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永井城 その2(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2218.JPG←東郭外周の二重横堀
(2020年2月訪城)
 2年前に永井城を訪れたが、西側からアプローチした結果、途中で激薮に阻まれ、城の中心部まで到達することができなかった。その後の調査で、八雲神社の境内も城域の東端に当たり、神社境内は整備されているようなので、再訪した。

 八雲神社への参道は、南の尾根にほぼ一直線に伸びており、国土地理院地形図に描かれている通りである。参道途中の東側に、耕作放棄地になった3段の平場があり、これも曲輪であったと思われる。『ふるさとの文化財』によれば永井城の中心部は、西から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・第一控丸・第二控丸(八雲神社)の5郭が並んで構成されていたとされているが、実際の状況を見ると、西から順に西郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭・東郭としておきたい。八雲神社境内の曲輪が東郭で、その外周には二重横堀の防御線が構築されている。この二重横堀は、参道のすぐ右手まで伸びている。東郭の西側には、堀切を挟んでニノ郭がある。ニノ郭は耕作放棄地で、雑草が背丈まで生い茂り、進入は困難であるが、ニノ郭東端には堀切沿いに土塁が築かれているのがわかる。二ノ郭の西が主郭で、段差だけで区切られている。主郭も耕作放棄地であるが、北辺に土塁があるのが確認できる。主郭・二ノ郭の北側には腰曲輪が築かれ、主郭の北西部には浅い堀切を挟んで北に張り出した半円形の曲輪が置かれている。この曲輪は前述の腰曲輪よりも一段高くなっている。主郭前面にも浅い堀切が穿たれ、その西側が三ノ郭である。三ノ郭内も段差で区画されて2段に分かれている。この他、主郭・二ノ郭の南側にも段々に腰曲輪群が築かれているが、薮だらけで踏査は困難である。
 以上が再訪した結果、確認できた永井城の主要部で、八雲神社から周った方が遺構が良好に確認できるので、こちらからの訪城をお勧めする。
主郭北側の切岸→DSCN2166.JPG
DSCN2196.JPG←主郭先端の堀切


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タグ:中世山城
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北境館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2103.JPG←段々になった腰曲輪群
(2020年2月訪城)
 北境館は、賤ヶ岳七本槍の一人、脇坂安治の弟脇坂外記安景の居館と言われる。元々は七尾城主山内首藤氏の南の防衛拠点であったとされ、永正年間(1504~21年)に山内首藤氏と葛西氏が争った際には、葛西勢は北境館の下を通る街道を避け、海上を迂回して本吉郡に上陸し、大森城を囲んだと伝えられる。1591年、葛西氏改易後にこの地は伊達領となった。1613年、脇坂外記安景は伊達家に召し抱えられ、北境館を居館としたと言う。しかし2年後の1615年、伊達政宗に従って大坂夏の陣に出陣し、道明寺口表で奮戦し、敵騎2騎を討ち取ったが、自身も討死した。安景の遺骸は、この館へ運ばれて埋葬されたと伝えられる。

 北境館は、旧北上川の河道にほど近い、標高30m程の丘陵上に築かれている。丘の東側に小道が通っており、その脇から館域に入ることができる。館内はほとんどが未整備の薮で覆われており、遺構もささやかなので遺構確認が少々難しい。東西に二つの郭を配した輪郭式の城館とされる様だが、丘の上には主郭しかない。主郭の周囲には切岸が築かれ、腰曲輪もはっきりしているが、肝心の主郭の削平が甘く、自然地形に近い。この主郭の南東部に脇坂一族の墓地があり、その一角に安景の墓碑が立っている。この他、丘の北東部に土塁で囲まれた低い方形区画が複数あるので、ここに居館があり、丘上は砦であったのではないかと思う(後世の改変の可能性もある)。いずれにしても、明瞭な遺構は少なく、役割がはっきりしない城館である。尚、以前は北麓に城址標柱があったらしいが、現在は無くなっている。
脇坂外記安景の墓碑→DSCN2057.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.474103/141.308888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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孫沢城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1984.JPG←主郭外周の空堀
(2020年2月訪城)
 孫沢城は、大崎義隆の家臣笠原九郎左衛門の居城と伝えられる。宮崎城主笠原氏の一族で、1590年に生起した葛西大崎一揆の際、九郎左衛門も宮崎城に立て籠もり、討死したと言う。

 孫沢城は、標高65m、比高25m程の丘陵南東端に築かれている。小さな方形の主郭を置き、西と北には台地と分断する空堀を穿ち、主郭の南斜面には2~3段の腰曲輪を築いている。腰曲輪は全て民家の敷地であり、主郭も民家の真裏の民有地なので、進入できない。そのため、東斜面から取り付いて、主郭外周の空堀だけ確認するに留めた。この空堀は、東斜面まで降っている。『日本城郭大系』には、主郭の西側に「西館」があったと書かれているが、自然地形でよくわからなかった。尚、数年前まで南の民家に城址標柱があったようだが、現在は無くなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593613/140.816048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


世界の城塞都市

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  • 出版社/メーカー: 開発社
  • 発売日: 2014/11/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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宮崎城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1844.JPG←高低差の大きい腰曲輪群
(2020年2月訪城)
 宮崎城は、葛西大崎一揆の時に激戦の地となった城である。大崎氏の重臣笠原氏歴代の居城であった。笠原氏は元々信州伊那郡笠原庄の出で、鎌倉幕府滅亡後に信濃守護小笠原貞宗、次いで足利一門の斯波高経の家臣となり、1336年には高経の弟家兼の家臣となった。家兼が1354年に将軍足利尊氏から奥州管領(後の奥州探題)に任ぜられて奥州に下向すると、笠原氏の祖近江守重広もこれに従って大崎に下向し、1359年に宮崎に封じられて宮崎城を築き、以後9代民部少輔隆親・10代隆重まで230年余りに渡ってこの地を支配した。笠原氏は宮崎城の他に、高根城に笠原内記、大楯城に笠原七郎など、周辺に城砦群を築き、一族を配してこの一帯に蟠踞していた。1536年の大崎氏の内訌の際には、笠原氏は古川氏方に付いて伊達稙宗に抵抗しており、反伊達勢力の一員であった。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏は葛西氏と共に改易となったが、その旧領を与えられた秀吉の家臣木村吉清・清久父子は、統治能力の欠如から圧政を敷き、同年10月、葛西・大崎両氏の旧臣たちは葛西大崎一揆と呼ばれる大規模な叛乱を起こした。しかしその裏には、失地回復を目論む伊達政宗の煽動があったとされる。それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かった。翌91年旧暦6月24・25日、宮崎城に籠城した旧城主笠原民部少輔隆親を大将とした笠原党2000人余りと、攻め寄せる伊達軍24000人余りが激戦を展開した。この戦いで、伊達勢は智将浜田伊豆景隆ら20名ほどの武将が討死するなど大損害を受けたが、2日間の激戦の末に宮崎城を落城させた。隆親は一子隆元と数人の家来に守られて出羽に逃れたが、捕らえられた将兵200人余りは城の北側の「流れの沢」で斬首されたと言う。一揆鎮圧後、この地は伊達領となり、文禄より慶長の初め頃まで宮崎城は片平親綱・山岡志摩重長・石母田宗頼の3人が交代で管理していたと伝えられる。その後、牧野大蔵盛仲・茂仲が50年余り支配した後、1652年に石母田氏6代永頼が岩ヶ崎所から宮崎に移封となった。永頼は6年間宮崎城に在館したが手狭であったため、1658年に宮崎館を築いて移り住み、宮崎城は廃城となったと推測される。

 宮崎城は、標高140m、比高60m程の山稜南東端に築かれている。山麓には田川とその支流鳥川が流れて天然の外堀となり、山稜も傾斜のきつい要害性の高い地勢である。城址北側に車道が通っており、標柱・解説板が立っていて、そこから城内に入ることができる。中心に堀切で区画された主郭とニノ郭があり、その南北の斜面に腰曲輪を幾重にも築いている。主郭は背後に土塁を築き、この土塁はそのまま北に伸びて、北尾根東西の腰曲輪群を区画している。主郭は東側に前郭を置き、その先に浅い堀切があって、ニノ郭の切岸がそびえている。また主郭の南西角から南に伸びる尾根に段曲輪群が築かれている。下に行くほど末広がりに広くなり、最下段の西側には大手虎口がある。また南端は大堀切となっているが、嘉門坂と呼ばれる登路があったらしい。堀切の南は出曲輪で、角崎の名があるが、現在は牛が飼われている。この大手筋の西側の平地には堀跡と土塁が残っている。宮崎城の南斜面にはかなりの広さを持った腰曲輪が築かれているが、二筋の谷が深く入り込み、この谷を侵入してきた敵兵に対して両翼の腰曲輪群から攻撃できるようになっており、殺気を感じる緊張感のある縄張りである。二ノ郭の南側の腰曲輪群は切岸が大きく、かなりの高低差を持って段々に築かれている。この他、二ノ郭北の腰曲輪から北東には、絶壁上に細尾根が伸びて物見台が置かれ、主郭西側の腰曲輪から繋がる西尾根にも小堀切があり、その先は物見台となっていた様である。
城の中心になる曲輪はそれほど大きなものではないが、堅固な地勢に築かれた高低差の大きい縄張りで、多くの腰曲輪で防御され、かなり守りが固かったと推測される。中心部がコンパクトに纏められた、非常に求心性の高い縄張りで、さすがは伊達軍が苦戦しただけのことはある城である。
主郭背後の土塁→DSCN1917.JPG
DSCN1878.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
南尾根の腰曲輪群南端の大堀切→DSCN1755.JPG
DSCN1776.JPG←大手虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.622772/140.760280/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


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宮崎館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1657.JPG←西側に残る水堀
(2020年2月訪城)
 宮崎館は、藩政時代に伊達家の家臣石母田氏、後に古内氏の居館である。石母田氏・古内氏居館と言った方がわかりやすいかもしれない。伊達家の藩制で言う「宮崎所」(「所」は「要害」の下のランク)である。1590年に生起した葛西大崎一揆で激戦地となった宮崎城は、一揆鎮圧後は伊達領となり、文禄より慶長の初め頃まで宮崎城は片平親綱・山岡志摩重長・石母田宗頼の3人が交代で管理していたと伝えられる。その後、牧野大蔵盛仲・茂仲が50年余り支配した後、1652年に石母田氏6代永頼が岩ヶ崎所から宮崎に移封となった。永頼は6年間宮崎城に在館したが手狭であったため、1658年に宮崎館を築いて移り住んだ。以後、約100年間に渡って石母田氏歴代の居館であったが、1757年に9代興頼は高清水要害に転封となった。その後、古内氏5代義清が小野田所から宮崎所に移され、以後幕末まで古内氏の居館となった。

 宮崎館は、現在の加美町宮崎支所の北側一帯にあった。宮崎市所の敷地の北半分と、東隣りの宮崎小学校の校地の北西1/4もかつての屋敷地である。東西180m、南北160m程の規模で、周囲を完全な環濠で囲まれ、その内側に土塁を築いた堂々たる屋敷であったと言う。現在は、北辺と西辺それぞれ3/4程の土塁が残り、西側では堀跡(一部は水堀)も残っている。宮崎館は、宮城県の遺跡地図にも載っていないが、遺構は一部とはいえしっかりと残っている。また宮崎支所からまっすぐ南に伸びる道がかつての大手道であったらしく、南の小川を渡る橋には大手橋の名が付いている。尚、宮崎支所の敷地正面に「旧仙台藩士永代着座古内氏所屋敷内跡地」と刻まれた大きな石塔が立ち、その傍らには古内氏所縁という松が植わっている。しかし解説板などはなく、街中にもあまり伊達氏家臣の所縁を感じさせるものはない。宮崎城に立て籠もった将兵が伊達政宗に徹底して殲滅されているので、やはり反伊達の意識が根強く残っているのだろうか。
北辺の土塁→DSCN1639.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.615529/140.758853/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台藩ものがたり

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  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2020/06/18
  • メディア: 単行本


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高根城(宮城県色麻町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1472.JPG←主郭の切岸
(2020年2月訪城)
 高根城は、高根楯(高根館)とも呼ばれ、大崎氏の家臣笠原内記の居城と伝えられる。元々は南北朝時代或いは室町時代に大崎氏が、四家老の一人、仁木遠江守高家に高根城を築かせたと言う。築城時期には2説ある。一つは南北朝時代で、足利一門でも最高の家格を持つ斯波高経の弟家兼(大崎氏の祖)が、1354年に将軍足利尊氏から奥州管領(後の奥州探題)に任ぜられて奥州に下向し、中新田城に治府を置き、仁木高家を四家老の一人に任じた時とも、もう一つは室町中期の1441年頃であったとも伝えられる。戦国末期には、八木沢城主八木沢備前の弟笠原内記(近江守直康)の居城となり、1590年の奥州仕置による大崎氏改易まで居住したと言う。大崎氏改易後、内記は息子隆康と共に出羽の秋田城之介の元に去ったと言う。
 尚、仁木遠江守高家について詳細は伝えられていないが、仁木と言う姓からすると、同じ足利一門の仁木氏の一族であるかもしれない。仁木氏は一門中ではかなり低い家格で、鎌倉時代には足利宗家の家臣並みの扱いであったから、宗家に匹敵する家格を有した斯波氏(鎌倉時代には足利尾張守家と称し、足利の姓を名乗っていた)にも家臣として仕えた者がいても不思議はない。

 高根城は、色麻町と加美町の境にある標高100m、比高50m程の丘陵上に築かれている。東中腹に墓地があり、その裏手に登るともう城域である。墓地も一郭であっただろう。ちなみにこの墓地は、現在は廃寺となっているが仁木高家が高根城の守護寺として開山した慶樹寺のもので、墓地に立つ記念碑にそのことが刻まれている。高根城の縄張りは、◇―の形をした主郭が中心にそびえ、主郭背後(西側)に低土塁を築き、城内通路を兼ねた堀切で分断している。堀切の西側には二ノ郭が置かれ、その前後に土塁を築き、西側背後を二重堀切で分断している。その先には細尾根上の西郭が築かれ、その先は自然の谷になって城域が終わっている。前述の二重堀切は、南側に長い二重竪堀となって落ちている。西郭の北側には二重横堀が構築されているが、前述の谷に繋がっており、虎口を兼ねていた可能性もある。一方、主郭・二ノ郭の周りには広い腰曲輪が幾重にも築かれている。特に北側は大きな腰曲輪が広がっており、二重竪堀状の城道などの構造が見られる。主郭の南では、主郭の張り出した塁線の先に土塁が突き出し、腰曲輪間を区切っている。この土塁から、西側下方の腰曲輪を見下ろせるようになっている。この他、主郭先端からは、北東と南の2方向に尾根上の曲輪が伸び、その周りにも腰曲輪群が築かれており、両翼に大きく羽を広げたような形になっている。前述の慶樹寺墓地は、この両翼の丁度真ん中の東中腹にある。主郭と南尾根の曲輪の間も、城内通路を兼ねた堀切で分断されている。
 以上が高根城の概要であるが、周囲に築かれた腰曲輪群がどこまで続いているのかはっきりせず、『日本城郭大系』に「かなり大きな館跡でどこまで(城の)範囲にするか判断するのが困難であった」と記す通りである。特に北側は斜度が緩いので、城域が判然としない。全体としては、梨崎楯に似ている印象で、築城主体が同じ大崎氏であった可能性を示唆しているかもしれない。
二重堀切から落ちる二重竪堀→DSCN1538.JPG
DSCN1568.JPG←北側腰曲輪の二重竪堀状の城道
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.561690/140.798110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記の群像  南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2013/12/25
  • メディア: 文庫


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西方城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0724.JPG←西の丸の残存曲輪
(2020年1月訪城)
 栃木市は、西方城の国指定史跡化を目指して発掘調査と整備を進めている。昨年11月に発掘調査説明会があったが、折悪しく天候不順で山に入ることができなかったので、年が明けてから訪城した。東側の腰曲輪群など、かなり薮払いが進められていた。東の丸も綺麗になっていた。

 今回は、説明会で入手した赤色立体地形図を元にして、未踏査の部分にも足を伸ばした。一つは西の丸で、ゴルフ場建設で消滅したとされているが、実際には西の丸の一番西の曲輪は、ゴルフ場の敷地の外に残っている。現在は高靇神社が建っている。本城部分からここへアクセスするには、ゴルフ場敷地外の薮の斜面をトラバースしなければならない。神社の建つ曲輪の周りには、南と西に腰曲輪が築かれている。また西に伸びる尾根の先に物見台らしい平場もある。

 もう一つは南の出砦で、西の丸から南に伸びる尾根を辿っていくと、国土地理院1/25000地形図の215m地点の峰から約50m北の峰に切岸で囲まれた円形の平場があった。切岸はわずかな高さであるが、明らかに人工のものなので、おそらく出砦であると思う。ここから東の支尾根を100m程降ると、南側に2段の平場も見られる。南西方面から侵攻してくる皆川氏に対する備えであった可能性がある。

 西方城は、宇都宮氏にとって領国南西を守る最前線にあったことがよく分かる。
南の出砦→DSCN0760.JPG

 場所:【西の丸の残存曲輪】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.472857/139.717544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.469061/139.716471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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金山城・九十九山砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0480.JPG←主郭西側の段差と堀跡の道路
(2019年12月訪城)
 金山城は、この地の土豪高山氏の城と伝えられている。城址石碑にある刻文によれば、高山氏の祖、源義政が築いたと伝えられると言う。義政は新田義重の孫に当たると伝えられるが、新田氏の系図には見られず、後世の仮託の可能性が高い。戦国時代の城主は高山山城守で、元亀年間(1570年~1573年)に廃城になったと言う。

 金山城は、現在細ヶ沢川東岸の台地上に築かれた城である。現在は宅地化・耕地化が進んでおり、明確な遺構は少ない。主郭は東城と呼ばれ、宅地と畑であるが、周囲より一段高くなった高台で、概ねその形状は残っている様である。主郭北辺の県道101号線沿いに、城址標柱が立っている。この県道も含めて、周囲の道路は空堀の跡であるらしい。主郭の西側には、堀跡の車道を挟んで中城・西城の地名が残る二ノ郭・三ノ郭があるが、宅地化・耕地化による改変が多く、その形状を追うことは難しい。この他、県道の北側も外周の曲輪であったと考えられ、北西部には細ヶ沢川に繋がる深い水路があり、大外堀を為していたと思われる。主郭東側には虚空蔵郭と言う外郭があり、かつてはその東端を区切る谷筋が入り込んでいたが、現在は耕地整理で谷が埋められており、全く城跡らしさを残していない。

 九十九山砦は、金山城の南東300mにある比高25m程の九十九山にあり、金山城の烽火台であったとされる。散策路があるので容易に登ることができる。山頂には前方後円墳があり、それをそのまま烽火台や物見台として使用していたのであろう。城砦としての改変は見られない。
九十九山山頂の前方後円墳→DSCN0456.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【金山城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.440567/139.059395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【九十九山砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.438133/139.060940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田義貞 (人物叢書)

新田義貞 (人物叢書)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2005/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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引田城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0438.JPG←北側の切岸状の斜面
(2019年12月訪城)
 引田城は、この地の土豪引田氏が築いたと推測されている。1560年に上杉謙信が初めて関東に出馬した際に、参陣した武士達の家紋をまとめて書き上げた『関東幕注文』には、引田伊勢守の名があり、この伊勢守が森山に引田城を築き、厩橋城の長野氏に従っていたと考えられている。尚、引田城の北西麓には小館跡があり、応永年間(1394~1428年)に引田左衛門尉盛利が拠った館と推測されている。

 引田城は、比高10mに満たない独立小丘(森山と言う)に築かれている。小丘上には現在工場が建っている。そのため、敷地内に入ることができず周囲から見るだけであるが、丘という地勢以外は遺構は湮滅している。丘の周囲は切岸状の斜面で囲まれている。『日本城郭大系』の縄張図では、土塁で囲まれた南北にやや長い主郭と、その北側半周に土塁を有した腰曲輪を廻らしていたとされる。一応、斜面のガサ薮に突入してみたが、腰曲輪は確認できなかった。
 一方、北西麓にある小館は、民家の敷地になっている。背後に当たる西側が高台となっていて、その崖に面した珍しい地勢に築かれた居館である。遺構はほとんど無く、北側に堀跡らしい水路があるだけである。
水路がある小館北側→DSC_8479.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.454358/139.066647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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田島城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0416.JPG←二ノ郭西側の横堀と土塁
(2019年12月訪城)
 田島城は、歴史不詳の城である。小河川の東岸にある比高10m程の丘陵地に築かれている。主郭は現在、ソーラー発電所に変貌している。10年ほど前までは耕作放棄地で進入は困難だったようだが、発電所になったおかげで外周部を歩くことができる。主郭の西側には土塁が残っている。この土塁の西斜面には比較的大型の石が多数転がっている。ネット上の意見では、石垣があったのではないかとの推測もあるが、昔畑だったことを考えると、畑から出てきた石を捨てただけのように思われる。あまり遺構っぽくは感じられないが、土中から出てきた石にしてはちょっと大きく、形も角張った石なので、少々解釈に苦しむ。主郭の南には、空堀を挟んでニノ郭があるが、薮が酷すぎて全く踏査できない。空堀も薮の隙間からわずかに分かる程度である。ニノ郭の西側には横堀が穿たれ、横堀の外側には土塁が築かれている。これは嶺城と同じ構造で、築城主体が同じであった可能性を示唆するものかもしれない。確認できた遺構は以上で、薮がひどかったり民家だったりして入れない部分も多く、改変されている部分も多く、全体像をはっきりと掴むことはできなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.451596/139.072784/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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嶺城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0261.JPG←弧を描く四ノ郭北側の空堀
(2019年12月訪城)
 嶺城は、田中城とも言い、厩橋城主北条丹後守高広の家臣田中大弐の居城である。高広は越後の上杉謙信の家臣で、1560年に初めて関東に出馬した謙信は、1563年に上杉方の上野支配の拠点厩橋城に高広を置いて、関東方面の政治・軍事を差配させた。上野に入った高広は、嶺城を築いて田中大弐を置いて守らせたと言う。

 嶺城は、南に向かって張り出した比高20m程の舌状丘陵に築かれている。主郭を中心に、南北に曲輪を連ねた連郭式の縄張りを基本としている。主郭の南に二ノ郭を置き、北には三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭を連ね、それぞれ空堀で分断している。空堀は、二ノ郭と主郭の間のものは規模が小さいが、それ以外は規模が大きい。特に四ノ郭北側の空堀は、弓形に弧を描く大空堀である。三ノ郭北側の空堀は、東側で横矢掛りのクランクを設けている。これらの空堀は、西側斜面で竪堀となって落ちている。また主郭から五ノ郭まで、西側には横堀が穿たれ、外側を土塁で防御している。前述の空堀は、この横堀・土塁を貫通して分断している。主要な曲輪の内、しっかりと土塁が築かれているのは主郭だけで、二ノ郭・三ノ郭には部分的に見られるだけである。この他、二ノ郭の南側は台地が削られているらしく、また五ノ郭の北にある城域北端の空堀は、西側1/4だけが残り、残りは埋められてしまっている。嶺城は、良く遺構が残っており、また小さな駐車場が整備され、主郭まで散策路も作られている。整備されているのは主郭だけで、二ノ郭は竹林、三ノ郭は畑、四ノ郭は未整備の薮、五ノ郭は民有地である。しかし地元の人達の、城に対する愛情を感じさせる状態となっている。
主郭西側の横堀・土塁→DSCN0319.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.438909/139.107739/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東国の戦国争乱と織豊権力 (動乱の東国史)

東国の戦国争乱と織豊権力 (動乱の東国史)

  • 作者: 池 享
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: 単行本


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荻窪城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0238.JPG←主郭西側の空堀
(2019年12月訪城)
 荻窪城は、大胡城の出城で、足利氏の庶流とされる赤萩氏が城主であったと推測されている。この地に伝わる古文書には、1353年に赤荻主馬之介智宜、同弾正智則が居城とし、字向山に城の守本尊として大日如来を祀り、城の安泰を祈ったと伝えられている。

 荻窪城は、小河川の流れる低地帯に臨む台地南端部に築かれている。東西南北に田の字状に4つの郭を並べた構造で、北西が主郭であったらしい。現在、主郭は城址公園となって整備されている。郭内には井戸跡と解説板があり、背後には土塁が築かれている。主郭の北側から西側にかけてL字状に空堀が廻らされ、更にL字の角部から西斜面に竪堀が落ちている。主郭の東が二ノ郭で、背後に土塁の残欠が見られ、かなり埋もれているが北側に空堀があった様である。主郭・二ノ郭の南側には切岸だけで区切られた2つの曲輪があるが、いずれも民家となっている。主郭・ニノ郭の間から南に向かって小道が降っており、大手道であったと推測される。現地解説板の推定復元図を見ると、この他に主郭・ニノ郭の北側に外郭があった様に描かれているが、現在は宅地や耕地に改変されており、往時にどこまでが城域であったのかは明確ではない。荻窪城は、城の構造を見る限り素朴な構造で、古い時代の形態をそのまま残していると考えられる。
主郭の土塁と井戸跡→DSCN0230.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.413547/139.133359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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大胡城 その2(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0088.JPG←近戸郭外周の空堀
(2019年12月訪城)
 大胡城の近くを通りかかったので、11年ぶりに再訪した。今回の目的は、城域北端の近戸郭と大手口の遺構の確認である。これらの遺構は、11年前はその存在を知らず見逃していた。

 まず近戸郭は、大胡神社の裏手に大規模な遺構が残っている。高さ2m程の土塁で外周を囲み、北西部に横矢掛りの塁線の折れを設け、その外側には深さ7~8mの大空堀が穿たれている。これらはほとんど手付かずで改変を受けておらず、公園化・市街化された大胡城内では最も往時の雰囲気を残している。
近戸郭外周の土塁→DSCN0106.JPG

 次に大手(追手)付近。大手口は城域南端にある。前橋市役所大胡支所の建つ南郭の更に南で、現在は東西に車道が通っている。これが往時の大手道で、堀跡の用水路を越えて緩い登り坂を西に登っていくと、左手に秋葉台と呼ばれる土壇がある。おそらく大手口を守る物見台だったのだろう。上には御嶽山座王大権現などと刻まれた石祠が建っている。
DSCN0181.JPG←秋葉台

 場所:【近戸郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.421680/139.159216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【秋葉台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417052/139.157671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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宿の平城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0054.JPG←主郭
(2019年12月訪城)
 宿の平城は、この地の土豪阿久沢氏の要害で、苗ヶ島城に対する詰城であったとされる。阿久沢氏といえば、東毛地区では深沢城の阿久沢氏が知られるが、それと同族であろう。ただ宿の平城は苗ヶ島城から5km以上も離れており、遺構面でもあまり普請の手が入っていないので、戦国期以前の逃げ込み城のようなものであったかもしれない。また一説には、桃井播磨守が築いた城との伝承もあるらしいが、阿久沢氏の要害とする方が自然である。

 宿の平城は、赤城山南中腹にある標高740mの御殿山と言う峰に築かれている。すぐ北側に車道があり、北西麓に城址標柱が立っている。この標柱の南に、物見台のような高台があり、その上に岩があって「見張石」と書かれた標柱が立っている。宿の平城に関連したものか、それともこの地で有名な国定忠治にまつわるものなのか、よくわからない。山上まで明確な道はないが、比高60m程なので、適当に斜面を直登し、西尾根に取り付いて登城した。山頂の主郭は明確に削平された平場になっており、南にはニノ郭の平場、西尾根にも小郭2つが確認できる。また北尾根を降った先には物見台が築かれている。その北側下方には小さな桝形虎口のような屈曲した動線が築かれている。遺構としてはこれだけで、堀切も土塁もなく、至って素朴な作りの城である。
北尾根の物見台→DSCN0076.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.493802/139.185609/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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栃木県内初の障子堀遺構 鹿沼城跡発掘調査説明会(栃木県鹿沼市) [城郭よもやま話]

DSCN9154.JPG←発掘された障子堀
(写真クリックで拡大)
 新型コロナによる規制がまだ続いている中であったが、昨日6月7日、鹿沼城址の一角で発掘調査説明会があった。今回発掘されたのは、鹿沼城東麓の鹿沼市役所敷地内の南西部で、新庁舎建設工事のため、緊急発掘調査が行われたものである。
 今回の調査区は鹿沼城東麓の、江戸時代の古絵図にある三ノ丸の外周部で、大きな沼(現在は消滅)から南に水堀が伸びた部分に相当すると考えられている。

 今回この場所で、栃木県内では初となる障子堀の遺構が確認された。今回確認された限りでは、堀幅約9m、深さ2m弱であるが、堀の上半が近代に削平されているため、元の規模は幅12m以上、深さ4m以上あったと推測されると言う。おそらく、戦国末期に壬生氏が小田原北条氏に従属し、客将板橋将監が派遣されるなど、宇都宮氏との対抗上、北条氏との紐帯を強めていた時期に築かれたものだろう。宇都宮氏のバックには常陸の佐竹氏がおり、佐竹・宇都宮連合を支援していたのは豊臣秀吉であり、このことが小田原の役の導火線となった。今回発見された障子堀は、まさにこうした歴史の生き証人であったと思われる。
 非常に貴重な遺構であるが、残念ながらこの後は新庁舎建設で破壊されてしまう。なんとも残念なことである。

 尚、今回の調査で、多くの漆塗り椀が発掘され、その中には壬生氏の家紋「三つ巴」が描かれた椀も何点も発掘されている。これも非常に貴重である。

 とにかく北条氏の勢力圏の最北に当たる鹿沼で、障子堀が発見された意義は大きい。戦国末期に同じく北条氏に従属した佐野氏や、北条氏に駆逐されて領国を奪われた小山氏などの勢力圏の城でも、今後障子堀の発見事例が出てくるかもしれない。
発掘された漆塗り椀→DSCN9157.JPG

タグ:発掘説明会
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柏倉殿替戸砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0009.JPG←台地西側の堀状地形
(2019年12月訪城)
 柏倉殿替戸砦は、この地の土豪大崎氏の砦である。大崎屋敷と呼ばれるものと同一のものらしい。阿久沢氏の苗ヶ島城の支城とも言われるが、詳細は不明である。市の指定史跡で、囲郭式の複郭との情報もあるが、現地の状況と合わない様に思う。

 柏倉殿替戸砦は、赤城山南麓の2つの小河川に挟まれた緩傾斜地に築かれている。民家の入り口前左手に砦跡の標柱が立っている。しかし普通に考えれば民家のある敷地ではなく、民家背後の台地が砦跡と思われる。民家背後は民家の敷地よりも数mの高台になっており、現在は山林となっている。西側には堀っぽい溝があり、西側の墓地脇から山林内に突入すると、堀状の溝地形や虎口状地形が見られる。南の屋敷地とは切岸で明確に区画されている。しかし民家の敷地には入れないこともあって、結局どの様な遺構なのか、全容は把握できなかった。尚、ここから北東に離れた場所を殿替戸館としているHPがあり、少々混乱も見られるようである。
山林内の堀状の溝→DSCN0020.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.454893/139.156855/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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佐和山城(滋賀県彦根市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8958.JPG←天守台跡らしい本丸の高台
(2019年12月訪城)
 佐和山城は、石田三成の居城として有名である。最初の築城は、鎌倉時代初期の建久年間(1190~99年)に近江守護・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の6男佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。室町時代には、近江の守護大名六角氏の支城となり、大永年間(1521~28年)には六角定頼の家臣小川左近大輔が城主となった。その後江北を支配した京極氏の家臣小谷氏が台頭すると、勢力を拡張して佐和山城を支配下に収め、浅井氏の家臣磯野員昌が城主となった。元亀年間(1570~73年)に浅井長政が織田信長と敵対すると、佐和山城は織田勢に包囲され、1571年2月に無血開城した。信長は、本拠の岐阜城から京へのルートを確保するため、重臣の丹羽長秀を佐和山城主とした。1582年、本能寺の変後に清州会議を経て、堀秀政が佐和山城に入った。堀氏時代には賤ヶ岳合戦・小牧長久手合戦などの際に羽柴秀吉が佐和山に陣を置いた。1585年、佐和山城には秀吉の家臣堀尾吉晴が4万石で入城した。1590年に堀尾氏が浜松城に移封となると、豊臣氏の直轄時代を経て石田三成の居城となった。石田時代の佐和山城は、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われる程の名城であったとされる。1600年の関ヶ原合戦で石田三成の西軍が敗れると、佐和山城は東軍諸将に攻略された。その後は、徳川家康の重臣井伊直政が城主となったが、直政は関ヶ原での戦傷が元で間もなく没し、その嫡男直勝が1603年に家康の命で彦根城を新たに築城すると、佐和山城の部材・石材は大々的に転用され、そのまま佐和山城は廃城となった。

 佐和山城は、標高232.6m、比高130m程の山上に築かれている。本丸周辺と西の丸は整備されており、北西麓の龍潭寺からと南の国道8号線脇からの2つの登路が整備されている。山頂の本丸を中心に、北東尾根に二の丸、その東に三の丸、また本丸北西には西の丸、南には太鼓丸と法華丸といった曲輪群を配している。縄張り的には純然たる中世山城と同じで、尾根筋に堀切や竪堀を穿ち、尾根に配された曲輪の先端には腰曲輪群を築いている。また西の丸や太鼓丸には土塁が残り、腰曲輪などに通じる虎口も見られる。本丸は綺麗に整備されており、眼下には彦根城がよく見えるが、破城のせいで石垣もほとんど残っておらず、天守台や桝形虎口の跡などもわずかに痕跡が残る程度で、見るべき遺構がかなり少ない状態である。また二の丸は大薮が酷く、本丸への登城路も消失していて、踏査が容易ではない。何とか平場群とわずかな残存西垣は確認できたものの、薮が酷すぎて三の丸には到達できなかった。この他、大手のあった東麓の平地には、大手口の土塁や内堀跡・外堀跡の小川が残っている。これほど有名で、そうそうたる面々が城主となった重要な城であったが、徳川による徹底的な破却のせいで近世城郭とは思えないほど見るべきものが少ない状況で残念である。
西の丸下段郭(焔硝櫓)の土塁→IMG_9007.JPG
IMG_8877.JPG←太鼓丸の土塁
二の丸付近の残存石垣→IMG_9044.JPG
IMG_8829.JPG←大手口の土塁・内堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.279714/136.269232/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


【図解】近畿の城郭II

【図解】近畿の城郭II

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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姉川古戦場(滋賀県長浜市) [その他の史跡巡り]

IMG_8790.JPG←古戦場碑
(2019年12月訪問)
 姉川古戦場は、浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が破った戦いである。1570年4月、越前の朝倉義景討伐のため、敦賀に侵攻した織田信長は、金ヶ崎城に入ったところで義弟浅井長政の離反を知り、南北より挟撃される危地に陥った。急遽京に向けて逃げ帰り、辛くも虎口を脱した信長は、同年6月に裏切った長政を討つべく、北近江に侵攻した。一方、朝倉氏は一族の朝倉景健を大将とする援軍を派遣した。こうして6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が姉川の両岸に布陣し、激戦が行われた。旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』によれば、兵数は浅井軍8000、朝倉軍10000に対して、織田軍23000、徳川軍6000で、合戦は午前5時に始まり午後2時に終わったとされている。戦端は、西方に布陣した朝倉・徳川両軍の間で始まり、最初は朝倉勢が優勢であったが、榊原康政らが側面から朝倉勢を攻撃し、形勢は逆転した。一方、浅井・織田両軍の間でも戦闘が開始され、最初は浅井勢が優勢であったが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川勢の加勢により、浅井勢も敗退したと言う。しかし一説には、浅井勢による奇襲攻撃であったとも言われる。いずれにしても合戦後、信長は浅井方の重要拠点横山城を攻略し、虎御前山城に本陣を置いて執拗に浅井攻撃を続けた。

 姉川古戦場は、長浜市街地の東方にある。国道365号線の付近に関連史跡が多数散在し、史跡看板が建てられている。中心となるのが姉川北岸にある古戦場碑である。南には、陣杭の柳と言う名の織田信長本陣跡や、勝山という独立丘陵に徳川家康本陣跡がある。この一帯からは、北方に浅井氏の居城小谷城が遠望でき、浅井氏のお膝元で行われた戦いであったことがわかる。浅井氏は、朝倉氏の援軍がないと、独力では全く織田勢に対抗できないことや、本拠地近くが主戦場となるなど、浅井長政の信長からの離反には大局が見えていなかったというしかない。何しろ織田勢は、小谷城近くで農村を荒らし回るだけで浅井氏の領国を荒廃させ疲弊させられたのだから。姉川の合戦も真夏の戦いで、どれほどの稲穂が蹂躙されたことか。いくら信長包囲網があったとはいえ、浅井氏の抵抗には限界があっただろう。最初から本拠地近くが主戦場になっていた時点で、浅井氏の命運は決していたという他はない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.416020/136.322168/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


浅井氏三代 (人物叢書)

浅井氏三代 (人物叢書)

  • 作者: 宮島 敬一
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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大嶽城〔附、福寿丸・山崎丸〕(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8486.JPG←大嶽城の主郭を囲む土塁
(2019年12月訪城)
 大嶽(おおづく)城は、近江の戦国大名浅井氏の居城小谷城の背後を守る出城である。元々、浅井氏初代亮政が築いた小谷城とは、この大嶽城を主郭としていたと考えられている。その後、南東の尾根に小谷城の本城部が移った後も、背後の高所を押さえる位置にあることから、何らかの役目を負って存続していた可能性がある。1573年、織田信長が小谷城を攻撃した際には、浅井氏の援軍として加勢に来た越前朝倉氏の一軍が大嶽城を守備していた。しかし焼尾砦の守将浅見対馬守俊成は、織田勢の調略を受けて降伏し、俊成の手引きで織田軍は嵐に乗じて大嶽城を攻め落とした。この後、坂道を転げ落ちるように朝倉氏は滅亡し、孤立した浅井氏も滅亡した。

 大嶽城は、標高494.6m、比高395mの小谷山山頂に築かれている。小谷城からだと、搦手の六坊跡を通過してから登道を15~20分程登れば、大嶽城に行き着く。登道が整備されているので、迷うことはない。大嶽城は、主郭を中心に、外周に数段の腰曲輪を巡らした環郭式の縄張りとなっている。高所に築かれた出城にしては大型の城で、かなりの兵数を籠めることができる。しかしかなり大味な作りで、主郭も腰曲輪も大型の幅広の土塁で囲まれているが、切岸の傾斜は緩い。北西の尾根には堀切が2本穿たれているが、これもあまり鋭さがない。一方で、北西から南西まで廻る腰曲輪は西側で大きく斜めに湾曲して降り、その西側下方には大きな竪堀が2本落ちていて、ダイナミックな構造を見せている。この他、小谷城からの登道がある東尾根や、出砦に通じる南西の尾根には何段もの曲輪群が築かれている。

 大嶽城の南西の尾根には、福寿丸と山崎丸と言う2つの出砦が築かれている。この尾根筋にも山道が整備されているので、迷う心配はない。これらの出砦は、いずれも大嶽城と同様に援軍の朝倉勢が普請して立て籠もった砦である。福寿丸には朝倉氏の部将木村福寿庵が、山崎丸には同じく朝倉氏の部将山崎吉家が守将として入っていたと伝えられる。2つの砦とも朝倉氏の最新の築城技術で作られた城とされ、大きな城砦ではないが普請はしっかりしている。いずれも土塁で囲まれており、枡形虎口や橫矢の張り出しが多用されている。曲輪全体が枡形状の構造になっている部分もあり、こうした構造は相模御所山城韮山城附城群によく似ている。これらを見ると、織豊系陣城は織豊勢力が突然編み出したものではなく、周辺諸勢力との抗争の中で互いに築城技術を吸収し進化させてきたものだということがわかる。織豊系陣城を考察する上で、好適な事例である。
大嶽城西側の大竪堀→IMG_8544.JPG
IMG_8550.JPG←大嶽城西側の腰曲輪
大嶽城付近から見た小谷城→IMG_8454.JPG
IMG_8608.JPG←福寿丸の桝形虎口
山崎丸の横矢張出しと空堀→IMG_8654.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大嶽城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.465983/136.273395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
    【福寿丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.460705/136.269189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
    【山崎丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455951/136.268159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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小谷城(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8143.JPG←本丸の石垣
(2019年12月訪城)
 小谷城は、近江北半を支配した戦国大名浅井氏3代の居城であり、中世5大山城の一つに数えられる大規模な山城である。浅井氏の出自には諸説あって明確ではないが、鎌倉時代には北近江に根を張る国人領主であった。南北朝期に婆娑羅大名として知られる佐々木(京極)道誉が南北朝動乱期の活躍で台頭し、北近江の守護大名となって勢力を確立した。3代将軍足利義満が定めた室町幕府の典礼では、京極氏は幕府の四職に列した。浅井氏は、こうした京極氏の家臣として活動した。応仁の乱の最中に京極氏家中で家督争いが起きると、京極氏の家臣団は分裂して抗争を繰り返し、京極氏の勢力は衰えた。1523年、再び京極高清の跡目をめぐって内訌が起き、浅井亮政らは家臣団中最大の勢力を持っていた上坂信光を失脚させ、京極高清・高慶父子を尾張国に逐った。こうして江北の実権を握って台頭した亮政は、その翌年には小谷城を築いていたと見られ、1524年に尾張に奔った京極高清を小谷城の京極丸に迎えて饗応した。一方、近江守護・観音寺城主六角氏は、京極氏の本家筋であり、都を逐われた足利将軍を近江で保護する実力者であり、下剋上で台頭した浅井氏と対立するようになった。1525年、六角定頼は浅井氏討伐のため進軍し、小谷城を攻撃した。この時の小谷城は、現在の大嶽(おおづく)城に主郭があったとされる。攻撃を受けた亮政は越前朝倉氏に援軍を求め、朝倉教景(宗滴)率いる朝倉勢が小谷城へ入り、金吾丸を築いて滞陣したと言う。決定打を与えられなかった六角氏は、その後も度々浅井氏と交戦し、亮政は次第に劣勢に追い込まれた。亮政は、六角氏への従属姿勢を示しつつ、朝倉氏や本願寺勢力と協調して江北の地盤を固め、1534年には京極高清・高延父子を宿所において饗応した。この宿所は、山上ではなく清水谷の居館であるとされ、この頃には山上の城郭も山麓の根古屋も整備されていた可能性が高い。1542年、亮政が亡くなると久政が跡を継いだ。久政の時に、小谷城搦手に六坊と称される出坊が建てられている。久政は、六角氏に服属しつつ内政を整えたが、六角氏への従属を良しとしない家臣団の反発を受け、1560年に嫡子賢政(後の長政)に家督を譲って、小谷城内の小丸に隠居した。長政は、日の出の勢いの織田信長の妹お市を娶り、勢力拡大を図った。しかし1570年4月、信長が朝倉氏討伐のため敦賀に侵攻すると、突如長政は信長に反旗を翻し、危殆に陥った信長は辛くも京に逃げ帰った(金ヶ崎の退き口)。6月、信長は離反した浅井氏を攻撃し、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍による姉川合戦が繰り広げられた。浅井・朝倉連合軍は敗れ、その後織田勢は浅井氏の支城群を徐々に蚕食し、小谷城を追い詰めていった。1573年8月、信長は小谷城を包囲し、朝倉義景率いる援軍を破った。戦意に乏しい朝倉勢は序盤の敗戦と出城の失陥を見て撤退を始め、刀根坂で織田勢の激しい追撃を受けて壊滅した。本拠の一乗谷に向かった義景を追って、織田勢は越前になだれ込み、そのまま朝倉氏を滅ぼした。信長は小谷城包囲に戻り、総攻撃を開始。孤立した小谷城は落城し、長政は小谷城内の赤尾屋敷で自刃、浅井氏は滅亡した。信長は、わずか1ヶ月で越前・北近江の戦国大名を相次いで滅亡させるという、怒涛のような進撃であった。浅井氏滅亡後、小谷城は攻略の殊勲者羽柴秀吉に与えられたが、秀吉は長浜城を築いて移り、この時に小谷城の建物の多くが長浜城に移されたと言う。

 小谷城は、小谷山南東の尾根筋に築かれている。元々初代亮政が築いた小谷城主郭は、小谷山山頂の大嶽にあったが、後に南東尾根に本城を移したらしい。本丸は標高350mの峰にあり、最高所の山王丸はそれより北の50m程高い398mの峰に築かれている。信長に攻め落とされた後、秀吉の長浜移城などにより、建築物だけでなく石垣も多数持ち出されたと思われるので、往時の姿そのものではないはずだが、縄張りはほぼ往時の姿を留めていると推測される。南北に長い尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の縄張りを基本とし、西斜面に多くの腰曲輪を築いて防御を固めている。本城部は大きく2つに分かれ、本丸を最高所とした南部分と、山王丸を最高所とした北部分がある。南部分は南から順に、番所・お茶屋・御馬屋敷・桜馬場・大広間・本丸の各曲輪から成る。本丸の東には赤尾屋敷の段曲輪が築かれている。北部分は南から順に、中丸・京極丸・小丸・山王丸から成るが、北部分の各曲輪はどれも複数の平場で構成されている。これら多くの曲輪が連ねられ、しかもいずれも広さがあるが、防御の主体は石垣・土塁・切岸だけで、堀切はほとんど見られない。唯一、本丸裏は中丸との間に大堀切があるが、実態は堀切と言うより鞍部の曲輪である。また西麓の根古屋(清水谷)に向かって、腰曲輪群を貫通する様に何本もの竪堀が、また東側にも数本の竪堀が穿たれている。石垣は、観音寺城などと比べるとだいぶ小振りである。虎口は、平易な坂虎口が多く、枡形はあまり見られない。この他、山王丸の北尾根には六坊の平場群があり、南の尾根には金吾丸・出丸が築かれている。主城域からやや離れて、小谷山の東の尾根に月所丸があり、ここだけ尾根筋を分断する堀切が3本穿たれ、尾根付け根の北側斜面には7本の畝状竪堀が穿たれている。月所丸は、明らかに構築思想が本城と異なるので、朝倉氏の援軍による構築と見るのが自然であろう。

 以上が小谷城の遺構で、本城部はオーソドックスな連郭式の作りであり、横堀の塹壕線や畝状竪堀はなく、堀切すらもほとんどない。曲輪間の切岸もあまり大きなものがなく、遮断系の要素に乏しい縄張りと感じられた。一方で、西斜面に多数の腰曲輪群と竪堀が構築され、根古屋方面からの斜面だけ防御が厳重である。

 尚、南端の出丸から小谷城全域を踏査するには、車道を使わず山麓から山道を歩いて登るしかないので、大嶽城や清水谷まで含めると、全域踏査にはほぼ丸1日費やす覚悟が必要である。私は結局、車に戻るまで6時間も掛かった。それでも清水谷奥の三田村屋敷や大野木屋敷は踏査できなかった。
本丸から見た大広間→IMG_8137.JPG
IMG_8160.JPG←大堀切とされる鞍部の曲輪
大堀切の東腰曲輪の石垣→IMG_8172.JPG
IMG_8201.JPG←中丸の3段曲輪
月所丸脇の畝状竪堀→IMG_8391.JPG
IMG_8418.JPG←月所丸先端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.459779/136.277708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


【図解】近畿の城郭II

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