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岩崎氏館(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2350.JPG←館跡周囲の急崖
(2020年8月訪城)
 岩崎氏館は、立広砦とも言い、甲斐源氏の一流岩崎氏の居館である。武田信光の子七郎信隆がこの地に入部し、岩崎氏を称したのに始まる。岩崎氏は、生山系図によれば甲斐源氏の棟梁職を表す御旗・楯無鎧を8代にわたって相伝したとされ、岩崎直信の時に守護武田信重に伝えたと言う。また『太平記』等の南北朝期の記録には、甲斐守盛正(盛信、岩崎氏の一族)・武田甲斐前司の名が見え、岩崎氏が一時、甲斐守であったことを示している。これらのことから、岩崎氏はこの頃、武田惣領家と相並ぶ地位にあったことをうかがわせている。しかし1457~8年の守護武田信昌と守護代跡部景家との戦いに岩崎氏も巻き込まれ、岩崎小次郎・岩崎源次郎が戦死しており、その他一族の多くが討死して滅亡したと言う。
 尚、岩崎氏が活躍した鎌倉時代から室町時代前半期は、記録が少ないことから甲斐史の空白期とも言われ、岩崎氏はこの間に登場する数少ない氏族と言う。

 岩崎氏館は、坂下川という小河川の南にそびえる段丘辺縁部に築かれている。選地は勝沼氏館とよく似ている。西と南を空堀で分断し、北は急崖、東も谷が入り込んだ急崖で囲まれていたが、南は勝沼バイパスが、西は市道が貫通していて、堀跡は完全に破壊されている。残っているのは北と東の切岸の急崖だけである。郭内はほとんどがぶどう畑になっており、残る部分も民家となっている。南西隅に太鼓楼跡とされる土壇があったが、これも現在は砕石が敷かれた駐車場になってしまっている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、西と南の堀跡が明瞭で、南の中央付近には角馬出しもあった様に見受けられる。本当に馬出しが存在したとしたら、戦国期まで時代が下ることが確実で、岩崎氏滅亡後も砦として機能した可能性がある。立広砦と言う別称も戦国時代の使用によるものかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.652903/138.722101/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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勝沼氏館(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2240.JPG←東門の石積み基壇
(2020年8月訪城)
 勝沼氏館は、武田信虎の弟勝沼安芸守信友の居館である。信友は郡内領の目付としてこの地に配されたと考えられ、勝沼氏を称し、勝沼衆を率いて兄信虎を強力に支援して各地を転戦したが、1535年8月、籠坂峠を越えて都留郡に侵攻した相模の北条氏綱の軍勢を山中で迎え戦って、手勢270名と共に討死した。その子丹波守信元が跡を継ぎ、引き続き武田氏の有力な親族衆として軍事力の一翼を担った。『甲陽軍鑑』等によれば、1542年の信濃大門峠の合戦で逸見氏・南部氏・栗原氏日向大和守等と共に諏訪の城に布陣、1546年の関東管領上杉憲政の関東勢と上信国境の笛吹峠(碓氷峠)の合戦で板垣信方を大将とした軍勢に参陣、翌47年には上杉謙信との信濃海野平の合戦で後陣として出陣、1550年の信濃深志城攻略等に出陣、1553年の小笠原長時との信濃桔梗原の合戦に出陣、と言った具合に各地の戦いに参陣している。しかしその後、武蔵の藤田右衛門と内通したことが発覚し、1560年11月に武田信玄に誅殺されて勝沼氏は滅亡した。尚、信元の弟信厚は、相模と津久井との国境を押さえる上野原城主加藤氏の名跡を継ぎ、加藤丹後守信景と称したらしい。信景は、1582年の武田氏滅亡の際、武蔵箱根崎で北条勢に攻撃されて討死したと言う。また信友の娘という松葉は、信元誅殺後に岩崎郷の雨宮氏から離縁され、大善寺の尼となって理慶尼と称し、『理慶尼記』を著した。
 尚、最近の研究では、信友の討死後、武田氏の重臣今井氏が館主としてこの地を治めていたと考えられている。

 勝沼氏館は、甲府盆地東端の日川北岸の段丘辺縁部に築かれている。「館」というので平地の方形居館を予想していたが、案に相違して段丘崖の館であった。現在国指定史跡として整備されている。内郭は東と北の2辺を空堀で区画した曲輪で、土塁に沿って土塁を築き、北西端と南東端近くにそれぞれ北門・東門を設けている。東門は石積みの基壇があり、木橋で渡っていたらしい。内側には櫓台もある。郭内には建物群の礎石・水路・水溜・工房などが発掘され、復元表示されている。内郭外周の空堀の外には、更に土塁と空堀が構築され、北西には北西郭があったが、現在は湮滅している。さらにもう一回り外側に水路が流れ、北郭と東郭が設けられていた。東郭には、水槽式浄化施設・飲料水受水槽・職人工房など珍しい遺構が復元展示されている。東郭の東側には復元土塁があるが、枡形虎口になっていたらしい。その東は外郭で、家臣屋敷があったが復元されたものを見る限り、極めて小さな小屋であった様だ。勝沼氏館は、貯水槽・工房など他ではあまり例のない遺構が多数あり、極めて貴重な遺構である。
内郭の空堀と土塁→DSCN2248.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.659580/138.732122/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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前原城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2057.JPG←赤麻遊水地の遠望
(2020年8月訪城)
 前原城は、下野の名族小山市の庶流中沼(長沼)氏の城である。一般的には長沼氏として知られるこの氏族は、小山政光の次男中沼(長沼)淡路守宗政を祖とし、その後裔として鴫山城を本拠とした奥州長沼氏や、戦国下野で奮闘した皆川城の皆川氏を輩出した。前原城の中沼氏も同族で、鎌倉末期に中沼右京大夫宗忠が築城したと伝えられる。また南北朝期の文和年間(1352~56)頃には、長沼宗政6代の孫、中沼右近大夫守忠が前原城主で、その長男越前守守行が初めて前原氏を称したとされる。城は1590年まで存続したと言う。

 前原城は、西前原集落の南方にあったらしい。菱形の形状をしていたと伝えられるが、大正初期の赤麻沼北岸の遊水地化によって全壊した。従って城址は現在、渡良瀬遊水地の一部を為す赤麻遊水地の一画に埋没しており、どこにあったのか、その位置すら明確にできない。尚、西前原集落の北端に稲荷神社があるが、前原城と関連するものと考えられているらしい。せめて神社に社伝を書いた説明板でもあればよかったのだが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【推定地】
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.270919/139.697771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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大前田内出居砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2028.JPG←砦の遠望
(2020年7月訪城)
 大前田内出居砦は、歴史不詳の城砦である。一応市の史跡に指定されているが、現状は宅地で、宅地北側の竹林付近に遺構が残っている様である。盛夏に訪城したので、薮がひどくて遺構の確認がほとんどできなかったが、ある程度薮払いされている北西部に、西側の切岸や北側の堀跡らしいものが見られる。史跡標柱が立っているが、薮に埋もれていてよく見えないし、夏場は近づくことも難しい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、どうも南北に長い長方形をした単郭の砦であったように見受けられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.424908/139.187583/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本



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荒子砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2012.JPG←公園内に残る土塁
(2020年7月訪城)
 荒子砦は、歴史不詳の城砦である。現在は大きな忠霊塔が建つ「荒砥林の広場」という公園になっている。小河川東岸の台地の縁に築かれており、昭和20年代前半の航空写真を見ると、かなり広幅の堀のような形の水田が北と東に見られるが、実際に堀跡であったのかどうか、今ではよくわからない。ただ、公園を散策すると、西辺部に土塁が見られ、この土塁は忠霊塔の北側まで屈曲しながら伸びている。忠霊塔建設や公園化に伴う土盛りと考えるのが普通だが、西辺部などは遺構であった可能性が高い様に思う。いずれにしても謎の多い城砦である。尚、公園の南側に砦跡の標柱が立ち、公園入口にも砦跡の表札があるのは、ちょっと嬉しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.379953/139.173743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


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小坂子城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1998.JPG←主郭西側の切岸
(2020年7月訪城)
 小坂子城は、西新井城とも言い、嶺城の支城である。城主は五十嵐和泉守で、元は関東管領山内上杉氏の家臣で、上野漆原城主であった。弓の名人で、長野氏の守る箕輪城と連携して西上州を押さえていたが、1566年に武田信玄の上州攻めで箕輪城が落城し、長野氏が滅亡すると、和泉守は厩橋城に落ち延びた。厩橋城主北条丹後守高広は、和泉守を家臣に取り立て娘を嫁がせるなど厚く待遇した。この時に和泉守は小坂子村を賜って、小坂子城主となったと言う。その子荘左衛門久和は仏門に入っていたが、厩橋城主酒井雅楽頭忠世に見出されて世子安房守忠行の旗本に取り立てられ、大坂冬の陣・夏の陣に従軍し、大きな手柄を立てたと言う。

 小坂子城は、小坂子八幡神社とその北側に伸びる段丘上に築かれている。神社境内は南の外郭に当たり、主郭は神社から160m程北にある。主郭は縦長長方形の曲輪で、周囲より高くなっており、北・西・南の三面に切岸が残る他、南には堀切が残存している。この堀切道の入口に城址解説板が立っている。主郭内は畑に変貌しており、主郭の東辺部はどこまで広がっていたのか、現状ではよくわからない。主郭の南北にも曲輪が連なっていたと思われるが、地勢以外は不明瞭である。主郭だけでも完存していればと惜しまれる。
主郭南側の堀切跡→DSCN1997.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.430071/139.112288/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2013/01/15
  • メディア: 文庫


タグ:中世平城
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兎貝戸砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1954.JPG←主郭南の堀跡
(2020年7月訪城)
 兎貝戸(うさぎかいと)砦は、歴史不詳の城砦である。芳賀東部工業団地北方の小河川西側の段丘上にある。昭和20年代前半の航空写真を見ると、空堀で囲まれた東西2郭が明確にわかる。現在は、南側の空堀以外の堀は全て埋められ、また東西に並んだ曲輪の内、西の主郭の東半分だけが耕作放棄地となって、概ねその形状を残している。ここには解説板も建っている。主郭の南には空堀が窪地となって残っている。東の二ノ郭は、主郭より一段低くなっており、畑となっている。二ノ郭も南に堀跡がわずかに残り、北の空堀は湮滅しているものの、塁線が段差となって残っている。私が訪城した時は、主郭の西半分は砕石が敷かれ、駐車場の様になっていた。これ以上の改変がされないように望みたい。
二ノ郭、奥に見える窪地が堀跡→DSCN1958.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.424097/139.111258/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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勝沢城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1946.JPG←主郭西の大堀跡の道路
(2020年7月訪城)
 勝沢城は、鎌倉初期の武士、藤沢次郎清近(清親)の居城と伝えられている。清近は、射術に秀で、源頼朝の腹心として抜擢されて戦功があったと言う。従って勝沢城は鎌倉時代に始まるが、近代まで残っていた遺構は戦国期のものと推測され、嶺城の支城であったと考えられている。支城であったことから、「番城」の地名が残されていると推測されている。

 勝沢城は、藤沢川とその支流の小河川に挟まれた台地上に築かれていた。現在は一面の住宅団地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代前半の航空写真とGoogleMapの航空写真を照合すると、主郭は「高花台一丁目駐車場」という広い駐車場の西側にあったらしい。前述の昭和20年代前半の航空写真を見ると、主郭はやや横長の長方形に近い形状の曲輪で、その北側にはわずかに横矢の掛かった空堀を挟んで東西に長い帯曲輪があり、主郭の南にも空堀を挟んで南郭があった。またこれらの曲輪の西側に南北に貫通する大堀があり、この大堀によって西側の曲輪群と分断された一城別郭の縄張りであったらしい。主郭の西にあるのが二ノ郭とされ、その南北にも曲輪が付随していた様である。これらの内、大堀跡の南半分には車道が通り、主郭跡に建つ民家よりも道路面が若干低くなっていて、わずかにその名残を感じさせる。尚、ネットで確認したところ、勝沢城のことを取り上げているHPの多くが、城の位置を誤認している。主郭の位置は、下記のリンク先が正しい。
主郭の現況→DSCN1943.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.426393/139.105979/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

  • 作者: 元木 泰雄
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/01/18
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
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鳥取砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1928.JPG←砦跡に建つ大鳥神社
(2020年7月訪城)
 鳥取砦は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の際に、越後守護上杉房定の子・定昌が在陣したと伝えられる砦である。定昌は、享徳の乱の中で上杉方の本営五十子陣に在陣していたが、1477年に長尾景春が山内上杉氏に対して叛乱を起こすと、景春の攻撃を受けて五十子陣は崩壊し、定昌は上野国に退いて白井城に長らく在城していた。長尾景春の乱終結後、1483年の都鄙和睦により享徳の乱が終息したが、今度は山内・扇谷両上杉氏の間で対立が生じ、1487年に長享の乱が勃発した。定昌は、実弟の山内上杉顕定を支援するため、足利長尾氏の居城勧農城の攻撃を企図して、一時この城に在陣したとされる。また赤堀氏らの上野衆も在陣している(赤堀文書)。

 鳥取砦は、藤沢川とその支流の小河川に挟まれた台地上にあったらしい。大鳥神社付近一帯が城域とされるが、現在はほとんどが宅地となっており、明確な遺構は見られない。ただ大鳥神社の背後は周囲より一段高くなっており、曲輪の土壇の残欠である可能性がある。尚、大鳥神社の解説板には、「戦国時代の田中(嶺)城の砦跡」と記され、嶺城の支城としている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417138/139.103619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東上杉氏一族 (中世関東武士の研究22)

関東上杉氏一族 (中世関東武士の研究22)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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上泉城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1865.JPG←主郭西側の堀跡
(2020年7月訪城)
 上泉城は、大胡城主大胡氏の一族とされる上泉氏の居城である。剣聖として名高い上泉伊勢守信綱(秀綱)の所縁の城でもある。上泉伊勢守の事績については諸説あるが、通説をまとめると大略次の通りとなる。永禄年間(1558~70年)に上泉城主であった信綱は、上杉謙信が関東に出馬すると上杉方に属し、箕輪城主長野業正の配下に入って奮戦した。業正が病死すると、武田信玄が上州攻撃を開始し、1566年、業正の後を継いだ業盛を滅ぼし、箕輪城を攻略した。この時信綱は、武田信玄からの仕官の誘いを断り、下野して武者修行者として諸国巡歴の旅に出たとされる。そして新陰流の開祖として、柳生宗厳(石舟斎)らに新陰流を伝授した。一方、信綱の子秀胤は、これより先に父信綱によって人質として小田原北条氏の元に送られ、そのまま北条氏の家臣となった。その後、第二次国府台合戦で討死したと言う。その後、秀胤の子と言われる主水泰綱が父の跡を継いだが、1590年の北条氏滅亡後は浪人となった。1600年の関ヶ原合戦前に、上杉景勝より軍備強化の一環で仕官を求められ、それに応じて上杉氏家臣となった。慶長出羽合戦の際、長谷堂城の戦いで直江兼続の配下で戦い、討死した。

 上泉城は、桃ノ木川と藤沢川に挟まれた段丘上に築かれている。城内は宅地化が進んでおり、明確な遺構は少ない。上泉町自治会館の北側に方形の小さな主郭があり、周囲より一段高くなっている。主郭内には江戸時代の郷蔵が残っている。主郭の西側は窪地状になっており、堀跡であることが明瞭であるが、西以外の三方は切岸だけになっており、堀跡はわからなくなっている。主郭の南には、堀を挟んで二ノ郭があったようだが、現在は自治会館等が建っており、遺構は湮滅している。ここには上泉伊勢守の銅像や石碑が立っている。西にやや離れて信綱の墓のある西林寺があるが、ここも城の一郭であったらしいが、段丘上にあるという他は明確な遺構に乏しい。また西の外れに玉泉寺があり、出城であったとされる。ここにはわずかに墓地裏に土塁らしい遺構が残っている。以上が上泉城の現況で、遺構としてはかなり残念な状況である。しかし城内やその周辺は「剣聖上泉伊勢守」の看板だらけで、地元の人の伊勢守への強い愛着を感じさせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.398643/139.109477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史 (県史)

群馬県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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八幡山砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1835.JPG←東側から見た砦跡の丘
(2020年7月訪城)
 八幡山砦は、歴史不詳の城砦である。東側の小河川に臨んだ段丘南端の小塁で、赤城山南西麓の裾野の先端部に当たる。現在は八幡山南橘聖霊廟が祀られている。小高い丘になっており地勢は残っているが、改変されているため明確な遺構は見られない。『日本城郭大系』では、「砦跡というが疑問」と注釈されているので、実際に砦があったのかどうかも不明瞭らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.421248/139.076346/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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於曽屋敷(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1786.JPG←南辺の土塁
(2020年7月訪城)
 於曽屋敷は、甲斐源氏の一流於曽氏の居館である。元々は、甲斐の古代豪族三枝氏の分流三枝系於曽氏がいたが、平安末期に衰亡し、代わって甲斐源氏加賀美遠光の4男光経・5男光俊が入部して於曽氏を称したと言う(加賀美系於曽氏)。於曽屋敷は於曽光経・遠経父子の屋敷と言われ、鎌倉初期に築館された。時代は下って永禄年間(1558~70年)、武田信玄の時代に、於曽信安が板垣氏を継ぎ、信方・信泰は於曽殿と呼ばれて活躍した。1582年の武田氏滅亡の際、織田勢の攻撃を受け、板垣権兵衛がこの地で自害したと伝えられている。
 一方、於曽屋敷の周囲には黒川金山を管理した金山衆が多く住居を構え、金製法の作業場があったことから、金山衆の役宅との説も提示されている。

 於曽屋敷は、塩山駅南方の市街地の只中にある方形単郭居館である。西半分は於曽氏後裔の廣瀬家の宅地になっているが、東半分は公園として整備されている。四周には大きな土塁が廻らされている。往時は二重の土塁で囲まれていたらしいが、現在は一重の土塁しか確認できない。残っているのは、北辺以外は内側の土塁で、東中央には虎口らしい跡が見られる。北辺は外土塁が残っており、内側に内土塁が部分的にわずかに残存しているが、かなり低くなっており、ほぼ湮滅に近い。西辺の土塁は廣瀬家の宅地内にあるが、西側に細い通路があり、一応外周から見ることができる。土塁の周囲には水路を兼ねた水堀があったと思われるが、現在は湮滅している。しかし連方屋敷と同様、市街地の只中であるのにこれだけ遺構がよく残っているのは、奇跡的という他はない。
 尚、板垣権兵衛の腹切石が、屋敷の南東の道路脇に残っている。
西辺の土塁→DSCN1822.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.703084/138.732551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


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武田信春館(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1776.JPG←土塁跡とされる墓地
(2020年7月訪城)
 武田信春館は、甲斐守護武田氏12代信春の居館で、千野館とも呼ばれる。甲斐武田氏は代々石和周辺に守護館を構えていたが、信春が跡を継ぐと千野に居館を移した。これは、黒川金山の掌握を狙っていた為との説がある。信春の頃は南北朝動乱期に当たり、甲斐武田氏は一族を挙げて北朝方として戦ったが、信春の代になると甲斐国内は不安定な状態となり、1355年に南朝方の国人衆が信春を攻め、信春は柏尾山に陣取って戦っている。1413年に一族の逸見氏が叛乱を起こすと(逸見氏の乱)、信春館は兵火にかかって落館し、信春は荻原山の柳沢の堡に逃れて、そこで病死したと言う。信春の遺言で館跡に葬り、慈徳院を建てたと伝わっている。

 武田信春館は、塩ノ山の東に位置する慈徳院の境内となっている。境内は、周囲より一段高くなっており、館跡の地勢を残している。しかしそれ以外に明確な遺構は確認できず、北東角部に一段高くなった墓地が土塁跡とされるが、改変されすぎていてよくわからない。館の南東には水路が流れ、「千矢の堀跡」と標柱がある。館の東の堀で、往時は優良な矢竹が茂っていたらしい。また館の北西の道路は「馬場街道」の標柱があって、館の兵馬の訓練場所であったと言う。尚、境内には武田信春の墓が残っている。
堀跡の水路→DSCN1777.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.713974/138.734300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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御所館(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1713.JPG←館跡付近の現況
(2020年7月訪城)
 御所館は、甲斐源氏の安田遠江守義定の西御所と伝えられている。義定は源清光の子(一説には義清の子とも言う)で、八幡荘に館を置き、小田野山に要害城を築き、その城下である御所集落に西御所を置いたと伝えられている。この西御所が、ここで記す御所館のことである。義定は、1180年、甲斐源氏の中ではいち早く以仁王の平家追討の令旨に呼応して挙兵し、その後兄の武田信義と共に富士川の戦いを始め、平家追討に功をたてた勇将であった。しかし、甲斐源氏の勢力増大を恐れた源頼朝によって、1194年に滅ぼされた。

 御所館は、小田野城の南東麓にある。鼓川北岸の段丘上に位置し、「御所」の地名が残っているが、現在は果樹園や宅地となっており、遺構は確認できず、館の範囲も明確にできない。ただ御所館付近の西には、安田義定の墓と伝わる宝篋印塔や、義定生害の地と言われる腹切地蔵尊などが祀られていて、義定の伝承を色濃く残している。
腹切地蔵尊→DSCN1714.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.738658/138.680592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大村氏屋敷(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1696.JPG←西側の空堀・土塁
(2020年7月訪城)
 大村氏屋敷は、間瀬屋敷とも言い、山梨郡中牧に根拠地を置いた土豪大村氏の居館である。武田信玄の時代に、大村加賀守晴忠が城古寺城の城代となり、雁坂口の警護に当たった。1582年の天正壬午の乱で、大村氏を中心とする大村党は北条方に付いて大野砦に立て籠もったが、徳川方の穴山衆に急襲されて敗れ、滅亡した。その後、一族の間瀬氏が大村氏の屋敷跡に入り、今に続いている。

 大村氏屋敷は、城古寺城から北西に約1.4kmの緩傾斜地に築かれている。小楢山南東の裾野の只中の傾斜地で、南西側には沢筋が入り込んでいる。縦長の五角形をした屋敷地で、全体が傾斜した地勢にあるため、郭内は2~3段の平場に分かれている様である。しかし現在も間瀬家の宅地であるため、内部を見ることはできない。外周を小道に沿って巡ると、北と西側に土塁が残っており、西側には空堀も穿たれている。北側の小道も窪地にあるので、空堀跡かもしれない。西側の土塁の基部には石積みが見られるが、遺構かどうかは不明である。屋敷内には、大村加賀守墓と刻まれた地蔵尊があるというが、前述の通り民家の敷地内なので、見ることはできない。大村氏屋敷は、パッと見にはただの民家にしか見えないが、なかなか明確な遺構が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.755794/138.700697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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浄古寺城(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1642.JPG←主郭周囲の堀跡
(2020年7月訪城)
 浄古寺城は、中牧城とも呼ばれ、甲斐併合後に徳川氏が改修した城である。伝承では、最初は安田義定の居館であったものを、弘安年間(1278~88年)に二階堂氏が修築したとするが、確証はない。1548年、武田信玄が雁坂口の守備のため大村氏に命じて築城し、以後大村加賀守・伊賀守が城代となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱では、大村氏は北条方に付いて大野砦を守ったが、徳川勢に急襲され、中牧表で一族の大方が敗死し、滅亡した。その後、徳川・北条両家の間で和睦が成り、甲斐が徳川領となると、1589年に家康の命でその家臣内藤三左衛門信成が大修築して城代となった。この修築の際、元ここにあった夢想国師開創の城居寺を移転したと言う。1590年に北条氏が滅亡し、徳川氏が関東に移封となると、廃城となったと言う。

 浄古寺城は、小楢山南東の裾野が河川に削り残された丘陵上に築かれている。周囲より高い位置に築かれた本丸を中心に、環郭式に曲輪を配置した縄張りとなっている。城内は、一部が宅地や神社、ほとんどがぶどう畑となっているが、城の形状は概ねよく残っている。本丸は北西部にL字に土塁を築き、角部に天守台、南端に櫓台を置いていたと考えられている。本丸の北から西にかけては空堀が廻らされ、低地の畑となって形を残している。本丸の北西には5の曲輪が置かれ、ここにも北西部にL字の土塁が築かれている。角部は櫓台であったらしい。5の曲輪の北側は堀切になっている。本丸の西には4の曲輪、東は斜面に築かれた腰曲輪群となっている。本丸の南には二ノ丸が配置され、南東部のぶどう畑の中に横堀が残っている。西辺には土塁も残っている。二ノ丸に入る所で、北から登ってくる小道が折れ曲がっており、虎口の跡であることが明瞭である。その南には三ノ丸があるが、一面のぶどう畑で形状はよくわからない。この他、二ノ丸全体を睥睨する八幡神社の背後に、天守台の礎石が残っている。改変されているものの、ほぼ城の縄張りを追うことができる良好な城跡であるが、夏場だとぶどう畑の葉が生い茂っていて、地形の確認が難しい部分も多いのが少々難である。
神社裏に残る天守台礎石→DSCN1743.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.745485/138.710557/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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二階堂氏館(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1587.JPG←館跡とされる松尾神社
(2020年7月訪城)
 二階堂氏館は、鎌倉幕府の評定衆であった二階堂氏の居館である。二階堂氏は政所執事を務めた行村を祖とする一族で、その玄孫貞藤がよく知られている。貞藤は、出家して出羽入道道蘊と称し、その名は『太平記』に顕れる。即ち、後醍醐天皇の倒幕計画が露見した正中の変において、天皇が幕府に送った告文(誓書)を執権北条高時が開封しようとすると、「天子が武臣に対して直に告文を下したことは、異朝(中国)にもわが朝(日本)にも前例がない」として諫止した程の見識を持った、幕府随一の賢才として聞こえていた。倒幕が成り後醍醐天皇が新政を始めた際にも、鎌倉幕府の首脳の一人で言わば「朝敵の元凶」であったにもかかわらず、その才を惜しんで死一等を減じられ、雑訴決断所の寄人に任じられている。しかしその後再び叛したため、六条河原で斬られた。道蘊は、鎌倉末期に牧ノ庄の地頭で、1330年に館の一隅を寄進し、夢想国師を招いて恵林寺を開基したと伝えられている。

 二階堂氏館は、武田信玄の墓があることで有名な恵林寺の近く、松尾神社付近にあったらしいが所在地の詳細は不明である。恵林寺の裏手や松尾神社の背後には土塁があるが、遺構とは即断できないと言う。ここでは『甲斐の山城と館』に従って、松尾神社とその東の松里中学校校地を館跡としておく。尚、道蘊の供養塔が、恵林寺境内(有料拝観エリア内)に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.729548/138.717788/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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十組屋敷(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1571.JPG←屋敷の現況
(2020年7月訪城)
 十組屋敷は、江戸初期の伊丹氏の屋敷である。元は武田氏の時代から陣屋・蔵所が置かれていたとも言われる。甲府城主徳川忠長改易後の1633年、勘定奉行の伊丹播磨守康勝が甲府城番となり、合わせてこの地方の10ヶ村3,000石の加増を受けて大名に列し、ここに陣屋・蔵所を置いて徳美藩(十組の当て字)を立藩した。そのため十組屋敷と呼ばれる。康勝は武田氏時代には大久保長安・田辺庄右衛門等と共に武田氏の蔵前衆(武田氏直轄領からの年貢・銭貨・諸公事物が貯蔵された御蔵を管理運営する役人)であったが、後に徳川氏に仕え、勘定奉行・佐渡金山奉行として活躍した。1698年、4代左京勝守が江戸城内で自害したため、徳美藩は改易となり、領地は収公され廃所になったと言う。その後は、三日市場村の名主の居宅となった。

 十組屋敷は、現在は民家となっている。県道38号線沿いにある普通の民家にしか見えないが、塀沿いに屋敷標柱が立っている。民家なので内部探索はしていないが、外目に見た限り遺構はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.721378/138.714613/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩の通知表 (TJMOOK)

江戸三百藩の通知表 (TJMOOK)

  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2020/10/10
  • メディア: 大型本


タグ:陣屋
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上野氏屋敷(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1559.JPG←北側の枡形虎口
(2020年7月訪城)
 上野氏屋敷は、近世の土豪屋敷である。上野氏の祖は、遠江国井伊谷を治めていた井伊氏とされ、1502年に岩手郷に移り住んだと言われている。上野氏11代左近丞直忠は武田氏に仕え、1571年の岩手郷棟別銭免許の武田家朱印状にその名が見える。武田家滅亡後、徳川氏から所領を安堵されたが、土着して苗字帯刀免許の武田浪人となり、江戸時代には名主を務めた。

 上野氏屋敷は、笛吹川西岸の台地上に位置している。南東に向かって傾斜した地勢に築かれている。屋敷周囲は石垣で囲まれ、北側には枡形虎口や食違い虎口が見られる。中の住宅は「上野家住宅」として県の有形文化財に指定されているが、公開はされていない様である。近世の土豪屋敷としては、群馬の彦部家屋敷と並んで良好な遺構が残り、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.713521/138.699077/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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井尻氏屋敷(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1537.JPG←西側の土塁
(2020年7月訪城)
 井尻氏屋敷は、武田氏の家臣井尻氏の居館である。井尻氏については、1569年に井尻源四郎が内藤修理亮昌豊組に属していることが知られる。また1582年の天正壬午の乱の際に甲斐諸士が徳川家康に提出した起請文では、一条衆の中に井尻源右衛門の名がある。やがて浪人して、その子孫がこの地に残ったと言う。

 井尻氏屋敷は、安田義定一族の墓所がある雲光寺の西方200mにある。周囲は田畑が多いが、その中に遠目に見てもよくわかる、大きな民家があり、それが井尻氏屋敷である。南側に2階建ての大きな櫓門のある家で、門前には堀があるが、遺構かどうかはわからない。屋敷の周囲は果樹園になっており、果樹園の道を奥に入っていくと、北側と西側に築かれた土塁と堀跡が確認できる。ただ、普通に見られる館跡の土塁とは規模が異なり、高さ1~1.5m程しかないささやかなものである。西の垣の隙間から敷地内を覗くと、内部にも南北に走る土塁と堀が見え、土橋状の地形もある。訪城当日は雨だったので、農作業をしている人がなく問題なかったが、夏や秋の晴天時には、果樹園の道に入っていくのは控えた方が無難だろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.706203/138.707027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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連方屋敷(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1487.JPG←民家東側の土塁
(2020年7月訪城)
 連方屋敷は、謎の城館である。「連方屋敷」の名は、一説には安田義定9世の孫安田孫左衛門尉光泰が連峯入道と名乗って足利尊氏に属し、この館主であったことによるとされる。一方、『甲斐国志』では、戦国期武田氏時代に財政を司った蔵前衆(武田氏直轄領からの年貢・銭貨・諸公事物が貯蔵された御蔵を管理運営する役人)の頭であった古屋氏の屋敷であった可能性を示唆している。また近代には蔵前衆が管理した御蔵の庁所であったとの説も提示されていたが、近年の発掘調査の結果、戦国期の遺物は発見されていない。出土したかわらけなどから、15世紀前半から中頃が連方屋敷が使用された主要時期と推測され、近接地にある清白寺仏殿(1415年建立)との関連が考えられている。

 連方屋敷は、一部が民家の敷地となっているが、県指定史跡となって大半が公園化されている。屋敷地の南部にある民家の周囲に土塁が部分的に残存している他、北と西には土塁と堀跡が復元整備されている。市街地の只中であるのに、これだけ遺構がよく残っているのは、奇跡的という他はない。
北側の復元土塁・堀→DSCN1492.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.693291/138.704892/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


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清水陣屋(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1420.JPG←堀跡の窪地
(2020年7月訪城)
 清水陣屋は、8代将軍徳川吉宗が創設した御三卿の一、清水家の甲斐領支配の陣屋である。9代将軍徳川家重の第2子清水重好は、1762年、甲斐・武蔵・下総・大和・和泉・播磨に与えられた10万石の領地の内、甲斐領を支配するため山梨郡下岩下に陣屋を置いた。重好の死後領地は幕府に返され陣屋も廃されたが、1830年に再び甲州に清水領が設定され、翌31年にこの地に陣屋が構えられた。清水陣屋は1856年まで続いた。

 清水陣屋は、大井俣窪八幡神社の南西に位置している。小規模な方形の区画となっており、跡地は現在ぶどう畑となっている。畑の周囲に溝状地形が巡っており、これが陣屋の堀跡とされる。小さな役宅が置かれた程度のものだったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.704530/138.688112/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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甘利氏館(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1389.JPG←館跡に建つ大輪寺
(2020年7月訪城)
 甘利氏館は、武田氏の一族で重臣でもあった甘利氏の居館である。武田庄に本拠を置いた武田信義の子、一条忠頼の次子行忠が、甘利の庄司となって入部したことから甘利氏を称した。行忠は、1180年の源頼朝の挙兵以来、父忠頼と共に活躍したが、1184年に忠頼が頼朝に謀殺されると、行忠も誅殺され、後にその子行義によって甘利氏が再興された。戦国時代には、甘利備前守虎泰・左衛門尉昌忠父子が武田氏の有力武将として活躍した。虎泰は、武田信虎の重臣であったが、信虎の性急な領国経営に危機感を持ち、板垣信方・飯富虎昌と共に信虎の嫡男晴信(後の信玄)を擁立し、信虎を駿河今川氏の元へ追放した。以後、晴信に従って信濃攻略に活躍したが、1548年の上田原の戦いで北信の雄・村上義清の軍勢と戦って討死した。その後、虎泰の嫡子昌忠が若干15歳で家督を継いだ。昌忠は、家老職を務める武略・外交・民政に腕を振るい武田氏家中で活躍したが、1567年に没した。その後、昌忠の3男慶受院日国聖人によって館跡に大輪寺が創建され、菩提寺となった。
 尚、甘利氏館の南西1.5kmの山陵上には、詰城と言われる扇子平山城がある。

 甘利氏館は、前述の通り現在大輪寺の境内となっている。遺構は湮滅が進み、寺の境内裏にわずかに土塁が残るだけらしいが、その土塁もコンクリート塀に遮られてよく見ることができない。残念な状況である。尚、境内には甘利昌忠の大きな墓が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.688655/138.442122/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち

戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち

  • 作者: 丸島 和洋
  • 出版社/メーカー: 教育評論社
  • 発売日: 2016/06/23
  • メディア: 単行本


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武田信義館(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1340.JPG←土塁跡とされる土壇
(2020年7月訪城)
 武田信義館は、甲斐源氏の惣領武田氏の初代信義の居館である。信義の父源清光は、父義清と共に常陸から甲斐に配流となった。清光には10数名の男子がおり、それぞれ甲斐各地に分封されて多くの支族を輩出した。中でも武河荘武田に拠った信義は武田太郎と号し、兄逸見太郎光長よりも抜きん出て、甲斐源氏の惣領的地位にあった。1180年、以仁王の平家打倒の令旨を奉じた信義は、子の一条忠頼、弟の安田義定ら甲斐源氏一族を率いて挙兵した。駿河目代を討ち、富士川の戦いにも参陣して平家軍を敗走させ、その功で信義は駿河守護に、義定は遠江守護に任ぜられた。その後も木曾義仲追討・平家討滅などに従軍して武功を上げた。しかし猜疑心の強い源頼朝は、甲斐源氏の勢威を危険視し、信義に謀反の嫌疑をかけ、また信義の子一条忠頼を謀殺するなど、甲斐源氏の多くを抑圧した。頼朝に遠ざけられた信義は、家督を5男信光に譲って表舞台から退き、1186年に59歳で病没したと言われている。

 武田信義館は、釜無川西岸の台地上に築かれている。東は釜無川の侵食による急崖、南と北も浸食谷が入り込んでおり、三方を急崖で囲まれた地勢である。そこにある武田集落の中に、信義館の伝承地がある。館跡とされる場所はほとんどが畑に変貌しており、明確な遺構はほとんどない。北側の車道脇に石塔の並ぶ土壇があり、これが館の土塁跡と言われている。館の中心付近には、館跡の標柱と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.710559/138.431318/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


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日ノ出砦(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1294.JPG←砦の西半部
(2020年7月訪城)
 日ノ出砦は、鷹巣城、日之城などとも呼ばれ、室町時代に日一揆という武士団が拠点とし、また天正壬午の乱の際に徳川氏が修築して使用した砦である。1416年の上杉禅秀の乱の際、禅秀の舅であった甲斐守護武田信満が禅秀に加担して翌17年に敗死すると、武田惣領家の勢力は大幅に減退した。この結果、一族の逸見氏や守護代の跡部氏が甲斐支配の実権を握った。武田右馬助信長は、勢力回復のために逸見氏、跡部氏と戦った。一方、日一揆は輪宝一揆という武士団と対立状態にあった。日一揆は、武田信長と結んで、日ノ出砦を拠点とした。しかし1433年4月、信長・日一揆は跡部氏方に付いた輪宝一揆と荒川原で戦い、大敗して勢力が壊滅した。この時、日ノ出砦も一旦その使命を終えた。時代は下って1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時、徳川家康は新府城に本陣を置いて、若神子城に本陣を置く北条氏直の大軍と対峙した。この対陣に於いて、徳川方が日ノ出砦を修築して再利用したと言われている。

 日ノ出砦は、塩川と三ノ蔵沢の合流点に望む断崖上に築かれている。しかし城内は全面的に耕地化されている他、中央自動車道が貫通して破壊を受けており、遺構は全く不明である。現地解説板によれば、「トリデ」「土居」「官女屋敷」「牛ヶ馬場」などの城郭関連地名が残ると言う。わずかに高速道に架かる橋が「砦橋」と言い、その袂に城址の石碑と解説板があるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.734355/138.453881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2016/05/30
  • メディア: 単行本


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日向氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1273.JPG←屋敷地付近
(2020年7月訪城)
 日向氏屋敷は、武田氏の家臣日向大和守是吉(昌時)の居館と伝えられている。日向氏は、武田氏の一族逸見氏の庶流と言われる。是吉は武田信玄に仕えて、信濃海尻城の城将や信濃深志城の城代を務めるなど活躍した。1582年の武田氏滅亡の際、是吉は子の二郎三郎と共に光村寺(是吉が開基した寺)で自刃したと言う。是吉のもう一人の子藤九郎昌成は、1564年に上野国倉賀野で討死したと伝えられる。

 日向氏屋敷は、於小路集落の中心部にあったと推測されている。この地は八ヶ岳南東の裾野地帯で緩傾斜地の只中にある。明確な遺構はないが、集落の東西には段差があって、周りより高くなっている地勢であることがわかる。尚、坂本工務所の建物の前に日向大和守を祀る祠が立っている。
日向大和守の祠→DSCN1274.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.840638/138.413304/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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古宮城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1246.JPG←西側の空堀
(2020年7月訪城)
 古宮城は、古宮屋敷とも呼ばれ、この地の土豪津金氏の居城である。文明年間(1469~87年)に常陸佐竹氏の一族佐竹胤義・胤秀父子が武田氏16代信昌を頼って甲斐に入り、津金郷を与えられて津金氏を称した。清水・小池・高見沢・比志・小尾・箕輪・海口・村山・八巻・井出・河上ら八ヶ岳東南麓地方の武士団は「津金衆」と呼ばれ、津金氏はその中心的存在であった。津金氏2代胤秀は武田信昌・信縄・信虎の3代に仕え、1516年に没した。胤秀の子3代美濃守胤時は、1550年の海野平合戦や1552年の信州桔梗原合戦、1561年の第4次川中島合戦に従軍して軍功を挙げ、1575年の長篠の戦いで討死したと言う。4代美濃守胤重も、長篠合戦に従軍して負傷したが帰還し、1618年に没したと言う。1582年の天正壬午の乱で徳川・北条両氏が対陣した際には、津金衆の一部は北条方に属したが、大半は武川衆と共に徳川方に付いて活躍した。胤時の子修理亮胤久は、徳川家康に仕えて各地に従軍し、後に望まれて尾張徳川家に仕えて尾張に移住し、尾張津金家の祖となった。一方、1603年に家督を継いだ胤久の長男美濃守胤卜は、徳川幕府直参となり江戸津金家の祖となった。

 古宮城は、須玉川支流の小河川の西側に突き出た丘陵上に築かれている。東側下方には佐久往還が通っており、街道を押さえる要地である。高台になっており、頂部は諏訪神社の境内となっている。境内には城跡の石碑が立ち、西側には空堀が残っている。その西側には切通し状の車道が通っているが、これも堀跡であったように思われる。そうなると二重堀切であったということになる。その他は改変が多くて縄張りが不明な部分が多いが、南の段に建つ津金学校の敷地も腰曲輪であった可能性がある。いずれにしても明確な遺構は空堀だけで、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.851318/138.445019/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本



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三枝氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1209.JPG←屋敷の遺構とされる土塁
(2020年7月訪城)
 三枝氏屋敷は、三枝土佐守屋敷とも言い、徳川氏の家臣三枝土佐守昌吉の居館である。三枝氏は、武田信虎の時代に石原守種の次男丹波守守綱が三枝氏の名跡を継いで再興したと言われている。守綱の子土佐守虎吉、その子昌吉は天正壬午の乱以降、徳川家康に仕えた。尚、三枝氏がこの地に居住した時期は明確ではないが、1601年の甲斐国四郡の検地帳に「三枝土佐知行」の村が数多く出てくるので、当時はこの地に館を構えて居住していたと考えられている。その後、1614年に徳川氏の実質的な天下支配が確立すると、徳川氏は巨摩郡1万5千石を屋代越中守勝永(秀正)・真田隠岐守信尹(信昌)・三枝土佐守昌吉に知行し、屋代氏は上神取に、真田氏は大蔵村に、三枝氏は東向村に、それぞれ居館を構え、塩川の東西に3氏の居館が集中する形となったと言う。

 三枝氏屋敷は、塩川西岸の東向地区の南東辺縁部に位置している。三枝氏が再興した信光寺(昌吉の墓がある)の付近が「中屋敷」と呼ばれ、三枝氏屋敷が寺付近にあったと伝えられる。現在は畑となって変貌しているため、その規模・形状は不明である。ただ、段丘先端にある八幡神社の北東に土塁があり、これが屋敷の遺構と考えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.808747/138.447636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本



タグ:居館
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中尾城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1206.JPG←西から見た城跡付近
(2020年7月訪城)
 中尾城は、中尾塁とも呼ばれ、天正壬午の乱の際に北条方に利用されたと推測される城である。伝承では、古くは武田信光の居城と伝えられ、武田信玄の時代には小幡山城守虎盛の子主計頭又兵衛が軍功によって中尾城を賜ったと言う。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。信濃から南下して甲斐に入った北条氏直の大軍は、若神子城に本陣を置き、新府城に進出した徳川家康の軍勢と対峙した。この時、塩川沿いに位置する中尾城は、佐久往還を押さえる要衝であり、北条方の若神子城、大豆生田砦獅子吼城を繋ぐ役割を果たしていた。大豆生田砦が徳川勢に奪われた後、江草小屋(獅子吼城)も失陥すると、中尾城は徳川方に囲まれて完全に孤立することとなった。その後、真田昌幸の離反によって窮地に陥った北条氏は、徳川氏と和睦して乱が終結した。この時中尾城も、その役目を終えたと見られる。

 中尾城は、塩川と須玉川に挟まれた台地上に築かれている。現在は工場敷地や耕地に変貌しており、明確な遺構は残っていない。工場北側の車道脇に解説板が立っているが、中尾城と書いてある以外は字が全く消えていて読めなくなってしまっている。しかし西の平地から城跡付近を望むと高台にあることがよくわかり、城地として優れていたことがうかがえる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.801612/138.436017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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屋代氏館(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1196.JPG←車道脇に残る土塁
(2020年7月訪城)
 屋代氏館は、屋代越中守勝永(秀正)の居館である。屋代氏は元々東信の雄村上氏の一族で、信濃国埴科郡屋代郷を本領としていた。その事績は屋代城の項に記載する。勝永は、徳川家康に服属すると、その重臣酒井忠次の配下となった。1614年、徳川氏の実質的な天下支配が確立すると、勝永は上神取に入部して、この館を構えた。巨摩郡1万5千石を、真田隠岐守信尹(信昌)・三枝平右衛門昌吉と共に知行し、真田氏は大蔵村に、三枝氏は東向村に、それぞれ居館を構え、塩川の東西に3氏の居館が集中する形となった。勝永は1623年に66歳で没し、その子忠正が跡を継いで1万石を領したが、1632年に主君の駿河大納言徳川忠長(3代将軍家光の弟)が乱行の故を以って改易となると、屋代氏も甲斐・信濃の領地を没収された。この時、屋代氏館も廃絶されたと推測されている。忠正は、1636年に赦され、1638年に安房国に1万石を賜った。1662年に没したと言う。

 屋代氏館は、塩川東岸の段丘上に築かれている。館跡は、現在ほとんどが水田、一部が宅地となっている。しかしわずかに西辺の土塁が長さ50mにわたって車道脇に残っている。高さのある大土塁で、往時の館の規模がうかがわれる。もし全周の土塁が残っていたら、さぞ壮観だったろうと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.796722/138.440630/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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