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湯山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5023.JPG←主郭の櫓台
(2020年10月訪城)
 湯山城は、宿ノ沢楯(宿ノ沢館)とも呼ばれ、城主は大崎義隆の家臣湯山修理亮とも湯山駿河とも伝えられるが、これは湯山基綱という武士のことであるらしい。基綱は、1588年の大崎合戦の際に新井田隆景に属して伊達勢と戦ったと言う。

 湯山城は、江合川南岸の標高200m、比高100m程の山上に築かれている。城の中心部がある東に突き出た主尾根とその北東に伸びる支尾根にまたがって城域が広がっている。主尾根と支尾根の間は谷戸状の斜面になっていて、そこにひな壇状に多数の曲輪群が築かれており、その間を縫うように大手道が上まで伸びている。ただこの谷戸状斜面の最下方は、深いV字の谷になってしまっていて、道を辿ることができない。おそらく豪雨などの影響で、往時の地形が変わってしまったものと思われる。また大手道も、わずかな踏み跡が見られるだけなので、山から降る時にはわかったが、登る時にはわからない程度のものである。大手道の最下方の南側には広い平場が広がっており、城主居館などが置かれていた可能性がある。山頂には主郭があり、後部に櫓台を築いており、そこに祠と城址標柱がある。主郭の背後には鋭く穿たれた堀切があり、その後ろの尾根上には物見台がある。主郭の前面下方(東側)には二ノ郭が築かれており、外周には土塁が築かれ、正面に当たる先端部には枡形虎口が築かれている。この桝形虎口は、土塁の形状から推測すると櫓門の構造であったと思われ、まるで近世城郭の様な作りである。その下には三ノ郭が広がっている。従って城の中心の曲輪は、西から東に向かって梯郭式に3つの曲輪が連なっている。三ノ郭の外周には弧を描く様に横堀が廻らされている。横堀の外側には櫓台状の平場も見られる。この横堀は城内通路を兼ねていた様で、谷戸の腰曲輪群に繋がっている。おそらく前述の大手道はこの横堀に繋がっていたのだろう。また三ノ郭の南と南西にも腰曲輪が築かれている。南西の腰曲輪の脇には、主郭背後の堀切が長い竪堀となって落ちてきている。この堀底には井戸の様な溜水のある窪みがある。三ノ郭の東斜面にも何段もの腰曲輪が築かれている。一方、二ノ郭から北東に伸びる支尾根には細尾根上の曲輪が続き、側方に腰曲輪も伴っている。北東尾根には堀切も2つ穿たれている。尾根の裏に当たる西側にも腰曲輪と虎口が見られ、搦手道があったらしい。北東尾根は途中で東に向かってくの字型に折れており、この曲がりの部分に物見台がある。この付近にはわずかに石積み跡が見られる。以上が湯山城の遺構で、かなり規模の大きな拠点的な城であった様である。石積みがあり、また枡形虎口の作りが大崎氏の城っぽくなく伊達氏系山城に多い作りなので、伊達政宗の岩出山城移封後に伊達氏による改修の可能性が考えられるのではないだろうか。

 尚、城へ登り口は東麓の林道脇の取り付きやすいところから上がると、谷状の地形(大手道の最下方)があるので、そこをそのまま進むか、北側の支尾根の小郭群に取り付いて尾根筋を登るかすれば良い。
主郭堀切から落ちる竪堀→DSCN5011.JPG
DSCN4960.JPG←二ノ郭枡形虎口の土塁
横堀と三ノ郭切岸→DSCN5068.JPG
DSCN4918.JPG←北東尾根曲輪群の石積み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.719855/140.791436/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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岡本若狭守館(栃木県高根沢町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4853.JPG←五輪塔が立つ塚
 岡本若狭守館は、宇都宮氏9代公綱の家臣、岡本若狭守の居館である。公綱は南北朝時代の武将で、その名は『太平記』に名高い。主に南朝方として各地を転戦した。南朝衰退に伴って公綱も没落し、岡本若狭守館も廃されたと言う。

 岡本若狭守館は、五行川西岸の低台地に築かれている。現在は菅又病院の南側に塚があり、その上に五輪搭が建っていて、これが館跡であるらしい。塚がある以外は明確な遺構はなく、どこからどこまでが館であったのかも、現在では全くわからなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654855/140.004144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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安田城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4706.JPG←資料館2階から見た本丸
 安田城は、1585年に豊臣秀吉が越中の佐々成政を討伐した「富山の役」の際に新造されたとされる城である。これより先、佐々成政は織田信長の後継者として実権を掌握した秀吉に対して対抗姿勢を示し、1584年に秀吉に与した前田利家の領国加賀・能登の分断を企図して、末森城を攻撃したが、利家の果敢な後詰戦により撤退を余儀なくされた。翌年、秀吉は10万と言われる大軍を率いて佐々討伐の軍を起こし、白鳥城に本陣を置いた。この時、その支城として安田城が築かれたと言われ、前田利家の家臣岡嶋備中守一吉を安田城に入れ、片山伊賀守を大峪城に置いて、成政の拠る富山城を包囲した。劣勢下で孤立した成政は剃髪して秀吉に降伏し、越中4郡のうち砺波・射水・婦負3郡が前田利家の嫡子前田利長に与えられた。その後、岡嶋氏が金沢へ戻ると代官平野三郎左衛門が居住したが、後に廃城となった。

 安田城は、白鳥城が築かれた呉羽丘陵の南東麓、井田川西岸の平地に築かれている。以前は田畑に変貌し、城の全貌も不明瞭であったらしいが、昭和50年代に圃場整備事業が計画されたことに伴い発掘調査が行われた結果、古図に描かれている城の構造にほぼ合致することが判明し、貴重な遺構として国の史跡に指定された。即ち間一髪で消滅の危機から救われた城である。その後、城の復元整備が進められた結果、かつての縄張りを見ることができる城址公園となっている。北に方形の本丸を置き、その南に土橋で連結された二ノ丸を配置し、その西側にやはり土橋で連結された右郭と呼ばれる縦長の外郭が配置された縄張りとなっている。各曲輪の周囲は、井田川から水を引き入れた幅広の水堀で囲まれている。主郭は、周囲をかなり分厚い土塁で囲んでおり、珍しい形態である。単なる柵列や塀ではなく、多門櫓のようなものが張り巡らされていたのだろうか。それに対して二ノ丸の土塁は普通の形状の狭幅のもので、本丸側の北面を除いた3面を取り囲んでいる。右郭には土塁はなく、北端部が横矢を意識したひしゃげた形で張り出している。以上が安田城の復元遺構の状況で、織豊期の城ではあるが、中世の陣城的色彩の濃い平城である。江戸時代に改変を受けていないため、織豊期の遺構をそのまま残す貴重な平城である。
本丸土塁上から見た二ノ丸→DSCN4747.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.680363/137.160852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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放生津城(富山県射水市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4655.JPG←城跡の石碑と解説板
 放生津城は、室町時代に射水・婦負二郡の守護代となった神保氏の拠点である。元々は、鎌倉末期に執権北条氏の一族で越中守護であった名越氏が、守護所として放生津城を築いた。1333年の鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護名越時有ら一族・譜代79人は、5月17日に放生津城で自刃したと言う(『太平記』第11巻)。その経緯は、二塚城の項に記載する。室町時代の1380年に三管領家の一、畠山基国が越中守護を兼帯すると、その家臣で婦負・射水二郡の守護代となった神保氏が放生津城を居城とした。神保氏の越中入国の時期は不明であるが、守護代としての史料上の初見は1443年の神保備中守国宗からである。畠山氏は、礪波郡を遊佐氏、新川郡を椎名氏、射水・婦負の二郡を神保氏に支配させるという三守護代方式を採り、遊佐・椎名・神保氏はそれぞれ越中国内の実権を握っていき、後には激しい抗争を繰り広げることとなった。1454年に畠山氏の家中で当主持国の養子弥三郎と実子義就との間で家督争いが起き、翌55年に弥三郎方の神保国宗の居城放生津城は、義就方に攻められ落城した。この後、弥三郎が病死し、代わって弟政長が擁立されると、今度は政長と義就との間で抗争が繰り広げられた。政長・義就ともに勇将の器であったため、両者の抗争は激しさを増し、この管領家畠山氏の家督争いが応仁の乱の直接の導火線となった。畠山政長は、細川勝元の後援で管領となり、応仁の乱の勃発以後、神保長誠らは政長に属して畿内を転戦した。1493年4月、10代将軍足利義材(義尹・義稙)と畠山政長が河内出陣中に、京都では幕府重臣の細川政元(勝元の子)がクーデターを起こして堀越公方足利政知の子清晃を新将軍に擁立し、11代将軍足利義遐(義澄)とした(明応の政変)。この結果、政長は追い詰められて自刃し、義材は京都に幽閉された。しかし同年6月、義材は側近らの手引きで京都を脱出し、放生津城主神保長誠に迎え入れられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の細川政元と対峙して越中公方(越中御所)と呼ばれた。義材はただの亡命者ではなく、放生津で実態のある政権を運営したことから、義材の元へ公家・大名が出仕し、禅僧・歌人ら多くの文化人も訪れ、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。1498年9月に義尹と改名した義材は、京都復帰を目指して越前の朝倉貞景の元へ移った。1519年、越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)が越中に侵攻すると、神保長誠の子慶宗は要害性の高い二上城に立て籠もって抗戦した。翌20年、慶宗討伐のため再び長尾勢が越中に侵攻すると、慶宗は新庄城に布陣していた為景を攻撃したが、12月21日の合戦で惨敗し自刃した。その後、放生津城の名は史料から姿を消し、慶宗戦死後の神保氏の活動も大永・享禄期には途絶えた。天文年間(1532~55年)に慶宗の子長職が神保氏を再興すると、神保氏の拠点は富山城増山城守山城に移った。1585年に佐々成政が豊臣秀吉の軍門に降ると、加賀の前田利家が越中を領し、前田氏の武将が放生津城に入ったが、江戸時代初め頃までに廃城となった。江戸後期には、加賀藩の蔵屋敷となった。

 放生津城は、越中の主要な港であった放生津にあり、海陸交通の要地であった。かつては深田や川で守られた天然の要害であったらしく、主郭・二ノ郭の2郭で構成されていたらしい。しかし早くに廃城になったためと、現在は放生津小学校の耕地に変貌し、周囲は完全に市街化しているため、遺構はおろか城の痕跡さえ残っていない。わずかに校地の北辺に石碑と解説板があるだけである。歴史的な重要性に比して、あまりにも残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.776464/137.089881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


応仁・文明の乱と明応の政変 (列島の戦国史 2)

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  • 作者: 大薮 海
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


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二塚城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4297.JPG←城址碑
 二塚城は、鎌倉末期に執権北条氏の一族、名越氏が築いた城である。1333年5月、越中守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公(ありとも)・甥の兵庫助貞持らは、出羽・越後の宮方が北陸道を経て京都に攻め入ろうとしていると聞き、二塚に陣を構えて能登・越中の軍勢を催してこれを防ごうとした。しかし鎌倉幕府から離反した足利高氏(後の尊氏)の攻撃で京都六波羅は陥落し、東国でも新田義貞が挙兵したなどの風聞が伝わり、兵は守護方から離反して大軍で攻め寄せようとした。時有らわずかに残った守護方の一族・譜代の79人は放生津城に逃れ、5月17日に全員城を枕に自刃したと言う(『太平記』第11巻)。
 尚、元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇が1332年に隠岐に流された際、二塚には後醍醐天皇の皇子とされる恒性皇子が配流された。翌年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に立て籠もり、再び倒幕の狼煙を上げると、皇子が宮方に担がれることを恐れた幕府の命で、名越時有によって皇子は殺害された。皇子の陵墓が二塚城の近くに残っている。またこの時、皇子に随従していた日野直通・勧修寺家重・近衛宗康ら侍臣3人も殺されて晒し首となり、「三ヶ首」の地名として残っている。

 二塚城は、庄川西岸の平地に築かれていたが、遺構は完全に湮滅している。現在は県道57号線の高架の南に石碑が残っているだけである。そこには「太刀城」と刻まれている。石碑には解説文はなく、解説板も立てられていないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.716509/137.014199/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

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  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2013/12/25
  • メディア: 文庫


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小泉砦(富山県射水市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4288.JPG←石碑と砦跡付近の現況
 小泉砦は、小泉城・小泉館とも言い、神保氏の重臣寺島牛之助の居城と伝えられる。神保氏の拠点増山城の北方の出城として築かれたと考えられている。牛之助は戦国後期の武将で、兄の小島甚助と共に武功を重ねたとされる。最初は神保氏に仕えたが、越中が上杉謙信や織田方の武将佐々成政の侵攻を受けると、上杉氏、佐々氏に従い、柴野城主を務めたとされる。佐々成政による末森合戦にも従軍し、最後は越中を領した加賀前田氏に仕えて1605年に没したと言う。
尚、金沢に残る武家屋敷「寺島蔵人邸」の寺島家は、寺島牛之助の後裔であるらしい。

 小泉砦は、庄川東岸の平地に築かれていた。現在遺構は完全に湮滅しており、運送会社の脇の水路沿いに石碑が立っているだけである。『日本城郭大系』によれば、江戸時代に田畑や宮林になっていて遺構を残していないとされるが、昭和20年代の航空写真を見ると、わずかに方形に近い形の水田が見え、これが砦跡であったかもしれない。単郭の居館であったものだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.706412/137.036816/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

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  • 作者: 日本城郭協会
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  • 発売日: 2020/09/14
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願海寺城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4269.JPG←民家手前の城址碑
 願海寺城は、上杉謙信に服属した武将寺崎民部左衛門盛永の居城である。1577年に謙信が越中・能登・加賀を制圧すると、寺崎氏は上杉氏に従った。しかし翌78年に謙信が急死すると、越中に進出してきた柴田勝家・佐々成政らの織田勢に従った。1581年3月に織田信長の馬揃えの為、越中の織田勢が在京して越中国内が手薄となると、上杉景勝はその隙を突いて小出城を包囲した(小出城の戦い)。この時、寺崎氏は再び密かに上杉方に復帰したらしい。しかし急報を受けた成政らは、越前衆の織田方武将と共に越中に帰国し、それを知った景勝は城の包囲を解いて撤退した。そして同年5月に願海寺城は織田勢に攻められて落城したと言う。寺崎盛永・喜六郎父子は捕らえられて近江佐和山城に送られ、7月17日に信長の命により切腹させられた。この時若い喜六郎の最後は見事であったと伝えられている。

 願海寺城は、新堀川東方の平地にあった。現在は城跡の一部が宅地、大半が水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。「堀の内」の字名が残る場所に主郭があったらしく、過去の発掘調査によって戦国期の複数の堀跡や井戸跡が見つかっている。また城の付近には、「願海寺の七曲り」と呼ばれる、幾重にも屈曲した古道が通っていたが、それも現在では全くわからなくなっている。遺構は望むべくもないが、民家の手前に城址碑と解説板が立てられており、往時の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.717387/137.140886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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御館山館(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4264.JPG←館跡の石碑
 御館山館は、木舟城の出城である。木舟城が1581年7月に織田方に攻められ落城した際、一緒に焼き払われたと言う。

 御館山館は、岸渡洪水調整池の付近にあったらしい。かつては小丘になっていたらしく、江戸時代の文献によれば正門を南側に持つ方形の館であったとされる。現在遺構は完全に湮滅しており、調整池脇に館のことを刻んだ石碑が立っているだけである。尚、御館山館は平成23~24年に発掘調査が行われ、堀・土塁・石組井戸などが確認され、天正大地震の際の液状化現象による噴砂の跡も検出されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.667576/136.929828/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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野尻城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4254.JPG←城跡の徳仁寺
 野尻城は、この地の土豪野尻氏の居城である。野尻氏の名は1183年の倶利伽羅合戦に初めて記録に顕れ、以後南北朝時代まで度々登場している。南北朝時代には反幕府勢力となった元越中守護桃井直常の拠点の一つとなり、1362年には幕将斯波高経に、1369年には高経の子義将によって攻撃されている。1481年、一向一揆に攻撃されて、城主は降伏したと言う。

 野尻城は、現在の徳仁寺の境内とその周辺にあったとされている。遺構は全て湮滅しており、徳仁寺門前の城址碑・標柱と解説板だけが城の歴史を伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.603195/136.913434/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記 全6巻: 美装ケースセット (岩波文庫)

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  • 作者: 兵藤 裕己
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/12/16
  • メディア: 文庫


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柴田屋館(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4235.JPG←土塁状の土盛り
 柴田屋館は、永禄年間(1558~70年)に蓮沼城主椎名肥前守康胤の家臣柴田丹後守久光の館跡と伝えられる。椎名康胤は、元々松倉城を本拠として新川郡守護代を務めた武将で、富山城主神保長職との抗争の中で越後の上杉謙信に支援を求め、上杉方となっていた。しかし1568年に武田信玄の調略に応じて上杉氏から離反したため、謙信に攻撃されて松倉城を開城し、蓮沼城に移ったが、1576年に滅ぼされた。そして久光も、1579年に木舟城主石黒左近蔵人によって柴田屋館を滅ぼされたと言う。

 柴田屋館は、現在の日吉神社境内に築かれていた。神社境内は周囲の水田よりわずかに高くなっている。また、神社周囲には土塁が一部確認できるが、「堀や土塁などの明確な遺構は見つかっていない」とのことなので、現在見られる土塁は遺構ではない可能性がある。神社入口には館跡の標柱と解説板が立っており、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.597458/136.913027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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寺家新屋敷館(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4211.JPG←土塁
 寺家新屋敷館は、南北朝時代に越中守護であった桃井直常の家臣田中権左衛門貞行の居館であったと伝えられている。或いは、その末孫とも推測される田中太郎兵衛が居住したとも言う。昭和62~3年に行われた発掘調査では、戦国~江戸時代初期にかけても使用されていたことが判明している。

 寺家新屋敷館は、現在神明社の境内となっている。社殿の東側と北側に立派な大土塁がL字型に残っている。現在はあまりわからないが、周囲には空堀跡もあったらしい。西側の土塁は水田化する際にブルドーザーで崩されてしまったらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、東西に長い長方形の居館であったことがわかるが、西側半分は前述の通り宅地と耕地に変貌してしまっている。残存する遺構が立派なだけに、湮滅が惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.590464/136.917340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/03/14
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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遊部屋敷(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4207.JPG←熊野神社
 遊部屋敷は、遊部砦とも言い、天正年間(1573~92年)に雑賀安芸守が館主であったと伝えられる。また一時、佐々成政が陣を布いたとも伝えられる。雑賀安芸守は、川合田館の館主でもあり、織田信長の部将佐久間盛政と合戦して討死したと言う。尚、雑賀氏は加賀高峠城も併せ持っていたとされる。

 遊部屋敷は、小矢部川東岸の平地にあったらしい。正確な場所はよくわからないが、遊部地区にある熊野神社にある石碑に遊部屋敷のことが簡単に書かれている。周辺の水田地帯は田圃整理が行われたため、かつての区画は全く残っていない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、熊野神社の北方に方形に近い形状の水田が確認できるので、それが屋敷跡であったかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【熊野神社】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.567788/136.885282/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

富山県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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山本城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4190.JPG←城跡の高台
 山本城は、戦国時代に西勝寺城主石黒太郎光秀の2男石黒宗五郎の居城であったと伝えられる。しかし伝承ではそれより築城は古く、平安時代後期の八幡太郎源義家の頃の創築とも言われ、南北朝期には南朝方の拠点であったとされる。織田信長の部将佐々成政が越中を支配すると、その家臣山本志摩守が城主となったが、加賀前田家の支配下に入ると廃城になったと言う。

 山本城は、明神川西岸の緩傾斜地にある。現在は周囲より高い高台となっており、周辺は水田になっている。その南東隅に小さな高台があり、そこに城址解説板が立っている。高台上には、更に土壇があって、日露戦争に関する石碑が建っている。高台は往時の城跡の一部が削り残されたものと推測され、城域はもっと広かったものと思うが、前述の通り周りは水田に変貌していて往時の縄張りを知ることはできない。せっかくの解説板も字がほとんど消えかかっており、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.556688/136.849952/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/03/13
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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福光城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4171.JPG←城跡の栖霞園
 福光城は、福満城とも記載され、この地の豪族石黒氏の居城である。石黒氏は、古代の豪族利波氏の流れを汲み、平安末期には加賀の林氏との姻戚関係を背景として、利仁流藤原氏を名乗り、福光周辺にあった石黒庄を名字の地とした。治承・寿永の乱(所謂源平合戦)の際、1183年の倶利伽羅(砺波山)合戦で他の越中武士と共に木曽義仲軍に加わり、平家の大軍と戦い活躍した石黒太郎光弘は、福光城を築いて居城としたと言う。以後約300年に渡って石黒氏の本拠となり、一族の福光五郎・彦次郎らもここを拠点とした。文明年間(1469~87年)の城主石黒右近光義は加賀守護富樫政親の求めに応じ、1481年、井波瑞泉寺を討伐するための軍勢を起こした。山田川の田屋川原で一向一揆勢と激突し、敗れて安居寺で自刃した。光義の滅亡により、福光城は放棄されたと言う。
 尚、木曽義仲の愛妾で女武者でもあった巴御前は、義仲滅亡後に侍所別当和田義盛に嫁し、1213年の和田合戦で義盛が滅亡すると、かつて義仲軍で共に戦った旧知の石黒光弘を頼って福光に来住し、出家して余生を送ったとの伝説がある。

 福光城は、小矢部川西岸の福光市街地の只中にあり、現在は栖霞園という郷学所跡となっている。栖霞園は周囲より1.5m程の高台となっており、東西に長い長方形の区画で、これが往時の主郭であろうか?周囲は一面の宅地(市街地)となって遺構は湮滅しており、往時にどの様な縄張りだったのかを推測するのは困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559084/136.869221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏 (中公新書)

源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏 (中公新書)

  • 作者: 永井晋
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/06/14
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平城
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宗守城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4161.JPG←南辺の土塁
 宗守城は、宗守砦とも言い、永正年間(1504~21年)に越後守護上杉九郎房能の家臣小林壱岐守がこの城に拠ったと伝えられる。1507年に房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に攻撃されて滅亡すると、小林壱岐守は越後に戻り宗守城は廃城になった。
 尚、現地解説板に「上杉顕定が砺波地方を略し」とあるが、これは明らかな間違い。上杉房能の次兄顕定は、関東管領山内上杉房顕が五十子陣で病没すると、山内上杉家の家督を継いで関東管領となった。当時の関東は享徳の大乱の真っ最中で、更に顕定の代では長尾景春の乱もあり、関東争乱の渦中にあった関東管領の顕定が、越後を越えて遠く越中まで侵攻するなどありえない話である。また房能の名を房義と記載しているのも誤りである。

 宗守城は、現在神明社の境内となっている。神明社の周囲に土塁が明瞭に残っているが、小型の土塁囲郭で、かなり小さな主郭であった様だ(東の土塁は後世に盛られたものとの話もある)。土塁は神社背後の南辺のものが一段高くなっているが、この形が往時のままかどうかはわからない。いずれにしても現状を見る限り、小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553534/136.906192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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金戸館(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4143.JPG←館跡の現況
 金戸館は、歴史不詳の城館である。伝承では館主は森松縫殿助とも、堀一角とも伝えられる。

 金戸館は、専徳寺西側の水田地帯にあった。昭和48年に田圃整備事業に先立って一部の発掘調査が行われ、中世土豪の館跡として貴重なものと県教委から判断され、保存と本調査の方針が打ち出されたが、田圃整備を急ぐ地元の猛反対で全面発掘調査が行われることなく破壊と埋没の憂き目を見ることとなったと言う(『日本城郭大系』)。従って、現在遺構は完全に湮滅している。昭和20年代の航空写真を見ると、堀に囲まれた方形の館跡が確認できる。今から思えば、なんとも惜しいことをしたものである。高度成長期は、中世城館にとって受難の時代であったというほかはない。尚、館跡の南東にある神明社境内に金戸館の石碑と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.517966/136.888490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:居館
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城端城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4067.JPG←城跡に立つ善徳寺太鼓楼
 城端城は、戦国時代に荒木大膳(善太夫、六兵衛ともされる)が城主であったと伝えられる。大膳は、1559年に福光にあった善徳寺を招き、城地や城門を寄進したと伝えられる。善徳寺は、本願寺9世実如から寺号を免許され、加賀・越中・能登3ヶ国の惣禄(頭寺)に任ぜられた寺であったので、大膳は一向宗の熱烈な信者だったのだろう。佐々成政の越中支配時代には、成政の家臣河地才右衛門が城端城を守ったと言う。この他、斎藤九右衛門が城主であったとも伝えられるが、詳細は不明。

 城端城は、山田川とその支流の池川に挟まれた段丘上に築かれている。現在の善徳寺の境内に城があったとされる。明確な遺構はなく、背後に段丘崖を控えた地勢しか、明確なものはない。しかし城端の町中の道路は各所でT字形や鉤形の折れを設け、城下町の名残を残している。また町の北端には出丸町と言い、そこを通る坂道は出丸坂と言うので、城端城の出丸があったのだろう。尚、善徳寺の北東隅の太鼓楼は、荒木氏時代の遺構とされる。それにしても善徳寺は堂々たる伽藍の寺で、さすがに北陸の本願寺系統の寺は規模が大きい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.515621/136.901203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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井口城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4048.JPG←城址碑の立つ主郭跡の墓地
 井口城は、14世紀初め頃、この地の豪族井口蔵人の居城である。井口氏は、『源平盛衰記』によれば鎮守府将軍藤原利仁の3男を祖とする一族と言われる。井口氏の名は、南北朝動乱の中に顕れる。1335年、鎌倉時代に越中守護であった名越時有の子、名越時兼が中先代の乱で挙兵すると、井口氏や野尻・長沢等の越中勢が時兼の軍に加わった。また同年に越中守護普門俊清が、越中国司中院貞清を攻撃した際には、井口氏は守護方に属して戦った。観応の擾乱以降室町幕府と敵対していた元越中守護桃井直常が1362年に挙兵した際には、井口氏は桃井氏に属しており、井口城は桃井方の拠点となった。直常は、1369年にも幕府に敵対して能登などに攻め込んだが、能登守護吉見氏頼の軍勢に討伐され、9月17日に一乗寺城が、また同月24日に井口城・千代様城が攻め落とされている。この様に井口城は当時、桃井方の礪波郡における有力な軍事拠点であったことが知られる。その後、文明年間(1469~87年)には井口城は今村氏の居城となったと言う。
 尚、井口氏は、後に大家庄村の井口蔵人館(井口城)に転じたとの説があるが詳細は不明。

 井口城は、赤祖父川西岸の平地に築かれていた。城跡は、昭和37年頃から進められた圃場整備でほとんどの遺構が消滅し、一部が墓地として残されているだけである。この墓地脇に城址碑と解説板が立っている。昭和63年~平成3年に行われた発掘調査の結果、墓地周辺にあった横長長方形の主郭と、その東の小さな二ノ郭で構成され、両方の曲輪の周囲を堀で囲んでいたことが判明している。現在では城址碑以外にその痕跡を示すものはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.544656/136.931255/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2013/12/25
  • メディア: 文庫


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井波城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4007.JPG←本丸背後の空堀
 井波城は、本願寺5代綽如が建立した名刹瑞泉寺を城砦化した、寺院城郭である。瑞泉寺は門徒の増大とともに大きな力を有するようになり、これを恐れた福光城主石黒右近光義は1481年、瑞泉寺を討伐するための軍勢を起こし、山田川の田屋川原で一向一揆勢と激突、敗れて安居寺で自刃した。この結果、山田川東岸は瑞泉寺が支配するところとなり、一向衆は瑞泉寺を城砦化した。これが井波城の創築である。以後、越中一向一揆の中心となり、1575年に上杉謙信と和議を結び、上杉氏に属するようになった。しかし1578年に謙信が急死すると、上杉家中の内訌(御館の乱)による隙を衝いて、織田信長の勢力が越中に侵攻した。そして1581年、織田氏の部将佐々成政によって井波城は焼き払われた。その後、井波城には成政の部将前野小兵衛が入って城として整備されたが、1585年に前田利家に攻められて落城した。

 井波城は、元の瑞泉寺が置かれた場所であり、現在の瑞泉寺の東側に隣接した丘の上にある。城内は現在、井波八幡宮・宮司の居宅・金城寺・古城公園などに変貌しているが、遺構はよく残っている。南東に本丸、北半に二ノ丸、南西に三ノ丸を配置した縄張りで、本丸と二ノ丸の外周には土塁を築いて防御し、更に東側背後には水堀・空堀を穿って防御を固めている。本丸背後の土塁は2ヶ所でクランクし、クランクの角には櫓台が築かれている。その下には、水堀・空堀がやはりクランクしている。二ノ丸背後の空堀は、北端で地獄谷と呼ばれる薬研堀に変化している。本丸と二ノ丸の間には水堀があったらしいが、現在は失われている。この他、二ノ丸の北西には、土塁の外に腰曲輪が数段築かれている。夏場で草木が生い茂っていたが、それでも城の形状がよく分かるほど、遺構がよく残っている。
二ノ丸の土塁→DSCN4024.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559170/136.974181/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/03/10
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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伝長尾為景塚(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3805.JPG
 長尾為景は、越後守護代で、有名な上杉謙信の父である。守護である上杉房能を滅ぼした下剋上の梟雄として知られる。越後長尾氏は、長尾能景・為景・景虎(上杉謙信)の3代にわたってしばしば越中に侵攻し、越中一向一揆や越中守護代の神保氏を討伐した。為景の没年には諸説あるが、一説には1542年に増山城攻めの際に栴檀野で討死したとも言う。伝長尾為景塚は、討死した為景を葬った塚と伝承されている。

 伝長尾為景塚は、増山城に程近い栴檀野の水田地帯の只中にある。小さな塚だが、塚の上には供養碑が立てられ、標柱と解説板も建っている。訪問した時は、たまたま地元の人達が総出で雑草取りなどの整備をしており、その最中にお邪魔させていただいた。本当に為景の塚なのか、その真偽は不明であるが、この塚がいかに地元の人達から大切にされているか、よく分かる情景であった。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.639326/137.024049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


増補改訂版上杉氏年表 (為景・謙信・景勝)

増補改訂版上杉氏年表 (為景・謙信・景勝)

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2013/10/20
  • メディア: 単行本


タグ:墓所
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館の土居(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3802.JPG←標柱と館跡の現況
 館の土居は、東保館とも言い、般若郷の地頭多智民部大輔政道の居館である。政道は、増山城主神保安芸守に所領を奪われて没落したと言う。政道はその後、仏門に入り道空と称し、照円寺を開基したと伝えられる。

 館の土居は、庄川東岸の平地に築かれていた。現在は田圃整理で遺構は完全に湮滅している。昭和30年代初頭の航空写真を見ると、ほぼ方形の縦長の曲輪跡が確認でき、周囲には空堀跡も見ることができる。今は、車道脇に小さな標柱が立つだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.663858/137.015401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/09
  • メディア: 単行本



タグ:居館
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般若野古戦場(富山県高岡市) [その他の史跡巡り]

DSCN3789.JPG←弓の清水
 般若野古戦場は、別名を弓の清水古戦場とも言い、治承・寿永の乱(所謂源平合戦)の際の倶利伽羅合戦の前哨戦が行われた場所である。1180年に以仁王の令旨を受けて信濃で挙兵した木曽義仲は、北陸に勢力を広げた。1183年、平家は北陸の木曽義仲軍を討伐するため、平維盛を総大将とする10万の大軍を北陸道へ差し向けた。越前・加賀を制圧して進軍した維盛は、越中前司平盛俊に兵5千を与えて先遣隊として越中へ進出させた。一方、越後国府にいた木曽義仲は、平家軍の北陸進軍の報を受け、自ら軍を率いて越中へ兵を進めた。この内、義仲の重臣今井兼平を先遣隊として兵6千で先発させ、兼平は越中国御服山(現在の呉羽山)に布陣して迎撃態勢を整えた。平盛俊は倶利伽羅峠を越えて越中に入ったが、今井軍が御服山に布陣していることを知って、盤若野で進軍を停止した。兼平は、5月9日未明に平盛俊軍に夜襲を掛けた。盛俊軍は善戦したが、劣勢となり退却した。そして義仲が、倶利伽羅峠で平家の大軍を撃破したのは、この2日後の5月11日のことである。
 尚、「弓の清水」は、義仲の本軍が般若野に駆けつけた時、義仲が喉の渇きを訴える兵士達のために崖に矢を射たところ、清水が湧き出て渇きを癒したという伝説による。現在も水が湧き出しており、とやまの名水に選出されている。

 般若野古戦場は、常国神社の南にある。Y字に分岐した道路の中央にそびえる小丘の西麓に弓の清水があり、そこから丘上に伸びる遊歩道を登っていくと、丘上に古戦場の石碑が立っている。義仲の快進撃が始まった由緒のある地である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687435/137.037545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


木曽義仲に出会う旅

木曽義仲に出会う旅

  • 作者: 伊藤 悦子
  • 出版社/メーカー: 新典社
  • 発売日: 2012/07/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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大村城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3641.JPG←寺に残る土塁
 大村城は、戦国後期に轡田(くつわだ)豊後守雅正の居城であったと伝えられている。轡田氏は、越中守護代の神保氏に属し、新庄城・東岩瀬城などの城も有し、1万石を領していたらしい。越後の上杉謙信が越中に侵攻した際には、浜街道の防備の要として、雅正は大村城に立て籠もった。1578年、大村城を攻撃する上杉勢は、日方江に高台(そうけ塚)を築いて大村城内の様子を監視し、間もなくして上杉方の部将河田豊前守長親によって大村城は攻略された。この時、雅正は城で討死したと言う。しかし轡田氏の一部はそれに先立って上杉氏に服属したらしく、1576~7年の能登遠征軍の中に轡田肥後守の名が見え、肥後守は後に能登甲山城の守将の一人となった。1578年に謙信が急死すると、翌79年に上杉勢力の駆逐を図る温井景隆・三宅長盛ら能登畠山氏の旧臣が甲山城を攻撃し、肥後守は次男新八郎と共に討死し、嫡子監物は船で越後に逃れたと言う。

 大村城は、現在瑞円寺の境内となっている。主郭は、南東部が斜めにカットされた五角形をしており、珍しい形である。瑞円寺境内の東から南面にかけて土塁が残っているが、寺の住職宅の庭先にあるので、遠目に見ることしかできない。南側外周には堀跡の畑があるが、完全に埋められていて、畦道にその輪郭を残すだけである。寺の東側の民家も、土塁っぽいものと水路が見られ、二ノ郭であった様に思われる。出城の日方江城と同様に、わずかではあるが遺構が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.756937/137.255126/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の戦国時代と一揆

北陸の戦国時代と一揆

  • 作者: 竹間 芳明
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2021/03/06
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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日方江城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3617.JPG←了照寺周囲に残る土塁
 日方江城は、大村城の出城である。轡田豊後守の居城とされる大村城の東方400mに位置し、轡田家の家老、或いは江上重左衛門(萬十郎)の居城であったと伝えられる。江上氏は、天正年間(1573~92年)に佐々成政によって日方江城を追われたとも言うが、詳細は不明である。

 日方江城は、現在了照寺の境内となっている。南から西側にかけて土塁が残っている。西側の土塁の外には空堀も残っているらしいが、夏場だったので草木が生い茂っていて確認できていない。城跡は、南側の水田よりも一段高い低台地となっている。この他、寺の北西も境内と同様に台地の上であり、外郭があった可能性がある。
 尚、日方江城の北北東330mの県道脇には、上杉謙信が大村城攻撃の際に築いたとされる「そうけ塚」がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.757247/137.260426/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/03/06
  • メディア: 大型本


タグ:中世平城
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小出城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3609.JPG←城跡付近の現況
 小出城は、この地の国人領主、唐人(かろうど)兵庫が築いた城である。『三州志』によれば、1545年に唐人兵庫(武部兵庫正)が越後の長尾為景に敗れて小出城に入ったとされる。1563年8月には上杉謙信によって落城した。その後、揖美庄助五郎がこの城に拠ったが、1566年、再び謙信に攻め落とされ、その後謙信の部将長尾小四郎景隆が置かれたと言う。落城後、唐人氏は謙信に服属したらしく、能登甲山城の守将の中に、唐人式部の名が見える。1578年に謙信が急死すると、越中へ進出した織田勢によって小出城は制圧され、上杉方の魚津城松倉城に対する前線基地となった。1580年には佐々成政の部将久世但馬が居城したとされる。1581年3月に織田信長の馬揃えの為、越中の織田勢が在京して越中国内が手薄となると、上杉景勝はその隙を突いて小出城を包囲した(小出城の戦い)。しかし急報を受けた成政らは、越前衆の織田方武将と共に越中に帰国し、それを知った景勝は城の包囲を解いて撤退した。成政はこの後、佐々喜藤次・同喜右衛門を置いたと言う。翌82年6月、織田信長が本能寺で横死すると、越中の織田勢に動揺が起こり、上杉方は失陥したばかりの魚津城を奪還し、小出城をも奪った。しかし翌83年、成政は陣容を立て直して魚津城を猛攻し、上杉勢は魚津城・小出城を明け渡して越後へ退去した。この後、成政は上杉方の越中国人土肥政繁(弓庄城主)・斎藤信利(城生城主)らを降し、越中全域を制圧した。その後、小出城の名は現れなくなった。

 小出城は、小出神社周辺の平地にあったと伝えられていたが、平成15~17年度に行われた発掘調査の結果、神社の北側一帯にあったことが判明した。現在は大半が水田、一部が宅地となっており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代の航空写真を見ても、全くその痕跡は残っていないので、早くに失われた城だったようである。神社に建つ城の解説板だけが、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.734379/137.312998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/06
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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日中砦(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN3580.JPG←空堀と土塁
 日中砦は、佐々成政が弓庄城を攻撃するために築いた付城の一つである。弓庄城に拠った土肥美作守政繁は、越後の上杉謙信が越中に勢力を伸ばしてくると上杉氏に属したが、1578年に謙信が急死すると、越中に進出してきた柴田勝家・佐々成政らの織田勢に従った。しかし1582年6月に織田信長が本能寺で横死すると、再び上杉方に付いて、織田方の佐々成政と敵対した。成政は、政繁が籠城する弓庄城を攻撃するため、4つの付城(砦)を築造しており、日中砦はその一つであったと伝えられている。政繁はよく防戦に努めたが、上杉景勝の援軍を得られず、上杉方の重要拠点魚津城が落城したため孤立し、1583年8~9月に成政と和議を結び、城を明け渡して越後の糸魚川城へと退去した。

 日中砦は、白岩川西岸の河岸段丘の縁に築かれている。東側を断崖に面した方形単郭の小城砦である。郭内は墓地に変貌しているが、周囲三方を巡る土塁が良好に残り、その外側には空堀もよく残っている。北東の空堀の外にだけ更に土塁が築かれているが、車道建設で西半分が削られてしまっており、往時はどこまで伸びていたのか不明である。虎口は南西部にあり、土橋が架けられている。小規模な城砦だが、遺構がよく残っており、貴重な付城遺構でもある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.674030/137.355527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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弓庄城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN3559.JPG←主郭西側の切岸・腰曲輪跡
 弓庄城は、戦国時代に新川郡一帯を領していた国人領主土肥氏の居城である。越中土肥氏は、鎌倉幕府創業の功臣で相模国土肥郷を本領とした土肥次郎実平の後裔と言われる。土肥氏は、鎌倉時代以降に在地領主化して、室町幕府や守護の度重なる命令にも関わらず、この地にあった祇園社領の荘園である堀江荘を実力で支配するようになった。実平の5代の孫実綱が、南北朝期の貞和~応安年間(1345~70年)頃に越中国新川郡堀江郷に入部したと言われる。当初は堀江城を本拠としていたが、後に堀江城を本拠とした堀江系土肥氏と、弓庄城を本拠とした弓庄系土肥氏の二流に分かれたとも言われる。実綱から4代後の政道が弓庄城を築いて移り、以後、政忠、政良(政繁)と3代の居城となった。戦国後期の城主土肥美作守政繁は、堀江城主土肥次良右衛門の弟と言われ、茗荷谷山城を詰城として築いていた。戦国期の越中国内の争乱で勢力を減退させた土肥氏は、越後の上杉謙信が越中に勢力を伸ばしてくると、上杉氏に属して勢力の挽回を図ったが、1578年に謙信が急死すると、越中に進出してきた柴田勝家・佐々成政らの織田勢に従った。しかし1582年6月に織田信長が本能寺で横死すると、再び上杉方に付いて、織田方の佐々成政と敵対した。成政は、郷田砦日中砦などの4つの付城を築いて、同年8~9月と翌83年4月以降の2度に渡り政繁が籠城する弓庄城を攻撃した。政繁はよく防戦に努めたが、上杉景勝の援軍を得られず、上杉方の重要拠点魚津城が落城したため孤立し、同年8~9月に成政と和議を結び、城を明け渡し越後に退去した。これにより、約300年に及んだ土肥氏の新川支配は終焉を迎えた。

 弓庄城は、白岩川東岸の低台地に築かれている。現在は耕地整理で一面の水田に変貌し、明確な遺構はほとんど残っていない。主郭の中心付近に当たる場所に立派な城址碑が建てられているが、主郭の形状も今となっては不明である。ただ、唯一西側に切岸跡の段差が残り、腰曲輪らしい平場も見られる。この段差の上の隅には「館城址」と刻まれた石碑が立っている。この石碑の南には水田に通じる小道が切通し状に通っており、堀跡かとも思ったが、どうも違うらしい。結局、西側の段差と腰曲輪以外に明確な遺構は見られず、残念な状況である。尚、城跡のすぐ東にある「弓の里歴史文化館」は入館無料で、弓庄城の詳しい解説や発掘品が展示されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.673479/137.362436/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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  • 作者: 佐伯哲也
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  • 発売日: 2017/08/10
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郷柿沢館(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN3507.JPG←水堀と土塁
 郷柿沢館は、堀江荘の国人領主土肥氏の一族の館である。館主は土肥孫十郎、土肥弥太郎、土肥源太郎、土肥孫太郎などの名が伝わるが、明確にできない。天正年間(1573~92年)に弓庄城主土肥美作守政繁が佐々成政に敗れた後、病弱で戦いに出陣できなかった郷柿沢館主土肥弥三五郎は、佐々勢に降伏して帰農したと言う。また石山合戦に参加していた椎名兵部(松倉城主椎名康胤の子)が越中に帰国後、招かれて西養寺を開基したと伝えられる。

 郷柿沢館は、現在は西養寺の境内となっている。寺の周囲に土塁が廻らされ、外周に水堀も残っている。訪城が晩夏であったのでまだ草木が鬱蒼としており、きちんと確認できない部分も多かったが、南東部の虎口跡と土橋が藪の中に確認できた。薮が多くてわかりにくかったが、水堀が食違いとなった虎口で、虎口位置と土橋の位置も若干東西にずれているとのことである。また東側の水堀は、民家の裏なので近づくことができなかった。小規模な城館であるが、遺構はよく残っている。冬場に訪城した方が、遺構がよく確認できるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.718935/137.368326/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

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  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
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堀江城(富山県滑川市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3481.JPG←城跡の現況
 堀江城は、この地の国人領主土肥氏の居城である。越中土肥氏は、鎌倉幕府創業の功臣で相模国土肥郷を本領とした土肥次郎実平の後裔と言われる。土肥氏は、鎌倉時代以降に在地領主化して、室町幕府や守護の度重なる命令にも関わらず、この地にあった祇園社領の荘園である堀江荘を実力で支配するようになった。堀江城の築城時期は不明だが、1352年の足利義詮御判御教書に「土肥中務入道(心覚)」の名が見え、荘内に要害や軍陣を設けていたことが知られる。戦国期の堀江城主は、土肥源七とも土肥源十郎、土肥弥太郎とも伝えられ、稲村城千石山城郷柿沢館弓庄城茗荷谷山城を築いていた。また堀江城を本拠とした堀江系土肥氏と、弓庄城を本拠とした弓庄系土肥氏の二流に分かれたとも言われる。1569年か天正年間(1573~92年)の初め頃に、堀江城は上杉謙信に攻撃されて落城した。

 堀江城は、上市川北岸の微高地の先端付近に築かれていたらしい。しかし上市川からの出水により、江戸時代に城跡は跡形もなくなっていたと言う。現在も微高地の地勢は残っているが、城跡は墓地と耕作放棄地に変貌しており、明確な痕跡は微高地の崖線しかない。周囲には堀が廻らされていたらしいが、周囲の地形は公園化で一変しているので、窪地は見られるが明確に堀跡と判断できない。一応、墓地内に堀江城の標柱が立ち、城の西側の築山の上に解説板が建っている。尚、墓地内には土肥家の墓があり、ご子孫の家の墓であるらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.732367/137.356095/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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有金館(富山県滑川市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3475.JPG←館跡付近の現況
 有金館は、堀江城主土肥氏に関係した城館と推測されている。伝承では、土肥美作守の部将宮崎権進が拠り、その後、佐々成政の部将佐々喜右衛門が居住したと言われる。一方、上杉謙信が堀江城を攻撃するための付城として築いたとの説もある。

 有金館は、上市川北岸の平地に築かれていたが、現在は有金新町住宅という住宅団地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代の航空写真を見ると、『日本城郭大系』に載っている地籍図通りの館跡が水田の中に確認できる。それを見ると西と南に空堀が穿たれているが、北辺の塁線はS字に蛇行しており、東辺も一直線の塁線ではない様だ。また北辺・東辺には空堀の跡が見られないので、塁線の段差だけで区画されていたのかもしれない。GoogleMapの航空写真と比較すると、大きく蛇行していた上市川の流路は、河川改修で直線状に作り変えられ、館跡のすぐ東側には国道8号線が通り、周辺の景観は一変している。館跡を示すものも残っておらず、極めて残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.740483/137.341311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本



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