SSブログ

山際楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7817.JPG←主郭背後の堀切
 山際楯(山際館)は、奥州管領(後の奥州探題)として奥州に下向した斯波家兼(大崎氏の祖)の家臣湯山宗節が一時居城したと伝えられている。

 山際楯は、JR川渡温泉駅の北東約600mの位置にある、西に向かって突き出た標高194mの山稜上に築かれている。城のある山稜の北から西を小河川が流れ、天然の堀となって機能している要害地にある。城の北側を通る県道から沢筋に降り、渡渉しやすい部分を渡って急斜面をよじ登って、尾根上に達する。そこから尾根を東に向かって登っていけばよい。最初は自然地形の細尾根だが、暫く歩くと曲輪らしいやや広い平場に至る。更に登っていくと堀切が穿たれている。堀切背後に段曲輪が一段あり、その上に主郭が築かれている。主郭は菱形に近い形状の曲輪で、後部に土塁を築いている。主郭背後には堀切が穿たれ、その先は自然地形の尾根となるが、少し進むと堀切と段曲輪が築かれている。その上は自然地形に近いが、物見郭となっている。物見郭の背後に堀切が穿たれている。おそらくここまでが城域だろう。また物見郭の南側下方には2段の腰曲輪が築かれ、前述の堀切から落ちる竪堀は、腰曲輪に繋がっている。この他、登ってきた尾根の西端には、堀切状の鞍部を介して物見らしい峰があるが、あまりに藪が酷く、遠目に眺めただけで踏査できなかった。以上が山際楯の遺構で、有事の際の詰城的な小城砦であった様である。おそらく南麓の平地に城主居館があったのだろう。
主郭後部の土塁→DSCN7860.JPG
DSCN7802.JPG←最初の堀切から落ちる竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.739691/140.785793/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


室町幕府と東北の国人

室町幕府と東北の国人

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/10/30
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

箕ノ口楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7700.JPG←主郭西側の堀切
 箕ノ口楯(箕ノ口館)は、『日本城郭大系』では巳口城と記載され、この地の豪族狩野氏の歴代の居城である。狩野氏は、真坂楯を本拠とし、一迫川流域一帯を支配した豪族で、その事績は真坂楯の項に記載する。箕ノ口楯は、真坂楯主狩野氏の一族狩野兵庫頭為直が1190年に築いて居城としたと伝えられるが、築城時期は室町時代まで降る可能性も考えられる。城の南東麓にある城国寺には楯主狩野氏の墓があり、墓碑に箕ノ口狩野氏の事績が刻まれているが、室町・戦国期の記述には不明点が多い。いずれにしても、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易となると狩野氏も没落した。

 箕ノ口楯は、標高190m、比高90m程の山上に築かれている。南麓の道路沿いに城址(遺跡)標柱があり、その奥から登れそうだったのでそこから登ったが、斜面直登で少々大変だった。後でよくよく調べてみたら、城国寺の裏に東尾根が伸びてきており、尾根途中には高圧鉄塔も建っているので保守道があるはずであり、城国寺裏から登る方が正解だった様だ。箕ノ口楯は、山頂に南北に長い主郭を置き、外周に腰曲輪を廻らしている。主郭の南東部は一段低い平場となって東側に張り出しており、横矢を意識している。腰曲輪は基本的に1段だが、南東部だけ数段の腰曲輪群が連なっている。その先は城国寺裏に伸びる東尾根で、こちらに大手があったと思われる。城内に入ったところで雨が降ってきたので、東尾根は踏査しなかったが、途中に堀切があるらしい。一方、主郭の西と北西に張り出した尾根には堀切を挟んで出曲輪が築かれている。西の堀切は幅広の浅い箱堀で、腰曲輪兼用の堀切である。北西の堀切は浅い薬研堀である。西と北西の出曲輪は、いずれも先端部が自然地形で切岸がないので、先端の境界がはっきりせず、普請がアバウトである。この内、北西の出曲輪では、曲輪内に塚の様な土壇を築き、南辺には帯曲輪を配置している。また城から北に伸びる尾根に対しても堀切が穿たれている。以上が箕ノ口楯の遺構で、藪払いがされているので遺構は見やすいが、あまり技巧性のある縄張りの城ではなく、見所が少なくて少々残念である。
主郭切岸と腰曲輪→DSCN7719.JPG
DSCN7747.JPG←北尾根を分断する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.769125/140.866152/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

秋法楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7623.JPG←主郭手前の腰曲輪群
 秋法楯(秋法館)は、この地の土豪秋法氏の居城と考えられている。また別説では、城主は橘遠江とも言われる。いずれにしても詳細は不明である。

 秋法楯は、丘陵北西端に張り出した標高125m、比高40m程の小山に築かれている。明確な登道はないが、比高わずか40m程なので、適当に取り付きやすい北斜面を直登した。山上に主郭を置き、北側斜面に3~4段の段曲輪・腰曲輪を築いただけの小城砦である。主郭は藪が酷く、ほとんど形状を追うことができない。主郭背後もド薮で、アプリのスーパー地形で見る限り、背後の尾根を分断する堀切が穿たれていると思われるが、藪が酷くて明確には確認できなかった。大手は北東にあったらしく、この方向に段曲輪が続いている。城址標柱が、西麓の車道脇に立っている。
主郭背後の堀切らしい地形→DSCN7650.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.798363/140.905527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

保呂羽楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7479.JPG←主郭の天守台らしい土壇
 保呂羽楯(保呂羽館)は、計須見館とも言い、二迫氏が城主であったとも、或いは無冠太夫伯元の居城であったが安部貞任に攻め落とされたとも伝えられる。現地の城址標柱の解説文には、1499年の『薄衣状』(薄衣城主薄衣美濃入道が大崎氏の内紛に巻き込まれて葛西軍の攻撃を受けた時、薄衣氏が伊達尚宗に支援を要請した書状)にかすかにその存在を示していると言う。

 保呂羽楯は、標高200m、比高150mの山上に築かれている。北東に尾根が長く伸びた山なので、まともに登ると結構な時間を要するが、幸いにも東麓の貯水池脇から林道が通っており、この道で城近くまで車で登ることができる。この道は未舗装路だが、きれいに整地された道で、普通の乗用車でも困難なく通ることができる。この道が東向きから西向きに大きく180度向きを変える部分の横に竪堀の様な地形が藪の中にあるが、実際にこれは主郭群背後の堀切から落ちる竪堀で、この竪堀沿いに登っていけば城域に達する。保呂羽楯は一城別郭の城で、西の主郭群と東の二ノ郭群とで構成されている。いずれも頂部に広い曲輪を置き、外周に腰曲輪を廻らしている。二ノ郭では腰曲輪は1段で、南東の尾根に向かって竪堀状の虎口があり、尾の尾根が大手だった様である。また二ノ郭腰曲輪の北側には舌状曲輪が張り出し、その先端から北西の尾根に2段程の段曲輪が置かれている。二ノ郭群と主郭群の間は浅い堀切で区画されている。主郭群は、頂部の曲輪の外周に3段程の腰曲輪を廻らしている。主郭内には天守台か櫓台らしい土壇が築かれ、その脇には祠が祀られている。主郭群の背後(西側)には鞍部の曲輪があり、この曲輪はいくつかの段に分かれ、西側に土塁が築かれている。土塁の外には城域西端の堀切が穿たれている。以上が保呂羽楯の遺構で、城内には西尾根から主郭に至る作業林道が通るが、破壊は最小限に押さえられている。また城内は綺麗に藪払いされており、遺構が見やすい。無名にも関わらず非常にきれいな城跡で、おすすめである。
 尚、城址標柱は、城からかなり離れた北東麓の車道脇に立っている。
二ノ郭切岸と腰曲輪→DSCN7517.JPG
DSCN7551.JPG←二ノ郭群北の舌状曲輪
城域西端の堀切・土塁→DSCN7451.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.818930/140.914346/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

臥牛楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7316.JPG←三重堀切の内堀
 臥牛楯(臥牛館)は、大崎氏の家臣石川蔵人の城と伝えられている。それ以外の歴史は不明であるが、その普請の規模と構造から推測して、戦国時代の城であることは疑いないだろう。

 臥牛楯は、八幡楯南東の標高90mの峰に、八幡楯とすぐ隣接して築かれている。屯岡八幡神社の南の参道が、南の尾根上に達したところに鳥居が立っているが、そこから参道を東にそれるとすぐに尾根を断ち切る大きな三重堀切が現れる。この堀切は面白い構造で、尾根から南側は三重堀切だが、尾根の北側は中堀がなくなって二重堀切となっている。また内堀は深い薬研堀で、完全に八幡楯側と分断している。この堀切の東側に二ノ郭があり、更に堀切を介して南東に主郭が置かれている。主郭の周囲には腰曲輪が築かれている。臥牛楯は横堀・竪堀を多用した城で、主郭~二ノ郭間の堀切から北に落とした竪堀には、主郭の北面から東面にかけて穿たれた横堀と二ノ郭北側下方の横堀が段違いに接続している。また主郭の南東部では、外周の横堀から腰曲輪を分断する様に東に竪堀を落とし、その左右に段違いに横堀を繋げている。この段違いの横堀は、それぞれ主郭周囲の腰曲輪の下方に構築されている。主郭の側の腰曲輪では、南西部の土塁の脇に竪堀が落ち、また主郭下方を南西に降る尾根にも、尾根と平行に竪堀が落ちている。藪が酷いのでわかりにくいが、どうも尾根の両側に竪堀が落ちている様である。
 臥牛楯は、主郭の北東から東面にかけて二段の横堀を配置して防御を固めており、この方面からの攻撃を強く意識している。また横堀は竪堀と接続されて堀のネットワークを形成し、戦国後期の巧妙な縄張りを見せている。

 尚、隣接する八幡楯と比較すると、堀などの構築の規模と構造が全く異なり、八幡楯が戦国時代以前の古い城砦であるのに対して、臥牛楯が設計の新しい城であることがよく分かる。この様に築城時代の違いが如実にわかる城が隣接して存在する例は、極めて珍しい。
 ちなみに、山の形などを形容した名称「臥牛」が、城の別称ではなくそのまま正規の城名になっている珍しい例でもある。
竪堀に繋がる二ノ郭横堀、腰曲輪→DSCN7328.JPG
DSCN7368.JPG←南東の竪堀と横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.811924/140.996164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


歴史家の城歩き

歴史家の城歩き

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/05/22
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

八幡楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7220.JPG←主郭北側外周の横堀
 八幡(やわた)楯(八幡館)は、屯岡(営岡)陣営地とも言い、前九年の役の際に源頼義・義家父子が陣営を置いた場所と伝えられている。古くは延暦年間(782~806年)に坂上田村麻呂が、蝦夷征討の際に軍団を駐屯させた所とも言われる。前九年の役では、源頼義は奥六郡を支配した俘囚の長安倍貞任を討伐しようとしたが、貞任の強豪な大軍の前に苦戦を強いられ、劣勢を挽回するために出羽の豪族清原光頼を味方に付けようと画策した。そして1062年、遂に光頼は頼義の味方に付くことに決し、弟の清原武則を総大将とする大軍を派遣した。この時、頼義が陣営を置き、武則の援軍を集結させたのがこの屯岡であったと伝えられる。
 一方でこの付近一帯は、南北朝時代に行われた合戦の舞台ともなった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城(大原木楯か?)を築いたと言う。この地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行い、北朝方が南朝勢を討ち破り、敗れた北畠顕信は出羽方面に逃れた。この三迫合戦で南朝方が築いた「二迫のやハた」とは、おそらくこの八幡楯のことと推測される。

 八幡楯は、標高100m、比高60~70m程の丘陵上に築かれている。現在山頂の主郭には屯岡八幡神社が建っており、南麓から参道が整備されているが、城の遺構を見るなら西尾根の登道から登ったほうが良い。栗駒中学校の東側に尾根上に登る階段があるので、そこを登って尾根上の小道を東に進めば、すぐに右手に円弧状の堀切が現れる。かなり広い範囲を城域としており、この最初の堀切は主郭から300m近く西に離れている。堀切の南側は竪堀となって落ち、堀切の前面には堡塁・土塁が構築され、前述の小道の左手には腰曲輪らしい平場もある。その先はしばらく自然地形の尾根が続くが、1本目の堀切から200m程進むと、土塁を伴った虎口が現れ、その前面両翼には堀切が穿たれている。ここから東側が城の中心部で、平らな幅広の尾根の両側には何段かの帯曲輪群が確認できる。更に東に進むと、周囲より1段高くなった主郭に達する。神社が鎮座する主郭は、長円形に近い形状の曲輪で、北西部に低土塁が築かれている。主郭の北半の下部には横堀が延々と穿たれている。その下にも何段かの帯曲輪が築かれ、やや北に降った山腹に2本目の横堀が穿たれている。この横堀は、瓢箪型に緩やかな弧を描きながら、延々と主郭東の尾根まで伸びている。この長い横堀の下方にも何段も帯曲輪があり、とても全部を確認することはできなかった。また横堀の東端部は東尾根の段曲輪群に至っている。但し東尾根の曲輪軍は藪が多くて、形状をあまりはっきりと捉えることができない。主郭の南側は参道整備などで改変を受けている様だが、帯曲輪らしい平場が残っている。主郭南の尾根はほとんど自然地形である。
 尚、南尾根の先から南東に伸びる尾根上には、八幡楯にすぐ隣接する形で臥牛楯が築かれている。両者を比較すると、堀などの構築の規模と構造が全く異なり、八幡楯が戦国時代以前の古い城砦であることがよく分かる。この様に築城時代の違いが如実にわかる城が隣接して存在する例は、極めて珍しい。
西尾根の1本目の堀切→DSCN7163.JPG
DSCN7183.JPG←2本目の堀切と虎口
山腹の横堀→DSCN7240.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.813780/140.994684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/29
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

金成楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7099.JPG←西館の大土塁
 金成楯(金成館)は、金田城とも言い、金売吉次(橘次)伝説の残る城である。伝承では前九年の役の最中の1056年に、源頼義・義家父子が安倍氏討伐の陣場として金田城を築き、その鎮護のために金田八幡神社を勧請したのが始まりとされる。戦役が終わり、頼義父子が都に戻る際に、清原成隆を金田八幡神社の神官として残るように命じた。その後奥州藤原氏の庇護を受け、平安後期に畑村に住む炭焼藤太夫婦の子、橘次・橘内・橘六の3兄弟が藤原秀衡の命により、八幡社の近くに東館・南館・西館を構えて居住した。3人共黄金を京都で売りさばき富豪となった様で、特に長兄の金売橘次は有名で、1174年、鞍馬寺で牛若丸(源義経)と出会い、平泉の秀衡の所へ案内する途中、自分の館・東館に義経を泊めており、義経は金田八幡に詣でて平家追討を祈願したと言う。しかし金売吉次自体の実在が疑わしく、これらの話はもとより伝説に過ぎない。一方、戦国期には、葛西氏の家臣金成内膳が居住したと言う。

 金成楯は、標高50m、比高30m程の西に突き出た丘陵一帯に築かれている。金田八幡神社の南にあるのが東館で、南北に長い尾根に築かれ、最も城域が広く、中心的な城である。東館から西に伸びた尾根の先にあるのが南館、更にその北西にあるのが西館と思われる。登道は東館の南麓と北麓にあり、南麓の登り口には解説板が立っている。これを登っていくと、東館に至る。頂部の主郭と思われる平場はガサ薮が酷いが、削平された平場になっており、北東には二ノ郭らしい平場も確認できる。但し、主郭に板碑や墓石があるので、改変を受けているかもしれない。北に伸びる尾根の先端には金田八幡神社があり、主郭の西側には宮司の元居宅らしい民家があるが、現在は無住の様である。民家の平場も東館の一郭であったかもしれない。東館で一番明確なのは、南尾根に穿たれた堀切で、西側に長い竪堀となって落ち、前述の登り道の脇に落ちてきている。
 東館から西に尾根を進むと、藪の中にいくつかの平場が見られ、その先に堀切が穿たれている。南館との間を画する堀切と思われる。南館には頂部に主郭と思われる切岸で囲まれた高台があるが、藪がひどくてほとんど形状がわからない。
 南館から北西にガサ薮を進んでいくと、突然視界が開け、高さ5m程の高台がそびえている。これが西館で、南北に長い主郭を持ち、後部には高土塁を築いている。主郭の東西には腰曲輪が築かれているが、特に斜度の緩い西側は広い曲輪群が何段か築かれている。主郭の南西端からこの腰曲輪に向かって、土塁状の坂土橋が伸びている。
 以上が、金成楯の遺構で、一番綺麗に残るのは西館で、ここだけ藪払いされた綺麗な山林に覆われている。他の館はがさ藪が酷く、辟易してしまう。
東館の南尾根の堀切→DSCN7016.JPG
DSCN7075.JPG←東館と南館を画する堀切
西館の腰曲輪群→DSCN7119.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.814666/141.082896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


義経伝説をゆく―京から奥州へ

義経伝説をゆく―京から奥州へ

  • 出版社/メーカー: 京都新聞出版センター
  • 発売日: 2020/09/14
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

雨生沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6987.JPG←神社背後の堀切の名残
 雨生沢城は、雨生沢将監の居城と伝えられる。後には岡左衛門が居住したとされる。

 雨生沢城は、比高わずか5m程の、舘神社のある低台地に築かれている。遺構はわずかで、神社社殿背後に堀切1本の名残が見られるだけである。元々は三重堀切だったとされるが、神社のある主郭の裏は宅地になっているので、湮滅したのであろう。かなり残念な状況である。往時は低湿地帯に囲まれた浮島のような城だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.633467/140.939409/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柳沢大楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6887.JPG←主郭背後の大堀切
 柳沢大楯(柳沢大館)は、大楯城とも呼ばれ、大崎氏の家臣柳沢和泉守の居城と伝えられる。1591年、伊達政宗による葛西大崎一揆討伐の際に落城したと言う。尚、城主については、『日本城郭大系』では笠原七郎と言い、『陶芸の里 みやざきの文化財』では柳沢紀伊・同近江・同七郎(後伊豆)・同備前の居城と伝える。柳沢氏は笠原氏の一族であった様である。

 柳沢大楯は、宮崎城の東方約1.4kmの標高160m、比高80mの山上に築かれている。広い主郭を持つ城で、その規模は加美郡内で第一位とされる。南東麓の民家に通じる車道脇に城址標柱があり、その先に進み、一番奥の民家の裏に山へ入る山道が付いている。この道を辿って北へと登っていけば、やがて3~4段程の小郭群が現れる。従ってこの山道が大手道であることがわかる。但しこの小道は草木が多く、踏み跡がわずかなので、夏場は見出すことが困難であろう。小郭群を横目に大手道を登っていくと、左手に竪堀が見え、右手には上の段に登っていく桝形虎口が築かれている。桝形虎口の奥には櫓台が築かれ、城道はこの左手(西側)の腰曲輪へ迂回して奥に通じている。櫓台の背後には主郭に通じる土橋が架けられている。ちなみに櫓台の東側にも腰曲輪があるが、土橋に通じる部分に片堀切が穿たれ、動線を制約している。土橋の先は広大な主郭で、東側は急崖で囲まれているが、西側には腰曲輪が延々と築かれている。主郭の北西部には大土塁が築かれ、主郭の背後には深さ10m以上の大堀切が穿たれている。この大堀切は箱堀で、南西部は屈曲しながら西の谷に向かって深く落ちている。前述の主郭西の腰曲輪から深い横堀状の切通し虎口が、堀切に繋がっている。主郭にはこの上にだけ大土塁があるので、ここが防御の要の一つであったと思われる。大堀切の北西にも太鼓森と呼ばれる広大な平地が広がっている。この太鼓森の掘切沿いにだけ、桝形虎口と横堀・土塁の塹壕線が構築されている。横堀の中央部には土塁に通じる土橋も架かっている。以上が柳沢大楯の遺構の概要で、宮崎城がコンパクトに纏められた殺気立った実戦の城だったのに対して、広大な主郭は居住機能を優先させた城だった様に思われる。

 私見であるが、どうも太鼓森の広大な平場は、宮崎城に立て籠もった一揆勢の将兵の親類縁者の避難場所だったのではないだろうか。太鼓森は広大なのでちょっとしか見ていないが、城郭遺構があるのは主郭背後の大堀切沿いだけで、それ以外はただの平地が広がっているだけなのである。太鼓森入口に築かれた桝形虎口や塹壕線は、避難民たちを守る最後の防衛線で、柳沢大楯の主郭を蹂躙して迫り来る伊達軍の猛兵をここで必死に食い止め、避難民を逃がす時間を稼ぐため最後の抵抗をしていた様に思う。そう思うと、伊達勢に殲滅された悲劇の城であり、もの悲しい気持ちになった。
主郭に通じる土橋→DSCN6857.JPG
DSCN6879.JPG←主郭北西の大土塁
太鼓森の土塁・横堀の塹壕線→DSCN6933.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.621162/140.776674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

谷地森楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6791.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 谷地森楯(谷地森館)は、大崎氏の家臣笠原主膳(谷地森主膳)の居城である。笠原主膳は、柳沢文二郎とも呼ばれるらしい。主膳は葛西大崎一揆の激戦の一つ、宮崎城の合戦後、羽州山形に逃れ、その末裔は伊達氏に仕えたと伝えられる。

 谷地森楯は、鳥嶋楯の北西に隣接した丘陵上に築かれている。南の民家脇に小道があり、これを進めば城域に至る。この小道は、北の突き当りで東に折れて登っていくが、その先は尾根を貫通する切通しとなっている。この切通しは堀切の跡と思われる。この堀切から東が三ノ郭、西が二ノ郭と思われる。三ノ郭は先端が削られているので、往時の規模はよくわからないが、先端の物見台的な小郭だったと考えられる。二ノ郭は細尾根上の曲輪で、先端は前述の通り切通しとなった深い堀切で分断され、西の主郭との間も堀切で区画されている。この堀切は、主郭南北の腰曲輪を連絡する城内通路として機能していたことがわかる。また堀切の北端には枡形空間があり、北側からの登城道があったことが想定される。主郭は切岸で囲まれた長方形に近い形状の曲輪で、南北に腰曲輪を伴い、特に北の腰曲輪は広やかである。一方、南の腰曲輪は幅が狭いが、何段かの平場に分かれ、竪堀や竪堀状の虎口が構築されている。以上が谷地森楯の縄張りで、小規模な城砦ではあるが普請はしっかりしている。

 それにしても、この地域の城郭密度の高さは半端ではない。そもそも宮城県には城郭密度の高い地区が多いが、この地域も宮崎城を中心に笠原一族の城が林立しており、まるで一家に一城、持ち城があった感じである。もしかしたらこの地でのしきたりとして、庶子が分家して一家を立てると、近隣の親類縁者が総出で家を建てるように城造りをしていたのではないだろうか?そのようにでも考えなければ、 あまりの城の多さに説明がつかない様に思う。
 尚、城の西麓の民家の入口脇に城址標柱がある。
堀切北端の枡形空間→DSCN6792.JPG
DSCN6800.JPG←北側腰曲輪と主郭切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.604815/140.796651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鳥嶋楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6693.JPG←南郭~中2郭間の堀切
 鳥嶋楯(鳥嶋館)は、大崎氏の家臣北郷右馬允の居城と伝えられている。北郷氏は、一栗城主一栗弾正の一族であったと言う。右馬允は、1590年の葛西大崎一揆の際、佐沼城に入って大将の一人として伊達軍に抗戦し、討死したとも、桃生郡深谷に於いて惨殺された(須江山の惨劇)とも伝えられる。

 鳥嶋楯は、田川北方に連なる丘陵地の一角にある。標高80m、比高25m程で、城全体の形状は3本の指が前に突き出た鳥の足のような形状をしている。主郭と思われるのは鳥の足の付け根に当たる北西の曲輪で、場内最大の面積を持ち、ほぼ方形をしている。曲輪内部は削平されているが、周囲に土塁はなく、背後の切岸も甘く、随分と無防備な感じである。この主郭から東・南東・南の三方に、3本指に当たる曲輪が突き出ている。仮にこれらを東郭・中2郭・南郭と呼称する。主郭との間はいずれも堀切で分断されている。東郭では二重堀切となっており、また東郭の北側には横堀が穿たれている。中2郭と南郭は、主郭との間に小さな半円形の曲輪を置いている。ここではこれを中1郭と称する。中1郭は背後に主郭との間を分断する堀切を穿ち、前面の中2郭と南郭との間にもそれぞれ堀切を穿っている。中2郭と南郭の付け根部分の間も堀切で分断されている。またこれら3本指の曲輪の間には、ちょうど鳥の足の水かきのようになっており、ここも暗部の曲輪群となっている。この他、中1郭の西斜面にも腰曲輪群が築かれている。鳥嶋楯は、主郭と東郭以外は藪が多くて踏査が大変であるが、全体に堀切の規模が大きく、かなりしっかりと普請された城であることがよく分かる。尚、城の北西麓の車道脇に城址標柱が立っている。
主郭~東郭間の二重堀切→DSCN6612.JPG
DSCN6622.JPG←東郭北側の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.601210/140.798990/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


隠れた名城 日本の山城を歩く

隠れた名城 日本の山城を歩く

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/07/02
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

弥八ヶ館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6508.JPG←主郭南東の堀切
 弥八ヶ館は、大崎義隆の家臣渋谷新左衛門の居館と言われている。現地標柱には、「葛西氏時代に渋谷新左衛門の居館、大崎氏時代には侍大将木舟与惣右衛門の居館」と書かれているが、この地が葛西氏に支配されたことはないはずで、この内容には疑問がある。

 弥八ヶ館は、田川西岸の低台地の辺縁部に築かれている。田んぼの北側を通る未舗装路のすぐ脇の小高い台地にあり、2つ乃至3つの曲輪で構成されている。北西にあるのが主郭と思われ、西辺部に円弧状の堀切・土塁が築かれている。堀切南端の東側には虎口が確認できる。主郭の南東には土塁の先に堀切が穿たれている。その先に小さな笹曲輪があり、南西に腰曲輪が築かれている。笹曲輪の先も堀切が穿たれている。この堀切の底にはU字溝が敷設されており、改変があるが、堀切自体は往時の遺構と推測される。その南東には、縦長の台地が続いているが、城域かどうか判然としない。ほとんど自然地形に近いが、土塁状の地形もあり、外郭であった可能性もある。この台地の先端部は小川で区切られている。以上が弥八ヶ館の遺構の概要で、小規模な城館である。尚、前述の標柱は、館跡から北西に350m程離れた車道脇に立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593998/140.782832/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

駒場小屋楯(宮城県大衡村) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6403.JPG←主郭前面の二重堀切の内堀
 駒場小屋楯(駒場小屋館)は、鶴巣楯主黒川氏に属する児玉氏の居城と伝えられている。伝承では、児玉右近・同惣九郎と言う武士が2代に渡って天正年間(1573~92年)まで居住したとされる。児玉氏の詳細は不明であるが、元々関東武士の流れを汲み、隣接する大森地区の中楯城も支配していたと伝えられ、この地域一帯を領していた小豪族と推測されている。城は東北自動車道建設のため、昭和48年に遺構の一部が発掘調査され、建物跡や門跡などが確認されている。

 駒場小屋楯は、標高70m、比高30~40m程の丘陵上に築かれている。城の南東部は東北自動車道建設のため消滅しているが、全体の3/4程の遺構が残存している。この城へは、北西の谷筋から登るのがわかりやすい(数年前に北尾根からアプローチしたが、薮に阻まれ失敗した)。途中まで小道があり、この小道の入口(民家に通じる道との分岐部)には「駒場館跡」と書かれた解説板が立っている。小道は途中で消失しているが、奥に進むと小さな沢沿いに出て、それを越えて南に登ればすぐ城域に至る。駒場小屋楯は、長方形の主郭を中心とする主郭群と、その南東の小丘に築かれた副郭群から構成されている。主郭群は、主郭の南北に幅の広い二ノ郭(北二ノ郭・南二ノ郭)を築き、主郭はその上に高さ7~8m程の大切岸でそびえている。主郭の前面には大型の二重堀切が穿たれ、その前には半月形の西郭があり、西郭の全面にも円弧状に横堀が穿たれている。西郭の南端には桝形虎口が構築され、二重堀切の脇を抜けて南二ノ郭に通じている。南二ノ郭の下方にも腰曲輪が築かれている。主郭群の東端部は高速道建設で消滅している。一方、完全消滅していると思っていた副郭群は、実際には西側1/3程度が残っている。副郭は物見台的な曲輪であるが、発掘調査で建物跡が検出されている。副郭群南の尾根に穿たれた二重堀切も、一部が残っている。副郭群の西側下方には円弧状の横堀があるらしいが、草木が茂っていてよくわからなかった。以上が遺構の概要で、主郭の切岸は大きく、二重堀切の規模も大きく、中々見応えがある。

 一部が高速道建設で破壊されたとはいえ、これほど遺構がよく残り、解説板まで立っているのに、ネット上では発掘調査報告書以外の情報が皆無であるのは不思議でならない。東北地方には、まだまだ知られていない良好な中世城郭が多い。
主郭切岸と南二ノ郭→DSCN6411.JPG
DSCN6447.JPG←副郭群の残存状況

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.478420/140.922779/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

苅田城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN6134.JPG←曲輪跡の平場
 苅田城は、この地の小土豪苅田左衛門の城と伝えられている。苅田氏については詳細は不明で、『日本城郭大系』では那須氏の一族としている。しかし城の年代も不明である。

 苅田城は、県道52号線北側の丘陵地の南山腹に築かれている。温泉神社の西側に広がる竹林の中に数段の広い平場があり、そこが苅田城の曲輪である。たまたま地元のおばさんと話す機会があり、地元では間違いなくその平場が苅田城とされている様である。曲輪の背後は自然地形の斜面で、尾根上にも普請の形跡は見られない。一方、曲輪の南側に突出した物見台のような土壇が確認できる。しかし全体としては平場群が見られるだけである。遺構から推察すると、山腹を削平した高台に居館を置いた、小城砦だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.778974/140.078076/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福原陣屋(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN6089.JPG←玄性寺の那須氏墓所
 福原陣屋は、江戸時代初期に再興那須家の初代那須資景が築いたとされる陣屋である。幕末まで陣屋は存続していたとされる。

 福原陣屋は、正確な所在地がよくわからない陣屋である。『日本城郭大系』では那須氏の墓がある玄性寺付近にあり、土塁を廻らした曲輪が残っていると言い、『栃木県の中世城館跡』では畑地に変貌して形跡はほとんど無いと言う。ただ『日本城郭大系』と『栃木県の中世城館跡』の記述からすると、福原集落の南側にある丘陵地の北斜面のどこかにあったらしい。一方、福原城の歴史について記載されるところでは、資景は福原城を再興して居住したとも言われる。いずれにしても所在地が不明であるので、ここでは玄性寺の那須氏墓所を紹介するにとどめる。

 お城評価(満点=五つ星):-(所在地不明のため評価なし)
 場所:【玄性寺】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.801914/140.057520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福原館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN6056.JPG←民家の裏に残る土塁
 福原館は、北岡城・福原北岡館などとも呼ばれ、福原城に対する平時の居館である。築城は、那須資隆の4男福原四郎久隆とされる。その後、那須本家の家督を継いだ弟の五郎之隆が居て那須氏の本拠となり、その後応永年間(1394~1428年)に始まる那須氏の上・下分裂時代には、上那須氏の本拠となった。以後、1514年の上那須氏滅亡まで、長く重要であった館であった。その歴史は福原城の項に記載する。

 福原館は、箒川南岸の河岸段丘の北辺に築かれている。城ノ内、堀の内などの地名が残っており、城ノ内が主郭であったものだろう。北は断崖に臨み、東西を深い小沢に区切られた地勢で、往時は北辺以外の三方に土塁と水堀を廻らしていたらしい。現在は耕地化・宅地化が進み、堀の内には県道167号線が貫通しており、遺構は殆ど湮滅している。主郭の城ノ内は一面の耕地であるが、西辺の民家の裏にL 字型の土塁らしき土盛りが見える。祠を祀ってあるので、おそらく遺構と思われる。これが明確な唯一の残存遺構で、あとは東西の深い小沢が残っているだけである。平地の城館だから、残念ながら湮滅も仕方のないところだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.803512/140.065094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福原西城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5984.JPG←主郭の土塁
 福原西城は、よく参考にしているHP「新 栃木県の中世城郭」のmasakiさんが新発見した城である。福原城から谷を挟んだすぐ西の山上に築かれている。思えばこの地域には、武茂城松野城など谷を挟んで築かれた複数の城で構成された城が散見され、この地域の築城法の一つのトレンドであったのかもしれない。特に平地の城館とセットになった松野城は構成がよく似ている。

 福原西城は、前述の通り福原城から谷を挟んだすぐ西の比高40m程の山上に築かれている。この城へ行くには、城の西を通る県道167号線から東に入る林道を進み、その林道が南に曲がる付近から道を外れて北東に尾根を進んでいけば到達できる。約40mの長さの自然地形の尾根を隔てて離れた東西2郭から構成されている。西側が主郭、東側が二ノ郭である。主郭は背後に空堀を穿ち、土塁で囲まれた瓢箪型に近い曲輪である。中央付近の南北に虎口が築かれている。背後の空堀から南に向かって竪堀が落ちている。主郭の前面にも堀切がある。二ノ郭も、主郭と同様に背後を空堀で穿ち、土塁を築いて防御している。しかし独立性の高い堡塁として築かれており、後部には高土塁で構築された櫓台を持ち、曲輪内部は東に向かって3段に分かれて徐々に降っている。従って櫓台の上からは郭内に侵入した敵が丸見えである。主郭・二ノ郭のいずれも外周には帯曲輪状の平場が囲んでいる。
 福原西城は、小規模な城砦であるが、空堀と土塁囲郭があり、明確な普請がされていて城跡であることが明らかである。
二ノ郭の空堀→DSCN6034.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.799612/140.066167/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福原城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5785.JPG←主郭南側の大空堀と外周土塁
 福原城は、福原館(北岡館)に対する詰城である。城郭本によって、福原城を福原要害城と呼び、平地の城館である福原館を福原城と呼んでいるので、少々混乱するが、ここでは『日本城郭大系』『栃木県の中世城館跡』の表記に従って福原城と表記する。

 福原城は、下野の名族那須氏の前期の居城である。那須氏が上那須・下那須両家に分裂した時代には、福原城は上那須家の居城であった。築城時期は不明であるが、1187年に那須資隆が10人の子を各地に分封した際に、4男久隆は福原に入部し、福原氏の祖となった。後に弟の五郎之隆が福原氏を継いだが、之隆は那須本家を継いだ末弟与一宗隆(但し、実在は証明されていない)から本家の家督を継承し、以後福原城が那須氏の居城となった。南北朝期には、那須氏は足利尊氏に従い、1337年に南朝方の鎮守府将軍北畠顕家に属した相馬胤平らに「名須城」(福原城と推測されている)が攻撃されている。しかしその後も那須氏は尊氏に忠節を尽くし、1355年の京都奪還戦における那須資藤の壮絶な最後は『太平記』や『源威集』に語られている。その後、鎌倉公方が関東八屋形を制定すると、那須氏はその中に名を連ねる名家となった。1414年、那須資之と弟の沢村城主沢村資重が不和となった。資之は妻の父上杉禅秀に唆されて、資重の沢村城を攻撃した。資重は興野館に退き、後に稲積城を修築して移り、更に1418年に烏山城を築いて居城を移した。資之は福原城に拠って上那須氏を称し、資重は烏山城に拠って下那須氏を称して、那須氏は上那須・下那須両家に分裂した。以後、100余年に渡って那須氏の分裂は続いたが、永正年間(1504~21年)に上那須氏は内訌によって滅亡した。即ち、上那須資親には当初男子がなく、白河結城義永の次男資永を婿養子に迎えたが、その後実子の資久が生まれたため、1514年、資親はその死に臨んで重臣の大田原胤清に資久に家督を継がせるよう遺言して世を去った。胤清は、大関・金丸等の諸将と共に資永の福原城を攻撃した。この時、資永の近臣関野十郎義時は、密かに福原城を脱出して資久が匿われている山田城に忍び込み、資久を拉致して福原城に連れ去った。資永は喜んで資久を刺殺し、自らも自刃して上那須氏は断絶、福原城は落城した。そこで、烏山城の下那須資房は1516年に上下両那須氏を統一した。その後は、烏山城が那須氏の本城となった。しかし名族那須氏も1590年那須資晴の時、豊臣秀吉に小田原不参の故を以って改易された。一方、小田原に参陣して所領を安堵された大田原氏・大関氏らは那須氏の再興を嘆願し、資晴の子資景は5千石を与えられて那須氏を再興し、福原城を再興した。江戸時代初期の1610年、資晴が没すると資景はその遺領6000石を継ぎ、合計1万4千石の大名として那須藩を立藩した。資景の子資重が跡を継いだが、1642年に嗣子なく死没し一時廃藩となった。1664年、増山弾正正利の弟権之助が入嗣して那須資祇となり、1万2000石で大名に復帰し、那須藩を再び立藩した。資祇は、4代将軍家綱の生母お楽の方(宝樹院)の弟であったため、1681年に8000石を加増されて烏山藩への復帰を許され、烏山城に移住、福原城は廃城となった。
 以上の様に、福原城は近世まで利用された城であるが、その結構は戦国時代のものと思われる。

 福原城は、福原城の南東約600mの比高50m程の山上に築かれている。登道はないので、北西の斜面に取り付いて登っていくと、中腹に腰曲輪らしい小さな削平地があり、その脇に竪堀が上方から落ちている。竪堀を登ると城域に入る。城は大まかに、南東の主郭と北西の二ノ郭で構成されている。二ノ郭の北側にはやや大きな切岸で区画された低い平場があり、これが三ノ郭と思われる。これらの主要部は、北面は急斜面だけで守られているが、西面から南面・東面にかけては大規模な空堀で防御している。二ノ郭西側の空堀は、西面と北端に竪堀が落ちている。二ノ郭外周の空堀は、そのまま主郭外周の空堀に繋がっているが、規模は主郭のものの方が大きく、切岸も主郭のものはかなり大きく眼前にそびえている。主郭背後も空堀で分断され、その外側には独立堡塁状の曲輪が南と東に2つ配置され、それらの間も空堀で分断されている。これらをそれぞれ南郭・東郭と呼称すると、南郭の南側にも更に堀切が穿たれ、西端部で主郭空堀から分岐した堀と合流している。この辺りの堀のネットワークは複雑で、かなり手の混んだ普請がされている。東郭は、東に向かって大きくえぐれたコの字状の堡塁である。その北側も主郭空堀が北東に折れて掘り切っている。主郭は高さ10mに近い大土塁で、東面・南面を防御している。この土塁は西面まで続いているが、西に行くにつれて高さが低くなっている。南東には隅櫓台がそびえ、眼下の空堀と南郭を睥睨している。主郭の虎口は、大手が北西に、搦手が東側に築かれている。主郭内部は進入困難な激薮で覆われている。また主郭の北東角から先には北東の尾根が伸び、ここにも小堀切の先に段曲輪が2段築かれている。二ノ郭は、主郭と空堀で分断され、この空堀は北側で東に折れている。この堀に沿う形で、二ノ郭の北東から土塁が伸び、櫓台が置かれている。この櫓台を迂回するように城道が残り、二ノ郭の虎口に繋がっている。二ノ郭も、主郭と同様に北面以外を土塁で囲んでいるが、土塁の規模は小さい。しかし南東には隅櫓台が築かれ、この隅櫓台は主郭西側の空堀に対してやや張り出して、横矢を掛けている。二ノ郭の北側には前述の通り三ノ郭があるが、三ノ郭は2段の平場で構成されている。以上が福原城の概要で、かなりしっかりした普請の手が入っており、戦国後期の緊張感のある縄張りで見応えがある。
主郭南東の隅櫓台→DSCN5868.JPG
DSCN5832.JPG←そびえ立つ主郭東側の大切岸と空堀
二ノ郭の空堀から落ちる竪堀→DSCN5773.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.799440/140.069407/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー