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成田城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5745.JPG←台地上に残る八幡大権現
 成田城は、塩谷氏が築いた支城である。那須氏の城であった沢村城を監視、攻略する為に、沢村城の南方、成田に通じる峠道の入口に当たる半円状に突出した高台に築かれた。築城の具体的年代は不明だが、1314年に塩谷氏が、那須氏の沢村城を攻めて落城させた記録があることから、この頃には築城され、塩谷氏が改易となった1595年までには廃城となっていたと考えられている。

 成田城は、眼前に沢村城を望む比高わずか5m程の低台地に築かれている。舌状台地で、内部は畑になっている。台地の中央には小さな土壇があり、八幡大権現が祀られている。耕地化によるものか、城としての明確な遺構は見られないが、目の前には沢村城が手に取る様に見える高台で、那須氏と対峙する上で塩谷氏にとって重要な地であったことはよく分かる。小部隊を駐屯させる、砦の様な城だったものと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.812549/139.965852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


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松ヶ嶺城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5595.JPG←主郭後部の土塁
 松ヶ嶺城は、川崎城主塩谷氏の家臣岡本氏の居城である。築城には2説あり、塩谷氏20代孝綱が永正年間(1504~21年)に築いたとも、或いは孝綱が宇都宮氏から塩谷氏に入嗣した際に付家老として来た岡本重親が築いたとも言われる。いずれにしても岡本氏の居城となったが、城の東を流れる中川が城下町の松小屋に氾濫を繰り返したため、1597年に岡本讃岐守正親は泉城に居城を移し、松ヶ嶺城は廃城となった。

 松ヶ嶺城は、中川の西岸にそびえる比高40m程の丘陵上に築かれている。城へのアクセスは天然の外堀である中川がネックになるが、冬場の渇水期であれば川の水量が少ないので、川底に敷かれたコンクリートブロックを伝って渡渉し、山林に分け入った。城は、山頂の方形に近い主郭を中心に、北東・東・南の三方に舌状曲輪を配し、更にそれらの曲輪の周囲に腰曲輪を築き、曲輪間の谷間にも何段かの平場群を築いている。主郭は背後に当たる西辺に土塁を築き、その外側は堀切を穿って西尾根を分断している。主郭東側には幅の広い坂虎口が築かれ、東の二ノ郭に通じている。主郭の北東が三ノ郭で、北西辺に低土塁を築き、先端に堀切・土塁を築いている。その先は自然地形に近い幅広の尾根が続き、その先端部は北の谷に向かって細尾根となっており、往時の城道があったかもしれない。一方、主郭の南には3段に分かれた四ノ郭群がある。以上が、城の主要部であるが、西尾根にも南北の斜面に帯曲輪らしい平場がある他、城から谷を挟んだ北側の丘陵地にも、数段の帯曲輪状の平場が構築されている。これらも外郭であったと思われる。
 松ヶ嶺城は遺構はよく残っているが、戦国末期まで存続した城にしては縄張り面の技巧性はあまりなく、比較的平易な城である。中川による防衛線が強固であったため、あまり城自体の強化は必要なかったのかもしれない。
腰曲輪から見た四ノ郭→DSCN5657.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.830035/139.907016/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 郁夫, 江田
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


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長井城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5551.JPG←城跡の現況
 長井城は、堀之内城とも呼ばれ、室町時代中期にこの地の土豪渡辺宗綱が築いたと伝えられる。渡辺氏は川崎城主塩谷氏に仕え、1584年に小田原北条氏と佐竹・宇都宮連合軍が長期対陣した沼尻合戦で武功を挙げたが、1589年に那須勢に攻撃されて、城主信濃が自刃し、落城した。1595年に主家塩谷氏が改易となると、渡辺氏は帰農し、長井城は廃城となった。

 長井城は、宮川とその支流に挟まれた低段丘に築かれている。6ha程の広さの方形の城館で、武者溜まり・土塁・水堀を備えていたと伝えられる。南に大手口があって木戸番が常駐し、東側虎口は村民が利用し、西側虎口は通用門として使用されたと言う。廃城後も庄屋となった渡辺家の屋敷となっていたが、太平洋戦争後に屋敷は廃され、土地は分割されて民家や小学校用地となり、遺構は破壊されたと言い、現在はほとんどが耕地化している。わずかに城跡の北側に当たる車道脇に、堀之内城址と刻まれた石碑が立っているだけである。
城跡の石碑→DSCN5548.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.827115/139.890676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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下長井城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5430.JPG←祠のある土盛り
 下長井城は、下長井館とも言い、源姓塩谷氏の祖堀江左衛門尉頼純の家臣長井次郎安藤太の居城と伝えられている。

 下長井城は、下長井地区の平地にあったらしい。剣神社の西側辺りらしいのだが、この一帯は耕地整理が進んでいる上、東北自動車道が貫通しているので、往時の地形は大きく改変されており、城の正確な位置を確定することができない。拝見した城郭関係のサイトによれば、東北道のすぐ西側にある小さな林、或いはそこから東北道を挟んで南東にある民家付近が下長井城の一部であるとされる。しかし昭和20年代の航空写真を見ても、既に城館らしい痕跡は認められない上、現地を確認しても、いずれの候補地も確実に遺構であるとは言い難い。ただ、強いて言えば、前者の小さな林の方にはわずかな土盛りがあり、その上には祠があるので、城跡っぽい感じがする。とりあえずここでは、この林を城跡としておきたい。
 尚、この林の西方250mのところに、長井次郎安藤太の五輪塔が立っている。
長井次郎安藤太の五輪塔→DSCN5436.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所(推定地):https://maps.gsi.go.jp/#16/36.813013/139.908217/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


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川崎新城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5402.JPG←大型の横堀
 川崎新城は、塩谷氏の居城川崎城のある丘陵北端に築かれた城である。川崎城の防衛を強化するために、新しく取り立てられた城と思われる。城と言うが、実際には出砦レベルの小城砦で、堀江山城の様に独立性の高い城ではない。おそらく薄葉ヶ原合戦の頃に、那須氏との間で軍事的緊張が高まった時期に構築したのであろう。

 現在、城の中心部を南北に東北自動車道が貫通しているため、大きく破壊を受けている。東北道の東西に残る丘陵地に遺構が残っているが、今回は東部分のみ踏査した。北東中腹に川崎神社があり、その背後の丘陵上に遺構が眠っている。遺構としては、北斜面に段々に築かれた曲輪群がほとんどであるが、中腹に大きな横堀が穿たれている。この横堀は、幅広で且つ高低差が大きく、その規模から推測して鉄砲戦を想定したものと考えられる。山上は薮がひどく、そこから南側の踏査は断念した。東北道建設で中心部が破壊されているので、遺構は断片的ながら、新城を取り立てた意図は察せられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.791605/139.916843/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


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川崎城南の大堀切(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5359.JPG←堀切から落ちる竪堀
 川崎城の南、堀江山城との中間地点には大堀切が穿たれている。おそらく出城の堀江山城が敵に落とされた際に、尾根伝いに川崎城を攻撃されるのを防衛するためのものであろう。
 尾根に穿たれた堀切は、そのまま東西の斜面に長い竪堀となって落ちている。特に東側の竪堀は、両側に竪土塁も築かれており斜面移動の制約を意図していることがわかる。喜連川塩谷氏との抗争の中で、築かれたものであろうか?近接する2城を分断する堀切というのは、類例が少なく貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.784576/139.922680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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堀江山城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5233.JPG←西側の横堀
 堀江山城は、塩谷氏の居城川崎城の支城である。源姓塩谷氏の初代頼純(堀江頼純)が、12世紀初め頃に摂津国堀江荘から下野国塩谷荘に流罪となり、館ノ川に築城したのが始まりとされる。しかしこの時の城は平城で、現在の城の西側、山地の谷間に背後の山を防壁とし、前面に堀を設けた馬蹄形の館だったと推測されている。従って、現在残る山城遺構がいつ構築されたものかは、不明である。尚、御前原城が頼純の居城であったとの説もある。頼純が義父原重房に討たれると一時廃城となったが、陸奥国へ逃れていた頼純の子惟純が本領の塩谷荘に復帰し、塩谷氏を継ぐと城を再興した。源姓塩谷氏が断絶し、宇都宮業綱の次男朝業が入嗣して塩谷氏を継ぐと(藤姓塩谷氏)、新たに川崎城を築いて居城とし、以後堀江山城は川崎城の支城となった。その後の歴史は定かではないが、1595年に川崎城と共に廃城となったと言う。

 堀江山城は、川崎城のある丘陵の南続きにあり、川崎城から南東約700mの比高50m程の山上に築かれている。南の車道から山林内に入れば、もう城域である。堀江山城は、山頂に主郭・二ノ郭の2段の平場を築いている。主郭内は後部に向かって高くなっており、全体に傾斜している。主郭の東側は崩落しているが、それ以外の外周には横堀・腰曲輪が廻らされている。横堀は西面から北面まで伸びている。西面では更にその下方にも横堀があり、二重横堀の防御ラインとなっている。主郭・二ノ郭の南側の腰曲輪に対しては、主郭・二ノ郭から塁線が張り出し、横矢を掛けている。この他、南東と南に2つの長い竪堀が落ちており、特に南東のものは両側に腰曲輪が連なり、城内通路であったことがわかる。
 堀江山城は、コンパクトな平山城であるが、横堀や横矢掛りなど、戦国後期の様相を見せている。遺構はよく残っているが、未整備の山林が少々荒れているのが難である。

 尚、川崎城と堀江山城を繋ぐ丘陵の中間部には大堀切が穿たれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.782566/139.924289/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


梅花一枝 塩谷朝業と右大臣・源実朝

梅花一枝 塩谷朝業と右大臣・源実朝

  • 作者: 原沢 晃一
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2020/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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境林城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5195.JPG←大空堀
 境林城は、滝原台大溝とも呼ばれ、謎の城郭遺構である。塩谷氏の居城川崎城南方を守る出城であったと推測されている。築城時期も不明で、1559年に結城晴朝が川崎城を攻撃した際に築いたとする説、1566年に叔父喜連川塩谷孝信に父塩谷由綱を殺され、川崎城を奪われた塩谷義綱が、長期間川崎城を包囲して奪還した際に本陣として築いたとする説が提示されている。城の管理は一帯の領主大沢氏が任され、1595年に川崎城と共に廃城になったと考えられている。

 境林城は、近年各地で注目されている、城として完結した縄張りを持たない、中途半端な遺構を持つ異形の城である。川崎城の南東1.8kmに位置し、標高225m、比高50mの独立丘陵の北半に築かれている。城の南東に畑地があり、その奥の小道を少し進めば大空堀に行き当たる。大きな空堀遺構で、北西に伸びる丘陵地の背後を分断するように穿たれている。1/25000国土地理院地形図の225.3mの三角点は、この空堀外周の台地上にある。大空堀は、南端部で弧を描いて丘陵南側に回り込み、その先で塁線がほぼ直角に折れて張り出している。張出し部の先では腰曲輪となっている様で、台地の南側に明確な切岸で区画され、延々と腰曲輪状の平場が北西に伸びている。しかし先端に行くに従い、切岸が不明瞭となり、台地と一体化してしまう。これらの空堀・腰曲輪で守られた台地は、広大な平場が広がっているだけで、空堀部の内側に一部土塁が見られるものの、他は明確な普請の跡は見られない。非常に謎の多い遺構である。
切岸と腰曲輪→DSCN5176.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.775622/139.933602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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岡城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5079.JPG←主郭外周の横堀
 岡城は、天正年間(1573~92年)に川崎城主塩谷氏の家臣岡民部兼定の居城であったと伝えられる。兼定は、1585年に宇都宮氏と那須氏が激突した薄葉ヶ原合戦で、塩谷義綱の麾下で参陣している。塩谷氏改易後は宇都宮氏の家臣となったと言う。

 岡城は、比高わずか10m程の台地上に築かれている。東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭と連ねた縄張りだったらしいが、現在は二ノ郭・三ノ郭は民家・畑と工場などに変貌して改変されており、明確に残っているのは主郭だけである。城域東端の腰曲輪は、現在城山霊園という小さな墓地になっているが、その脇に主郭の切岸がそびえ、墓地の奥には主郭外周を廻る横堀が見える。主郭は南東に土塁を築き、前述の通り東・北の外周を横堀で防御している。南東には帯曲輪も確認できる。しかし主郭西側の形状はあいまいで、段差や切岸などが散見されるが構造がはっきりとは捉えきれない。また二ノ郭の途中までは残存しているように思われ、堀切状の溝地形が山林の際に確認できる。訪城は簡単であるが、城内は薮が比較的多いのが残念である。
主郭の土塁→DSCN5114.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.770380/139.952742/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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藤倉山城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5055.JPG←主郭背後の空堀
 藤倉山城は、大槻城とも言う。1559年、乙畑城に侵攻してきた結城晴朝に対抗するため、乙畑城の支城として築かれたと推測されている。しかし乙畑城将の乙畑孫四郎(川崎城主塩谷孝綱の子)が討死にして乙畑城は落城し、藤倉山城もそのまま廃城になったと考えられている。

 藤倉山城は、比高わずか20m程の丘陵南端に築かれている。神社の背後にある山で、登道はないので適当に斜面を直登して訪城した。単郭の小城砦で、南に向かって広がった扇形状の主郭を持ち、斜面に面した南東以外の三方を北・西は空堀、東は腰曲輪で防御した縄張りとなっている。また主郭内は緩斜面の平場となり、後部に低土塁を築いている。この他、主郭の北東の谷部に平場があり、これも城の一郭であったと推測される。いすれにしても、一時的な陣城だったものと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.733983/139.934460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
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風見城(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5006.JPG←東護神社周囲の土塁状の土盛り
 風見城は、宇都宮氏の家臣風見氏の居城と伝えられる。風見氏は、宝治合戦で滅亡した三浦泰村の一族大須賀十郎左衛門嗣胤が宇都宮氏を頼ってその家臣となり、その子孫がこの地に築城して風見氏を称したと伝えられる。『宇都宮興廃記』では、1351年、上野国那波荘の合戦で討死した武士の中に風見新右衛門尉胤重の名が見える。この那波荘の戦いについては、船生城の項に記載する。また1380年、小山義政が宇都宮基綱を敗死させた裳原の戦いでは、その先手の軍勢に風見源右衛門の名が見える。その後も風見氏は代々宇都宮氏に仕えたが、1597年に宇都宮氏が改易となると没落して、風見城も廃城になった。

 風見城は、鬼怒川北岸の標高270m、比高50m程の丘陵東端の峰(明神山)にあるとされる。ここには東護神社が鎮座しており、境内周囲には土塁のような土盛りが見られるが、遺構かどうかは明確にできない。『日本城郭大系』では遺構としているが、神社建設に伴うものである可能性も高く、なんとも言えない。いずれにしても、単郭の小城砦で、単なる物見の砦の様に思われる。尚、いつも参考にしているHP「栃木県の中世城郭」では、北西の山腹に城郭遺構らしきものがあり、そちらが真の風見城ではないかとしている。機会を改めて確認したいと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.735393/139.858607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東国武将たちの戦国史: 「軍事」的視点から読み解く人物と作戦

東国武将たちの戦国史: 「軍事」的視点から読み解く人物と作戦

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2015/09/29
  • メディア: 単行本


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大宮城(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4765.JPG←主郭西側の堀切
 大宮城は、宇都宮氏の家臣大宮氏の居城である。大宮氏は、下総の名族千葉常胤の孫大須賀嗣胤の曾孫胤景が、南北朝期に宇都宮公綱よりこの地を賜り、西ノ山に大宮城を築いて大宮氏を称したことに始まる。胤景は、1351年に上野国那波荘の合戦で討死した。この那波荘の戦いについては、船生城の項に記載する。また1380年、小山義政が宇都宮基綱を敗死させた裳原の戦いでは、その先手の軍勢に大宮兵部右衛門尉の名が見える。その後も大宮氏は代々宇都宮氏に仕えて大宮城を居城とした。『宇都宮興廃記』には、1585年に大宮城を再建したとあるので、この時に大規模な修築が行われたと推測されている。1597年に宇都宮氏が改易になると廃城となった。

 大宮城は、比高25m程の独立丘陵の東半部に築かれている。城域西側は日々輝学園高校のグラウンド造成で削られているため、遺構の一部が消滅しているが、大半の遺構はよく残っている。規模の大きな城で、大きく3郭から成るらしい。現地解説板の略図では、北西に主郭、その南に二ノ郭、東側に三ノ郭を配置しているとされるが、実態としては主郭と三ノ郭は入れ替わるのが正しいのではないかと思われる。即ち、北西が三ノ郭、その南に二ノ郭、東側に主郭という配置である。主郭は稲荷神社があり、外周に土塁が築かれている。東西を堀切で分断し、西側に虎口を設け、虎口に対して北側から横矢の張出しを設けている。主郭の北と南には腰曲輪を築いている。主郭西側の二ノ郭は、北側に土塁と空堀を築き、北東部に櫓台を設け、そこから北東に土塁が伸びている。この土塁の両側は空堀で、主郭と三ノ郭を分断する二重堀切となっている。二ノ郭南には横堀、その外側に土塁が築かれ、土塁西端部は櫓台らしい土壇となっている。この南西には麓に向かって降るクランクした城道があり、大手道であったらしい。三ノ郭は、いくつもの段で構成される曲輪で、西側が前述の通りグラウンド造成で削られているので、全貌は明確ではない。北側に土塁を築き、その外に「く」の字に折れた乾の大堀という空堀が穿たれている。乾の大堀の北西には古墳群がある。この他、主郭の東には城域東端の曲輪があり、愛宕神社が鎮座している。ここも数段の平場で構成され、社殿の背後にはクランクした掘切がある。東下方に忠霊塔の立つ腰曲輪が置かれている。
 以上が大宮城の概要で、この地域では規模が大きく、統治拠点的な城だったと思われる。遺構もしっかりしているが、全体に薮が多いのが残念である。
三ノ郭北側の乾の大堀→DSCN4801.JPG
DSCN4855.JPG←大手道

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.741928/139.870023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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玉生城(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4684.JPG←外側のクランクする横堀
 玉生(たまにゅう)城は、宇都宮氏の有力支族である川崎城主塩谷氏の支城である。歌人武将として名高い塩谷朝業の曾孫忠景が弘長年間(1261~4年)に築いたと言われる。忠景は玉生氏を称し、以後歴代の居城となったが、後に宇都宮氏に直属したらしく、いつの頃からか玉生氏は岡本城に居城を移したと言う。しかし玉生城はその後も存続し、1597年の宇都宮氏改易の際に廃城となったと言う。

 玉生城は、玉生宿北西に張り出した比高40m程の要害山に築かれている。主郭には伯耆根神社があり、参道が整備されているので、訪城は容易である。切岸で区画された主郭・二ノ郭から成る小城砦であるが、縄張りはなかなか技巧的である。二ノ郭の周囲には横堀・腰曲輪が廻らされ、南側の横堀の東端は直角に折れて竪堀となって落ちている。また横堀・腰曲輪の外周にも、更に横堀が穿たれており、前述の腰曲輪が横矢の張出しとなっており、横堀はクランクしながら竪堀状に降っている。この横堀の東端も直角に折れて竪堀となって落ちており、前述の竪堀との間は城内通路で繋がっている。二ノ郭からこれら2つの横堀に通じる坂虎口がはっきりと残っている。主郭は、前述の通り神社があるが、社殿背後には大土壇があり、祠が祀られている。櫓台であったのだろう。遺構としては以上で、比高は低く規模も小さいが、横堀竪堀のネットワークは見応えがある。
二ノ郭南側の竪堀・横堀→DSCN4700.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.777289/139.847170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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船生城(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4569.JPG←二ノ郭の横堀
 船生(ふにゅう)城は、宇都宮氏の家臣君島氏の居城である。君島氏では、1351年に上野国那波荘で討死した君島備中守綱胤が知られる。この那波荘の戦いは、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱に関係したもので、駿河の要衝薩埵山に布陣した尊氏を支援するため、宇都宮氏綱は大軍を率いて宇都宮城を発した。12月5日のこととされる。同月19日、直義党の桃井播磨守直常・上杉氏家臣の長尾新左衛門尉景泰の軍勢を那波荘で撃破して進軍した。『太平記』では第30巻に「那和軍の事」と、わざわざ1章を割いて記載している。こうして宇都宮勢は諸国の軍勢を糾合しながら敵勢を駆逐しつつ、武蔵・相模を経由して足柄山に進出した。そして足利直義の軍に背後から迫って潰走させ、尊氏の勝利に大きく貢献した。その後鎌倉府の体制を刷新した尊氏は、宇都宮氏を上野・越後の守護とし、芳賀氏をその守護代に任じて、両者を鎌倉府の中核に据えた「薩埵山体制」を構築している。その後も君島氏は代々宇都宮氏に仕えたが、1597年に宇都宮氏が改易となると廃城になった。

 船生城は、船生市街の西側にある標高360m、比高80mの山上に築かれている。主郭に高圧鉄塔が立っているので、よい目印になる。私は船生小学校の裏から、北西に斜面を直登して尾根に至り、そこから尾根伝いに西に向かって城に登った。山頂の主郭と北に二ノ郭、西に三ノ郭を配した比較的小規模な城である。主郭と二ノ郭の間は横矢のクランクを設けた堀切で分断され、二ノ郭外周は横堀・帯曲輪で囲繞されている。またニノ郭は前後に土塁を築いている。三ノ郭は、主郭との間は自然地形の斜面だけで、区切りは明確ではない。曲輪内も削平が甘いが、先端に土塁と堀切を築いて、尾根筋を分断している。主郭は特に土塁はないが、前述の通り二ノ郭に対しては横矢の張出しがあり、虎口の脇に櫓台を設けている。主郭東側には腰曲輪が置かれ、東尾根に対して堀切を穿っている。主郭の南尾根には堀切がなく、自然地形のまま続いているが、少し先に虎口が築かれている。この他、東・北・西の尾根の先にはわずかに形が分かる程度の小堀切がある。遺構は以上で、良好に残っているものの、縄張りには防御の甘い部分も見られ(特に南尾根)、城としてはやや未成熟な印象を受ける。
主郭の櫓台の張出し→DSCN4610.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.769933/139.782175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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神長南要害(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4116.JPG←主郭の土塁
 神長南要害は、歴史は伝わっていないが、その位置関係から神長北要害と共に那須氏の本城烏山城の西方を防衛する支砦と考えられている。

 神長南要害は、神長北要害の南南東約800mの位置に築かれている。神長トンネルの西側入口のすぐ南の丘陵上で、南尾根の車道から廃墟となった天文台に至る小道を歩いていけば、廃天文台の少し先の茂みの中に堀切が現れる。北要害と同様、南北2郭から構成され、北の主郭の周囲に横堀が穿たれていることも北要害と共通している。主郭内は、西面以外は低土塁を築いて防御している。堀切を挟んで南に二ノ郭があるが、ニノ郭は削平が甘く、傾斜の多い地形である。二ノ郭の南にも堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、主郭の北西尾根にも浅い堀切が穿たれている。南要害は、北要害より広いがメリハリがない普請で、求心性も乏しく緊張感があまり感じられない。その縄張りの違いから、北要害と南要害との間に、それぞれ役割に違いがあったことが推測される。
主郭外周の横堀→DSCN4172.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.659210/140.139788/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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