滝田館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]
←西側の堀跡
滝田館は、下野の名族那須氏の庶流滝田氏の居館である。那須資隆の6男六郎実隆が、1187年にこの地に分封されて築館したと伝えられている。以後滝田氏は、那須氏の重要な羽翼として活躍、佐竹氏、宇都宮氏との合戦においてしばしば軍功を挙げたと言う。天正年間(1573~92年)に千本に移ったが、後に黒羽城主大関高増から100石を与えられてその家臣となり、以後は黒羽に移って大関氏に仕えたと言う。一方、滝田館は、江戸初期の1628年迄存続したとされる。
滝田館は、那珂川西岸の河岸段丘の北端部に築かれている。北側に沢筋が深く入り込み、東に向かって傾斜した地勢にある。館跡は東西に長く、宅地と水田に変貌しており、遺構はかなり湮滅している。東辺部は一段低い平場になっていて、腰曲輪になっていた様である。最も明瞭な遺構は西側に見られる堀跡で、周囲より低い水田になっている。主郭はその東であろうか。『栃木県の中世城館跡』等によれば北辺の崖沿いに土塁が残っているらしいが、民家の裏なので未確認である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.671328/140.151451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
滝田館は、下野の名族那須氏の庶流滝田氏の居館である。那須資隆の6男六郎実隆が、1187年にこの地に分封されて築館したと伝えられている。以後滝田氏は、那須氏の重要な羽翼として活躍、佐竹氏、宇都宮氏との合戦においてしばしば軍功を挙げたと言う。天正年間(1573~92年)に千本に移ったが、後に黒羽城主大関高増から100石を与えられてその家臣となり、以後は黒羽に移って大関氏に仕えたと言う。一方、滝田館は、江戸初期の1628年迄存続したとされる。
滝田館は、那珂川西岸の河岸段丘の北端部に築かれている。北側に沢筋が深く入り込み、東に向かって傾斜した地勢にある。館跡は東西に長く、宅地と水田に変貌しており、遺構はかなり湮滅している。東辺部は一段低い平場になっていて、腰曲輪になっていた様である。最も明瞭な遺構は西側に見られる堀跡で、周囲より低い水田になっている。主郭はその東であろうか。『栃木県の中世城館跡』等によれば北辺の崖沿いに土塁が残っているらしいが、民家の裏なので未確認である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.671328/140.151451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1