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谷地森楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6791.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 谷地森楯(谷地森館)は、大崎氏の家臣笠原主膳(谷地森主膳)の居城である。笠原主膳は、柳沢文二郎とも呼ばれるらしい。主膳は葛西大崎一揆の激戦の一つ、宮崎城の合戦後、羽州山形に逃れ、その末裔は伊達氏に仕えたと伝えられる。

 谷地森楯は、鳥嶋楯の北西に隣接した丘陵上に築かれている。南の民家脇に小道があり、これを進めば城域に至る。この小道は、北の突き当りで東に折れて登っていくが、その先は尾根を貫通する切通しとなっている。この切通しは堀切の跡と思われる。この堀切から東が三ノ郭、西が二ノ郭と思われる。三ノ郭は先端が削られているので、往時の規模はよくわからないが、先端の物見台的な小郭だったと考えられる。二ノ郭は細尾根上の曲輪で、先端は前述の通り切通しとなった深い堀切で分断され、西の主郭との間も堀切で区画されている。この堀切は、主郭南北の腰曲輪を連絡する城内通路として機能していたことがわかる。また堀切の北端には枡形空間があり、北側からの登城道があったことが想定される。主郭は切岸で囲まれた長方形に近い形状の曲輪で、南北に腰曲輪を伴い、特に北の腰曲輪は広やかである。一方、南の腰曲輪は幅が狭いが、何段かの平場に分かれ、竪堀や竪堀状の虎口が構築されている。以上が谷地森楯の縄張りで、小規模な城砦ではあるが普請はしっかりしている。

 それにしても、この地域の城郭密度の高さは半端ではない。そもそも宮城県には城郭密度の高い地区が多いが、この地域も宮崎城を中心に笠原一族の城が林立しており、まるで一家に一城、持ち城があった感じである。もしかしたらこの地でのしきたりとして、庶子が分家して一家を立てると、近隣の親類縁者が総出で家を建てるように城造りをしていたのではないだろうか?そのようにでも考えなければ、 あまりの城の多さに説明がつかない様に思う。
 尚、城の西麓の民家の入口脇に城址標柱がある。
堀切北端の枡形空間→DSCN6792.JPG
DSCN6800.JPG←北側腰曲輪と主郭切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.604815/140.796651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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