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芦沼城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9590.JPG←芦沼城付近の現況
 芦沼城は、宇都宮氏の家臣戸祭備中の居城と伝えられている。鬼怒川と西鬼怒川に挟まれた平地に築かれていたらしいが、遺構は完全に湮滅しているだけでなく、城の正確な場所もわかっていない。しかし古屋敷・屋敷東・屋敷前などの字名が残っており、芦沼地内に城館があったと思われる。おそらく字古屋敷辺りに城があったと推測されるが、現在は河川改修と耕地整理で周辺の地形は大きく改変されており、古屋敷の辺りは一面の水田に変貌している。
 尚、東芦沼集落の北東部、字屋敷東に当たる場所に来迎寺跡がある。南北朝時代に創建されたと伝えられる寺とのことで、現在は山門・観音堂・墓地だけが残っている。墓地には芦沼城から移したと言われる宝篋印塔4基がある。
来迎寺跡の宝篋印塔→DSCN8540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.669142/139.938269/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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鹿子畑館(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2984.JPG←館跡北辺の土塁
 鹿子畑(かのこはた)館は、この地の土豪鹿子畑氏の居館である。大田原氏に仕えていたが、1542年、鹿子畑能登の時に大田原資清の長男高増が大関氏を継いで白旗城主となると、能登は少年高増の後見人として白旗城下の余瀬に居を移し、鹿子畑館は廃されたと言う。以後、代々大関氏に仕えた。後の江戸時代に、松尾芭蕉の門弟で『奥の細道』にも出てくる鹿子畑翠桃(すいとう。実名は豊明。翠桃は俳号)を輩出した。

 鹿子畑館は、江川東岸の微高地にある。『栃木県の中世城館跡』によれば、東西約110m、南北73mの土塁があり、空堀が廻らされていたと言うが、北側を残して消滅したとされる。東輪寺周辺が、鹿子畑館があったという字名「前坪」であるが、館跡がどこなのか明確にできなかった。従って、残存土塁もあるのかどうかわからなかった。

【2024-3-9追記】
 前回訪城した時は、鹿子畑館の位置が分からなかったが、今回場所が特定できたので再訪した。前回館跡付近と思っていた場所から、ほんの150m程南西の民家である。北側の土塁がはっきりと残っている。しかし残念なことに、最近屋敷林を大々的に伐採したらしく、周囲には重機で乗り入れた跡が無惨に残り、伐採した枝が屋敷地の周りに土塁のように積まれていた。北側の土塁は辛うじて残っているという状況だった。北辺土塁の外周の空堀は、以前から既に湮滅していたのか、今回埋められてしまったのかわからないが、いずれにしても堀跡は湮滅していた。行政が有効な保護の手立てを講じることのないまま、また一つ、城館遺構が消え失せようとしている悲しい現状がそこにはあった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.727319/140.053893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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葛城城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8504.JPG←台地周囲の切岸地形
 葛城城は、1457年に宇都宮氏の庶流塩谷氏の一族塩谷安房守惟延が築城し、その弟幸賀太郎行縄が居城としたと伝えられている。その後の1524年、塩谷幸賀三郎太夫宗春が城主の時、那須政資の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城になったと言われている。

 葛城城は、荒川西岸の比高4~5mの低台地に築かれている。常陸海老ヶ島城の様な、浮島のような独立台地に築かれており、往時は低湿地帯に囲まれた要害であったと推測される。現在は、宅地や水田となっており、地勢以外に残っている遺構はない。台地の南東端に虚空蔵菩薩堂があり、以前はそこに葛城城のことを記した解説板があったらしいが、現在はなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.703384/140.040160/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


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堀之内館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8476.JPG←西側の土塁と堀跡
 堀之内館は、姫屋敷とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。下川井城に近く、その前身か付属の館と推測されている。

 堀之内館は、下川井城から西方にわずか650m、江川を挟んで対岸の低台地の縁に築かれている。現在民家の敷地となっているが、南と西に立派な土塁が残っている。外周の堀はかなり埋められてしまっているが、痕跡は明瞭である。北と東は低地との段差だけだが、館の周りを水路が廻っている。これほど良好な城館跡なのに、史跡指定されていないのが不思議でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.695883/140.096712/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
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タグ:居館
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熊田城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8469.JPG←わずかに残る北側の塁線
 熊田城は、下野の名族那須氏の庶流熊田氏の居城である。1222年に那須氏5代光資の次男光保が熊田の地を分封され、熊田城を築いて熊田氏を称した。熊田氏は一時中絶したが、1498年に熊田摂津守通実という者が再興したと言う。以後、資国・資長・資温・資安と続いて那須氏の羽翼として活動したが、1590年に那須資晴が改易となると、熊田氏も没落して廃城となった。

 熊田城は、江川西岸の低台地の北端に築かれている。以前は塁濠がよく残っていたと言うが、現在は江川の改修による流路変更や耕地整理に伴い、遺構はほとんど湮滅している。わずかに北側の塁線だけが残っているが、その他は周囲より高い地形だけが往時の名残を留めているに過ぎない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687091/140.111110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫


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月次館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8457.JPG←主郭に残る土塁のクランク
 月次(つきなみ)館は、下野の名族那須氏の一族興野氏の庶流月次氏の居館である。1472年、那須資持の2男持隆が興野・大沢村に分封されて興野氏を興し、持隆の子景高が跡を継いだが、その弟隆共が月次村に領地を与えられて月次氏を称した。月次氏は那須氏の家臣として続いたが、1590年に那須氏が改易になると月次館も廃館となった。尚、館の歴史の途中では一時期、須釜氏が居住し、天正年間(1573~92年)に月次氏が入ったとも伝えられる。

 月次館は、江川南岸の段丘上に築かれている。『栃木県の中世城館跡』等では主郭・二ノ郭があるとされるが、航空写真で明確なのは民家・畑となった方形の区画だけで、これが主郭かと推測される。主郭には、南側にクランクの折れを伴った土塁が残る他、北西角部の土塁が小道脇に残っている。この他、台地の東端にある民家の周りにも土塁が見られ、これが二ノ郭であったのかもしれない。一応、遺構は断片的に残るが、明らかに民有地の内部である土塁は、遠目に見ることしかできない部分も多い。少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.671706/140.125637/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


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滝田館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8428.JPG←西側の堀跡
 滝田館は、下野の名族那須氏の庶流滝田氏の居館である。那須資隆の6男六郎実隆が、1187年にこの地に分封されて築館したと伝えられている。以後滝田氏は、那須氏の重要な羽翼として活躍、佐竹氏、宇都宮氏との合戦においてしばしば軍功を挙げたと言う。天正年間(1573~92年)に千本に移ったが、後に黒羽城主大関高増から100石を与えられてその家臣となり、以後は黒羽に移って大関氏に仕えたと言う。一方、滝田館は、江戸初期の1628年迄存続したとされる。

 滝田館は、那珂川西岸の河岸段丘の北端部に築かれている。北側に沢筋が深く入り込み、東に向かって傾斜した地勢にある。館跡は東西に長く、宅地と水田に変貌しており、遺構はかなり湮滅している。東辺部は一段低い平場になっていて、腰曲輪になっていた様である。最も明瞭な遺構は西側に見られる堀跡で、周囲より低い水田になっている。主郭はその東であろうか。『栃木県の中世城館跡』等によれば北辺の崖沿いに土塁が残っているらしいが、民家の裏なので未確認である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.671328/140.151451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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平井館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8420.JPG←西側に残る塁線の段差
 平井館は、下野の名族那須氏の重臣本庄氏の居館である。1418年、稲積城主那須資重の命によって、本庄三河守広泰(盛泰とも言われる)が稲積城の前方に築いたと伝えられる。資重が烏山城に居城を移すと、平井館の本庄広泰が稲積城に入り、以後は稲積城の城将となった。本庄氏の事績としては、1567年の霧ヶ沢合戦での活躍が知られる。即ち、治武内山合戦・大崖山合戦と2度の敗北を喫した佐竹義重が、長倉義当に5000の軍勢を与えて三度那須領に侵攻した。この時、那須資胤と対立する上那須勢の大関高増・伊王野資宗・芦野盛泰・福原資孝ら400の軍勢も佐竹勢に呼応して烏山城北方の霧ヶ沢に押し寄せ、下境の那珂川東岸に陣を張った佐竹勢と共に南北から烏山城を挟撃しようとした。しかし平井館に程近い稲積城を守る本庄盛泰は、よく防戦に努めた。その間に那須資胤は、那珂川を渡って佐竹勢を攻撃し、烏山城に立て籠もった軍兵も上那須勢を撃退した。上那須勢敗北の報に接した佐竹勢は軍を引き上げたと言う。

 平井館は、那珂川南岸の河岸段丘の北辺部に築かれていた。北側を断崖に接した、逆台形状の単郭の居館で、外周を空堀・土塁で防御していた。しかし昭和後半の田圃整理で遺構は完全に湮滅している。わずかに西側の段差が、往時の塁線の名残を留めているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.630889/140.168724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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向田城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8363.JPG←仲城(主郭)後部の櫓台
 向田城は、仲館、仲城とも呼ばれ、この地の豪族向田氏の本拠と考えられている。『那須文書』等から享徳年間(1452~55年)・文明年間(1469~87年)頃に使用されていたと推測されている。

 向田城は、那珂川の支流荒川南岸の比高30m程の段丘上に築かれている。国道294号線のすぐ東側にあり、城内は大きく2段の平場に分かれている。主郭に当たる上段の平場は仲城と呼ばれ、菱形の形状をしている。郭内は宅地や耕地となっているが、南端に一段高くなった墓地があり、往時の櫓台であった可能性がある。二ノ郭に当たる下段の平場は北城と呼ばれ、こちらも宅地と耕地になっている。北城の南辺部はわずかに高くなっており、仲城の腰曲輪に相当する平場と考えられる。その上には仲城の切岸がよく残っており、仲城北端部はやや北側に突き出て横矢を掛けている。また北城の西には仲城の切岸に沿って空堀が残っている。以上が向田城の状況で、宅地や耕地で改変されているものの、往時の雰囲気をよく残している。
腰曲輪と仲城切岸→DSCN8385.JPG
DSCN8376.JPG←北城西部に残る空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.618800/140.155495/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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中城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8353.JPG←堀跡の畑と主郭跡の段差
 中城は、塙城とも言い、建武年間(1334~8年)に宇都宮氏の家臣塙能登守が築いたとされる。塙氏の事績は不明であるが、応永年間(1394~1428年)の城主として塙能登守利政の名が伝わっている。

 中城は、春日神社の南西に広がる畑地にあった。昭和20年代の航空写真を見ると、周囲を明確な堀跡の畑で囲まれた、ややひしゃげた形の長方形の曲輪が確認できる。これを現在の航空写真と照合すると、南西部の堀跡が残存しているのがわかる。実際に現地で確認すると、主郭部は堀跡の畑よりも一段高い微高地となっている。しかしそれ以外の部分は、堀は完全に埋められて段差すら見られない。かなり残念な状況であるが、春日神社の社伝に塙能登守の事績が触れられており、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.464160/140.081509/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2020/10/08
  • メディア: 単行本


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石並城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8344.JPG←曲輪の切岸か?
 石並城は、益子城の出城である。宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団、紀清両党の一翼を担った益子氏の重臣佐藤氏の居城とされる。佐藤氏は、源義経の家臣として有名な佐藤継信の裔を称していたらしい。鎌倉後期の1304年に佐藤備中守が築城したと言う。1589年に益子氏が滅亡すると、廃城となった。

 石並城は、小貝川東岸の沖積地を望む台地先端部に築かれている。この台地を含んだ丘陵の北東端には益子城があり、益子城の後背部を防衛する出城であったことが容易に想像できる位置にある。昭和20年代の航空写真を見ると、台地上に方形の曲輪らしい区画が見られ、これが城跡であったと思われる。しかし現在は、採土や宅地造成で破壊され、遺構はほぼ湮滅している。わずかに民家の敷地が周囲より高くなっており、曲輪の切岸らしい跡が見られるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.456636/140.089127/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: 文庫


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峰高城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8329.JPG←主郭跡付近の現況
 峰高城は、天正年間(1573~92年)に宇都宮城主宇都宮広綱に仕えた豊田若狭守綱斎が、物井を領して築城したと伝えられる。綱斎の没後は長斎が継いだが、1597年に宇都宮氏が改易となると廃城となり、豊田氏は帰農したと言う。

 峰高城は、桜町陣屋に程近い峰高集落付近に築かれていた。四重の堀で囲繞した回字形の平城であったとされるが、現在は耕地化で遺構は完全に湮滅している。地元の方から伺った話では、数十年前まで主郭北にある民家の裏に土塁が残っており、きつね山と呼ばれていたと言う。この民家の屋号も「きつね山」で、きつね山の脇には堀跡もあったらしい。ブルドーザーで掘ったらどんどん掘れたとのことで、かなり深い堀であった可能性がある。
 尚、城の中心付近から南西に150m程の所に、大きな楠がこんもり茂った場所があり、そこに城主豊田氏の墓石群があることも教えていただいた。大小20基程の五輪塔群が整然と並んでいるが、東日本大震災でだいぶ崩れたのを、心棒を入れて直したとのことである。
 話を伺ったのは中年の方々だったが、地元では城の歴史が若い世代にもしっかりと伝えられており、なかなか素晴らしいことである。
城主豊田氏の墓石群→DSCN8332.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.402995/140.011214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2020/10/04
  • メディア: 単行本


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厚木城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8327.JPG←城址付近の現況
 厚木城は、結城氏の家臣厚木美濃守朝高が城主であったと伝えられる。朝高は元々、宇都宮氏の重臣芳賀氏の一族で、芳賀高義の3男であった。主君芳賀高経が、主家宇都宮興綱に叛乱を起こそうとした際にこれを諌めたが、高経は壬生綱房らと共に宇都宮成綱の2男尚綱を宇都宮氏の当主に擁立し、興綱を自害に追い込んだ。そこで朝高は、厚木城から相模国厚木に出奔し、小田原北条氏に仕えたが、後に結城晴朝に従って厚木城に復帰したと言う。しかし天正年間(1573~92年)に下館城主水谷左京大夫勝俊に攻撃され落城、そのまま廃城になった。おそらく旧主宇都宮氏からの調略を受けたことによるのだろう。

 厚木城は、五行川東岸の平地に築かれていたが、現在は宅地化・耕地化で遺構は完全に湮滅している。従って城の位置も明確にはわからない。昭和20年代の航空写真を見ても、既に明確な痕跡は見出だせない。とりあえず、『栃木県の中世城館跡』の地図でマーキングされている付近を城跡推定地としておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.401510/139.987653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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平石館(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8322.JPG←館跡推定地の現況
 平石館は、天文年間(1532~55年)に宇都宮城主宇都宮尚綱に仕えた平石左兵衛助重が、軍功により鹿郷を拝領して館を築いたと伝えられる。平石氏は滅亡後、帰農したと言う。
 平石館は、北鹿集落の付近にあった様である。昭和27年頃の耕地整理で遺構は完全に湮滅している。城歩きの大家余湖さんの推測では、昭和20年代前半の航空写真に見える、小河川脇の方形区画を館跡と推測している。『栃木県の中世城館跡』によれば、平石氏子孫の墓地に五輪塔があるとされ、確かに館跡推定地の北方約300mの墓地には平石家の墓があり、そこに古い五輪塔がある。『栃木県の中世城館跡』で言っている五輪塔がこれのことかどうかは定かではないが、城主のものであった可能性もあるだろう。
平石家の五輪塔と館跡方面→DSCN8325.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.395258/139.998865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


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大曾城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8310.JPG←城跡付近にある八幡宮
 大曾城は、長沼城主長沼淡路守宗政の2男左衛門尉政能が、大曾郷に分封されて大曾氏を名乗り、この城を築城したと伝えられる。以後、大曾氏の居城となったが、文明年間(1469~87年)に長沼氏が没落すると、大曾城も廃城になった。

 大曾城は、鬼怒川東岸の上大曽地区にあったらしい。現在は宅地・水田と化し遺構は完全に湮滅している。おまけに周辺一帯は耕地整理で大幅に改変され、昭和20~30年代には周囲を流れていた小河川も流路が全く変えられてしまっている。そのため、城の正確な場所もよくわからない。八幡宮付近が堀ノ内という地名だったらしいので、一応、八幡宮付近に城があったと推測しておきたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【八幡宮】
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.388521/139.944717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野長沼氏 (中世武士選書)

下野長沼氏 (中世武士選書)

  • 作者: 郁夫, 江田
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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入沢城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8145.JPG←堀切跡
 入沢城は、渋川城とも言い、この地の豪族入沢氏の居城である。元々は鎌倉時代に足利氏の一族渋川氏の祖、足利義顕が渋川保を領して城を築いたことに始まるとされる。渋川氏は、1335年の中先代の乱の時、渋川義季が女影原の戦いで岩松経家と共に討死している。義季の妹は足利直義の正室で、義季の娘幸子は2代将軍足利義詮の正室となるなど、足利将軍家と近い間柄で、義季の孫義行以降は九州探題に補任され、西国に活動の拠点を移した。時代は降って戦国中期の1544年3月、信州佐久の豪族入沢治部少輔時吉がこの地に移住して渋川故城の主郭跡に屋敷を築いた。1557年、入沢氏は吾妻大戸城(手子丸城)主大戸氏から軍功により渋川西部を与えられ、元亀・天正年間(1570~92年)には上州西部を支配した武田氏に仕えた。武田氏滅亡後は上州の大半を制圧した小田原北条氏に仕えたが、1590年に北条氏が滅亡すると時吉の子吉広は館を廃し、帰農したと言う。

 入沢城は、榛名山の東麓、平沢川と黒沢川の合流点に突き出た舌状台地の東端に築かれている。元屋敷という地名の東の主郭と、五輪平という地名の西の二ノ郭から構成されている。主郭・二ノ郭共に大半が耕地となっているが、間には堀切跡が浅くなっているものの明確に残っている。主郭は先端部が一段低くなっており、2段の平場で構成されている。『日本城郭大系』では二ノ郭の西側には土塁が残るとしているが、現地標柱では積石猪鹿防ぎ跡とされる。城の土塁跡をそのまま猪鹿防ぎに転用したのかも知れない。いずれにしても、居館機能を主とした城であった様だ。
 尚、入沢城・引越山の砦鐙山の砦などで構成された入沢城砦群があり、入沢城はその中心であった。『日本城郭大系』群馬編を著した山崎一氏は「地域城」という概念を導入して、この城砦群も「入沢地域城」としているが、私はこの概念には懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。そこでここでは「入沢城砦群」と記載した。
 また入沢氏の墓が、鐙山の砦の北東麓の墓地内に残っている。
主郭下段平場からの眺望→DSCN8139.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.499857/138.982834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

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  • 作者: 佐藤 進一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/01/01
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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引越山の砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8117.JPG←丘上の平場と眺望
 引越山の砦は、入沢城を中心とする入沢城砦群の一つである。尚、『日本城郭大系』群馬編を著した山崎一氏は「地域城」という概念を導入して、この城砦群も「入沢地域城」としているが、私はこの概念には懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。そこでここでは「入沢城砦群」と記載する。

 引越山の砦は、入沢城の入り口を押さえる砦で、比高5~6m程の東西に細長い小丘となっている。『日本城郭大系』では「最近土地改良で消滅」とあるが、昭和20年代前半の航空写真と見比べると、小丘は北と東が削られて形状が変わっているものの、概ねの形状は残しているようである。小丘の登り口である西側に城址石碑が立ち、丘上はただの平場が広がっているだけである。この平場からは、東に視野が開け、渋川市街地から遠く赤城山の西麓まで見渡すことができる絶好の物見場である。警戒のために構築された物見の砦だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.499908/138.987533/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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鐙山の砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8070.JPG←土塁と空堀
 鐙山の砦は、入沢城を中心とする入沢城砦群の一つである。尚、『日本城郭大系』群馬編を著した山崎一氏は「地域城」という概念を導入して、この城砦群も「入沢地域城」としているが、私はこの概念には懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。そこでここでは「入沢城砦群」と記載する。

 鐙山の砦は、黒沢川南岸の比高60m程の台地の辺縁部に築かれている。砦の名の通り、簡素な城砦で、西側の台地続きに幅広の空堀を穿ち、内側に低土塁を築いている。土塁の中央付近には櫓台があり、その部分で塁線が屈曲し、横矢を掛けている。東側には斜面に沿って3段程の曲輪があるが、曲輪間の段差は小さく、普請はわずかである。曲輪群の南側は自然の谷戸が入り込み台地との間を隔絶している。城域の東端は境界がはっきりせず、自然地形の尾根が続いている。縄張りは簡素であるが、城域は広く、まとまった数の軍団の駐屯地だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.497821/138.984743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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行幸田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN7972.JPG←主郭西側の空堀(藪が酷い)
 行幸田城は、永禄年間(1558~70年)の頃、小林出羽守が城主であったと考えられている。その名は、上杉謙信が初めて関東に出馬した際に参陣した諸将を記載した『関東幕注文』に記されている。小林氏は、坂東八平氏の一であった秩父氏の庶流高山党の出自とされる。高山党は、高山城を本拠とした一族である。

 行幸田城は、榛名山東の中腹の標高310mの段丘先端部に築かれている。選地としては、1.7km南にある有馬城と同じである。東端に小さな主郭を置き、西側を空堀で分断している。主郭の空堀沿いには土塁が築かれている。主郭の南北には腰曲輪が築かれ、特に南の腰曲輪は南端に虎口があり、そこから東に降る山道が残っている。主郭から空堀を介して西側には広大な外郭が広がり、中央付近に高圧鉄塔が建っている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、この鉄塔の南北に、食い違いとなった堀切が南北に穿たれていたらしいが、現在はほとんど埋められてしまっている。外郭の南辺には一段低い帯曲輪が置かれている。外郭の西端は、現在車道が通っているところと思われ、形状から推測して車道が通るのは空堀の跡と思われる。以上が行幸田城の概要だが、外郭は耕作放棄地で一面の薮、主郭と空堀も深い薮に覆われて、その形状を追うことも難しい。有馬城も藪がひどかったが、ここも未整備で残念な状態である。
腰曲輪から降る小道→DSCN8003.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.481381/138.990108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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下小屋城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN6307.JPG←主郭周囲の土塁
 下小屋城は、1572年の甲斐武田氏の侵攻に際し、伊香保地衆が築いた城と言われる。その他の歴史は不明である。

 下小屋城は、伊香保温泉にほど近い榛名山の北側中腹に築かれている。沼尾川とその支流の西沢によって南北を深く削られた断崖地形の上に位置している。県道155号線の脇の空き地に車を停めると、目の前に削り残し土塁のような大きな土壇がある。その脇から城に向かって小道が伸びている。道の両側に互い違いに土壇があり、往時の虎口の名残のように思われる。土壇の基部には石積みが見られるが遺構かどうかは不明である。道を先に進むと広大な平場が広がっており、これが主郭であるらしい。耕作放棄地の様だが薮払いはされており、内部の踏査は容易である。林の中に入っていくと、主郭の周囲には土塁が延々と築かれているが、西端ではその外側の二ノ郭の方が主郭より高くなっており、不思議な縄張りである。また主郭の東側には下郭(三ノ郭?)が築かれている。下郭の外周から主郭南側にかけては崩落地形の断崖で、いつ崩れるかも知れず、あまり縁には近づきたくない。一方、二ノ郭の北側下方にはいくつもの腰曲輪があり、断崖に面している。下郭の形状も含めて、この腰曲輪付近の様子は『日本城郭大系』の縄張図とあまり合っておらず、豪雨時の断崖の崩落によりかなり地形が変化しているのではないかと思われる。断崖に面した主郭の南辺や北辺の縁には低土塁が築かれているが、崩落しやすい地質なので往時のものではなく、耕地化に伴うものと推測される。この他、主郭の台地基部には堀切があったらしいが、現在は埋められてしまっている。下小屋城の構造は以上で、断崖の地勢だけを頼みとした技巧性のない縄張りで、秩父方面によく見られる、武田軍の略奪侵攻に備えた、有事の際の地衆の逃げ込み城だった様である。
二ノ郭北側の腰曲輪→DSCN6264.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513310/138.918504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

  • 作者: 臼杵 勲
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/05/22
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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市城砦(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN6161.JPG←南部郭の曲輪
 市城砦は、岩井堂砦と関連した城砦と考えられている。この地は真田幸隆による岩櫃城攻略以降、武田方の吾妻勢と上杉方の白井勢との間で度々争奪の場となっている。『吾妻記』『加澤記』等には、「市城口岩井辺の要害」「市城岩井堂」「市城表」などと記述されており、はっきりと岩井堂城(岩井堂砦)とは書かれていない。しかし眺望に優れた岩井堂砦に対して、その山陰に寄り添うように築かれた市城砦は、峻険すぎてまとまった数の兵を置くことができない岩井堂砦を背後から支援する小軍勢の駐屯基地で、岩井堂砦と一体となって機能した城砦であったことが考えられるだろう。

 市城砦は、岩井堂砦のある山から深い谷を挟んですぐ北西の丘陵地に位置している。南部郭と北部郭から構成され、登り口が整備されているのは南部郭である。登り口から南部郭の広い曲輪に登ると、以前は柵や櫓が建っていたようだが、現在はなくなっていた。この平場の南側には数段の腰曲輪が築かれている。背後にそびえる細尾根は物見か烽火台と考えられ、尾根裏には小郭と堀切状の鞍部が見られる。北部郭は耕作放棄地らしく、現在は薮だらけだが、何段かの平場がある。一部に石積みが確認できるが、往時の遺構ではなく、耕地化に伴うものだろう。わずかに藪の中に堀切も確認できる。曲輪群の先端部は幅の細い物見のような平場となって、平地の上に突き出ている。以上が市城砦の概要で、小規模な軍勢の駐屯地らしい遺構である。
北部郭の曲輪→DSCN6184.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【南部郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.562583/138.897475/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北部郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.563669/138.897818/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


古写真で見る幕末の城

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/06/01
  • メディア: 単行本



タグ:中世平山城
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岩井堂砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN5490.JPG←岩井堂砦の遠望、
                          主郭は左下の平場
 岩井堂砦は、白井城岩櫃城の中間にあり、両者の間で抗争が繰り広げられた砦である。一説には、平安時代の延久年間(1069~74年)に山田太郎為村が築き、数代にわたり村上氏、後に下川辺朝村氏、藤原氏の居城となったと言う。戦国後期に武田氏配下の真田幸隆が岩櫃城を攻略して吾妻郡を支配下に収めると、上杉方の白井城との間にあるこの地は互いの動向を見定める絶好の物見場として、武田・上杉両氏の抗争の場となった。1579年には真田昌幸の家臣海野長門守が城主となり、その後、富沢伊賀が在城したともされる。1587年7月には、上野北部に激しい攻勢をかけていた鉢形城主北条氏邦の軍勢が岩井堂砦を攻略している。

 岩井堂砦は、この地域に多い屹立する岩山に築かれている。南麓から登山道が整備されているが、なかなか険しい岩場の道である。途中、天然の堀切のような岩場を抜け、この道を登りきると、小さな小屋の建つ平場に至る。展望台として手摺やベンチが整備されており、ここが砦の主郭と思われる。ここからは吾妻川流域が一望できる。主郭の後部は一段高くなっており、その裏には天然の堀切地形がある。堀切地形の先にも「岩井堂砦登山道 狼煙洞」と表示があり、鎖場が続いている。屹立する岩の横を抜けて進むと、狼煙洞と思われる岩の大穴に至る。遠くから岩井堂砦を望むと、この上にも平場らしいものが見えていたので、その先にも登ってみたが、ハードなロッククライミングコースで、足を滑らせたら滑落必至の難所である。登った先の山上は猫の額ほどの小さい岩場で、立っているだけでも大変で、風の強い日だったらかなり危険である。国土地理院地形図を見ると三角点があるのは更にこの上だが、絶壁が続いており、本格的なロッククライマーでなければ、三角点にはとても近づけない。この様に岩井堂砦は、主郭部以外はほとんど城らしい普請のない、自然地形をそのまま利用した小城砦である。普通に考えれば争奪に値しないような砦だが、その優れた眺望によって、戦略的な重要性があったのだろう。
 尚、主郭から先はかなり健脚の人でないと危険な道なので、特に高齢者にはお勧めできないことをお断りしておく。
主郭→DSCN5466.JPG
DSCN5473.JPG←狼煙洞という岩場の大穴

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559636/138.899943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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  • 作者: 宮坂武男
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