、それを含む寺家遺跡は奈良・平安時代を中心とした広大な祭祀遺構であり、その祭祀場を整地して中世居館が築造されたことが判明している。館跡が古代の祭祀と関連があるかは不明であるが、能登一の宮である気多大社が近いので、神官を中心とした有力勢力の居館であった可能性や、より一般的な初期武士団などの領主層の居館の可能性が考えられている。

 寺家砂田館は、のと里山海道の西側にあったらしい。以前は草むらの中に解説板が立っていたらしいが、昨年8月に訪問したところ、一部は工事が行われており、解説板も見つけることができなかった。発掘後は埋め戻されているはずなので、解説板がなければその存在を知ることもできない状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.920752/136.773477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

  • 作者: 桃崎 有一郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/11/06
  • メディア: 新書


タグ:居館
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田鶴浜館(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1337.JPG←境内に残る土塁
 田鶴浜館は、七尾城主能登畠山氏の家臣から前田利家の与力となった長連龍の居館である。連龍の事績については穴水城の項に記載する。織田軍の尖兵となって能登で奮戦した連龍は、1580年に信長より鹿島半郡を与えられ、福水城を居城とすることを認められた。次いで徳丸城に居城を移し、その後田鶴浜館を築館して居住したとされる。この地は、元は能登畠山氏の家臣天野加賀守が居住したところであったらしい。連龍の田鶴浜館への移動は、通説では1606年とされているが、佐伯哲也氏は『能登中世城郭図面集』の中で疑問を呈しており、前後の状況から1582年頃まで遡るとの説を提示している。いずれにしても、以後長氏相伝の居館となり、1671年尚連の時に金沢城下に居所を移し、田鶴浜館は廃館となった。

 田鶴浜館は、現在は得源寺の境内となっている。かなり改変されているらしく、現在残る遺構は本堂の北東に残る1本の土塁だけである。尚、寺の北側に広がる町屋は「殿町」と言い、長家家臣団の屋敷跡とされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.060485/136.886644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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長正連館(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1272.JPG←中央の一段高い水田が館跡
                          奥の山が荒屋城
 長正連館は、長氏八8代正連の居館と伝えられる。北西の山上には詰城の荒屋城が築かれている。正連は後に穴水城を築いて居城を移したと言う。
 長正連館は、荒屋地区の水田となっている。特に目印もなく、標柱もないので、場所は非常にわかりにくく、周囲より一段高くなった水田の南端に小さなお堂が建っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.272584/136.846476/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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平時忠館(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1179.JPG←平時忠とその一族の墓所
 平時忠館は、この地に流された平時忠の配流先の居館である。時忠は代々朝廷に仕えた公家で、平家一門随一の実力者で、知略家として知られた。その姉時子は平清盛の妻となり、妹滋子は後白河天皇の女御となって高倉天皇を生んだことから権勢を振るい、権大納言に任じられ、平大納言と称せられた。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は時忠の言とされる。壇ノ浦の合戦で捕らえられ、能登に流罪となった。

 平時忠館は、国道249号線南側の則貞という谷地にあったとされる。付近には斜面にも平場が見られ、民家の建つ敷地もあるが、どこに居館があったのかは明確にはできない。付近には、時忠とその一族のものと伝えられる五輪塔群があり、県の史跡に指定されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.488225/137.195249/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸平家物語紀行―伝承が彩る歴史といま

北陸平家物語紀行―伝承が彩る歴史といま

  • 作者: 細井 勝
  • 出版社/メーカー: 北國新聞社出版局
  • 発売日: 2011/12/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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勅使館(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9921.JPG←雑草で覆われた北郭東堀
 勅使館は、平安末期~南北朝期にかけての豪族の居館である。館主は勅使河原右京或いは河原四郎左衛門の名が挙げられているが定かではない。古代の皇室領である「勅旨田」がこの地域にあったことが平安後期の文献から判明しており、勅使館はこの勅旨田を管理していた豪族の居館と推測されている。

 勅使館は、勅使小学校とその周囲に築かれていた。小学校の移転新築に伴う発掘調査が昭和54~5年に行われ、その結果南北に北郭・内郭・南郭を連ね、その東側に大きな東郭を置いた、複郭式の居館であったことが判明している。現在は発掘復元された北郭東堀と内郭北堀が見学でき、その南西に掘立柱建物跡が表示されている。堀跡の周りには石積みも復元されているが、訪問したのが盛夏だったので、石積みは雑草でほとんど見えなかった。最近は規制の多い小学校敷地であるが、見学できるように開放されているのはありがたい。
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.303834/136.389105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 作者: 加藤理文
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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本折城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9784.JPG←城域とされる本光寺
 本折城は、加賀守護富樫氏の家臣本折氏の居城である。本折氏の事績はあまり明瞭ではないが、1441年の管領「細川左京大夫持之判書」(摂津家文書)には本折但馬入道父子、1445年の管領「細川右京大夫勝元判書」に本折氏の名、『官知論』の高尾城落城の条に降伏後に斬死した本折越前守、1552年に富樫氏の被官として本折治部少輔など、断片的に記録が残されている。本折城の歴史も断片的で、1531年の朝倉勢による加賀攻撃の際、朝倉宗滴(教景)が本折に陣したと伝えられ、1564年には朝倉義景によって小松城と共に攻略された。1577年には滝川左近将監らの織田勢によって、小松・本折・安宅などの諸城が焼き打ちされ、1580年にも柴田勝家率いる織田勢によって本折城に火が放たれたと伝えられる。

 本折城は、小松城の南方1.7km程の位置にある。遺構はなく、城の位置も定かではないが、本折町を中心とする本光寺を含む一帯にあったと考えられているらしい。完全に市街化しているので、城跡らしさは微塵も見られない。本光寺の解説板にも城の記載はない。
 尚、本光寺の南にやや離れたところの駐車場脇に、一向一揆衆の湯浅九郎兵衛と言う土豪の墓がある。1506年に一向宗徒が蜂起して朝倉貞景を攻撃した際、湯浅九郎兵衛は本願寺に呼応して一方の将となって奮戦したと言う。本折城と関係があるかどうかは不明。
湯浅九郎兵衛の墓→IMG_9794.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【本光寺】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.398608/136.449380/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の戦国時代と一揆

北陸の戦国時代と一揆

  • 作者: 竹間 芳明
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2012/06
  • メディア: 単行本


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千代城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9782.JPG←主郭付近の現況
 千代城は、加賀一向一揆が築いた城である。一説には1562年に築かれたと言われ、城主は徳田志摩の名が伝わっている。1580年に織田信長の部将柴田勝家が加賀一向一揆を殲滅すると、勝家の家臣拝郷五郎左衛門家嘉が城将となった。1600年、浅井畷の戦いで知られる慶長の役の際には、金沢城主前田利長は前田良継・寺西秀澄らを千代城に置き、小松城を牽制させたと言う。

 千代城は、梯川と鍋谷川の合流点北側の平地に築かれている。千代町集落中程にある八幡神社付近が城跡で、神社境内が二ノ郭、その西側が主郭であったらしい。現在は宅地化で遺構は完全に湮滅している。平城のため城跡らしさは全く残っておらず、城址石碑もないが、八幡神社の由緒を刻んだ石碑に千代城のことが数行だけ記載されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.410697/136.492767/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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安吉城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9768.JPG←城址石碑
 安吉城は、1487年に加賀一向一揆の武将安吉源左衛門尉家長によって築かれた城である。家長は、元は大窪姓であったが、安吉城と築いて入部すると安吉氏を称した。安吉・吉田本郷を中心とした地域の一向宗門徒の集団「河原組」を率いており、1488年に加賀守護富樫政親を一向宗の大軍が高尾城に包囲した際、一揆軍の中に「河原組」を率いる家長の名が見えると言う。1550年に家長は出家し、家宰窪田大炊介経忠に城を譲った。経忠の後は窪田大炊允綱盛が継ぎ、本願寺派に属し、加賀国総代となり一向一揆軍を率いて活躍した。しかし1580年、織田信長の部将柴田勝家の軍勢に敗れ、安吉城は落城した。勝家が安土城の信長の元に送った加賀一向宗指導者達19人の首級の中に、窪田大炊頭の名が伝えられている。

 安吉城は、安吉町集落の南端、大慶寺用水の北側にあったらしい。現在は宅地化・耕地化で遺構は完全に湮滅している。わずかに山島公民館前に城址石碑が建っているだけである。よく見ると公民館南に土盛りの茂みがあり、土塁の遺構の様にも見えるが、どうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.483537/136.565530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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城ノ内遺跡発掘調査説明会2019(栃木県上三川町) [城郭よもやま話]

IMG_9736.JPG←今回発掘された大溝
 昨夏の7月21日に、多功城に程近い城ノ内遺跡において、発掘調査説明会が開催された。説明をしていただいた調査員の方から発掘現場の写真をブログなどに載せないように話があったため(最近は調査現場から遺物の盗難等があるらしく、それを防ぐための処置らしいです)、これまで掲載を控えていたが、そろそろ時効になったと思うので、ここに掲載する。

 城ノ内遺跡は、2018年の発掘調査で奈良・平安時代の遺構の他に、多功城に関連すると推測される中世の堀状の溝3条が見つかっている。今回は前年の遺構の延長上に何があるかが確認された。奈良・平安時代の遺構では、3棟の掘立柱建物跡や柱穴列が見つかった。石帯と呼ばれる役人などの身分を示すベルト飾りも見つかっている。
 肝心の中世の遺構では、前年に見つかった3条の堀状遺構の内、最も規模の大きな真ん中の大溝の延長線が確認された。前年の溝は一直線に伸びていただけだったが、今回発掘された西側では、大溝は直角に南に曲がり、更に一直線ではなくわずかな折れ歪が設けられていた。今回の調査区域では、そのまま南南西に伸びて終わっており、大溝の全容はまだ確認できていない。溝の大きさは幅5m、深さ2m程で、中から発見された土器から15~6世紀の遺構と推測されている。ただ溝は、掘ったそばから水が湧き出して来るということで、堀底まで確認することはできていないとのこと。いずれにしても、溝が多功城の堀跡であるとすれば、江戸時代の古絵図のどの部分に当たるのか、今後の検討課題であるとのこと。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428672/139.871342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


発掘調査のてびき 各種遺跡調査編

発掘調査のてびき 各種遺跡調査編

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 同成社
  • 発売日: 2013/05/24
  • メディア: 大型本


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大館城(栃木県高根沢町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9592.JPG←向原八幡宮付近の現況
 大館城は、明応年間(1492~1501年)に宇都宮氏の家臣石居野沢若狭守が築いたと伝えられている。1597年の宇都宮氏改易の際に廃城になったと言う。
 大館城は、『栃木県の中世城館跡』によれば笹原八幡宮一帯にあったとされている。しかし向原八幡宮というのは見つかったが、笹原八幡宮は見つからなかった。合祀でもされて無くなったのだろうか?いずれにしても遺構は既に湮滅しており、城跡を偲べるものは何もない。

【2021年11月補足】
 図書館で『高根沢町史』の城館の部を確認したところ、大館城の大まかな場所が判明した。実際に現地に行ってみると、町史が示す場所から南に120m程の所に笹原公民館があり、公民館の裏に接して神社と稲荷社があった。もしかしたらこれが笹原八幡宮なのかもしれない。いずれにしても、周囲は一面の水田地帯である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【向原八幡宮】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.646015/139.988909/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【笹原公民館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.649303/139.982493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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下ヶ橋館(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9575.JPG←西門の地名表示
 下ヶ橋(さげはし)館は、戦国末期に宇都宮氏の家臣下ヶ橋豊後守の居館であったと伝えられている。1597年の宇都宮氏改易によって廃館になったと推測されている。
 下ヶ橋館は、西下ヶ橋集落付近にあった。しかし宅地化・耕地化が進み、城館らしい明確な遺構は確認できない。戦後間もなくの航空写真でも現在とあまり変わらない状況で、既に湮滅していた様である。わずかに、城の南側にあったという養膳寺の廃寺跡がある他、集落の西側を通る「ふるさと田園通り」という車道の脇に、城郭関連地名の「西門」の表示があるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【推定地】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.652901/139.936938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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岡本刑部館(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9568.JPG←主郭跡の水田と土塁跡
 岡本刑部館は、岡本刑部と言う武士の居館である。岡本刑部の出自は明確ではないが、岡本城の間近にあり、同じ岡本姓であることから、岡本城主岡本信濃守富高(宇都宮氏の重臣芳賀禅可の弟)の一族と考えるのが自然であろう。『日本城郭大系』では館主は岡本城主の弟とし、『栃木県の中世城館跡』では岡本富高が築館し、後に岡本城に移ったとの説も提示している。

 岡本刑部館は、岡本城からわずか500m程しか離れていない。館の主要部はほとんど水田となっており、わずかに西側の土塁・堀跡が残っているが、居酒屋の敷地内であるので無断進入は憚られる。仕方なく、南の小川対岸から遠望したが、土塁上には稲荷社が祀られているのが遠目でもわかる。曲輪の形状ははっきりしないが、残存土塁の東側に方形に近い畦道で囲まれた区画があるので、これが館の形であったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.619687/139.949405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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北ノ館(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9563.JPG←主郭東側の堀と土塁
 北ノ館は、歴史不詳の城館である。鎌倉時代の居館と推測されている。おそらくは宇都宮氏の家臣の居館であったものだろう。
 北ノ館は、萬松寺の南西に位置している。現地解説板の縄張図によれば、二重の堀で囲まれた館であったらしい。縄張図ではかなり横長の曲輪として描かれているが、実際には主郭は正方形に近い様である。主郭(地名:堀之内)外側の外郭は東西に長く、東側の曲輪に「中城」、西側の曲輪に「西城」の地名が残る。いずれの曲輪も民家の敷地になっているが、主郭の外周には小規模な堀跡が残っている。この堀は南東部で水堀となっている。また南西部はわずかな入隅となっている。また主郭の南東部には低土塁も残っている。西城の民家の西側にも堀跡の水路があり、遠目に見た限りでは土塁も残っていそうである。中城は遺構がかなり湮滅しているが、南辺の土塁が民家の裏に残っている。平地の城館にしては、意外なほど遺構がよく残っている。尚、西城の民家の南に架かっている橋の名は、「西城橋」である。
中城南側の土塁→DSCN0512.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.608724/139.894066/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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