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八幡楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7220.JPG←主郭北側外周の横堀
 八幡(やわた)楯(八幡館)は、屯岡(営岡)陣営地とも言い、前九年の役の際に源頼義・義家父子が陣営を置いた場所と伝えられている。古くは延暦年間(782~806年)に坂上田村麻呂が、蝦夷征討の際に軍団を駐屯させた所とも言われる。前九年の役では、源頼義は奥六郡を支配した俘囚の長安倍貞任を討伐しようとしたが、貞任の強豪な大軍の前に苦戦を強いられ、劣勢を挽回するために出羽の豪族清原光頼を味方に付けようと画策した。そして1062年、遂に光頼は頼義の味方に付くことに決し、弟の清原武則を総大将とする大軍を派遣した。この時、頼義が陣営を置き、武則の援軍を集結させたのがこの屯岡であったと伝えられる。
 一方でこの付近一帯は、南北朝時代に行われた合戦の舞台ともなった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城(大原木楯か?)を築いたと言う。この地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行い、北朝方が南朝勢を討ち破り、敗れた北畠顕信は出羽方面に逃れた。この三迫合戦で南朝方が築いた「二迫のやハた」とは、おそらくこの八幡楯のことと推測される。

 八幡楯は、標高100m、比高60~70m程の丘陵上に築かれている。現在山頂の主郭には屯岡八幡神社が建っており、南麓から参道が整備されているが、城の遺構を見るなら西尾根の登道から登ったほうが良い。栗駒中学校の東側に尾根上に登る階段があるので、そこを登って尾根上の小道を東に進めば、すぐに右手に円弧状の堀切が現れる。かなり広い範囲を城域としており、この最初の堀切は主郭から300m近く西に離れている。堀切の南側は竪堀となって落ち、堀切の前面には堡塁・土塁が構築され、前述の小道の左手には腰曲輪らしい平場もある。その先はしばらく自然地形の尾根が続くが、1本目の堀切から200m程進むと、土塁を伴った虎口が現れ、その前面両翼には堀切が穿たれている。ここから東側が城の中心部で、平らな幅広の尾根の両側には何段かの帯曲輪群が確認できる。更に東に進むと、周囲より1段高くなった主郭に達する。神社が鎮座する主郭は、長円形に近い形状の曲輪で、北西部に低土塁が築かれている。主郭の北半の下部には横堀が延々と穿たれている。その下にも何段かの帯曲輪が築かれ、やや北に降った山腹に2本目の横堀が穿たれている。この横堀は、瓢箪型に緩やかな弧を描きながら、延々と主郭東の尾根まで伸びている。この長い横堀の下方にも何段も帯曲輪があり、とても全部を確認することはできなかった。また横堀の東端部は東尾根の段曲輪群に至っている。但し東尾根の曲輪軍は藪が多くて、形状をあまりはっきりと捉えることができない。主郭の南側は参道整備などで改変を受けている様だが、帯曲輪らしい平場が残っている。主郭南の尾根はほとんど自然地形である。
 尚、南尾根の先から南東に伸びる尾根上には、八幡楯にすぐ隣接する形で臥牛楯が築かれている。両者を比較すると、堀などの構築の規模と構造が全く異なり、八幡楯が戦国時代以前の古い城砦であることがよく分かる。この様に築城時代の違いが如実にわかる城が隣接して存在する例は、極めて珍しい。
西尾根の1本目の堀切→DSCN7163.JPG
DSCN7183.JPG←2本目の堀切と虎口
山腹の横堀→DSCN7240.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.813780/140.994684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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