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金成楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7099.JPG←西館の大土塁
 金成楯(金成館)は、金田城とも言い、金売吉次(橘次)伝説の残る城である。伝承では前九年の役の最中の1056年に、源頼義・義家父子が安倍氏討伐の陣場として金田城を築き、その鎮護のために金田八幡神社を勧請したのが始まりとされる。戦役が終わり、頼義父子が都に戻る際に、清原成隆を金田八幡神社の神官として残るように命じた。その後奥州藤原氏の庇護を受け、平安後期に畑村に住む炭焼藤太夫婦の子、橘次・橘内・橘六の3兄弟が藤原秀衡の命により、八幡社の近くに東館・南館・西館を構えて居住した。3人共黄金を京都で売りさばき富豪となった様で、特に長兄の金売橘次は有名で、1174年、鞍馬寺で牛若丸(源義経)と出会い、平泉の秀衡の所へ案内する途中、自分の館・東館に義経を泊めており、義経は金田八幡に詣でて平家追討を祈願したと言う。しかし金売吉次自体の実在が疑わしく、これらの話はもとより伝説に過ぎない。一方、戦国期には、葛西氏の家臣金成内膳が居住したと言う。

 金成楯は、標高50m、比高30m程の西に突き出た丘陵一帯に築かれている。金田八幡神社の南にあるのが東館で、南北に長い尾根に築かれ、最も城域が広く、中心的な城である。東館から西に伸びた尾根の先にあるのが南館、更にその北西にあるのが西館と思われる。登道は東館の南麓と北麓にあり、南麓の登り口には解説板が立っている。これを登っていくと、東館に至る。頂部の主郭と思われる平場はガサ薮が酷いが、削平された平場になっており、北東には二ノ郭らしい平場も確認できる。但し、主郭に板碑や墓石があるので、改変を受けているかもしれない。北に伸びる尾根の先端には金田八幡神社があり、主郭の西側には宮司の元居宅らしい民家があるが、現在は無住の様である。民家の平場も東館の一郭であったかもしれない。東館で一番明確なのは、南尾根に穿たれた堀切で、西側に長い竪堀となって落ち、前述の登り道の脇に落ちてきている。
 東館から西に尾根を進むと、藪の中にいくつかの平場が見られ、その先に堀切が穿たれている。南館との間を画する堀切と思われる。南館には頂部に主郭と思われる切岸で囲まれた高台があるが、藪がひどくてほとんど形状がわからない。
 南館から北西にガサ薮を進んでいくと、突然視界が開け、高さ5m程の高台がそびえている。これが西館で、南北に長い主郭を持ち、後部には高土塁を築いている。主郭の東西には腰曲輪が築かれているが、特に斜度の緩い西側は広い曲輪群が何段か築かれている。主郭の南西端からこの腰曲輪に向かって、土塁状の坂土橋が伸びている。
 以上が、金成楯の遺構で、一番綺麗に残るのは西館で、ここだけ藪払いされた綺麗な山林に覆われている。他の館はがさ藪が酷く、辟易してしまう。
東館の南尾根の堀切→DSCN7016.JPG
DSCN7075.JPG←東館と南館を画する堀切
西館の腰曲輪群→DSCN7119.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.814666/141.082896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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