宇和多手城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]
←主郭背後の二重堀切
(2019年11月訪城)
宇和多手城は、鴇田館とも呼ばれ、鶴巣楯主黒川氏の家臣鴇田信濃国近が天正年間(1573~92年)まで居住したと伝えられる。1591年、葛西大崎一揆が鎮圧された後、国近は伊達政宗に太刀と馬を献上し、伊達家に仕えるようになった。国近の子駿河周如(かねゆき)は仙台藩2代藩主忠宗に近侍して信頼が厚く、藩財政の立て直しに貢献した。1654年に周如が没すると、鴇田氏の旧臣達はその菩提を弔うため松巌寺を宇和多手城跡に建立した。
宇和多手城は、比高40m程の丘陵先端部に築かれており、館跡は前述の通り松巌寺の境内となっている。主郭・二ノ郭・南郭の3郭から成っていたとされるが、実際の縄張りは少々異なるように思われる。最上段は広い平場で墓地になっており、これが主郭であったと思われる。主郭背後には二重堀切が穿たれて、背後の尾根筋を分断している。この二重堀切は、南半分は二重堀切の形態であるが、北半分では内堀が腰曲輪と土塁に変化している。二重堀切の背後に西郭があり、西側に土塁と堀切が築かれている。一方、主郭の東側下方には寺の本堂の建つ平場があり、二ノ郭であったと考えられる。二ノ郭の東には更に1段低く細尾根が張り出し、物見を兼ねた東郭と推測される。主郭の北西と南には腰曲輪が付随し、更に主郭から北に伸びる尾根にも小郭数個があり、小堀切が穿たれている。おそらく搦手であったのだろう。宇和多手城は、小規模な城で、改変もされているものの往時の形状をよく残している。
尚、主郭跡の墓地には鴇田周如の供養墓碑が建っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.412509/140.847827/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
(2019年11月訪城)
宇和多手城は、鴇田館とも呼ばれ、鶴巣楯主黒川氏の家臣鴇田信濃国近が天正年間(1573~92年)まで居住したと伝えられる。1591年、葛西大崎一揆が鎮圧された後、国近は伊達政宗に太刀と馬を献上し、伊達家に仕えるようになった。国近の子駿河周如(かねゆき)は仙台藩2代藩主忠宗に近侍して信頼が厚く、藩財政の立て直しに貢献した。1654年に周如が没すると、鴇田氏の旧臣達はその菩提を弔うため松巌寺を宇和多手城跡に建立した。
宇和多手城は、比高40m程の丘陵先端部に築かれており、館跡は前述の通り松巌寺の境内となっている。主郭・二ノ郭・南郭の3郭から成っていたとされるが、実際の縄張りは少々異なるように思われる。最上段は広い平場で墓地になっており、これが主郭であったと思われる。主郭背後には二重堀切が穿たれて、背後の尾根筋を分断している。この二重堀切は、南半分は二重堀切の形態であるが、北半分では内堀が腰曲輪と土塁に変化している。二重堀切の背後に西郭があり、西側に土塁と堀切が築かれている。一方、主郭の東側下方には寺の本堂の建つ平場があり、二ノ郭であったと考えられる。二ノ郭の東には更に1段低く細尾根が張り出し、物見を兼ねた東郭と推測される。主郭の北西と南には腰曲輪が付随し、更に主郭から北に伸びる尾根にも小郭数個があり、小堀切が穿たれている。おそらく搦手であったのだろう。宇和多手城は、小規模な城で、改変もされているものの往時の形状をよく残している。
尚、主郭跡の墓地には鴇田周如の供養墓碑が建っている。
北尾根の小堀切→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.412509/140.847827/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:中世平山城