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沢辺楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6718.JPG←主郭
(2019年11月訪城)
 沢辺楯(沢辺館)は、臥牛館とも呼ばれ、葛西氏の家臣沢辺氏の居城である。沢辺氏の祖は二階堂刑部常信と言い、葛西氏の祖葛西清重に仕え、正治年間(1199-1201年)に胆沢郡衣川からこの地に移り、沢辺楯を築いて居城とし、沢辺氏を称した。この地で4代続いたが、この地が大崎氏の支配下になるとこの地を離れ、岩井郡黒沢村の霞館に移り、1448年には同郡油田村の蒲沢館に所領を移された。12代肥前重光の時、1576年の葛西大崎合戦で葛西勢が大勝したことにより、この地は再び葛西領となり、重光は沢辺楯を再び居城とした。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易・没落すると、沢辺新左衛門は伊達氏に召し出され、弟の藤兵衛はこの地で帰農したと言う。

 沢辺楯は、比高30m程の丘陵上に築かれている。眼下に三迫川を望む舌状台地で、現在は臥牛館公園となっている。主郭は南端にあり、ほぼ方形で5m程の切岸で囲まれ、愛宕神社の小祠が祀られている。主郭の西から北にかけて三ノ郭が広がり、三ノ郭東辺の土塁は主郭の北端に繋がっている。三ノ郭の北斜面にも腰曲輪群が3段程築かれている。また三ノ郭から少し離れた北東に、高台となった二ノ郭が築かれている。二ノ郭の中央には円形の塚がある。二ノ郭の西側や北東部にも何段も腰曲輪が築かれ、北西角は橫矢の張り出しとなっている。主郭東側から二ノ郭周囲にかけて広がる平場も腰曲輪で、更に東斜面や三ノ郭の西側にも腰曲輪が築かれている。往時は台地基部に2本の空堀があったとされるが、小学校敷地となった際に湮滅した。
 沢辺楯は、全体的に遺構はよく残っているが、あまり技巧性のない縄張りで、居館機能を優先した城であったと思われる。
二ノ郭西側の腰曲輪群→IMG_6816.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.795554/141.058542/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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