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姫ヶ城(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7474.JPG←堀切
(2020年11月訪城)
 姫ヶ城は、渡合城・興徳寺城とも言い、能登守護畠山氏の重臣で能登の有力国人であった長氏の一族三井氏の城であったと伝えられる。1487年の江州在陣衆の中に三井左京亮が見える。一方、三井町仏照寺縁起では、文明年間(1469~87年)に能登畠山氏の家臣で三井の城主温井備中の次男政貞が出家して興徳寺を号したと伝えている。この城のある三井郷は、長・温井両氏の勢力圏の接点に位置し、両者によって相次いで領有されたことがうかがわれる。

 姫ヶ城は、河原田川と中川の合流点の北西にそびえる、標高200m、比高110m程の山上に築かれている。東麓から登山道が整備されているが、山の北側にぐるりと回ってから南下して尾根に取り付くルートとなっており、城に到達するまでの距離は長い。ほぼ単郭の小規模な城砦で、ほぼ円形の主郭を中心に2段の腰曲輪が廻らされ、背後の西尾根に堀切を穿って分断している。主郭には四阿があり、公園となっているようだが、行った時には草茫々になっていた。また西の尾根には若干の起伏があり、現地解説板では狼煙穴とされるが、よくわからない。しかし城の構造から考えて、物見や狼煙台を主任務とした城であったと考えられる。
主郭周囲の腰曲輪→DSCN7487.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.325533/136.899465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


石川県の歴史散歩

石川県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/07/01
  • メディア: 単行本


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天堂城(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7428.JPG←殿様屋敷
(2020年11月訪城)
 天堂城は、能登守護畠山氏の重臣温井氏の居城とされる。温井氏は、元々輪島の国人領主で、南北朝時代以降、大屋荘の地頭であった長氏の勢力が後退すると、次第に勢力を拡大したらしい。温井氏の初見は文明年間(1469~87年)と明応年間(1492~1501年)の神社棟札で、温井備中俊宗・代官温井彦右衛門尉為宗の名が見えると言う。俊宗の子孝宗は兵庫助を名乗り、能登守護畠山義統・義元・慶致・義総の4代に仕えたが、1531年の加賀一向一揆の内紛(享禄の錯乱)で、加州三ケ寺を支援した畠山氏の軍勢に加わって加賀に出陣し、河北郡太田の合戦で討死した。跡を継いだ総貞(備中入道紹春)は、畠山義総に文武の才を買われて重用された。義総が没して嫡子義続が跡を継ぐと、畠山氏の重臣層を巻き込んだ内訌を生じ、遊佐続光一党と温井一族が対立、七尾城を巡って攻防が繰り広げられた。1551年春頃、両派の和睦が成立して内乱が収束すると、主君義続は傀儡化され、畠山七人衆と呼ばれる重臣層による合議体制が成立した。その中では、温井備中入道紹春と遊佐美作守続光の二人が双璧であった。1554年頃、紹春はライバルの遊佐続光を越前に追って専権を確立した。しかし1556年、大名権力の回復を目指す畠山義綱は紹春を謀殺し、温井・三宅の一族は加賀に逃れた。間もなく温井一党は、加賀・能登の一向一揆と結んで能登復帰の軍事行動を開始したが敗退した。1560年に畠山義綱が重臣の遊佐続光・長続連らによって追放され、義綱の嫡男で幼い義慶が擁立されると、景隆を中心とする温井・三宅一族は帰参を赦された。その後、七尾城では幼主義慶を擁した温井景隆らの重臣が加賀・越中の一向一揆と手を組み、上杉謙信の能登進出に抵抗した。1577年、謙信は七尾城を攻囲し、遊佐続光を内応させて七尾城を攻略した。温井景隆とその弟三宅長盛も上杉氏に臣従したが、謙信没後の1579年、景隆らは織田信長に通じて上杉勢力を能登から追放し、七尾城奪還に成功した。景隆は七尾城を占拠した畠山氏旧臣勢力の主将となり、織田氏に服属した。1582年6月、信長が本能寺の変で横死すると、景隆は石動山天平寺の衆徒と結んで、能登に入部していた織田氏の部将前田利家に叛し、鹿島郡荒山峠の合戦で敗れ、温井氏は滅亡した。

 以上、長々と温井氏の事績を書き綴ったが、温井氏の居城とされる天堂城は、その存在自体がよくわからない。というのも、遺構とされる山中を歩き回ったが、明らかな城郭遺構が確認できないのである。天堂城は、鳳至川上流域の西岸にそびえる標高244mの丘陵一帯に築かれているとされる。『日本城郭大系』では多数の曲輪群を擁した大規模な城としており、今は失われた現地解説板にはその曲輪群の配置が記載されていたが、殿様屋敷・兵庫屋敷・本丸などを探索しても、平場はあっても畑、その他は自然地形で明確な遺構は確認できなかった。空堀とされるものも自然地形と考えた方が良さそうである。城内の各所に案内表示があるものの、どこも未整備で、余計に訳がわからない。結局、天堂城とされるものは城ではないのではないだろうか?謎の多い城である。
空堀とされる地形→DSCN7422.JPG

 お城評価(満点=五つ星):?(評価不能)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.343038/136.868523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


石川県の歴史 (県史)

石川県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
  • メディア: 単行本


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神和住城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7381.JPG←主曲輪
(2020年11月訪城)
 神和住城は、歴史不詳の謎の城である。現地解説板によれば、戦国時代の1559年に、この地の土豪であった山本太郎右衛門が真念寺を小間生から神和住に招請し創建したと伝えていることから、山本氏がこの地の名主であり、この神和住城の旗頭であったと推定される、としている。しかし神和住城を城郭遺構とする見解には否定的意見もあり、佐伯氏の『能登中世城郭図面集』では城郭遺構と認定しておらず、神社仏閣などの宗教施設の可能性が高いとしている。

 神和住城は、真念寺の西側にある火之宮神社背後の丘陵中腹にある。この丘陵中腹はゴボジ(御坊地)と呼ばれていると言い、以前は登道が整備されていたようだが、現在は薮で埋もれているので、適当に薮をかき分けて尾根に取り付いて登った。薮がひどいのは入口付近と東部の遺構だけで、曲輪跡とされる中心部はそれほど薮が多くないので、状況の確認はできる。しかし各所に標柱が設置されているが、現地解説板にある城の概念図と現地の遺構形状がうまく合致しないので、どこを歩いているのかさっぱりわからなかった。一応、山腹を窪地状に造成した「曲輪(屋敷跡)」や、尾根の上を平らに削平した「主曲輪(物見台)」、堀状地形や「竪堀」とされる地形が見られるが、とても整然とした防御構造を構成しているようには感じられず、城っぽい普請ではない。佐伯氏が推測している通り宗教施設と考えた方が合っている感じがするがいかがであろうか?
窪地状の屋敷跡→DSCN7365.JPG
DSCN7395.JPG←竪堀とされる地形
坂虎口→DSCN7398.JPG

 お城評価(満点=五つ星):?(評価不能)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.342526/137.062351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


石川県の歴史散歩

石川県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/07/01
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黒峰城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7241.JPG←主郭の土塁
(2020年11月訪城)
 黒峰城は、宝立山の南東の峰に築かれた山城である。伝承では阿部判官義宗が城主であったと伝えられるが、実在不明の伝説的人物とされる。天正年間(1573~92年)中期には上杉謙信の武将由井浄定が置かれたが、前田利家の軍勢によって落城したとも言われる。

 黒峰城は、標高436mの山上に築かれている。山の東の尾根まで車道が伸びており、その脇に城への登り口が明示され、登山道が整備されているので迷うことなく城まで行ける。この登山道は古くからの古道の一部で、黒峰城は古道を押さえるように築かれている。最高所に土塁で囲まれた五角形の主郭を置き、北に北郭、南東に二ノ郭を築いている。主郭は南北に虎口が構築され、北側では更にその外に食違いの土塁が築かれて食違い虎口が形成されている。またこの土塁のうち左手のものによって、主郭の北西側に横堀が形成されている。北郭の北端は物見台となってそびえ、その北尾根には二重堀切が穿たれている。二重堀切の形状はやや変則的で、外堀は内堀より高い位置に穿たれている。また内堀は、城の東西にある古道を繋ぐ切通し道となっている。主郭南東の二ノ郭は2~3段の平場に分かれ、東辺の一部に土塁を築いている。東端は物見台状に突出しており、そこからは飯田湾が一望でき、観光名所である見附島もよく見える。二ノ郭の西側は内枡形の様な空間を形成し、古道が通る下段の腰曲輪に通じている。この腰曲輪の西端には堀切と小郭が築かれ、小郭北側の古道沿いの斜面には畝状竪堀が穿たれている。この他、主城部から南に伸びる尾根には南郭群が置かれ、古道はその西側をすり抜けて南下し、南側で南郭群の下方を画する横堀状の切通し道となって下っている。

 黒峰城は、主城部が綺麗に整備されているので、整然とした遺構がよく分かる。また山上からの絶景も相俟って素晴らしい。畝状竪堀はやや薮が多いのが残念だが、古道を取り込んだ城の典型であり、見応えがある。能登の城で畝状竪堀と言えば、越後上杉氏の影響下の城であるので、黒峰城も上杉氏勢力が改修した戦国後期の城と考えるのが妥当であろう。
二ノ郭→DSCN7229.JPG
DSCN7270.JPG←畝状竪堀
北端の二重堀切→DSCN7254.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.420822/137.172450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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末次城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7115.JPG←主郭切岸と腰曲輪
(2020年11月訪城)
 末次城は、背継城・行延城とも言い、松波城の支城である。この地の土豪末次甚右衛門が城主で、1577年の上杉謙信による能登攻略の際に落城したと言われ、同年9月の松波城の落城と共に末次城も落城したと推測されている。

 末次城は、松波と宇出津を繋ぐ街道の東に張り出した丘陵上に築かれている。北西に突き出た丘陵全体を城域とした広域の城である。『能登中世城郭図面集』の佐伯氏は、主要部以外は自然地形か耕作地と判断して縄張図に載せていないが、実際に歩いてみるとそれでは説明つかないような平場や堀切状地形があるので、解説板の縄張図で示された城域が正しいものとして説明する。北麓に城主末裔の末次家の居宅があり、その脇から散策路が整備されている。各所に細かく標柱があるので、迷うことはない。城の中心となるのが周囲から切岸でそびえる主郭で、ほぼ長円形をしており、城址石碑が立っている。主郭の東側に鞍部の平地があり、東の2郭や南東に伸びる6郭・狼煙台へ通じる道の交差点のようになっている。前述の登り口から北大手口方面に登っていくと、ここに至る。この鞍部の平地の北には谷があり、現地表示では大竪堀とされているが、見た限りではほぼ自然地形のようである。「二の丸木戸口」「虎口」などの表示もあるが、これも明確な遺構は見られない。鞍部の平地の北東に一段高くなった平場が2郭とされ、ほぼ自然地形であるが城内では最も広い面積を有する。城主末次氏と共に木郎郷の郷士・郷民が立て籠もって戦ったと伝えられる城であるので、2郭は村民の避難区であったかもしれない。2郭の北側には舌状曲輪が突き出し、2郭の北東には堀切状地形と、一段低い5郭があるが、普請がささやかで自然地形との区別が難しい。その先はやはり大竪堀と表記される自然の谷があり、東大手口となっている。一方、主郭の南には幅広の堀切地形を挟んで3郭がある。この堀切地形の東西に竪堀が落ち、特に東側のものは二重竪堀となっている。3郭も長円形の曲輪で、南側に一段低い腰曲輪を伴っている。現地表示では空堀となっているが、現状からでは腰曲輪に見える。3郭の西には段曲輪の下に堀切があり、その西に4郭がある。3郭の南下方には空堀が穿たれ、鞍部の先に南出曲輪がある。物見台的な小郭である。主郭から3郭にかけての東側には腰曲輪があり、墓地となっていて、「軍勢駐屯場(陣屋)」の表示がある。前述の鞍部の平地から南東に伸びる尾根には外郭群があり、尾根の僅かな段差部には土塁の表示がある。その先は6郭とされ、自然の尾根だが両側に腰曲輪らしい平場がある。6郭の先に狼煙台と表示のある曲輪があり、北に突き出た平場の周囲に土塁が廻らされ、付け根には堀切が穿たれている。このあたりは明確な普請の形跡が見られる。
 以上が末次城の概要で、地元の有志の人達の手でよく整備されており、大事にされている城址である。
二重竪堀→DSCN7124.JPG
DSCN7166.JPG←3郭南の空堀
狼煙台の土塁→DSCN7095.JPG
DSCN7102.JPG←狼煙台付け根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.333825/137.208821/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/04/18
  • メディア: 大型本


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舟見城(富山県入善町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7014.JPG←西端の堀切
(2020年11月訪城)
 舟見城は、弘治年間(1555~58年)に飛騨守五郎左近尉と言う武士の居城であったと伝えられる。一説には、平安末期に入善小太郎父子が舟見城を築いたとも言われる。越後の上杉謙信が越中に侵攻すると、飛騨守は舟見城に立て籠もって抗戦したが、水源を絶たれて落城し、飛騨守は血路を開いて城を脱出し、愛馬もろとも黒部川に身を投じたと伝えられる。

 舟見城は、舟川東岸の標高252.4m、比高110m程の丘陵上に築かれている。現在は舟見山自然公園に変貌し、城内は大きく改変されてしまっている。従って、明確な遺構はほとんど無い。しかし南端と西端に小堀切が残っており、特に西の堀切は綺麗な形を留めている。この他、西側斜面下方に大型の腰曲輪が確認できる。眼下の眺望に優れ、富山湾を一望できる。
西斜面の腰曲輪→DSCN7011.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.882744/137.559675/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/04/17
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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内山城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6945.JPG←主郭南の堀切
(2020年11月訪城)
 内山城は、現地標識では内山砦と表記され、南北朝期に元越中守護普門俊清が立て籠もった城である。俊清は、建武の新政期に越中守護に補任され、足利尊氏が建武政権から離反すると足利方に付いて、宮方の越中国司中院定清を能登石動山に攻め滅ぼしたことが『太平記』第14巻に見える。その後、室町幕府が成立するとあらためて越中守護に任じられたが、1344年に東大寺領の荘園押領等によって守護を罷免されたことから幕府に背き、幕府から追討されることとなった。1347年、幕府は桃井直常・能登守護吉見氏頼らに俊清を討伐させ、俊清の籠もる松倉城を攻撃し、1348年10月に松倉城を攻め落とした。俊清は逃れて、内山城に立て籠った。得田素章らはこれを追って内山城を攻撃したことが、得田素章軍忠状に見える。その後の内山城の歴史は不明である。

 内山城は、黒部川西岸の山上にあり、北に突出した尾根の中ほどに築かれている。高圧鉄塔の建っている山なので、西麓から「愛本 3」と書かれた鉄塔保守道を使って登ることができる。小規模な城砦で、山頂に長円形の主郭を置き、その南北に堀切を穿ち、主郭東には横堀、西斜面には数段の腰曲輪群を築いている。主郭には高圧鉄塔が建っており、北側に段曲輪を築いている。主郭の塁線の一部と、西の腰曲輪群には川原石を積んだ石積みが残っている。この石積みは『日本城郭大系』では遺構としているが、後世の耕地化による可能性もあると思われ、遺構とは断定できないように思う。一応、登道があり、「内山砦→」という誘導標識もあり、以前は整備されていた痕跡が残るが、現在は薮に覆われている。主郭北の堀切の北側にも曲輪があった可能性があるが、薮で確認が困難である。主郭南の堀切の南側には高圧鉄塔の建つ平場があり、外郭であった可能性があるが、判然としない。追い詰められた普門俊清が逃げ込んだ城なので、それほど大きな城ではなかったのだろう。
主郭塁線の石積み→DSCN6950.JPG
DSCN6961.JPG←主郭東側の横堀
西斜面の腰曲輪群→DSCN6981.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.856978/137.551650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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明日山城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6881.JPG←土橋と空堀
(2020年11月訪城)
 明日山(あけびやま)城は、鼓打城とも言い、歴史不詳の城である。黒部川東岸の比高200m程の山上に築かれている。送電線鉄塔が数多く建てられた山で、西麓の愛本発電所の南から送電線鉄塔の保守道があるので、そこを登って朝日小川線32番鉄塔を目指す。32番鉄塔から南西に山林を分け入っていくと「松ガ平」と呼ばれる広い緩斜面が広がっており、その中を南西方向に向かって進んでいくと、やがて城塁が見えてくる。「鼓ノ平」と言われる場所にある明日山城は、西から南にかけては断崖で囲まれ、北から東面にかけては自然地形の谷で囲まれている。この谷をそのまま空堀として利用し、切岸で外周を防御した曲輪を南北2郭築いている。縄張りから推測して、北が二ノ郭、南が主郭と思われる。2郭の間は一直線の空堀で分断され、中央に土橋を架けている。主郭は、土橋の右手にだけ低土塁が築かれている。二ノ郭の北側から主郭の北東辺にかけて腰曲輪が廻らされている。主郭の南東には空堀が穿たれて台地の際まで掘り切っている。また主郭の南西隅には小堀切が穿たれ、その先には小郭が置かれている。明日山城は、ある程度の広さを持った曲輪で構成されるが、守りがそれほど固いとも言えず、普請の規模もあまり大きくはない。戦国期以前の古い形態の城と思われる。
東側の城塁→DSCN6875.JPG
DSCN6895.JPG←主郭南東の空堀
主郭南西の小堀切→DSCN6899.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.858352/137.562464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:中世山城
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扇山砦(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN6829.JPG←平坦で広い主郭
(2020年11月訪城)
 扇山砦は、横尾城の支砦である。馬鬣(りょう)山から北に伸びる尾根の標高120m地点にある。上百山砦から北尾根を下ってしばらく行くと小堀切があり、その先に自然地形の尾根が続き、もう1本の堀切があり、その上が砦の中心部である。尾根筋の分断防御を主目的とした上百山砦と異なり、平坦で広い峰を主郭として利用した防衛陣地となっている。その前面に数段の段曲輪が置かれているだけの簡素な城砦である。主郭の後部西側には横堀の様な溝地形があるが、往時の虎口跡であろうか?
堀切→DSCN6824.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.957985/137.576112/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/04/17
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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上百山砦(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN6787.JPG←砦南限を画する堀切
(2020年11月訪城)
 上百山砦は、横尾城の支砦である。馬鬣(りょう)山から北に伸びる尾根の中程にあり、長願寺近くからの登山道が尾根上に至ったところを北側に分岐する山道を入っていくと、すぐ砦南限を画する堀切に至る。
 細尾根を3本の堀切で分断し、堀切の間に曲輪群を配した直線連郭式の縄張りである。3本の堀切の内、一番北の堀切の北側に砦の中心となる曲輪群が構築されており、最上段の曲輪の東端に土壇を設け、北尾根に沿って数段の段曲輪群を築いている。この段曲輪群から西に派生する支尾根にも小堀切が穿たれている。この砦の特徴は堀切の規模が大きいことで、尾根筋の分断防御を主目的としていたことがうかがわれる。上百山砦から北尾根をそのまま下っていくと扇山砦に至る。
北尾根の段曲輪群→DSCN6853.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.956339/137.576133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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横尾城(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN6699.JPG←堀切から屈曲して落ちる竪堀
(2020年11月訪城)
 横尾城は、木曽義仲に従って越前火打城倶利伽羅合戦に加わった12世紀頃の佐味庄の豪族佐美太郎が創築したと考えられている。南北朝期の1337年、北朝方の越中守護普門(井上)俊清らは越後の南朝軍の侵入を防ぐため、南北1.5kmの尾根の7箇所を堀切で断ち、山を削って六郎山・上百山扇山などの曲輪を段状に設け、城塞の山に変貌させた。戦国前期の1509年、越後守護上杉定実・同守護代長尾為景(上杉謙信の父)は越後反抗の拠点として守りを強固にした。戦国末期には佐々成政が横尾城を改修したとされる。横尾城は宮崎城と密接な関係を持ち、両越国境の守りについていたと推測されている。

 横尾城は、標高248mの馬鬣(りょう)山山頂から東に広がる斜面上に築かれている。西麓の長願寺の近くから登山道が整備されているので、登るのは容易である。現地解説板の縄張図の呼称に従うと、山頂の峰が見晴台、そこから東に下ったところに本曲輪を置いている。本曲輪の下方には本曲輪の下には堀切を穿ち、その下に中曲輪がある。堀切の北端は腰曲輪に繋がり、その下には屈曲しながら竪堀が落ちている。またこの腰曲輪に対して本曲輪の斜面に竪堀を落としている。また前述の堀切の南側はクランクしながら竪堀となって落ち、中曲輪の塁線が張り出して横矢を掛けている。この堀切を降ると鞍部にある武者かくしの曲輪に至る。ここにも浅い空堀が穿たれて中曲輪の南限を区切っている。中曲輪からこの空堀に土橋を架け、両側に土塁を築いた虎口が設けられている。土橋の南には南曲輪がある。中曲輪の南東部にも屈曲した空堀があり、前述の南限の空堀と直交している。中曲輪の南東部の空堀の外が東一の曲輪、その外側に空堀を挟んで東二の曲輪・腰曲輪がある。中曲輪の北東斜面には二の曲輪・北曲輪が広がるとされる。一方、南曲輪の先へ山道に沿って降りていくと、土橋を架けた堀切があり、その先に城域南限となる堀切が穿たれている。この堀切は峠道が通っていたらしい。この堀切の西側方には土塁が築かれ、土塁の内側にも竪堀が落ちている。以上が城の主要部となる。更に山頂の見晴台の西側の峰から北に伸びる尾根にも堀切が数本穿たれている。
 横尾城は、各所に堀が縦横に構築される一方で、いずれの曲輪も削平が甘く、自然地形を残しているものがほとんどである。堀フェチが作った城、と言う印象であり、山頂から東の斜面に構築された占地と言い、非常に特異な城である。自然地形を残した形態からすると、何らかの作戦上、一時的に構築された陣城だったのかもしれない。
北側の竪堀→DSCN6678.JPG
DSCN6710.JPG←中曲輪の虎口と土橋
中曲輪南東の空堀→DSCN6729.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.952035/137.579137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

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  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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元屋敷城(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN6519.JPG←主郭切岸と二ノ郭
(2020年11月訪城)
 元屋敷城は、歴史不詳の城である。位置的には宮崎城の北西の尾根続きの峰にあり、距離は500m程しか離れていないことから、宮崎城の出城であったと推測されている。海岸沿いを通る北陸街道の監視を担っていた城との説も提示されている。

 元屋敷城は、標高150mの山上に築かれている。私は宮崎城から尾根伝いに訪城した。中心に長方形の主郭を置き、その東面と北面に腰曲輪状に二ノ郭を廻らしている。東面の二ノ郭は4段に分かれて北に向かって下っている。主郭の西側には一直線に横堀が穿たれ、外側に土塁が築かれている。主郭の周囲には土塁が廻らされ、北辺に虎口が設けられ、虎口の前には二ノ郭より一段高くなった虎口郭が築かれている(これを角馬出しとする解釈もあるが、私の理解では土橋・木橋で連絡された独立小郭を馬出しと言うべきで、虎口前に付随して置かれる小郭は「虎口郭」として馬出しとは区別すべきと思う)。虎口郭から坂土橋が側方に通じ、動線が鉤の手状に折れ曲がって外枡形となっている。主郭の南には片堀切が穿たれているが、薮でわかりにくい。その南は三ノ郭で、片堀切の穿たれた土橋を越えて更に南には南郭が置かれている。南郭の南辺には低土塁が築かれ、南西端に浅い堀切が穿たれている。また二ノ郭の東尾根の先には番所曲輪とされる出曲輪がある。その先は宮崎城の西出丸に通じている。
 元屋敷城は、主郭・二ノ郭以外は普請がざっくりしており堀切も小規模で、あまり守りの固い城とは思えない。宮崎城とは尾根続きで連絡していることから、宮崎城と一体で運用された、街道の監視所的な役目を負った出砦と推測される。
主郭西側の横堀→DSCN6532.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.965324/137.580489/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/01/04
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タグ:中世山城
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宮崎城(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN6471.JPG←三の丸の石積み
(2020年11月訪城)
 宮崎城は、1182年に北陸宮という皇族の御所として築かれたのが始まりとされる。即ち、1180年に平家打倒の令旨を各地に発して挙兵した以仁王が宇治川で敗死した後、その第一皇子北陸宮は1182年に京都を脱出して北陸に下向し、木曽義仲に属する豪族宮崎太郎長康に護られて宮崎に居住し、八幡山(城山)に御所を造営したとされる。後に皇位継承の望みを絶たれた北陸宮は入洛してこの地を去った。1221年の承久の乱では、京方の宮崎定範らが幕府方の北条朝時の軍勢を防ぐためにこの地に拠ったが、備えを破られて敗走した。時代は下って戦国時代になると、この地は越中守護畠山氏の新川郡守護代椎名氏の支配下に入った。しかし越後の上杉謙信が越中に進出して椎名氏を没落させると、越中の越後口を固める重要な位置にある宮崎城は、上杉方の越中進出の中継拠点として重要な役割を担った。その後、上杉氏の守将が置かれたが、謙信の死後に織田氏の軍勢が魚津城松倉城など上杉方の越中の拠点を攻略すると、宮崎城も佐々成政の手に落ち、成政の将丹羽権平らが守備についた。1584年10月、上杉景勝が越中に侵攻すると、その先鋒土肥政繁(元弓庄城主)の猛攻を受け、丹羽氏らは城を明け渡して退去した。その後、越中が前田利家の支配下に入ると、前田氏家臣の高畠織部定吉・小塚などの武士が配された。江戸時代になると境関所の整備に伴い廃城となった。

 宮崎城は、標高248.6mの城山に築かれている。かつて太平洋戦争時には帝国陸軍の電波技術研究所が設置され、また現在は公園化されており、城内はかなり改変を受けている。山頂に大きな土壇(櫓台か?)を持った本丸を置き、その西の尾根に二の丸・三の丸を築いた連郭式の縄張りとなっている。三の丸の南辺には低い石積みが残っている。三の丸の北側斜面には散策路の周囲に腰曲輪群が築かれている。その北限には七曲堀という堀切が穿たれているが、薮で少々わかりにくい。三の丸の南西には小堀切が穿たれ、北西の尾根には西出丸が築かれ、出丸の付け根に堀切・土橋が構築されている。この尾根の先には元屋敷城がある。一方、本丸の南には土橋状の通路(戦時中に埋められた堀切跡)を挟んで外郭があり、その南端に大きな土壇と堀切が残っている。またこの外郭の北西辺には畝状竪堀があるとされるが、薮が多くて全くわからなかった。改変が多いため、どこまで遺構が残っているのか不明確であり、消化不良気味になる遺構の状況である。
外郭南端の堀切→DSCN6419.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.962958/137.585424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

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  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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大沢楯(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN6075.JPG←三ノ郭の大切岸と空堀
(2020年11月訪城)
 大沢楯は、歴史不詳の城である。楯主は大類源内と伝えられる。位置的には牛房野楯森岡山楯の中間にあり、牛房野楯の前衛の砦であったと推測されている。

 大沢楯は、標高161m、比高40m程の丘陵上に築かれている。牛房野楯と同じ様に多数の曲輪群で構成されている。大きく主郭群・二ノ郭群・三ノ郭群と、西斜面に構築された西郭群から構成され、二ノ郭群・三ノ郭群はいずれも全体として凸字型をした形状となっている。城の南西尾根の先に給水施設が建っており、そこから山林内を北北東に進んでいくと、外周を空堀で囲まれた三ノ郭群が現れる。要塞の如く眼前にそびえ立つ大切岸で、空堀も比較的規模が大きい。三ノ郭群の西側には西郭群の塁線が張り出し、ダイナミックな横矢が掛けられている。三ノ郭群の北東に虎口があり、その先は堀底道となって上に通じている。その上の二ノ郭群・主郭群はいずれも、南西側に空堀を穿って防御している。また塁線が外に張り出して下方の曲輪に対する横矢掛けを強く意識している。主郭は南東側に虎口郭を設け、その間にも横堀を穿ち、虎口郭の下にも横堀が穿たれている。主郭は枡形虎口となっている。主郭の背後は蟻の戸渡り状の細尾根で、堀切は見られない。三ノ郭群の西斜面には多段式の西郭群が築かれている。最下方に土塁が築かれ、谷状に窪んだ部分に虎口が築かれている。この虎口の上には腰曲輪の段があり、上方正面から攻撃できるようになっている。また西郭群の南辺は竪土塁となって三ノ郭に繋がっている。以上が大沢楯の構造で、そびえ立つような大きな城塁と空堀は見応えがある。
主郭外周の空堀→DSCN6146.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.635930/140.421871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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荒楯(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN6049.JPG←主郭背後の堀切
(2020年11月訪城)
 荒楯は、最上義光の家臣新館十郎の居城である。十郎は、1584年の義光による天童氏討滅後、尾花沢郡代として派遣され、荒楯を築いたと言う。

 荒楯は、尾花沢市街南方の標高178.6m、比高90m程の荒楯山に築かれている。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図では肝心の主郭が抜けているが、三角点のある標高178.6mの峰に主郭が築かれている。主郭は背後に堀切を穿ち、主郭の北には南北に長い二ノ郭が置かれ、二ノ郭の北西に何段もの腰曲輪群を築いている。また西に張り出した尾根には三ノ郭を置いていたらしい。三ノ郭の北西にも腰曲輪群が築かれている。以上はスーパー地形(または傾斜量図)から追える城の構造である。ところが実際に行ってみると、西麓の荒楯不動尊の参道脇から城に至る山道があるものの、どの曲輪内も未整備の薮だらけで、ほとんどその形状を追うことができない。しかも基本的に平場群のみで構成された城なので、薮に埋もれた切岸以外に確認できるものがほとんどない。唯一、主郭背後の堀切だけ、形がはっきりしている。また主郭の後部には土塁が築かれているのも確認できた。それ以外は薮・薮・薮で、残念な状況である。

 尚、前述の荒楯不動尊は、新館十郎が朧気川を望む高台に城の守護神として不動明王を祀ったのが始まりとされる。
主郭後部の土塁→DSCN6053.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.591801/140.419983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光 (人物叢書)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


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櫤山楯(山形県村山市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5950.JPG←二ノ郭虎口の石積み
(2020年11月訪城)
 櫤山(たもやま)楯は、楯岡城の前身の城であったと言われている。鎌倉期の創築と言われるが詳細な歴史は不明である。

 櫤山楯は、楯岡城の北東1.6kmの位置にある、標高266m、比高160m程の山上に築かれている。明確な登道はないので、私は取り付きやすそうな西北西の尾根を直登した(国土地理院1/25000地形図には山の北側に道があるように描かれているが、道の存在は現認していない)。城は、西尾根の下段曲輪群と山頂部の上段曲輪群と大きく2つの曲輪群で構成されている。前述の尾根を登っていくと、最初に現れるのが下段曲輪群で、尾根に沿って何段かの曲輪で構成され、前面を取り巻く腰曲輪を伴っている。腰曲輪は北にやや突出し、先端は物見台の様になっており、下の尾根に通じる通路を見下ろしている。どうもこれが大手筋であったらしい。下段曲輪群の最上部は、側方に土塁を伴った長い大手道となっている。その先に小堀切があるが、堀切から北側斜面に落ちる竪堀の上に石積みが残っている。大手道の土留めであったらしい。堀切の上が上段曲輪群で、主城部に当たる。堀切の上に虎口郭を備えた四ノ郭があり、その上に前郭を伴った三ノ郭がある。更にその上に二ノ郭が置かれているが、三ノ郭から二ノ郭に登る大手の虎口にはやや大型の石による石積みが築かれている。二ノ郭は長円形に主郭を取り巻き、中心に主郭がある。主郭内は2段に分かれている。主郭の背後に当たる東尾根には二ノ郭を入れて5段の段曲輪が築かれている。また主郭の南尾根にも、9段以上の段曲輪群が築かれている。この南尾根曲輪群は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図には記載されていない。
 以上が櫤山楯の遺構で、上段曲輪群はいずれも曲輪の規模が大きく、切岸の段差も大きい。また虎口に石積みが構築されるなど、戦国期まで使われた城であった様に思われる。尚、下段曲輪群はやや薮が多いが、上段曲輪群は薮が少なく、遺構がよく確認できる。
側方に土塁を伴った大手道→DSCN5897.JPG
DSCN5902.JPG←堀切
竪堀の上の石積み→DSCN5898.JPG
DSCN5930.JPG←主郭
南尾根の段曲輪群→DSCN5969.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.496056/140.409726/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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河島山楯(山形県村山市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5816.JPG←一の丸の空堀
(2020年11月訪城)
 河島山楯は、河島山遺跡の一部で、古代のチャシ跡と考えられている。河島山遺跡は、この楯跡のほか古墳や経塚があり、旧石器時代から室町時代にまで至る広範な山全体に及ぶ複合遺跡である。

 河島山楯は、河島山の山頂部に築かれている。150m程離れた長円形の2つの曲輪で構成されている。一の丸と呼称される曲輪は標高194mの山頂にあり、外周に土塁を築き、その外側に空堀を廻らしている。一方、二の丸と呼ばれる曲輪はそこから南東にある峰に築かれている。二の丸は二重の空堀を廻らし、北東に扇状に曲輪を付随させた構造の様である。一の丸、二の丸ともに横矢掛りなどは見られない、簡素な構造の城である。
 尚、河島山遺跡は県の指定史跡であり、散策路も整備されているので、河島山楯も整備されているかと思いきや、城までの道は整備されているものの曲輪の内部は全く未整備のガサ薮に覆われ、遺構の確認が非常に困難で空堀以外の構造をほとんど把握することができなかった。かなり残念な状況である。
一の丸の土塁→DSCN5820.JPG
DSCN5843.JPG←二の丸の二重空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【一の丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/38.486433/140.353400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【二の丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/38.485526/140.354708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


山形 ぶらり歴史探訪ルートガイド

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  • 作者: みちのく巡りん倶楽部
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
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タグ:古代山城
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菖蒲沼古戦場(山形県寒河江市) [その他の史跡巡り]

DSCN5809.JPG←古戦場碑
(2020年11月訪問)
 菖蒲沼の戦いは、1480年に伊達成宗の軍勢が寒河江大江氏を攻撃した戦いである。これより先、周辺に勢力を拡大する伊達氏に対して寒河江大江氏は敵対姿勢を示してきた。そこで1479年冬、伊達成宗は一族の桑折播磨守宗義を大将として寒河江大江氏の本拠寒河江城を攻撃させたが、深雪の為撤退した。翌80年春、成宗は再び寒河江大江氏を攻撃した。伊達勢は寒河江荘の奥深くの菖蒲沼に誘い込まれ、そこへ溝延・左沢勢の伏兵が襲い掛かって、伊達勢は総崩れとなった。大将の桑折宗義も傷を負い、自刃したと言う。

 菖蒲沼の戦いは、長岡山北麓の一帯で行われたらしい。市道の脇に石碑が立っているが、石碑が小さい上に、碑が立っているのが車道より一段低い果樹園の隅なので、普通だったらまず気付かないだろう。解説板もなく、残念である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.388680/140.269586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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柴橋館(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5798.JPG←城址の石碑
(2020年11月訪城)
 柴橋館は、寒河江大江氏の支城である。現地表柱では柴橋楯と称される。南北朝時代に大江氏6代元政の弟懐廣が築いたと伝えられる。1356年、足利氏の一門で奥州管領であった斯波家兼の次男兼頼(最上氏の祖)は出羽按察使(または羽州管領。諸説あり)として山形に入部すると、南朝方であった寒河江大江氏は北朝勢の進攻に備えなければならなくなった。そして大江氏7代時茂は、本拠の寒河江城を中心に白岩・柴橋・左沢溝延・小泉・高屋・荻袋・見附などに城塁を築かせたと言う。柴橋氏は、懐廣から室町末期の8代頼綱まで続いた。頼綱は大江氏18代高基の弟で橋間(羽柴)勘十郎と称し、豪勇の誉れが高く、兄高基の筆頭家老となった。1584年、白鳥氏を滅ぼしたばかりの最上義光は寒河江大江氏を攻撃した。この時、頼綱は谷地・寒河江連合軍を指揮して谷地城で戦ったが敗れ、その後積極果敢に最上勢に攻め込んだが、鉄砲隊の銃撃を受けて皿沼の地で絶命したと言う。

 柴橋館は、最上川北方の比高10mに満たない段丘上の南縁部に築かれていたらしい。遺構は完全に湮滅しており、アパート脇に城址標柱と石碑が残るだけである。昭和20年代の航空写真を見ても、既に遺構はわずかとなっていた様である。ただこの石碑の刻文、石の模様と表面光沢の反射で非常に見づらく、判読するのが大変である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.382171/140.257570/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
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安国寺館(山形県山辺町) [古城めぐり(山形)]

DSCN5783.JPG←安国寺の楼門
(2020年11月訪城)
 安国寺館は、南北朝時代の寺院城郭である。室町幕府を開幕した足利尊氏・直義兄弟は、南朝方の北畠顕家・新田義貞らを討ち滅ぼしてその抵抗を封じ込めて幕政を安定させると、元弘の乱以来の戦没者の霊を弔うため、全国に安国寺・利生塔の建立を計画した。出羽では出羽按察使(または羽州管領。諸説あり)として山形に入部した斯波兼頼(最上氏の祖)が、1359年に大寺の地を卜して選び、夢窓国師を開山として安国寺を開基したと伝えられる(実際にはこの時夢窓は既に入滅しており、夢窓を開山としたというのは後世の仮託であろう)。安国寺は民衆の信仰の中心でもあったが、南朝側に立つ寒河江大江氏に対する牽制の拠点でもあり、戦時体制を整えた寺院城郭であった。伽藍を庭園を備えた寺の周囲には武士団を居住させ、武力の強化を図るとともに、杉下・蓮台寺地区にも配置して備えを固めていたと言う。お壇の山・西光山館・新館といった塁砦は、安国寺館に関連したものとの説もある。

 安国寺館は、現在も安国寺の境内となっている。山を背後にした立地で、墓地の南側には土塁のような土壇も見られる。明確な遺構はないが、江戸後期に再建された立派な楼門を備えた寺で、歴史の深さを感じさせる。
南側の土塁状の土壇→DSCN5790.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.303661/140.255381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


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女子林古戦場(山形県山形市) [その他の史跡巡り]

DSCN5710.JPG←古戦場の解説板
(2020年11月訪問)
 女子林古戦場は、1600年の慶長出羽合戦の際に、撤退する上杉軍と追撃する最上軍の間で激戦が展開された戦いの場である。慶長出羽合戦の経緯は長谷堂城の項に記載する。大軍で長谷堂城を囲んだものの、最上方の巧みな防衛戦により城を攻めあぐねた直江兼続率いる上杉勢は、関ヶ原合戦の西軍敗戦の報に接し、撤退を開始した。上杉勢は、富神山の南側と南沢・早坂林道方面に分かれて退却したが、それを察知した最上義光は針生熊蔵、月岡八右衛門等に追撃を命じた。一隊は山王で上杉勢に追いつき激しい攻防戦が繰り広げられた。もう一隊は早坂林道に先回りをし、オカグラ山麓の南沢を退却する上杉勢を捕捉することに成功し、女子林という急な山道となる場所で上杉勢を攻撃した。東軍勝利の報に勢いづいた最上勢の追撃は厳しく、両軍銃撃戦を交え、敵味方入り乱れての激烈な戦いが展開された。双方多数の死傷者を出し、最上方の記録では、この合戦に味方の兵600余人を失ったが、上杉勢の首級1580余を獲ったと言われている。慶長出羽合戦での最大の犠牲者を出した戦いとなった。

 女子林古戦場は、オカグラ山楯の西側の丘陵地帯にあったらしい。古戦場の解説板が、七ッ松集落内と、集落から北西に伸びる山道の奥(オカグラ山楯に向かって南沢川を渡河する付近)に立てられている。集落内にある地図によれば、山道の奥の解説板から更に北西に入ったところが古戦場であるらしい。しかし耕作放棄地の薮が広がっているだけで、何も確認できない。ここでは解説板の位置を示すに留めておく。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.241231/140.228623/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本



タグ:古戦場
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オカグラ山楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5735.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 オカグラ山楯は、最上氏の支城である。『性山公治家記録』によると、1574年の最上義守・義光父子の争いの時、義守方に付いた長崎某が敵対する義光方の籠もるオカグラ山楯を攻撃したと伝えられている。その後の歴史は不明であるが、西部一帯の見張所として、また畑谷城との連絡用の要地として重要な役割を負っていたと推測される。尚、オカグラ山楯の近くには、1600年の慶長出羽合戦の際に撤退する上杉軍と追撃する最上軍の間で激戦が展開された女子林古戦場があり、この城の位置の重要性が推測される。

 オカグラ山楯は、七ッ松集落の北にそびえる標高360mのオカグラ山に築かれている。この城に登るには、七ッ松集落から北西に伸びる山道(国土地理院1/25000地形図に記載のある道)を歩いて進み、南沢川を渡って(但し渡河する部分の道は崩れているので、近くの渡りやすいところから適当に北側に渡る必要がある)東に100m程進むと、東の尾根伝いに登っていく道が分岐しているので、これを東に登っていけば城に到達できる。おそらくこの道が往時の大手道だったのだろう。
 オカグラ山楯は、山頂に小規模な主郭を置き、西尾根と南東尾根に数段の段曲輪群を築いている。また北東にも腰曲輪があり、その先に小掘切が穿たれている。主郭と西尾根曲輪群は比較的薮が少ないが、南東と北東の尾根は草木が多くて遺構の確認が大変である。この城で出色なのは、大手に当たる西尾根曲輪群の先に穿たれた堀切と連携した畝状竪堀で、堀切から北側に落ちる竪堀の東側に7本、西側にも1本穿たれている。これは、南斜面は急峻だが北斜面はやや傾斜が緩いので、西の大手道から北斜面に敵兵が回り込むのを阻止する意図で構築されたものだろう。物見と連絡を主任務とした小規模な城砦であるが、大手に構築された畝状竪堀がこの城の重要性をうかがわせている。
西尾根の段曲輪群→DSCN5763.JPG
DSCN5765.JPG←畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.240927/140.232443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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柏倉館(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5684.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 柏倉館は、歴史不詳の城館である。この地は慶長出羽合戦の際に直江兼続率いる上杉勢の侵攻ルートに近く、館の北東にある柏倉八幡神社はこの時に兵火で焼失したと伝えられている。『山形県中世城館跡遺跡調査報告書』によれば、小滝街道から分岐して柏倉楯山楯の山麓を通り門伝館へ至るルートと、狐越街道から富神山南麓を通るルートが合流する地点に位置し、それを俯瞰する丘陵に築かれていると言う。

 柏倉館は、富神山を間近に望み、富神川の東岸にある比高20m程の細長い丘陵上に築かれている。明源寺の裏山に当たり、頂部の主郭と思われる平場は、墓地と畑になっている。主郭の東から南西にかけて、何段かの腰曲輪らしい平場があり、ここも墓地や耕作放棄地の薮となっているが、改変を受けているとのことで、どこまでが往時の遺構なのかよくわからない。堀や土塁は見られず、段々になった平場群だけで構成された城館であったらしい。尚、明源寺に館の簡単な解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.232820/140.260037/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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南館(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5641.JPG←館跡に建つ神明神社
(2020年11月訪城)
 南館は、山形城の南方を防衛する城館である。最上氏の祖、斯波兼頼が1356年に山形に入部した頃は、弘法屋敷という館があったと伝えられる。最上氏5代義春は、1470年に鎮国安民と山形城南門守護のため神明神社を勧進した。この頃から南館という地名になったとされる。1571年、最上義守は家督を嫡男義光に譲ると、南館を隠居所としたと言われる。後には義光の重臣寒河江肥前守が館主になったと言う。また義光の妹義姫は、伊達輝宗に嫁いで政宗(貞山公)・小次郎を生んだが、1594年に伊達家を出奔して兄を頼って生家の最上家に戻った。この時安心して生活できる地として南館を選び、10数年間暮らしたとも言われる。肥前守が義姫に館を譲ったものだろう。1622年に最上氏が改易されると、義姫は伊達家に戻っているので、この時に南館は廃館になったと推測される。

 南館は、南館二丁目児童遊園を中心とする一帯にあった。ここは旧羽州街道と小滝街道が分岐する交通の要衝であり、両街道に囲まれた内側に水堀で区画された方形居館があっとされる。住宅地に変貌していて遺構は全く無いが、児童遊園内には神明神社が建ち、南館に関する解説板がある。西側の堀跡部で道路が屈曲しており、往時の虎口の跡を想起させる。
西側の道路の屈曲→DSCN5655.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.238871/140.313574/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

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岩波楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5605.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 岩波楯は、山形城主最上氏の支城である。詳細不明であるが、会田主計が3千石を領していたと言う。笹谷街道から分岐して妙見寺、八森を通って山形城下へ至る間道の出口に位置し、この間道を押さえるために築かれたと推測されている。

 岩波楯は、石行寺の西に張り出した比高70m程の小山の上に築かれている。石行寺裏の墓地から登路が付いている。城域東端の曲輪は、墓地に改変されている。登った先にある頂部の曲輪は東西に長く、西側では数段の平場に分かれて徐々に高くなり、一番上に物見台の様な高台がある。ここでは、西の高まりを主郭とし、東の平場を二ノ郭としておく。主郭・二ノ郭いずれも外周に数段の帯曲輪群を廻らしている。主郭から北西に張り出した尾根には小郭群があり、小堀切が2本穿たれている。また南に張り出した尾根にも南北に長い三ノ郭があり、二ノ郭南側の腰曲輪から繋がっている。以上が岩波楯の遺構で、あまり居住性のない小規模な城砦であり、山形城の南方と前述の間道を監視する物見的な役割の城だったと思われる。尚、城内はある程度薮払いされているものの笹薮がやや多いのが難。
二ノ郭の腰曲輪群→DSCN5572.JPG
DSCN5595.JPG←北尾根の小掘切
南に張り出した三ノ郭→DSCN5627.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.220465/140.353142/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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菅原楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5450.JPG←二重堀切
(2020年10月訪城)
 菅原楯(菅原館)は、菅原大夫公成の居城と言われている。『日本城郭大系』によると菅原氏は白鶯氏の祖であるらしいのだが、菅原公成についても白鶯氏についてもその事績は不明である。現地標柱の解説文には、源頼義が八幡神社を勧進した時に別当寺として建てられたとあるが、元は寺だったのだろうか?

 菅原楯は、後藤楯の西方260mの位置にあり、八幡神社の北の尾根が二迫川に向かって突き出た部分に築かれている。以前に後藤楯を訪れた時に、林道脇の標柱を見つけていたのだが、その時は付近を探索したが遺構を確認できなかった。城跡は標柱から200m以上も離れた場所にあり、今回その場所を特定できたのでリベンジした。
 八幡神社西の山道から、薮に埋もれかけた林道が北に向かって分岐しており、それを辿って200m程歩いたところで道から逸れて北側の薮に分け入ると、すぐ目の前に二重堀切が現れる。この二重堀切は深さはそれほどでもないが東西に長く伸びて、尾根両側に入り込んだ谷まで落ちている。二重堀切の北には物見台を兼ねた三ノ郭があり、その北には深さ5~6mの大堀切が穿たれている。この堀切も東西に長く伸び、前述の二重堀切と東西の谷で合流するような感じで落ちている。これらの堀切で囲まれた、東西に降る斜面に小郭群が築かれ、その頂部に三ノ郭が置かれた形となっている。大堀切の北には繋ぎの曲輪を挟んで主郭が築かれ、それらの外周に1~2m程の段差で腰曲輪状の二ノ郭が広がっている。二ノ郭の更に東西斜面にも腰曲輪群が築かれている。二ノ郭の北端は断崖となっている。

 以上が菅原楯の遺構で、それほど技巧的ではないが、二重堀切や大堀切などの遺構は、戦国期に使われた可能性を示しているように思う。尚、比較的大きな城である後藤楯と隣接するように築かれているが、両城が同時代に並立していたとは考えにくい。両城の関係については今後の後究を待ちたい。
大堀切→DSCN5515.JPG
DSCN5499.JPG←二ノ郭から見た主郭切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.810286/140.935439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


あなたの知らない宮城県の歴史 (歴史新書)

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  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2013/03/06
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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野沢館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5422.JPG←重機で蹂躙された堀切跡
(2020年10月訪城)
 野沢館は、伝承では野沢豊後守の居館であったとされる。野沢豊後守の事績については不明である。

 野沢館は、山間部にある文字(もんじ)地区の平地に突き出た比高30m程の丘陵上に築かれている。長方形に近い形状の主郭の周囲に腰曲輪を渦郭式に廻らした簡素な城館で、丘陵基部は堀切で分断している。しかし腰曲輪も堀切も重機による破壊が著しい。従って、腰曲輪もどこまでが往時のものなのか、どこからが重機によって切り開かれたものなのか、よくわからない。かなり残念な状況になってしまっている。麓には朽ちた標柱が転がっていて、初めて城館の名前が特定できた。宮城県遺跡地図が示す野沢館の場所は間違っている様である。野沢館への登り口は、やや薮化しているが南東側に重機道の名残があり、それを登っていけばよい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.830665/140.906492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城 ぶらり歴史探訪ルートガイド

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  • 作者: 仙台歴史探検倶楽部
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タグ:中世平山城
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宮下楯〔仮称〕(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5348.JPG←主郭南側の横堀
(2020年10月訪城)
 宮下楯は、おそらく私が発見したことになる近年発見された城である。位置的には秋法楯の真向かいにある丘陵先端の峰にあり、両城の間はわずか400m程しか離れていない。秋法楯は東方への眺望が塞がれていることから、宮下楯はその支城として東方への監視の任に当たっていた可能性が考えられる。

 宮下楯は、熊野神社の裏山に築かれている。神社の裏の斜面を適当に登れば、すぐに腰曲輪に至る。神社の建つ高台も曲輪であった可能性がある。頂部の主郭と外周を廻る腰曲輪から成る小規模な城砦であるが、主郭の後部には大土塁が築かれ、城門跡と考えられる虎口があり、そこから外(西)に出ると堀切が穿たれていて、丘陵基部を分断している。この堀切は、北側では竪堀となって降っているが、南側に降ったところでは90度折れ曲がって主郭の南側を防御する横堀に変化し、その東端部はそのまま東側の腰曲輪に繋がっている。この腰曲輪には、東斜面に通じる竪堀状虎口が築かれている。腰曲輪の北側は一段高くなり、その先は横堀が円弧状に穿たれている。横堀の西端は竪堀に変化して北斜面に落ちている。この横堀に沿って、上段には主郭より一段低い腰曲輪が築かれ、横堀に対する攻撃陣地となっている。以上が宮下楯の概要である。

 宮城県の遺跡地図にも載っていないので、一応新発見としているが、城内に人が入って薮払いしている形跡があるので、未発見ではないように思える。残念ながら地元の人に行き会うことがなかったため、聞き取り調査はできていない。栗原市教育委員会の文化財保護課にも問合せのメールを出したが、今に至るまで回答は得られていない。何かご存じの方がいれば、情報を頂きたい。

【2023-2-2追記】
栗原市の文化財保護課からようやく回答があり、やはり既に城跡として認知されていたとのことであった。『宮城考古学』第17号の「宮城県二迫川地域の中世城館(2)」の中で紹介されているとのことであるが、本誌については未見のため何という城名が命名されているのかもわからないので、仮称のままとしておく。
主郭北東側の円弧状横堀→DSCN5372.JPG
DSCN5390.JPG←主郭後部の大土塁
主郭背後の堀切→DSCN5392.JPG
DSCN5396.JPG←主郭背後の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.801039/140.903081/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


宮城県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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清水館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5299.JPG←主郭
(2020年10月訪城)
 清水館は、真坂楯を本拠とした大崎氏の家臣狩野氏(一迫氏)の一族、狩野和泉の居館と伝えられている。江戸時代には、仙台伊達藩の一門伊達(岩城)薩摩国隆の居館となった。

 清水館は、普門寺の北西の丘陵上に築かれている。細長い長円形の主郭を中心に、西から南にかけては1段、北から東にかけては2段の腰曲輪を廻らした環郭式の縄張りとなっている。主郭は畑と山林になっており、北端部は小堀切を挟んで小郭に神社が建っている。周囲の腰曲輪は、南側は畑になっているが、北側・西側は山林、東側は深い薮に埋もれている。南側には丘陵が続いているが、切通し状に畑に至る山道が通っており、往時の堀切であったと推測される。近世まで使われた城館にしては、極めて平凡な縄張りである。尚、北東の車道沿いに標柱が立っている。普門寺の墓地から尾根伝いに北西に向かって歩いていけば、館跡の畑まで行くことができる。
主郭先端の小掘切→DSCN5304.JPG
DSCN5334.JPG←西側の腰曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.733682/140.942906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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大口楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5165.JPG←主郭背後の二重堀切の内堀
(2020年10月訪城)
 大口楯(大口館)は、大西楯(大西館)とも言い、歴史不詳の城である。『鳴子町史』では、南北朝時代に葉山城に居た奥州総大将石塔義房の家臣馬場豊後の居城との伝承を伝えているが、葉山城の項で記載した通り、石塔義房が葉山城を拠点にした伝承自体が疑わしく、従ってその家臣の城という伝承もどこまで信憑性があるのか、疑問符がつく。

 大口楯は、江合川の南岸に尾ヶ岳の北東麓が突き出た比高80m程の丘陵上に築かれている。手のひらの様な主郭から東に向かって、3本指の様な細尾根が突き出た地形となっている。この3本尾根の内、一番南のものが大手らしく、細尾根上を辿る踏み跡がある。尾根の付け根には物見台状の土壇がある。その先は主郭だが、主郭内は薮が多くて形状を掴むのが困難である。ただ、主郭の南辺には土塁が続いている様である。一方、3本尾根の真ん中は舌状曲輪の先に細尾根があり、その先端は断崖で途絶している。3本尾根の北尾根は確認していない。主郭に戻って奥まで行くと、主郭背後に二重堀切が穿たれており、台地基部と分断しているが、堀切はそれほど大きなものではない。二重堀切の後ろ(西側)には広大な平場が広がっている。ほとんど自然地形に近いが、内部に2つの横堀状遺構が見られる。ただ、堀と言うほどの規模はなく、防御構造として考えるのは疑問が残る。近世の猪垣か何かかもしれない。耕作地であった痕跡もあるので、耕作時の改変の可能性もある。この自然地形の一番奥には、高台があり、物見台か何かの様にも見える。また平場外周の一部には土塁も確認できる。平場の背後は自然の谷を利用した堀切状地形となっていて、遺構の様にも見えるが確信が持てない。この主郭の西に広がる平場については、『日本城郭大系』も「大口館との関係の有無もわからない」としている。いずれにしても、大口楯は技巧的な縄張りは見られず、戦国期以前の古い時代の縄張りをそのまま残している様である。
 尚、大口楯へ登るには、東麓の民家裏の空き地から山林内に分け入り、南の尾根に取り付けば良い。
主郭西側の平場にある堀状地形→DSCN5232.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.733297/140.744294/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


宮城県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
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タグ:中世山城
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