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若神子南城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1170.JPG←南城の現況と周囲の土盛り
(2020年7月訪城)
 若神子南城は、天正壬午の乱の際に北条氏直が本陣を置いた若神子城の3つの城地の一つである。その歴史は、若神子城の項に記載する。

 若神子南城は、若神子城の本体と思われる大城の南に位置している。比高90m程の丘陵上にあったが、昭和57年に無届の土砂採集工事により遺跡のほとんどが失われてしまったらしい。かつては東斜面には少なくとも一本の竪掘があり、台地上には中央に土橋を伴う空堀によって区画された2つの郭があったと言う。現在は法徳寺の境内となっており、周囲に削り残し土盛りがあるが、土塁だったのかどうかはわからない。境内から北側に伸びる尾根も探索してみたが、明確な平場跡などは確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.791379/138.415922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: Kindle版


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大豆生田砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1141.JPG←砦跡の遠望
(2020年7月訪城)
 大豆生田(まみょうだ)砦は、天正壬午の乱の際に北条方が築いた砦である。元々大豆生田の地は藤巻伊予守という武士の拠った所である。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。北条氏直率いる北条方の大軍は、上野から碓氷峠を越えて信濃に入り、上杉方との対陣を経て、南下して甲斐に入った。そして、本陣を置いた若神子城を中心に七里岩台地の各所に大軍を配置し、新府城に本陣を置いた徳川家康の軍勢と対峙した。この時、藤巻氏は北条氏に属して戦った。北条方は大軍であったが、各所の局地戦で徳川方に敗れ、次第に劣勢に追い込まれていった。しかも大軍であったため兵粮調達に難渋し、七里岩台地下の藤巻氏の屋敷を取り立てて大豆生田砦として改修し、ここを拠点に徳川方を牽制しつつ藤井平で組織的な苅田を実施して兵粮の備蓄を図った。徳川方は、目前で北条方が連日苅田を実施するのを看過できなくなった。そして8月27日深夜、藤井平の各所に伏兵を配置し、翌28日に北条方が大豆生田砦から多数の将兵を出して苅田を始めると、徳川方の伏兵は一斉に蜂起して、北条勢に攻めかかった。不意を衝かれた北条方は砦に逃げ込み、追撃してきた徳川方と砦で激しい攻防となった。徳川諸隊は続々と砦に攻めかかり、遂に大豆生田砦を陥落させた。この後、花水坂の敗戦、江草小屋(獅子吼城)の失陥によって北条方は逼塞を余儀なくされ、更に10月中旬に信州上田を押さえていた真田昌幸が離反して徳川方に付くと、補給路を絶たれた北条方は危機的状況を迎えることとなり、結局徳川方の優勢下で和睦が結ばれることとなった。

 大豆生田砦は、塩川と須玉川の合流点に突き出た台地先端に築かれている。現在は中央自動車道が城地を貫通する他、砦跡は墓地や下水処理場に変貌しており、明確な遺構は残っていない。ただ、墓地はわずかに高台となっており、その地勢が砦の痕跡をうかがわせるだけである。『日本城郭大系』には大豆生田砦の空堀の写真が掲載されているが、現在は景観が変わりすぎていて、どこの写真なのかもわからなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.770106/138.425642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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実相寺館(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1104.JPG←南辺の土塁とされる土盛り
(2020年7月訪城)
 実相寺館は、山高氏屋敷とも言い、甲斐武田氏の家臣山高氏の居館である。山高氏は、釜無川流域の地域武士団「武川衆」に属した一族で、甲斐守護で武川衆の祖となった一条時信の孫信方が巨摩郡山高村に分封されたことに始まり、2代信武の頃から山高氏を称するようになった。戦国時代には、山高氏は武川衆の一員として武田氏に従い、武田信虎・信玄・勝頼の武田3代の時代には、越後守信之・石見守親之・宮内助信親・宮内信直と続いた。武川衆は、戦国後期には武田信玄の弟典厩信繁・信豊父子を寄親としており、1561年の第4次川中島合戦では、親之が上杉方に討ち取られた信繁の首級を奪回する活躍を見せたと言う。信直の代の1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時信直は武川衆の一員として徳川家康に服属して北条氏と花水坂で戦い、北条方の中沢某を討ち取ったと言う。その後、徳川氏の旗本として武蔵国鉢形領に移封となった。

 実相寺館は、釜無川の支流大武川の南岸にある比高40m程の丘陵上にあり、現在は実相寺の境内となっている。境内の南辺と西辺に土塁らしい土盛りが見られるが、改変を受けているのか、城館の土塁としては傾斜がかなり緩やかになっている。尚、境内には国の天然記念物である神代桜がある他、墓地には同じ武川衆に属した蔦木氏(知見寺氏)の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.780830/138.367964/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本



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横手氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1080.JPG←南側の水堀
(2020年7月訪城)
 横手氏屋敷は、甲斐武田氏の家臣横手氏の居館である。横手氏は、釜無川流域の地域武士団「武川衆」の有力な一員であった青木氏の庶流で、1567年8月の「下之郷起請文」の武川衆7名の連署の中に、横手監物満俊の名があると言う。満俊は、翌年の駿河花沢城攻めで討死し、その後は実弟の青木源七郎が横手氏を継いだ。1582年の織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時横手氏は武川衆の一員として徳川家康に服属して北条氏と花水坂で戦い、また中山砦を守った。それらの功によって旧領を安堵された。

 横手氏屋敷は、中山西麓の横手集落の中にある。南辺40m、東辺60m程の長方形の居館で、北と東には水路が流れ、南側には車道に面して水堀が残っている。この水堀に面して石垣が残っているが、往時の遺構かどうかはわからない。南東隅には角張った張り出しが石垣で造られているが、お宮の跡であるらしい。市の史跡となっていて、表に標柱も立つが、建物が残る無住の民有地のようなので、敷地内の探索は遠慮した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.790961/138.323654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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馬場美濃守屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1071.JPG←屋敷地の現況
(2020年7月訪城)
 馬場美濃守屋敷は、武田信玄の重臣馬場美濃守信房(信春)の居館である。馬場氏は、武田信虎の時代に伊豆守虎貞を最後に絶えていたが、1546年に釜無川流域の地域武士団「武川衆」の教来石民部少輔信春が信玄の命でその名跡を継いだ。そして鬼美濃と恐れられた原虎胤の死後、その武名にあやかるようにと信玄より美濃守の名乗りを許された。信玄の子勝頼の時代に、長篠の合戦で多くの重臣と共に61歳で討死した。また信房は、知勇兼備で信玄の主要な合戦には必ず参戦して功績を上げたほか、築城の名手としても知られ、信玄時代の武田氏の名城の多くは信房の縄張りになると伝えられる。

 馬場美濃守屋敷は、白州保育園付近にあったとされる。市史跡となり標柱も立つが、遺構はない上、『甲斐の山城と館』では、「ここに特定した根拠もはっきりしない」とする。尚、信房の菩提寺である自元寺付近も馬場氏屋敷であったとの説がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.808434/138.327194/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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曲渕氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1065.JPG←若宮八幡社境内
(2020年7月訪城)
 曲渕氏屋敷は、甲斐武田氏の家臣曲渕荘左衛門吉景(或いは勝左衛門・庄左衛門とも)の居館である。武田信玄の傅役板垣信方の家臣となり、1548年の上田原の合戦で信方に属して戦った。その後、山県三郎兵衛昌景の家臣となり、1557年7月の信州小谷の平倉城攻めで、山県軍に属して曲渕庄左衛門は城主飯森春盛を討ち取った。武田信玄の西上戦では、1573年2月の三河攻撃で庄左衛門が勇名を馳せている。1582年3月の武田氏滅亡後は剃髪して玄長と号した。しかしわずか3ヶ月後に織田信長が本能寺で横死し、武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起すると、曲渕氏は、釜無川流域の地域武士団「武川衆」の一員として徳川家康に服属し、勝左衛門父子は斥候に出て軍功があった。その後は徳川氏に仕え、江戸時代には幕府の旗本となった。
 一方、曲渕氏屋敷は、花水坂を下りて釜無川沿いに諏訪に向かう逸見路を押さえる要衝であったため、天正壬午の乱の際、北条軍に砦に改修されたと考えられている。

 曲渕氏屋敷は、釜無川北岸の丘陵中腹に築かれている。小深沢川沿いにある若宮八幡社付近がその比定地とされている。境内に屋敷跡の標柱が立っているが、明確な遺構はない。また八幡社の南側下方は宅地となっていて改変されているので、どこまでが屋敷地であったのか推測することも困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.814577/138.344210/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


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中丸砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1053.JPG←外周の横堀らしい段築
(2020年7月訪城)
 中丸砦は、本能寺の変の後の武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」で、北条軍が陣地として使用したと推測される城砦である。伝承では、古くは甲斐源氏の一族逸見清光の塁とも伝えられるが、確証はない。『甲斐の山城と館』では、「古くから土豪の館があった地と考えられ、それを(中略)南方の深沢の砦と共に北条軍に利用され、その時に手を加えられた」としている。「天正壬午の乱」では、8月末に北条軍と徳川方の武川衆(釜無川流域の地域武士団)とが花水坂で戦っており、花水坂を監視し押さえる位置にあった中丸砦が、北条軍に使用されていたことは十分考えられることとされる。

 中丸砦は、大深沢川に面した断崖上の舌状台地に築かれている。ほぼ方形をした塁線が残っているが、郭内は耕地化しており改変を受けている。見た限りでは土塁もなく、ただの畑であるが、外周下方に横堀か腰曲輪らしい段が築かれている。しかし夏場だと薮で形状がよくわからない。尚、ここは民家に近いが、この外周の平場に鹿がいて、ダッシュで逃げていった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.821676/138.359274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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一条氏館(山梨県市川三郷町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0981.JPG←館跡の蹴裂神社
(2020年7月訪城)
 一条氏館は、一条氏塁、上野城とも言い、武田信玄の弟一条信竜の居館である。元々一条氏は、平安末期に武田信義の嫡男次郎忠頼が一条荘に入部したことに始まる。忠頼が源頼朝に謀殺されると、甥の信長が後を継いだ。その孫時信は甲斐守護となったが、その後絶えていた。戦国時代に武田信玄は、一条氏の名跡が絶えているのを惜しみ、異母弟の右衛門大夫信竜を立てて一条氏を継がせた。信竜は上野の地に塁城を築き、その子上野介信就と共に200騎を率いて甲南の守りを固めていた。1582年、織田信長による武田征伐の際、信竜は上野城に立て籠もって駿河路から侵攻した徳川家康と戦ったが、子の信就と共に討死した。

 一条氏館は、笛吹川南岸の丘陵中腹に築かれている。現在の蹴裂神社の辺りにあったとされるが、城館らしい遺構は皆無で、境内に上野城の石碑と一条信龍の祠があるだけである。しかし昭和20年代前半の航空写真を見ると、蹴裂神社周囲の畑の西から北西にかけて腰曲輪或いは堀状の畑の帯が見える。これを主郭外周の塁線だとすると、主郭の北端はやや突出して横矢を掛けていた様に見える。現在は畑のキワの段差と、下段の曲輪もしくは堀は耕作放棄地の薮で、夏場だとよく確認できない。ただ高台にあるため、眼下の眺望に優れており、陣を置くには絶好の地勢であったことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.567527/138.520507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本



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市川陣屋(山梨県市川三郷町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0976.JPG←陣屋の正門
(2020年7月訪城)
 市川陣屋は、江戸後期の1765年に巨摩・八代郡を支配するために設置された陣屋である。当初は駿府紺屋町陣屋の出張陣屋として築かれ、代官小田切新三郎による3万石余の支配から始まった。1795年、榊原小兵衛の時代に陣屋建て替えで正式に本陣屋となった。文化年間(1804~18年)の支配地は、247ヶ村、74,876石余、御預り9ヶ村、4,822石余であったと言う。当時は代官の居間に加え、手代取締や公事方などもある堂々とした建物であったが、1835年2月11日の落合大火で元締官舎1棟以外の建物を全て焼失した。初代代官から25人で明治維新を迎えた。

 市川陣屋は、JR身延線の市川本町駅の北西100~200m程の場所にあったらしい。現在は、市街地の十字路脇に陣屋跡の石碑が立ち、そこから東にちょっと歩いた所に陣屋正門が移築されて残っている。「御陣屋」の地名は、石碑の位置から南西のブロックにあるらしいが、現在は住宅地になっていて何も残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.561871/138.500937/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

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  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
  • 発売日: 2015/03/02
  • メディア: ムック


タグ:陣屋
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グレートコンジャンクション! [天文学]

DSCN1819.JPG
↑上が木星、下が土星。
 木星の横にはガリレオ衛星。左から順にエウロパ・イオ・ガニメデ・カリスト。

昨日12月21日の夕方、木星と土星が西の空で最接近した。
これほどの接近が地球から見られたのは、実に1226年以来と言う。
1226年といえば、蒼き狼の末裔チンギス・ハンが、まだ存命だった時代である。
これは見ずばなるまい!

ということで、仕事早引けして速攻で家に帰り、
納戸にしまい込んでいた天体望遠鏡を引っ張り出して、
ベランダで天体観測。

あまり機材がないので、即席で接眼レンズにコンデジを近づけて、記念の撮影。
西の空低く、また屋外に出してから時間が経っていないため、
反射望遠鏡の鏡筒内の空気の乱れがあって、
あまりシーイングは良くなかったが、一応土星の形もわかるし、
木星の4大衛星(いわゆるガリレオ衛星)もはっきり捉えられたし、
とりあえずこれで良しとしよう!

こうやって見比べると、木星と比べて土星のなんと小さいことか。
それにしても、望遠鏡の同一視野内に2大惑星を捉えられるなんて、
一生に一度しか見られない、貴重な記憶だ。
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義清館(山梨県市川三郷町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0951.JPG←甲斐源氏旧蹟之碑
(2020年7月訪城)
 義清館は、甲斐源氏の祖刑部三郎源義清の居館と伝えられている。義清は、八幡太郎源義家の弟新羅三郎義光の3男で、常陸那珂郡武田郷の支配を任されて居館を築き、武田冠者を称した。1130年に嫡男清光の「濫行」の罪を以って朝廷に告発され、義清・清光父子は甲斐国に配流となった。義清は、平塩寺の源行房を頼って市河庄・青嶋庄の下司となり、平塩岡に館を築いたと言う。49歳頃に甲斐の目代となった。1145年に市河庄の館で没したと伝えられる。

 義清館は、芦川扇状地を眼下に見下ろす台地中腹にあった。現在の熊野神社の辺りと推測されている。ここは周囲より高くなった東西に長い丘陵地であるが、明確な遺構は見られない。丘陵上には甲斐源氏旧蹟之碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.558153/138.506463/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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内藤孫三郎屋敷(山梨県市川三郷町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0936.JPG←屋敷地の現況
(2020年7月訪城)
 内藤孫三郎屋敷は、地頭屋敷とも呼ばれ、九一色衆17騎の一人、内藤孫三郎の居館である。孫三郎の父は肥前守と言い、武田氏の命によって九一色筋の警護のため、この地に住み地頭となった。駿河今川氏の隠密久島弥太郎を捕縛した働きにより、諸役免許の御朱印を拝領したと言う。その子、孫三郎・織部兄弟は、九一色17騎に名を連ね、天正壬午の乱の際、駿河から中道往還を通って甲府に侵攻した徳川家康に対して、百姓を率いて出迎え、大風雨で崩れた道や橋を修復しながら上曽根の竜華院まで無事に送った。また渡辺囚獄佑(ひとやのすけ)に属して中道往還を守った。それらの功により諸商売役免許(関銭の免除などの商売の特権)の御朱印も拝領した。

 内藤孫三郎屋敷は、高萩地区の丘陵地にある。芦川北岸のかなり傾斜のある地形に所狭しと民家が建っているが、その一画にあったとされる。郭内は2段に分かれ、民家が建っているので明確な遺構は確認できない。ここから北に少し登った所に蔵屋敷という場所があり、石垣で囲まれた畑となっている。尚、ここから北西に350m離れた傾斜地に、内藤肥前守の墓が立っている。
蔵屋敷跡の畑の石垣→DSCN0939.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.531144/138.553905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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土橋大内蔵屋敷(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0918.JPG←屋敷付近の現況
(2020年7月訪城)
 土橋大内蔵屋敷は、九一色衆17騎の一人、土橋大内蔵の居館である。土橋大内蔵は武田氏時代に九一色郷に居住した地頭で、武田軍役衆の当地の頭目であったと言う。屋敷があった本郷地区は、女沢峠と右左口峠の間にあって、甲駿2国を結ぶ中道往還の警護に当たっていたと推測されている。

 土橋大内蔵屋敷は、現在は水田・畑となっている。周囲の宅地との間に高低差があるが、明確な遺構は見られず、屋敷地がどこからどこまでであったのかはよくわからない。屋敷跡とされる畑の隅には、土橋大内蔵の石廟が残っている。
土橋大内蔵の石廟→DSCN0919.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.529642/138.614867/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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渡辺囚獄佑屋敷(山梨県富士河口湖町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0903.JPG←囚獄佑墓周囲の石積み
(2020年7月訪城)
 渡辺囚獄佑(ひとやのすけ)屋敷は、九一色衆の一員である渡辺囚獄佑守の居館である。囚獄佑は、甲斐武田氏に仕え甲駿国境にある本栖の警固に当たった。祖父源次知(さとる)は甲斐武田氏に仕えて左京亮と称した。1521年に今川氏親の重臣福島正成が甲斐に侵攻した際、軍功があった。知の子源次縄(ただす)は豊後と称し、武田信玄の駿河侵攻の際、駿河大宮城を守った。縄の子が守で、囚獄佑を称した。1582年の織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時、徳川家康は駿河江尻城を経由し、中道往還から甲斐に侵攻した。その際、渡辺囚獄佑ら九一色衆17騎は徳川氏に従属し、家康は囚獄佑を案内者として甲府の尊躰寺に入り本陣を据えた。その後家康が新府城に本陣を移すと囚獄佑も新府城まで随従した。家康は囚獄佑に本栖を固めて北条勢に備えるよう命じ、囚獄佑は本栖城に戻った。その帰路で北条軍別働隊の都留郡侵攻を告げる急使に会い、使者を伴って新府城に引き返し、家康に知らせた。家康は家臣安倍信盛に加勢を命じ、囚獄佑に本栖城の死守を命じた。北条軍別働隊が本栖城に攻め寄せると、九一色衆は奮戦し、間もなく囚獄佑らも到着し、北条勢を撃退した。家康は、その功により九一色郷に対して諸商売役免許(関銭の免除などの商売の特権)の印書を与えた。

 渡辺囚獄佑屋敷は、本栖湖東岸の丘陵地に築かれている。屋敷跡と伝承される場所付近には、溶岩軽石を積んだ石積みが多数残っている。結構起伏のある地形で、櫓台のような高台も見られ、切岸のような地形の上にも一直線に石積みが見られる。また石積みで区画された一画には五輪塔が2基祀られ、渡辺囚獄佑の墓と言われている。墓の東側上方にも、東の傾斜地と区画するように石積みがあり、虎口のような部分もある。しかし石積みは、全体に明確な縄張りを有していないので、全部が遺構ではなさそうだ。従ってどこまでが屋敷の遺構かもはっきりしない。尚、南から屋敷跡に至る小道沿いに、煙硝屋敷跡の表示があり、ここの南側にも石垣がある。
煙硝屋敷の石垣→DSCN0844.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.465354/138.604159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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山中氏館(山梨県山中湖村) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0828.JPG←わずかに残る土塁
 山中氏館は、この地の土豪山中氏の居館である。『妙法寺記』には山中氏の記述が2ヶ所あり、1つは1494年の武田氏の守護職をめぐる内訌においてで、3月16日の合戦で「山中殿」が討死したと記載されている。2つ目は1527年で、「山中太郎左衛門」が50人を伴って御本寺(沼津市の光長寺)を参詣したと記載されている。この年は甲斐・駿河の間に和睦が成立した年であり、それまでの30余年にわたって岳麓地域で繰り広げられた戦の戦死者を供養するためのものと推測されている。その後の事績は不明であるが、『甲斐国志』にある甲陽浪客山中美濃守介勝、その子主水介行、慶長郷村帳の山中佐太夫等は、太郎左衛門の子孫と推測されている。

 山中氏館は、山中湖畔に程近い、山中諏訪神社の南側にある。この一帯は「御所」の字名が残り、かつては内御所・外御所に分かれ、四方に石垣があり、その外側に深い堀があったとされる。現在は民家の脇に北西隅の土塁がわずかに残るだけである。尚、館跡の西方100m程の所に山中太郎左衛門の五輪塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.426651/138.848562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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谷村城〔附、谷村陣屋〕(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0806.JPG←谷村城跡の現況
 谷村城は、郡内小山田氏の居城である。小山田氏は中津森館を本拠としていたが、1532年に小山田越中守信有は新たに谷村城を築いて居城を移した。以後、小山田氏3代が武田氏重臣として本拠とした。但し、小山田氏時代の谷村城の位置は明確ではない。1582年の織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。このとき北条勢は、上野から信濃に入り佐久を南下した北条氏直率いる本軍とは別に、小田原を発した別働隊が都留郡を制圧しており、この別働隊が小山田氏滅亡後の谷村城を押さえた。天正壬午の乱は北条・徳川両者の長期対陣の後、徳川方の優勢下で和睦が成立し、谷村城には徳川家康の家臣鳥居元忠が入城して郡内を支配した。1590年の北条氏滅亡後、徳川氏が関東に移封となると、郡内は羽柴秀勝の領地となり、その家臣三輪近家・加藤光吉・浅野氏重が相次いで谷村城に入った。氏重は、1594年に勝山城を築いたが、谷村城も引き続き統治拠点として機能した。その後、鳥居成次・本堂茂親の後、1633年に秋元泰朝が上州総社城から谷村城に移封となった。秋元氏が3代続いた後、1704年に秋元喬知が川越城に移封となると、谷村城は廃城となり、天領(幕府直轄地)となって谷村代官が置かれ、谷村陣屋が造営されて幕末まで続いた。

 谷村城は、桂川東岸の平地に築かれている。古絵図によれば、谷村第一小学校付近に本丸があり、その北に二の丸・三の丸、南と東に馬出し的な曲輪を配していたらしい。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しており、その縄張りを追うことも困難である。わずかに小学校校地の隅に城址標柱が立っているだけである。隣の市役所に解説板があるが、そこに描かれた古絵図は陽に焼けてしまって全く見えなくなってしまっている。
 また谷村陣屋は、甲府地方裁判所 都留支部の付近にあったらしい。これも谷村城同様に遺構はなく、隅に標柱が立っているだけである。
谷村陣屋跡の現況→DSCN0809.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【谷村城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.551991/138.906455/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【谷村陣屋】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.552113/138.907743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:近世平城
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中津森館(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0761.JPG←館跡の中の小丘
 中津森館は、郡内小山田氏が谷村城に移る以前の居館である。小山田氏は、坂東八平氏の一、秩父氏の庶流である。武蔵守平将常5代の孫秩父重弘の次男有重が武蔵国小山田荘に住んで小山田氏を名乗ったことに始まる。鎌倉初期頃に田原郷を領知して、その一族がこの地に入部して郡内小山田氏が成立した。室町時代中期には、甲斐守護武田氏と姻戚関係となっており、小山田氏が郡内地方で相当の勢力を持っていたことがわかる。戦国時代前期に武田信縄・信虎父子と信縄の父信昌・弟信恵との間で守護職継承をめぐって内訌が生じると、小山田氏ら郡内勢は最初信恵側に付いた。1508年に信虎は信恵父子を討滅し、次いで小山田弥太郎が討死している。その後、信虎との間で和睦が成立し、これ以後武田氏の傘下に入ることとなった。中津森館が築かれた時期は不明であるが、1530年に消失するまで小山田氏の本拠であった。1532年に小山田越中守信有が谷村城を築いて居城を移すと、中津森館は廃館となった。

 中津森館は、大幡川北岸の傾斜地に築かれている。用津院の北西一帯が館跡とされ、南と西には江戸川という小河川が流れて天然の堀となり、その上に高台となって平場が広がっている。北東には畑の中に「泥堀(でいぼり)」と呼ばれる屈曲した堀跡が残っているが、館跡は耕地・宅地・墓地となり、それ以外の明確な遺構はよくわからない。用津院の北西に隣接して小丘があるが、いかにも物見台と言う感じの丘で、土塁の役割も負っていたと推測される。尚、北にある桂林寺には、小山田氏の墓と板碑が残っている。
泥堀と言う堀跡→DSCN3867.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.563739/138.895608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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花咲城(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0713.JPG←神社背後に残る土塁
 花咲城は、花咲鐘撞堂とも言い、歴史不詳の城である。古くは屋敷跡と伝承され、『甲斐国志』では陣鐘を置いて急を告げた所、或いは烽火台と推測している。在地土豪層の要害とも考えられている。

 花咲城は、天狗山と呼ばれる標高417m、比高50m程の丘陵先端部に築かれている。前面の上花咲集落との間は中央自動車道が貫通し、背後の尾根はゴルフ場へ通じる車道があって周辺部は改変を受けている。しかし主郭付近は往時の姿をかなり残していると思われる。ほぼ単郭の小規模な城砦で、主郭には現在神社が建ち、その後ろに土塁が築かれている。背後には堀切があったと想定されるが、ゴルフ場の車道から神社まで通じる小道が切り開かれているため、堀切は埋められてしまっていると思われる。土塁も神社建設で改変を受けている。堀切から西側に落ちる竪堀はしっかりと確認でき、その下方には腰曲輪が築かれている。主郭の周囲にはこれ以外にも腰曲輪が見られるが、夏場だと草が茂っていて少々わかりにくい。尚、訪城した時は神社の社殿が再建中だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.606283/138.922044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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鎌田氏館(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0704.JPG←諏訪神社付近の現況
 鎌田氏館は、鎌倉時代にこの地を領した鎌田兵衛尉(為成とも言われる)の居館とされる。1213年の和田合戦で古郡氏が滅亡すると、その遺領は勲功のあった武士たちに分与され、福地郷は鎌田兵衛尉が賜った。

 鎌田氏館は、桂川曲流部に突き出た半島状台地に築かれている。この台地は堀之内と呼ばれ、その頂部に当たる諏訪神社付近に居館が置かれたとされるが、遺構は完全に湮滅している。現在この半島状台地は宅地と畑・空き地となっているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、台地上は一面の耕作地で宅地はほとんど見られない。既に館跡らしい明確な遺構は見られなくなっており、現地解説板に書かれている「北方の堀切」も昭和20年代前半には既にわからなくなっている。結局、堀之内の地名以外に居館跡の痕跡は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.604294/139.013497/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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矢坪坂古戦場(山梨県上野原市) [その他の史跡巡り]

DSCN0687.JPG←古戦場の解説板
 矢坪坂合戦は、1530年4月23日に甲斐国郡内の領主小山田越中守信有の軍勢が、甲斐に攻めこんだ相模の北条氏綱の軍勢を迎え撃った戦いである。激戦の末、小山田勢は敗退し、多数の戦死者を出したと言う。

 矢坪坂古戦場は、旧甲州街道の矢坪集落付近にある。大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、南西に切り立った崖と北面に山腹を臨み、道が入り組んでいる要害の地であった。この付近の甲州街道はかなり起伏のある山道で、丘陵上に宿場町が散在し、山間地中腹を縫うように街道が通っている。矢坪坂合戦は街道沿いの要衝での戦いであったことが、現地の地勢を見るとよく分かる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.632064/139.047593/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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長峰砦(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0681.JPG←砦跡の解説板と石碑
 長峰砦は、武田信玄の家臣加藤丹後守信景が築いた出城と言われている。信景は、上野原城を本拠として現在の上野原から大月市域までを支配した土豪で、甲斐国の東口を小田原北条氏の攻撃から守る役目を負っていた。東の鳶ヶ崎から西の矢坪に至るまで長い尾根が続いており、そのためこの地は長峰と呼ばれていた。この長峰には旧甲州街道が通っており、2つの宿場町を繋ぐ交通の要所であることから、この付近は度々武田氏と北条氏が小競り合いをした古戦場でもあった。長峰砦は仲間川対岸の大倉砦と連携して東からの北条氏の侵攻に備えていたと考えられている。

 長峰砦は、前述の通り長い尾根の中間に築かれていた。現在は中央自動車道が貫通し、砦跡はほとんど消滅している。中央道の拡幅工事に先立ち、1995~98迄の間に3次にわたる発掘調査が行われ、尾根上に東西に連なる3つの曲輪と堀切・横堀が確認された。また北に伸びる支尾根にも遺構があったらしい。今は、中央道の南の側道の砦跡付近に石碑と解説板が立っている。また北支尾根の遺構は、中央道の北側に部分的に残存している様だが、夏場で薮が茂っているうえ雨模様だったので、踏査は諦めた。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.632273/139.076368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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上野原城(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0673.JPG←堀切跡の道路
 上野原城は、内城館とも言い、最初は古郡氏、後に加藤氏の居城となった。古郡氏は、武蔵七党の一、横山党の一流で、小野横山系図によれば横山党の祖となった義孝の孫忠重が、平安末期にこの地に入部して古郡氏を称したことに始まる。古郡氏は4代続き、現在の上野原から大月市域まで支配したが、1213年の和田合戦で和田義盛方に属して敗れ、滅亡した。同年5月、戦功によって古郡郷は加藤景長に与えられ、上野原城を居城とした。その後加藤氏は、室町中期に加藤入道梵玄が武田信長に従って活躍し、1494年3月26日の合戦で死んだ加藤兵衛少輔の名がある。1582年の武田勝頼滅亡の際には、加藤丹後守信景は一族を率いて武蔵国へ逃れたが、武蔵箱根崎で一族と共に討死したと言う。

 上野原城は、鶴川とその支流の小河川に挟まれた三角形状の台地突出部に築かれている。しかし現在は城の中心部を中央自動車道が貫通し、東の小河川による幅広の沢もほとんど埋め立てられて、小さな水路と段差がスーパーの裏手に残っているだけである。従って地勢も大きく変貌してしまっており、城の名残を思わせるものはほとんど無い。かつての城跡の北西の基部には堀切を穿って台地と分断していたが、それは現在の稲荷神社前の車道に相当する様である。これも埋め立てられているので、旧状を推し量ることはできない。内城と呼ばれた主郭内も、外城と呼ばれた外郭も、全て宅地化で改変されている。稲荷神社前の城址解説板だけが、城の歴史を伝えている。尚、解説板にある城跡の地形図では主郭は四角い形をしていたように描かれているが、昭和20年代前半の航空写真を見た所、実際には前述の通り三角形状が正しい。実態とかなり異なる地形図なので、注意が必要である。
東側の段差と水路→DSCN0675.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.623884/139.109133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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松留館(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0664.JPG←墓地裏に残る土塁
 松留館は、歴史不詳の城館である。この地は、鎌倉時代前期までは古郡氏の支配、古郡氏が1213年の和田合戦で滅亡すると、その遺領は加藤氏に与えられ、加藤氏は甲斐守護武田氏に属してこの一体を支配していたと考えられている。このことから、古郡氏や加藤氏に関連する城館ではないかとの説があるが確証はない。

 松留館は、桂川と鶴川の合流点北西の段丘上に築かれている。現在は正法寺の境内となっている。明確な遺構は唯一、寺の北側にある墓地裏の直線状の土塁だけである。その北側の、JR中央線との間に広がる畑地も一郭であった可能性を『日本城郭大系』では指摘しているが、夏場では雑草に覆われていて、土塁の残欠らしい土盛りがあるとされるのもよくわからない。明確な遺構には乏しいが、地勢そのものが要害である。尚、館の西側を通る甲州街道の方が上方にあり、街道から見下ろせる場所が城館地として適切だったのか、ちょっと気になった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.617169/139.108061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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金古代官屋敷(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0628.JPG←雑草に埋もれた表門
 金古代官屋敷は、三国街道の宿場町金古宿を支配した旗本松田氏の代官神保家の屋敷である。神保家は、代々名主を務めた豪農であった。幕末には世直し一揆の襲撃を受けたと言う。その主屋と表門、圏舎(牢屋)が残っている。県道25号線沿いにあるが、表門は周りが雑草だらけになってしまっている。圏舎は南東の角にあるが、あまり手入れされておらず朽ちかけている。主屋は門越しに覗いただけだが、無住になっているらしく、これも雑草に埋もれている。市の史跡に指定されているが、ちょっとひどい有様で、行政の文化財保護の姿勢が問われる現況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.412165/139.002897/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


旗本・御家人の就職事情 (歴史文化ライブラリー)

旗本・御家人の就職事情 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 山本 英貴
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/09/18
  • メディア: 単行本


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山子田城(群馬県榛東村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0621.JPG←主郭背後に残る土塁
 山子田城は、桃井城(桃井西城)とも言い、和田義盛と共に滅んだ土屋義清の館であった。後に、足利氏の庶流桃井氏の本拠地となったと考えられている。東方約1.1kmの位置に桃井城(桃井東城)があり、別城一郭の構えを成していたとされる。しかし現在残る遺構は、桃井地衆により戦国時代に築かれたものと推測されている。

 山子田城は、榛名山東の中腹の緩傾斜地に築かれている。城内のほとんどは耕地整理で改変されており、明確な遺構に乏しい。大きな主郭とその東側の南北に長い二ノ郭から構成されていたとされ、主郭と二ノ郭の間には大きな用水路が流れている。明確な遺構は主郭後部(西側)の土塁だけで、南西隅には小さな神社が祀られ、城址解説板が立っている。主郭の東部には「御堀の五輪塔」と呼ばれる古い五輪塔が残っている。主郭の北・西・南の三方は空堀で囲繞されていたようだが、現在はわずかな段差しか残っていない。二ノ郭の南東角には櫓隅の地名が残っていたが、現在は耕地整理で塁線を追うこともできない。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439065/138.984121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野国が生んだ足利氏

下野国が生んだ足利氏

  • 作者: 下野新聞社編集局
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2017/12/14
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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勝保沢城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0461.JPG←出丸周囲の空堀
 勝保沢城は、小田原北条氏の家臣齋藤加賀守安清が城主であった城である。安清は元々武州勝沼郷の領主(元は勝沼城主三田氏の家臣か?)で、北条氏康に仕え、妻の父狩野筑前守安元と共に北条領国の北方警備のため一族を挙げてこの地に移住したと伝えられる。1590年に北条氏が滅亡すると安清は浪人となり、城地の方一町を寄進して曹洞宗宗玄寺を開いたと言う。
 一方で、宗玄寺の寺伝では、1615年に信州松本城主小笠原秀政が開基したとされ、寺の山門・本堂には小笠原氏の家紋が描かれている。しかし秀政とこの地に何の縁があったのかは不明で、謎の多い伝承である。

 勝保沢城は、赤城山西側の中腹に築かれている。南北を沢筋で遮断された地勢で、西の段丘先端部、直線距離で1.4kmの位置には不動山城がある。不思議な縄張りの城で、主城域と思われるのは宗玄寺の付近一帯の傾斜地で、北に向かって段々と高くなっている。城内は、宗玄寺の境内・墓地と畑、山林となっている。改変が多いので明確でない部分もあるが、西にある保育園・幼稚園との間に明確な空堀が残っている。宗玄寺の周りにも空堀があったらしいが、現在は湮滅している。結局、空堀以外に明確な城郭遺構は主城域には残っていない。一方、この主城域とは別に、北西の山林の中(赤城村歴史資料館の北東)に空堀で囲まれた長円形の孤塁があり、遊歩道で散策できるようになっている。ここを主郭とする資料もあるが、周囲に付随する曲輪がなく、独立した出丸と考えた方が良い。しかし出丸をここに築いた意図はさっぱりわからない。この出丸周囲の空堀は、北西部で北斜面に竪堀となって落ちている。以上が勝保沢城の遺構で、何とも理解し難い、消化不良な印象の城である。
 尚、宗玄寺の墓地には、齋藤加賀守安清の墓があり、一番高い所には後裔である現代斎藤家の大きな墓が立っている。先祖の墓を、同じ墓域に祀らないのも不思議なことである。
幼稚園との間の堀跡の畑→DSCN0578.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.520777/139.046348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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田野城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9302.JPG←主郭の遠望
 田野城は、小野子の砦とも呼ばれ、歴史不詳の城である。柏原城の対岸の丘陵地に位置し、白井城の境目の城として吾妻勢力に対峙していた城と推測されている。

 田野城は、東を田野沢という深い沢筋で隔絶した、丘陵中腹に位置している。南は吾妻川に臨む断崖となっている。城内は畑となっているので、踏査には地主の方の許可が必要である。たまたま畑仕事をされていたので、立ち入りをお願いした所、快く承諾いただけた。基本的には金原城と同じ段曲輪群のみで構成された城で、西側や南側は段々になった平場群が連なっている。最頂部には長円形の小さな主郭があり、周囲を高さ2m程の切岸で囲んでいる。東側の藪の中の切岸には小規模な石積みが見られるが、遺構かどうかは定かではない。しかし畑の土留にしては位置が不自然であり、遺構である可能性も十分あると思う。遺構面で特筆するような特徴はないが、主郭付近の平場群の形状は、いかにも城っぽい感じがする。
南の平場群→DSCN9334.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.552345/138.942246/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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役原城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9255.JPG←主郭北東側の切岸
 役原城は、関東管領山内上杉氏の重臣で白井城主であった長尾景春の3男長尾重儀が築城したと伝えられる。長尾景春といえば、関東全域を戦乱の渦に巻き込んで太田道灌と渡り合った大規模な叛乱「長尾景春の乱」で有名である。重儀は、後に尻高城を築城し、尻高左馬頭重儀と改めた。明応年間(1492~1501年)頃に息子に尻高城主を譲り、役原城に隠居したと言う。

 役原城は、役原川西岸の段丘の縁に築かれている。城の東側は川に臨む崖となっており、西側を堀で台地との間を断ち切った城だった様である。現在城址標柱と解説板が立っている畑が主郭で、縦長の長円形をしている。主郭は北から東にかけては段丘崖の切岸で囲まれ、西側は堀跡が一段低い道路となって残っている。主郭の南には、堀切跡の道路を挟んで、台形状に広がった二ノ郭があった様である。城内は宅地や畑に変貌しており、改変が多いので、城域がどこまで広がっていたのか、判断が難しい。尚、堀跡の道路から西側の台地の方が、城内の曲輪より高い位置にあるのも少々謎である。
堀跡の道路→DSCN9258.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.631182/138.924962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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金原城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9217.JPG←主郭と思われる畑
 金原城は、白狐城とも言い、応永年間(1394~1428年)に金原左衛門尉という武士の居城であったと伝えられている。

 金原城は、吾妻川南岸の比高35mの丘陵先端部に築かれている。登り口に城址標柱があり、そこから登っていくと腰曲輪状の平場を経由して忠霊塔の建つ平場に達する。これがどうも二ノ郭であるらしい。その上にももう一段、畑になっている平場があり、おそらくこれが主郭なのだろう。主郭の後部は一段高くなっている他、東側にも段々になった腰曲輪状の平場がある。しかし城とするには、背後の台地基部を分断する堀切も見られず、段曲輪群のみで構成された城で、しかも後世の改変もあるので全てを遺構とみなせるかどうか、少々疑問に思うところもある。『群馬県古城塁祉の研究』では、「階段状になった地形を遺すのみで遺構は明らかでない」と書かれているそうだが、その通りの状況である。尚、吾妻川を挟んで目の前には岩井堂砦の奇岩がそびえている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.551190/138.902775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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深津坂田城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2066.JPG←堀跡の段差か?
 深津坂田城は、深津館とも言い、この地の土豪であった深津氏の居館であったと伝えられている。

 深津坂田城は、前橋市の史跡に指定されており、資料によれば「堀の内と呼ばれる方160mの二重堀に囲まれた一郭が本丸跡と推測され、北東隅に一部堀跡が残る」とされる。しかし史跡の標柱もなく、場所もはっきりしない。おそらく市道脇の民家が主郭跡であったと思われるが、敷地の周囲に若干の段差が見られるほか、車道を挟んで西側にも畑に段差が見られる。これらが堀跡の段差なのであろうか?また民家の北西部が一段高くなっていて、祠と古風で小さな五輪塔数基があるのが、庭木の間から見える。今となってはほとんど失われてしまった城であるらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.400819/139.205489/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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