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山田城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4130.JPG←東側に落ちる圧巻の大竪堀
 山田城は、川崎城主塩谷氏の支城である。文明・長享年間の頃(1469~89年)に、塩谷孝綱の家臣山田泰業によって築城されたと言われている。箒川を挟んで、敵対する那須氏の勢力圏と対峙する最前線にあった。戦国末期の1585年には、この付近で宇都宮・那須両氏が激突した薄葉ヶ原の戦いがあり、塩谷伯耆守義孝の家臣で山田城主であった山田筑後守業辰(なりとき)は討死し、山田城は乙畑城と共に那須氏の攻撃を受けて落城したと伝えられる。

 山田城は、箒川の支流江川の西側に横たわる、比高50m程の丘陵上に築かれている。最高所に縦長の方形に近い形の主郭を置き、東側の斜面に段状に曲輪を築いており、主郭直下の平場がニノ郭とされる。主郭の北側には堀切を挟んで三ノ郭と思われる曲輪がある。この城の最大の特徴は、主郭の西側から南側を廻る大規模な空堀で、大きなL字状の堀が北斜面と東斜面に降っている。特に主郭南側から東斜面に落ちる竪堀は巨大で、その様は圧巻である。主郭の西辺から南辺には、この空堀に面して大土塁が築かれて背後を防御している。主郭の北側は、三ノ郭との間を分断する堀切に対して、塁線が内側に折れて横矢が掛けられている。主郭北東には大手と思われる虎口があるが、薮がひどくて形状が把握できない。一方、主郭の南東尾根には、前述の大竪堀に沿って小郭群が連なり、ニノ郭などの東斜面の曲輪群背後を防衛している。また三ノ郭の北側には土塁を築いた枡形虎口らしいものがあり、鳩ヶ森城二ノ郭のものと同形状である。この他、前述のL字状の大空堀の外周には帯曲輪が築かれ、更に南西に伸びる尾根を大堀切で分断している。空堀の南側の斜面にも平場群が見られる。以上が山田城の縄張りで、さすがに那須氏に対する最前線の城だけあって、臨戦的な縄張りである。
 尚、城までの明確な登道はないので、東斜面の山林を適当に登っていくしかないが、この東麓は低湿地となっていて、足を取られそうになる。水堀地帯か泥田堀地帯であったらしい。また城内は未整備の薮に覆われ、遺構の確認が大変である。遺構が素晴らしいだけに残念である。
主郭西側の空堀→IMG_4256.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(薮がひどいので☆1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.841576/139.929761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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泉城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3982.JPG←本丸北西の腰曲輪の櫓台
 泉城は、1591年に岡本讃岐守正親が築いた城である。正親は元々川崎城主塩谷義綱の家臣で、1590年の豊臣秀吉による小田原の役の際、義綱の名代として小田原に参陣した。秀吉は、当主の義綱が参陣しなかったことから塩谷氏を改易にし、一方で参陣した正親に賞として塩谷氏の遺領の一部、泉15郷を与えた。この時、正親は泉城を新たに築いて、松ヶ嶺城から居城を移したと伝えられる。その後、岡本氏の居城として続くが、岡本氏は1644年に一族の内紛で改易となり、泉城は廃城となった。

 泉城は、内川東岸の比高30m程の南北に長い丘陵上に築かれている。丘陵中央に大切岸で囲まれた南北に長い大型の本丸を置き、南に削平の甘い二ノ丸を配置している。本丸の東西の斜面には何段かの腰曲輪群を築き、本丸北側の緩斜面にも曲輪群を配置している。本丸のすぐ北には浅い空堀を挟んで、北面を土塁で囲んだ半月型の腰曲輪が築かれている。また本丸の北西には横堀を挟んで外周の腰曲輪が築かれている。その北端部は櫓台となって周囲を睥睨し、その北に伸びる高台には二重堀切を穿って防御している。この他、本丸南西には竪堀が長く落ち、南東にも堀底道を兼ねたと思われる横堀が見られる。但し、近年まで城内で椎茸栽培がされていたとのことで、改変された部分もあると思われる。
 以上が泉城の縄張りであるが、全体に薮が多くて遺構が見辛いのが難である。本丸はバンブー地獄、二ノ丸・腰曲輪は草木の薮で、北斜面の遺構群だけが比較的見やすい。
本丸西側の横堀→IMG_4010.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.840872/139.919740/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
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タグ:近世平山城
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伊佐野城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3904.JPG←主郭背後の土塁
 伊佐野城は、川崎城主塩谷氏に属した鳩ヶ森城主山本氏の属城である。川崎城の北方防衛の城砦群の一つであったと推測される。城主としては、鈴木右京介、或いは伊佐野右京介の名が伝わるという。
 伊佐野城は、比高20m程の丘陵突端に築かれた城である。三角形の主郭とその北から東にかけて築かれた一段低い二ノ郭から成る小城砦で、背後には円弧状に堀切が穿たれている。この堀切に沿って主郭背後には土塁が築かれ、この土塁は竪土塁となって北側の二ノ郭背後まで伸びている。また主郭の北辺にも、背後の土塁からT字に分岐する形で低土塁が築かれている。単純な構造であるが、土塁や堀切が明瞭に残っている。鳩ヶ峰城の南方を監視する物見を主任務とする城だったのだろう。
 尚、伊佐野城の東麓にある民家は、石垣の上に狭間の付いた白壁で囲まれており、まるで城郭のような作りである。城主の末裔であるのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.857030/139.907531/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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鳩ヶ森城(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3742.JPG←土塁で囲まれた主郭
 鳩ヶ森城は、宇都野城とも言い、川崎城主塩谷氏に属した土豪山本氏の居城である。山本氏は、元々嶽山箒根神社の別当であったが、山本上総介家隆は後三年の役の軍功で、箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を領した。そして1089年、家隆は鳩ヶ森城を築いた。以後、代々この地を本拠として勢力を保った。南北朝時代には、14代家房は南朝方の新田氏に属し、紀州龍門山の戦いで討死した。弟の家親が跡を継ぎ、山本氏は栄えた。戦国期の天文年間(1532~55年)頃、山本伊勢守資宗が当主の時、大田原備前守資清に攻撃され、鳩ヶ森城は落城し、28代440年余続いた山本氏は滅亡したと言う。
 しかしこれには異説もある。即ち1564年、宗家の川崎塩谷氏と分家の喜連川塩谷氏の抗争の際、喜連川城主塩谷孝信は、少数の家臣を引き連れて兄由綱(義孝)の居城川崎城に忍び込み襲撃した。由綱は自殺に追い込まれ、わずか6歳の嫡子弥太郎(後の義綱)は家臣らに守られて、山本上総介の居城鳩ヶ森城へ逃れた。そして2年後に川崎城を奪還するまで鳩ヶ森城に居たと言う。

 鳩ヶ森城は、箒川西岸の舌状台地に築かれた城である。南北に伸びる台地状を5本の堀切で分断して曲輪を連ねた連郭式の縄張りであるが、北に行くに従って末広がりとなる形状である。曲輪の呼称は資料や解説板によって異なるが、城巡りの先達余湖さんのものが最も妥当と思われるので、その呼称をここでは採用する。南端からニノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭・外郭と並び、更にニノ郭から三ノ郭までの東側には帯曲輪が伸びている。またニノ郭南側にも笹曲輪的な腰曲輪があり、南端部に物見を兼ねたと思われる土塁が築かれている。ニノ郭も主郭も土塁で囲繞され、二ノ郭の北側には土塁で囲まれた方形の小郭があり、門跡であったらしい。ここから主郭へは堀切があるので、木橋が架かっていたのだろう。ただ、主郭も二ノ郭も雑草が繁茂し、特に西辺部は土塁に近づくことすらできない。10年程前に大々的に雑木を伐採して整備したらしいが、その後はあまり整備が継続されていない結果らしい。主郭の北側には深い堀切が穿たれ、その先が三ノ郭となる。三ノ郭の南東部には内枡形の虎口が築かれている。三ノ郭の北にも幅広の堀切が穿たれているが、東側は深く規模が大きいものの、西側は埋められたのかかなり浅くなっている。この堀切は西端で南に折れている。その北が四ノ郭で半分ほどが畑となっている。四ノ郭の南東部には堀切沿いに一段低い腰曲輪が付随している。四ノ郭北側の堀切とその北の五ノ郭の堀切は、東側半分だけが残っている。しかしこれも深い堀で、東端でいずれも五ノ郭側に向かってクランクし、横矢が掛けられている。五ノ郭はほとんどが畑となり、外郭には民家と畑がある。この他、ニノ郭~主郭間の堀切の東側には白旗塚という土壇があり、主郭~三ノ郭間の堀切の東側には井戸跡が残り水を湛えている。
 鳩ヶ森城は、那須塩原市内では最大の城郭で、この地域の拠点城郭だった可能性がある。縄張り的には白旗城によく似ているが、横矢掛りが随所にあり白旗城より新しい縄張りである。大田原氏の攻略後も、使用された可能性が考えられる。
 それにしても、前述した通り、主郭・二ノ郭は雑草がひどい。長期的視点で考えて維持できないのなら、木を全部切るのはやめて欲しい。木がなくなって丸裸になると、日当たりが良くなって雑草の繁茂が加速してしまうのである。そのため、山林のままの三ノ郭・四ノ郭の方が、まだ見れる状態である。史跡整備が失敗した事例となってしまい、巨城であるだけに残念でならない。
四ノ郭堀切の横矢掛り→IMG_3849.JPG
IMG_3870.JPG←五ノ郭の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.896817/139.905707/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
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野沢城(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3641.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
 野沢城は、真木城とも言い、塩谷氏の家臣大館氏が築いた城である。塩谷氏の居城川崎城の北辺の守りの為、1461年に大館弾正義則が野沢城を築いて城代となったと伝えられる。1509年、会津葦名氏が塩原地区に侵入した際、片角原の戦いで大館氏は塩原・宇都宮氏らと共に戦った。しかし1584年の薄葉ヶ原合戦の際、大田原綱清に攻撃され落城したと言う。以後、この地は大田原領に併呑された。

 野沢城は、箒川西岸の段丘が野沢川によって削られた北側の、比高20mに近い台地に築かれている。東西2郭で構成されたシンプルな縄張りとなっている。主郭には現在、箒根神社が鎮座しているが、南東隅には櫓台が見られ、西側には土塁がしっかりと残っている。土塁の外は二ノ郭との間の堀切となっているが、埋もれているのか鋭さはなく、浅い広幅の堀となっている。二ノ郭は三角形の曲輪で、山林となっている。城の北側は台地との間を分断する大きな谷戸で、天然の堀切となっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.918727/139.902123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2020/02/17
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田野館(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3609.JPG←南東の台地に残る二重堀切
 田野館は、川崎城主塩谷氏の家臣関谷氏の居城と伝えられている。関谷太郎兼光が、川崎城の堀江氏(源姓塩谷氏)の家臣となって関谷の地に居住したのが関谷氏の始まりとされる。その後、鎌倉後期の正安年間(1299~1302年)に、箒川沿いに田野館を築いた。1509年には会津葦名氏の攻撃を受け、宇都宮氏らと共に片角原で戦った。1595年、塩谷氏の没落に伴って関谷氏も没落したと言う。

 田野館は、箒川東岸の段丘南西端に築かれている。館跡は現在、那須たかはらオートキャンプ場となっている。キャンパーがたくさん来ていると遺構巡りがしにくいなぁ、と心配していたが、土曜の朝10時に行ったらまだ誰も来ておらず、キャンプ場の経営者と思われる老夫婦が開園の準備をしているだけだった。おじさんからお話を伺ったところ、かつて採土で山を削ったが、城の部分だけは残したとのことだった。どうりでキャンプ場が一段低い窪地になっているわけだ。従って、館跡の遺構はかなり失われている。『栃木県の中世城館跡』によれば、土塁・空堀で区画された6つの小郭が設けられていたらしい。この本は1982年の出版であるが、その記述によればこの当時はまだ遺構が良好に残っていた様である。現在残っているのは、南西部の円弧状横堀に囲まれた小高い小郭と、南東の削り残しの台地に穿たれた南端の堀切と北側の二重堀切だけである。南西の小郭も、西側は箒川によって往時よりも削られている様である。田野館は、遺構はわずかしか残っていないが、それでも完全消滅よりは遥かにマシである。わずかに残った遺構を末永く残してもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.939293/139.895428/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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離室城(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3502.JPG←主郭背後の小堀切
 離室城は、宇都宮氏の家臣君島信濃守が築いたと伝えられる。君島氏は下総の名族千葉氏の出自と言われ、宇都宮氏に仕えた君島備中守が祖であると推測されている。1380年、宇都宮氏の勢力伸長に伴って塩原に進出した君島信濃守は、塩原温泉を守護するため、新たに出城を造り「離れ室」と称したとされる。しかし1476年には、狭間城主橘伊勢守に攻め滅ぼされ、塩原地方は橘氏の支配するところとなったと言う。

 離室城は、箒川曲流部の東側にそびえる小山に築かれている。南東辺を大堀切で台地と隔絶し、北側に数段の腰曲輪群を築いている。山頂には三角形をした主郭を置いている。主郭内は上下2段に分かれ、更に背後には櫓台状の土壇と小堀切を築き、その南に小郭を置いて背後の守りとしている。小堀切の側方には小さい石積みが見られるが、遺構であろうか?以上が、城の状況で、小規模な城だが腰曲輪群など普請は明瞭である。主郭には解説板が設置されている。
小堀切側方の石積み→IMG_3509.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.966164/139.825476/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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狭間城(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3310.JPG←主郭外周の横堀と土塁
 狭間城は、塩原城を攻略した橘伊勢守が築いた出城と伝えられる。橘氏は、下野の名族小山氏の一族と言われ、突如塩原地方に侵攻し、地侍の塩原氏等を傘下に収めつつ勢力を拡大し、ついに塩原城を奪取した。その後箒川を挟んで離室城主君島信濃守一族と激しい攻防戦を展開し、1475年に「戦場」地区で決戦を行って橘氏が大勝した。翌76年、狭間山に出城として狭間城を築いたと言われ、1502年まで使用していたとされる。

 狭間城は、箒川北岸の断崖上に築かれている。HP「栃木県の中世城郭」の記事を参考にして、城の西側にある赤沢温泉旅館方面から登城した。赤沢を長靴を履いて渡渉し、起伏のある丘陵を東に進み、更に谷筋を越えると城域に至る。狭間城が築かれた段丘は、珍しいことに川沿いの南辺縁部の方が高くなっており、そこに半円形の主郭が築かれている。主郭中央には小祠のある土壇があり、主郭外周には横堀が穿たれている。主郭の北には二ノ郭がある。二ノ郭は、西側が谷筋に面した急斜面で、傾斜の緩い北から東にかけて横堀が廻らされている。この横堀は南東部で竪堀となって下った後、東斜面下方で再び横堀となって南の崖まで掘り切っている。この東側の横堀は、2ヶ所わずかな折れを伴っていて、横矢を意識している。主郭の東側からこの横堀にかけては、堀沿いに土塁と帯曲輪が見られる以外は緩斜面となっていて、曲輪として機能していた感じではない。東横堀の下は谷間の広い平場となっており、小屋などが置かれていた可能性がある。但し、平場内には石の散乱した塚や一直線の石塁があり、どうも耕作地であったらしいので、後世の改変の可能性もある。
 以上が狭間城の主要部の状況であるが、西に広がる丘陵部にも物見台らしい小山や、辺縁部に土塁と思われる地形が見られ、これらも城郭遺構ではないかと思われる。
 狭間城は、主要部は大きな城ではないが、堀跡や曲輪がよく残っている。山林も、多少荒れているものの全体に薮が少なく手入れされている状況である。かつては遊歩道も整備されていた形跡があるので、再び整備されて日の目を見るようになればと思う。
東斜面の屈曲する横堀→IMG_3350.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.976381/139.816507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
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タグ:中世崖端城
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塩原城(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3235.JPG←主郭西辺の土塁
 塩原城は、宇都宮氏の最北の支城である。平安時代より塩原の地は宇都宮氏の領地で、宇都宮氏の一族塩谷氏の庶流塩原氏が置かれていた。平安末期の1156年頃に八郎ヶ原に館を構えていた塩原八郎家忠は、1178年に新たに塩原(要害)城を築いて居城を移したと伝えられる。鎌倉時代に入ると小山氏の一族長沼宗政の領地となり、塩原氏はその支配下でこの地を守ったが、その後、宇都宮系の君島信濃守や小山系とも言われる橘伊勢守の支配を受けた。1502年には、会津葦名氏の傘下であった小山出羽守が城主となり、塩原城を大改修した。その後、宇都宮氏家臣の塩原越前守が城主となったが、1597年に宇都宮氏が改易となると、約420年続いた塩原城も廃城となったと言う。

 塩原城は、箒川と善知鳥(うとう)沢川との合流点東側の台地上に築かれている。解説板には「城郭は東西約300メートル、南北約250メートルに及ぶ塩原最大のもの」とあるが、明確に残っているのは東西100m、南北160mの主郭だけである。その主郭も、西側は高さ数mの切岸と低土塁があり、中央部に虎口が築かれているが、東側はわずかな溝状の堀とささやかな土塁があるだけで、防御が厳重という感じではない。郭内はほとんどが畑となっているので、西辺部の土塁も改変を受けていると思われる。南側は箒川に臨む断崖となっているが、それ以外は堀も土塁も小規模で、あまり城跡らしさを感じられない。少々物足りなさを感じる城である。
主郭東辺の土塁と堀→IMG_3252.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.983460/139.793054/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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佐久山義隆滅亡地(栃木県矢板市) [その他の史跡巡り]

IMG_3199.JPG←境が峯の地蔵尊と供養塔
 佐久山義隆は、那須氏の一族佐久山氏の最後の当主である。佐久山氏は、那須与一宗高の兄・次郎泰隆を祖とする一族で、佐久山城を居城としていた。時に那須氏の重臣に返り咲いた大田原資清は、長男高増を大関氏の養子に、次男資孝を那須一族の福原氏の養子にし、3男綱清に大田原氏を継がせた。また長女を佐久山義隆(資信?)の室に、次女を那須政資の室とし、那須氏の家中を牛耳った。1563年5月、福原資孝は兄弟の大関高増・大田原綱清と共に謀略をもって佐久山義隆を殺害し、佐久山氏を滅亡させて、その遺領は福原氏に併呑された。伝承では、「うずら狩り」を口実に誘い出し、境が峯と言う所で酒に酔わせて殺したと言う。また義隆の妹も佐久山城内の井戸に突き落とし、石埋めにして殺害したと言う。佐久山家の滅亡を嘆き悲しんだ義隆の妻は尼となり、2人の冥福を弔って一生を終えた。

 佐久山義隆が殺された場所は、江川西方の丘陵中腹にある。ここには義隆夫妻と義孝の妹の3人の霊を慰めるため、佐久山氏家臣の子孫によって3体の地蔵が建てられている。「境が峯の地蔵尊」と呼ばれているが、ネット上にはほとんど情報がない上、地蔵尊のすぐ南側を通る県道にも案内標識もないし、登り口の表示もない。地元の人でも知らない人が多いのではないだろうか。それだけ他所者に知られたくない、恨み深い場所ということかもしれない。私がここを知ったのは、大田原市で「大田原氏3代」という企画展があり、その講演会で紹介があったからである。山中にひっそりと佇む3体の地蔵とその上にある佐久山家の供養塔はきれいに整備され、登道もしっかりしている。有志の人々(佐久山氏遺臣の末裔?)によって、維持されているのだろう。この事件に限らず、大田原氏の経歴には謀略が付き纏っており、いくら戦国乱世とは言え少々やりきれない思いになる。それ故、どうも私は大田原氏が好きになれない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.817719/139.949480/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地蔵菩薩: 地獄を救う路傍のほとけ

地蔵菩薩: 地獄を救う路傍のほとけ

  • 作者: 下泉 全暁
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2015/11/26
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タグ:墓所
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躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

IMG_2962.JPG←西曲輪の南虎口の石垣
 躑躅ヶ崎館は、武田氏館とも呼ばれ、甲斐武田氏3代(信虎・信玄晴信・勝頼)の居館である。戦国武田氏の歴史を綴った同時代資料である『高白斎記』に、1519年8月~12月に築館されたことが明記されている。翌年には要害城が立て続けに築城されており、平時の居館である躑躅ヶ崎館と詰城の要害城が一体となって運用される前提で築城されたことを物語る。築館したのは武田信玄の父信虎でこの時26歳、石和館から居館を移した。以後、1581年12月に武田勝頼が新府城に居城を移すまでの60余年間、甲斐武田氏の本拠であった。勝頼は、新府城移城に伴って一族家臣の反対を押し切るため、躑躅ヶ崎館を大きく破却した。翌82年3月、織田信長による武田征伐で強勢を誇った武田氏は滅亡し、甲斐には信長の家臣河尻秀隆が入ったが、わずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死し、武田遺領を支配し始めたばかりの織田勢力は一挙に瓦解した。その後、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉による争奪戦(天正壬午の乱)が行われ、甲斐全域は徳川家康の支配下に入った。家康は、家臣の平岩親吉を甲府に置き、この時に破却された躑躅ヶ崎館を修築・改修したと考えられる。後に甲府城が築かれると、躑躅ヶ崎館は再び廃館となった。

 躑躅ヶ崎館は、相川扇状地の扇頂付近に築かれている。従って、館の南に伸びる大手筋は、一直線の下り勾配となっている。名称は館であるが、実際には5~6個の曲輪で構成された純然たる平城である。主郭に当たるのが中曲輪で、正方形の曲輪となっている。内部は武田神社となっており、周囲には土塁と水堀・空堀が廻らされ、南東隅には櫓台、北西隅には天守台が築かれている。天守台には石垣が築かれており、天守という名称も相まって、徳川時代の改修で構築されたことが明らかである。中曲輪の虎口は四方にあるが、南のものは近代の改変である。東虎口が大手で、その前には石積みの角馬出しが復元整備されているが、天守台と同様、武田氏滅亡後の構築とされる。武田氏時代にはここに丸馬出があったことが、発掘調査によって判明している。中曲輪の西側には堀を挟んで縦長長方形の西曲輪がある。ここも東辺以外に土塁を築き、周囲に水堀・空堀を廻らしている。西曲輪の南北には虎口が築かれ、虎口部の土塁は内側に折れており、方形の虎口郭を形成している。西曲輪の長辺は中曲輪よりもやや短く、南端部で横矢が掛けられている。中曲輪・西曲輪の虎口やその外の土橋には、石垣が見られる。西曲輪の南には梅翁曲輪、北には味噌曲輪があるが、一部の堀を除いて残存状況は良くない。この他、中曲輪の北には隠居曲輪、東の大手虎口前にも曲輪があったらしいが、かなり湮滅しているので、その外形を完全に追うことはできない。
 以上が躑躅ヶ崎館の遺構で、土塁も堀も大きく、さすが戦国大名武田氏の本拠である。尚、躑躅ヶ崎館は甲府の一大観光地であり、人がたくさん来ているが、人が入ってこない神社裏手の天守台に鹿が出たのにはびっくりした!
外周の水堀→IMG_2960.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.686581/138.577305/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

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  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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甲府城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

IMG_2763.JPG←天守台の高石垣
 甲府城は、甲斐武田氏滅亡後に築かれた近世城郭である。元々この地は、鎌倉時代に武田信義の子一条忠頼が館を構えたと言われる。忠頼が源頼朝に謀殺されると、忠頼夫人が館跡に尼寺を建立し、後に時宗の名刹一蓮寺となった。1582年の武田氏滅亡、織田信長の横死後に、徳川家康の支配時代を経て豊臣政権下で築城が開始された。秀吉の甥豊臣秀勝、秀吉の家臣加藤光泰を経て、浅野長政・幸長父子によって慶長年間(1596~1615年)初頭に完成したと考えられている。1600年の関ヶ原の戦い後は、再び徳川氏の支配下に入り、平岩親吉が城代となった。1603年以降は、徳川義直(家康の9男)、忠長(2代将軍秀忠の3男)、綱重(3代将軍家光の3男)、綱豊(綱重の子、後の6代将軍家宣)ら徳川将軍家の連枝が城主となった。1704年に綱豊が6代将軍となると、柳沢吉保が甲府城主となり、吉保隠居後は子の吉里が城主となった。1724年に柳沢氏が大和郡山へ移封となると幕府の直轄領となり、勤番制が敷かれた。幕末の1866年、勤番制が廃されて城代が置かれ、城はそのまま明治維新を迎えた。

 甲府城は、甲府盆地の中心にある一条小山と呼ばれる独立丘陵を利用して築かれている。城域は大きく3つの区画に分かれるとされ、中心部分の内城、それを取り巻いて曲輪が付設された武家屋敷群の内郭、外側の城下町を取り込んだ総構えの外郭がある。現在残っているのは内城の東2/3だけである。内城が狭義の甲府城で、豊臣政権下の近世城郭だけあって、総石垣で築かれている。また各所の城門は枡形を形成している。本丸には東端に変則的な五角形の天守台が残るが、天守は築かれなかったらしい。本丸の周囲には西に二の丸、南に天守曲輪と鍛冶曲輪、北東に稲荷曲輪が築かれている。以上の部分は、現在も現存し(但し二の丸西辺部は消滅)、南側だけ水濠も残っている。各所の城門も、現在は復元整備されている。この内、稲荷曲輪門は、高麗門の後ろの小さな切妻屋根が、左右で長さが異なるという、珍しい形をしている。これら内城の曲輪の石垣はいずれも高く積まれ、屏風折れも各所に設けられているが、石垣があまりにも整然としすぎており、復元したものかと疑ってしまった。しかしこれらは皆復元ではなく、れっきとした遺構である。内城の内、二の丸の北から西・南にかけて配置されていた清水曲輪・屋形曲輪・楽屋曲輪は、市街化で消滅した。但し、清水曲輪の山手門付近だけは、近年になって復元整備された。この他、内郭周囲の2の堀が、町中に残っている。
 甲府城は、あまり知らずに訪城したのだが、比較的コンパクトに纏まった城とは言え、立派な現存石垣や復元櫓・門群があり、想像以上の威容で感心した。しかし備後福山城もそうだが、駅の目の前に内城がそびえており、なぜわざわざ城中に道路や鉄道を貫通させたのか、史跡保護の観点からすると惜しいことをしたものである。
左右非対称の稲荷曲輪門→IMG_2764.JPG
IMG_2665.JPG←山手門の渡櫓門
2の堀跡→IMG_2924.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.665351/138.570954/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


カラー図解 城の攻め方・つくり方

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  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2017/06/15
  • メディア: 単行本


タグ:近世平山城
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熊城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

IMG_2559.JPG←主郭東斜面の畝状竪堀
 熊城は、歴史不詳の城である。戦国武田氏3代の詰城、要害城の隣の尾根にあることから、要害城の南を守る支城として武田氏によって築かれたと推測されている。

 熊城は、前述の通り要害城のある要害山から深い谷を挟んだ南の尾根に築かれている。標高730mの峰で、標高780mの要害城より50m程低い位置にある。9月下旬の日本城郭史学会の見学会で、要害城に続いて背後の尾根を回り込んで訪城した。本城の要害城よりも少数の兵で防衛するため、防御構造はより厳重に構えられている。まず堀切の規模が要害城よりも大きい。特に主郭背後の大堀切は深さ10m程もあり、切岸も急峻である。その背後には独立堡塁状の三ノ郭がそびえ、その背後も大堀切で分断して、尾根筋を完全に遮断している。主郭は東側に土塁が築かれ、後部には櫓台らしい土壇が備わっている。主郭前面には2段の段曲輪があり、上段のものには物見台が築かれている。主郭からこの段曲輪にかけての切岸には石垣が築かれている。小規模ではあるが、要害城のものより残存状況は良い。主郭の東斜面にトラバースすると、畝状竪堀が穿たれている。しっかりとした規模のもので、その形状がはっきりと分かる。主郭背後の大堀切から落ちる竪堀と連続して穿たれており、堀切上からでも大きな竪土塁が見える。尾根上に戻って段曲輪から降ると、城内で最大の広さを持つニノ郭に至る。ニノ郭も南東辺に土塁を築き、前面にも石塁を伴う土塁を築いている。ニノ郭前面にも3つの段曲輪が置かれている。ここの南斜面にも畝状竪堀があり、ここのものもその形状がはっきりと分かる。更に降ると2本の堀切と小郭群があり、先端に物見台の岩場がある。ここから尾根をずーっと降った所に岩がゴロゴロした平場があるが、これはどうやら近世以降の石切り場であったらしい。
 熊城の遺構は以上で、畝状竪堀が夏でもはっきりわかる素晴らしい縄張りである。武田氏系城郭で畝状竪堀が構築されている例は少なく(放射状竪堀の例は多いが)、その意味でも貴重である。9月下旬でまだ残暑の時期であったが、薮が少なく遺構がはっきり確認できる。案内していただいた岩本先生、ありがとうございました。
石垣→IMG_2567.JPG
IMG_2590.JPG←ニノ郭南斜面の畝状竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.701586/138.601488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


山梨の古城

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  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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要害城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

IMG_2370.JPG←矩形土塁による桝形
 要害城(要害山城)は、甲斐武田氏3代(信虎・信玄晴信・勝頼)の居館、躑躅ヶ崎館に対する詰城である。戦国武田氏の歴史を綴った同時代資料である『高白斎記』に、1520年に築城が開始されたことが明記されている。躑躅ヶ崎館はそれに先立つ1519年8月~12月に築館されており、要害城が立て続けに築城されたことは、平時の居館である躑躅ヶ崎館と一体となって運用される前提で築城されたことを物語る。築城したのは武田信玄の父信虎でこの時27歳、最初の城番は駒井昌頼(政武・高白斎)であった。築城翌年の1521年、駿河の今川氏親の重臣福島正成が15000の軍勢を率いて甲斐に侵攻した。迎え撃った信虎は大島合戦で破れ、富田城を福島勢に攻略されて危機に陥った為、身重であった正室大井夫人を要害城へ避難させた。正成は信虎の本拠躑躅ヶ崎館に向かって進軍したが、信虎が館の西方を流れる荒川を防衛戦とした為、両軍は荒川を挟んで対峙し、飯田河原で激戦が展開された。ここでは武田方が勝ち、戦勝に沸き立つ中、嫡男晴信(信玄)が生まれた。信玄生誕の地は、要害城内とも、要害山南麓の積翠寺とも言われる。いずれにしても、武田時代に要害城が実用に供された記録は、この時だけである。その後、駒井昌頼の子昌直・日向玄東斎が要害城を守備した。時代は下って長篠合戦後の1576年、武田勝頼は織田・徳川連合軍の侵攻に備える為、急遽要害城の修築を行った。しかし1581年に新府城を新造して居城を移した。翌82年3月、織田信長による武田征伐で甲斐源氏の名門武田氏は滅亡し、甲斐には信長の家臣河尻秀隆が入ったが、わずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死し、武田遺領を支配し始めたばかりの織田勢力は瓦解した。その後、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉による争奪戦(天正壬午の乱)が行われ、甲斐全域は徳川氏の支配下に入った。その後、豊臣秀吉の家臣加藤光泰が甲斐に入部し、加藤時代に要害城は石積みなどを施されて修復された。しかし甲府城が築城されたため、1600年に要害城は廃城となった。

 要害城は、甲府市街地北方にそびえる標高780m、比高260mの要害山に築かれている。現在国の史跡となっており(但し、史跡名称は城名ではなく山名の「要害山」)、登道が整備されている。9月下旬に日本城郭史学会の見学会があったので、それに参加した。山頂に土塁で囲まれた縦長長方形の主郭を置き、その前面に幾重にも曲輪群を築いて前衛とし、背後の尾根には3本の堀切と小型の曲輪を数個築いて防衛している。行ったのがまだ残暑の時期であったので、草薮が繁茂していて遺構が見にくい部分もあったが、登道はしっかりしており、城へ登るには全く支障なかった。前衛の曲輪群は広さがある曲輪が多く、L字またはコの字型に土塁を築いて櫓門だったと思われる城門を置いた桝形虎口も数ヶ所に確認できる。虎口の横などには小規模ではあるが石垣が積まれている。矩形をした枡形虎口と櫓門の構築は武田の城らしくなく、いわゆる織豊系城郭に多く見られる形であるので、石垣の構築と合わせて武田以降の加藤時代の改修によるものではないかと思う。また前衛の曲輪群の正面や側方には竪堀が何本か穿たれ、敵兵による斜面の横移動を防いでいる。一方、主郭背後の3本の堀切にはいずれも土橋が架けられ、特に主郭裏のものは土橋の横と堀切に沿って石垣が築かれている。3つの土橋の上には土塁・堡塁がそびえ、上方から敵兵の接近を阻止できるように構築されている。この他、前衛曲輪群には諏訪水と呼ばれる石組み井戸も残っている。
 要害城は、戦国武田3代の詰城とは言うものの、外周を防御する横堀もなく、全体を囲む放射状竪堀もなく、武田系城郭のトレードマークとも言うべき丸馬出もない。これらは地形上の制約にもよるのかもしれないが、その縄張りには武田色が薄いと感じられた。しかしそれはそれとして、十分見応えのある城である。
後部の土塁から見た主郭→IMG_2472.JPG
IMG_2487.JPG←堡塁上から見た土橋・堀切

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.703084/138.598377/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: 単行本


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