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大原木楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7088.JPG←主郭東側の横堀
(2019年11月訪城)
 大原木楯(大原木館)は、鈴木館とも言い、この地の土豪鈴木氏の居城である。元は源義経の重臣鈴木三郎重家の館であったとされ、鈴木氏はその後裔を称していた様だが、鈴木重家への仮託であろう。戦国末期には、鈴木高重、或いは鈴木三河守が城主で、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で主家が改易されて没落、同年に生起した葛西大崎一揆において桃生郡深谷陣で討死したと言う。
 一方でこの地は、南北朝時代に行われた合戦の舞台ともなった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城を築いたと言う。この北朝方の本陣鎌糠城が、大原木楯付近にあった様である。或いは大原木楯が鎌糠城そのものであった可能性もある。いずれにしてもこの地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行い、北朝方が南朝勢を討ち破り、敗れた北畠顕信は出羽方面に逃れた。
 尚、沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、大原木は古代城柵が築かれた地ででもあり、木は即ち「城(き)」の意味であると言う。

 大原木楯は、標高60m、比高35m程の東西に長い丘陵上に築かれている。重家の妻が夫の討死後に尼僧となったという伝説の残る喜泉院の裏山で、喜泉院の墓地裏から山林に分け入れば、もうそこは城内である。大きく東西2郭で構成され、東が主郭、西が二ノ郭で、これらの間は堀切で分断されている。この堀切は、墓地からも見ることができる。二ノ郭の北斜面は段々に腰曲輪群が築かれており、現在墓地の段になっている部分も元々腰曲輪であったと思われる。主郭の北側は、腰曲輪1段の下は大切岸となっているが、その下方の墓地の部分はやはり腰曲輪群であったのだろう。主郭内は激しい薮となっているが、1m程の段差で区切られた東西に連なる3段の平場で構成されていることが辛うじて分かり、東北端には一段低く腰曲輪が築かれている。一方、二ノ郭は主郭より狭く、平場は1段だけで内部には墓石がいくつも投棄されている。この城で出色なのは、主郭・二ノ郭の南斜面に構築された、長大な二重横堀の防御線である。この構造は、姫松楯にも通じるもので、主郭の北東斜面から二ノ郭の西斜面までを延々と囲っている。途中には竪堀が数ヶ所落ち、塁線が屈曲して横矢が掛けられている。主郭北東では更に堀切を加えて三重横堀となっており、主郭東端の虎口から内堀・中堀へ連結した2つの土橋が架けられている。また二ノ郭西の二重横堀は、南側は二ノ郭南に回り込んでいるが、北側では外堀はそのまま尾根を堀切り、内堀は二ノ郭北に回り込んでいる。内堀・外堀の間の土塁は、内堀とともに二ノ郭北側に回り込み、少し東に伸びた先でL字に曲がって、二ノ郭切岸に繋がっている。前述の主郭・二ノ郭間の堀切は、南1/3程が主郭側に折れ、竪堀に変化して裏の二重横堀に繋がっている。
 室町時代にこの地域では大崎・葛西の両勢力が拮抗し、勢力拡大や自衛の為の防御施設として山城や居館が盛んに築城されたと言われている。大原木楯も、そうした状況を象徴するような緊張感のある縄張りである。ただ、一部を除いては全体に薮がひどく、横堀を辿っていくのも大変で、特に主郭南側では撤退を余儀なくされた。
主郭・二ノ郭間の堀切→IMG_6862.JPG
IMG_6957.JPG←二ノ郭南の横堀
主郭東端の土橋→IMG_7087.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.808881/141.027278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

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