SSブログ

四方津御前山砦(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0807.JPG←東端の物見台
(2020年12月訪城)
 四方津(しおつ)御前山砦は、四方津御前山の烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。甲相国境に近いこの地域では、甲斐の武田信虎と相模の北条氏綱が1524年から6年にわたって抗争を繰り返しており、軍事的緊張が強い状態が続いていた。この付近には御前山の名が付いた烽火台や城砦が多いが、これらの諸城砦はこうした情勢下で構築されたと考えられ、四方津御前山砦も国境警備の任に当たっていたと推測されている。

 四方津御前山砦は、牧野砦の西の尾根続きの標高461mの山上に築かれている。いくつか登道があるようだが、私は南西麓の登道を利用した。三角点のある主郭を中心に、東西に伸びる尾根上に曲輪を配置している。しかし西側の曲輪群は薮に埋もれ、広い平場が広がっているらしいことはうかがえるが、薮でとても入っていく気になれない。その他の曲輪も、一応段はあるが自然地形に近く、普請はささやかなものである。主郭の東の尾根鞍部には堀切があるとされるが、これも自然地形に近い。東端は高台となり、現在は電波塔が建っているが、いかにも東方を監視する物見という感じである。牧野砦と比べると随分と普請が大雑把で、どちらかと言うと村の城的な感じの城砦である。
堀切とされる尾根鞍部→DSCN0795.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.618372/139.084189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

牧野砦(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0770.JPG←堀切と東端の曲輪
(2020年12月訪城)
 牧野砦は、歴史不詳の城砦である。『甲斐国志』では郡内小山田氏が国境警備のために築いたと推測しているが、近年では上野原城主加藤氏の部将牧野氏が守備したとの説も提示されている様だ。

 牧野砦は、栃穴御前山砦から桂川を挟んで北に位置する東西に長い山稜の東半部に築かれている。南麓から東の尾根に登る道が付いており、一番東の曲輪には高圧鉄塔も立っているので、簡単に登ることができる。細尾根上に細長い曲輪を並べ、それらを6本の堀切で分断しただけのシンプルな縄張りである。城の中心になるのは山頂の主郭とその東にある二ノ郭で、いずれも前郭含めて3段程の平場で構成されている。主郭の東西は堀切が穿たれ、特に背後に当たる西側のものは岩盤を断ち切った城内最大の堀切となっている。二ノ郭も前後を堀切で防御している。シンプルな縄張りではあるが、普請はしっかりされており、堀切もしっかりと穿たれている。眼前には、先程登った鶴島御前山と栃穴御前山砦がそびえ、北東には上野原城を眼下に収める要地であることがよく分かる。尚、牧野砦の西の尾根続きには四方津御前山砦が築かれている。
主郭背後の堀切→DSCN0759.JPG
DSCN0726.JPG←二ノ郭前面の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.619349/139.094639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

栃穴御前山砦(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0668.JPG←北東の段曲輪
(2020年12月訪城)
 栃穴御前山砦は、歴史不詳の城砦である。桂川を挟んで牧野砦四方津御前山砦と相対する位置にあり、共に甲相国境を警備する城砦であったと考えられている。

 栃穴御前山砦は、標高431mの山上に築かれている。鶴島御前山の北西の尾根続きにあるが、鶴島御前山より50m程低い位置にある。しかし東端の主郭を始め、北西の尾根に段状に曲輪群を築き、北東の尾根にもきれいに削平された段曲輪を置いている。ほとんど自然地形の鶴島御前山と異なり、いずれもしっかりと普請された痕跡が残っており、主郭北東には小型の枡形虎口も形成されている。主郭南東角には塚状の岩場の土壇があるが、宗教的な施設が祀られていたのだろうか?また北西尾根の曲輪群の間には堀切も穿たれている。北東の段曲輪も含めて、これらの曲輪群の縁には小規模な石積みも散見される。
 私は鶴島御前山から尾根伝いに栃穴御前山砦に行ったが、砦直前の急斜面はロープがないと登り降りできないきつさである。またそこ以外は斜度があってもロープがあまりなく、なかなか厳しい尾根道であり、このルートでの訪城は高齢者は避けた方が無難と思う。
北西尾根に穿たれた堀切→DSCN0689.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.611918/139.099145/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鶴島御前山(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0639.JPG←三角点のある山頂の平場
(2020年12月訪城)
 鶴島御前山は、伝承では小俣日向守と言う武士の居館があったと伝えられる。それ故、山頂の平場を日向屋敷と称すると伝えられるが、山上にはその様な居住スペースはなく、詳細は不明である。しかし甲相国境に近いこの地域では、甲斐の武田信虎と相模の北条氏綱が1524年から6年にわたって抗争を繰り返しており、軍事的緊張が強い状態が続いていた。この付近には御前山の名が付いた烽火台や城砦が多いが、これらの諸城砦はこうした情勢下で構築されたと考えられ、鶴島御前山も国境警備の物見が置かれていたと推測されている。

 鶴島御前山は、標高484.2m、比高270m程の峻険な山上に築かれている。北東麓から登山道が整備されているので迷うことはないが、ロープがないときつい急登や岩場も多く、なかなか大変な登山である。山上は東西に長い細尾根で、東端には稲荷社の小さな祠が置かれた平場があり、そこから更に岩の多い尾根を辿っていくと、三角点のある山頂の平場に至る。山頂の平場から西の細尾根にも平場が続くが、平場間にわずかな段差が見られるものの、ほとんど自然地形に近い。小屋掛けのスペースもほとんど無く、居住性は全く無いが、物見としては絶好の場であることはよく分かる。
西尾根の平場→DSCN0647.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.609581/139.105153/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平渡楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0298.JPG←主郭虎口
(2020年11月訪城)
 平渡楯(平渡館)は、平渡五郎左衛門尉の居城と伝えられる。平渡五郎左衛門尉は、元々関東の豪族であったが、一族と共に奥州に下向し、この地に城を構えたと言う。

 平渡楯は、比高30m程の丘陵上に築かれており、南麓の車道脇に標柱が立っている。主郭を中心に四方の尾根に曲輪群を配置した縄張りとなっている。明確な登道はないが、一番取り付きやすいのは南東の尾根で、車道脇から山林内に入って斜面を登っていくと、南東尾根の先端に築かれた物見台のような円丘に至る。この尾根は主郭の南尾根から派生する東の支尾根に当たり、この先端の孤塁は古墳跡だと思われる。この尾根を北西に辿って行くと、数段の曲輪群を登った先に南郭に至る。南郭は南北に長く、あまり明瞭でない部分もあるが先端に曲輪群が置かれ、途中には僅かな痕跡を残す浅い堀切も見られる。南郭の北には主郭があり、虎口は南に向かって築かれている。虎口は、単純な坂虎口である。主郭内はきれいに削平され、周囲を高さ数mの切岸で囲まれている。土塁は見られない。主郭の周囲は腰曲輪が廻らされ、西と東の尾根にそれぞれ西郭・東郭が置かれている。西郭はその先がY字状に分岐し、南西と北西の尾根にそれぞれ曲輪群が置かれている。東郭は比較的広い曲輪1つだけのようだが、薮が多くて形状がよくわからない。これらの各尾根の曲輪群は、いずれも側方に腰曲輪2~3段を伴っている。主郭の背後に当たる北尾根には曲輪がなく、堀切のみで防御している。形状からすると、戦国期以前の古い形態の城だったと思われる。尚、『日本城郭大系』所収の紫桃氏による縄張図は、あまりにざっくり過ぎて現地と合わない部分がほとんどで、全く参考にならなかった。
北尾根の堀切→DSCN0403.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.487675/141.099300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

吉田城(宮城県七ヶ浜町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0250.JPG←城跡の墓地
(2020年11月訪城)
 吉田城は、留守氏の家臣吉田右近の居城と伝えられている。留守顕宗の継嗣をめぐる家中の論争では、花淵城主花淵紀伊守らと共に伊達晴宗の3男政景の擁立に動いた。その後の歴史は不明だが、1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で留守氏が所領を没収されると、吉田城も廃城となったのだろう。

 吉田城は、金剛寺の裏山にあり、現在は金剛寺の墓地に変貌している。見た限りはただの墓地で、墓地の奥に城址標柱が立っている。改変が多いので往時の縄張りを推測するのも困難だが、墓地内は南に向かって傾斜した何段かの平場に分かれている。また墓地の西側の小道は周りより低くなって丘陵基部を横断しており、往時の堀切の跡であるかもしれない。海沿いに面した比高20m程の小丘だが、周囲の眺望に優れ、港の向こうには花淵城がよく見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.309252/141.079452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史散歩

宮城県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

花淵城(宮城県七ヶ浜町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0227.JPG←主郭背後の空堀
(2020年11月訪城)
 花淵城は、留守氏の家臣花淵(花節)氏の居城と伝えられる。『仙台領古城書立之覚』では城主を花節紀伊守とし、『留守分限帳』では「花ふし治部少輔」の名が見える。花淵氏は、留守氏家中では着座の身分で、留守顕宗の継嗣をめぐる家中の論争では、吉田右近・辺見遠江らと共に伊達晴宗の3男政景の擁立に動いた。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で留守氏が所領を没収されると、花淵城も廃城となったと推測されている。

 花淵城は、七ヶ浜半島の東端に位置する花渕崎北方の断崖上に築かれている。花渕崎の山頂にあるかと思っていたが、場所が違っていた。南麓にある同性寺から山上の墓地へ登る道があり、その途中の展望台になっている場所から北西に山林を進むと、その先に城がある。山林が竹薮に変わったらもう少しで目の前に空堀が現れる。ほぼ単郭の城らしく、垂直絶壁の断崖に面した丘陵北端に主郭がある。南東には尾根筋を分断する空堀が穿たれている。主郭の後部には空堀に沿って低土塁が築かれている。主郭の南西には一段低く腰曲輪が置かれ、更にその下方にも腰曲輪がある様だ。しかしいずれも薮がひどく、主郭の中もとてもではないが踏査できる状況ではない。空堀すらも竹が密生しており、写真撮影もままならない程である。いずれにしても、城というより居館に近い形態の城郭である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.302735/141.086351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

桜井館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0191.JPG←桜井館のある丘
(2020年11月訪城)
 桜井館は、歴史不詳の城館である。1548年に作成された『留守分限帳』には、留守氏の家臣団の中に「さくらい(桜井)」の名が見える。また『多賀城町誌』では、留守氏の家臣黒川氏の居館と推測している。

 桜井館は、多賀城市役所のすぐ西側にある比高10m程の小丘に築かれている。過去に行われた発掘調査の報告書によると、主郭の後部(西側)に土塁を築き、背後を堀切で分断し、堀切のすぐ東側に腰曲輪を1段置いていたらしい。ほぼ単郭の簡素な構造の城館で、現在も遺構は残っていると思われるが、現地を訪れたところ、桜井館のある丘は不動産会社の管理地となっており進入不可能であった。おまけに周りは住宅地だらけの上、北側には家族連れが遊んでいる公園があるなど、とても山林を探索できるような環境ではなかった。破壊される前に、いつの日か遺構が開放される日を望みたい。尚、以前は北側の公園に館跡の標柱があったようだが、現在はそれも無くなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):―(未踏査のため評価なし)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.293591/141.002923/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史 (県史)

宮城県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福岡楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0099.JPG←南東尾根先端部の堀切
(2020年11月訪城)
 福岡楯(福岡館)は、葛西清重11代の裔孫左京太夫の弟大崎隼人清宗の居館であったと伝えられる。清宗は後に鴇田に改姓し、その子若狭守は天正年間(1573~92年)に再び福岡楯を居城としたと言う。しかしその典拠は不明とされる。

 福岡楯は、仙台市水道局福岡浄水場の裏山に築かれている。標高167.1m、比高80m程である。城へは、浄水場の敷地外を南に迂回し、動物よけの柵を越えて浄水場の裏から尾根に取り付けば、尾根上に山道があり、すぐに城域に入れる。城は三角点のある山頂に主郭を置き、主郭周囲には腰曲輪が築かれ、その周りは北西尾根以外を大きな切岸で断絶している。城の中心部から北・北西・東・南東に伸びる各尾根に曲輪群を配置している。それらの内、堀切は南東尾根の先端部に1本と北西尾根に2本穿たれている。北尾根は、『日本城郭大系』の縄張図では堀切が3本ある様に描かれているが、改変されているのか明確な堀切はなく、段差と木戸口の様な両側土塁の遺構と尾根の付け根の左側に竪堀らしいものしか確認できなかった。また南の尾根の先にも曲輪と堀切があったらしいが、現地を歩いた時は遺構があるようには見えず、踏査しなかったため見逃してしまった。いずれにしても、全体に防御が甘い城の様に感じられた。
北西尾根の堀切→DSCN0164.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.352797/140.775472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

杭城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1019.JPG←東郭群の中心郭の虎口と土橋
(2020年11月訪城)
 杭城は、杭城楯(杭城館)とも言い、山野内城主須藤刑部定信が立て籠もった城と伝えられる。定信は、1584年に結城七郎と戦ったが敗れ、山野内城は落城した。定信は逃れて杭城を築いて立て籠もったが、最後は福岡川崎で自刃したと伝えられている。

 杭城は、標高256mの杭城山に築かれている。この山は、七北田川の支流西田中川の最奥部に位置する丘陵で、西田中川はこの丘陵の東端に突き当たったところで南北に分かれて遡っている。即ち杭城山は、南北を峡谷で刻まれ、東に離れた平野部から隔絶した地にある。その為、宮城県内でおそらく最も踏査困難な城だと思う。それほど山深い地であるので、クマの出没リスクも高く(実際に足跡があった)、目印の乏しい広幅の緩傾斜地であるため、遭難リスクにも怯えながらの訪城となった。
 訪城ルートは、よく参考にさせていただいている「城郭放浪記」さんの案内を参考にした。杭城山林道を東進し、南北に分かれる分岐路を南に進んで降っていき、途中で谷に降りていく分岐路を入って西田中川に降りる。浅瀬を渡渉して東の山裾に取り付き、薮に埋もれた作業用林道を登っていく。しかし途中で道が消失したため、結局傾斜のある斜面を直登して城域に辿り着いた。

 城の遺構は、大きく3群に分かれて自然地形を挟んで散在している。『日本城郭大系』の表記を参考にして、ここでは東から順に東郭群・中郭・西郭と呼称する。東から西へ辿ると最初に現れるのが東郭群前面の長い切岸で、城の最前面に切岸・土塁の防御線が構築されている。そこから西に進んだ先に、東郭群の中心となる曲輪がある。全周を切岸で防御し、後部に土塁と横堀を構築し、土橋を架けている。また周囲には帯曲輪を廻らしている。この曲輪から南にやや離れた所に南の出曲輪があるらしいが、今回は見逃した。いずれにしても東郭群の防御が最も厳重である。東郭群からあまり幅のない尾根を西に登っていくと、その先に中郭がある。中央がややくびれた東西に長い曲輪で、前面に枡形虎口を築き、その南に堀切と出曲輪を置いている。また中郭は、背後に幅広の土塁を築き、その背後には堀切を穿って土橋を架けている。中郭から西の斜面を登っていくと、杭城山山頂にある西郭に至る。西郭は、最高所にあるが小さな平場で、いかにも物見という雰囲気である。背後に堀切を穿っているが、明確な遺構はそれだけである。南に伸びる尾根上はほとんど自然地形の平場である。以上が杭城の遺構で、最高所にある西郭は前述の通り物見台と考えられるので、主郭に当たるのは中郭だろう。広い丘陵上に曲輪が散在し、全く求心性のない縄張りである。追い詰められて立て籠もった城としても、少々理解に苦しむ城の構造である。
中郭の虎口→DSCN1029.JPG
DSCN1037.JPG←中郭の幅広の土塁
中郭背後の堀切→DSCN1049.JPG
DSCN1070.JPG←西郭背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.333089/140.749851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

八乙女館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9942.JPG←空堀のクランク部
(2020年11月訪城)
 八乙女館は、国分氏の家臣八乙女淡路守盛昌の居館である。八乙女氏は、国分氏の庶流松森氏の一族に当たる。国分氏が没落すると、八乙女氏は伊達政宗に服属した。八乙女氏は一時七北田村に隠棲したが、1588年に淡路の子善助が伊達政宗に旧領を安堵され、実沢に移り住んだと伝えられる。

 八乙女館は、萱場川と八乙女川の合流点西側にある比高15m程の段丘東端部に築かれている。南側の市道脇に解説板があり、その横から登道が付いている。主郭の東半分は土取りによって穴ボコだらけになってしまっており、往時の曲輪の形状はよくわからなくなっている。残っている主郭部分は耕作放棄地の薮となっている。主郭の西側には台地基部を分断する空堀が穿たれ、空堀の内外に土塁が築かれている。この空堀・土塁の北1/4ぐらいの所に虎口があり、その前に馬出しの土塁が構築されている。縄張図を見ると、以前は馬出しの周りに空堀もあったらしいが、現在堀は埋められてしまっている。また前述の空堀・土塁の南1/3ぐらいの所に、横矢掛かりの塁線の張出しが構築されており、土塁と空堀がクランクしている。張出し部分の塁線のすぐ北側に虎口があり、そこから張出した土塁の周りを回る様に武者走りが作られている。非常に珍しい構造である。八乙女館は、単郭の小城館であるが、西側の空堀・土塁による防御線は充実している。但し、薮が多いのは残念である。
馬出しの土塁→DSCN9925.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.321121/140.810587/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

白石城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9882.JPG←主郭外周の空堀
(2020年11月訪城)
 白石城は、白石三河守宗頼の居城と伝えられる。宗頼は子がなかったため、国分能登守某の弟を養子として世嗣とした。これが三河守宗明とされる。これらのことから白石氏は国分氏の重臣であったと推測されている。一方、白石城内にある宗頼の墓には、伊達晴宗の正室栽松院の家臣とある。栽松院は伊達政宗(貞山公)の祖母に当たり、1591年にこの地に移り、1594年に亡くなった。

 白石城は、比高10m程の段丘南東端に築かれている。現在明確に残っているのは主郭部分だけである。段丘の南東端をL字の空堀で穿って主郭を築き、主郭の北から西にかけては土塁を築いて防御している。また主郭の東側にも一段低い腰曲輪を置いている。この腰曲輪は、北側に主郭から続く土塁と空堀があり、塁線がやや北側に張り出して横矢を掛けている。主郭内には宇佐八幡神社が置かれ、内部は公園化されている。また栽松院や白石宗頼、根白石で没した黒川季氏の墓も立っている。主郭の外側にも二ノ郭などの外郭があったと思われ、空堀外の北側には低土塁があるほか、腰曲輪のような雰囲気で若干高くなっている。また西側に広がる空き地の西には水路が通る堀状の地形があり、その脇には土塁も見られるので、おそらく二ノ郭の空堀跡だろうと推測される。
 尚、実は白石城に来るのは今回が2回目である。前回は2019年の夏に来たが、薮がひどくて空堀が見にくかったので、今回再訪した。ところが、前回は主郭の土塁や空堀は山林となっていたのに、今回来てみたら、重機を入れて土塁と空堀の山林が全て伐採されており、主郭西側の土塁を一部崩して重機道を作っていた。整備してくれるのはありがたいが、遺構を損壊するのはやめて欲しい。
主郭北側の土塁→DSCN9853.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.348809/140.798271/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

本郷楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9713.JPG←重ね馬出しの内側の馬出し
(2020年11月訪城)
 本郷楯(本郷館)は、国分氏の支城と推測されており、城主は花坂勘解由と伝えられている。慶長年間(1596~1615年)には本郷盛重の居城となったと言う。国分氏の通字「盛」を称していることからすると、本郷氏は国分氏の一族であろうか。

 本郷楯は、広瀬川北岸の比高40m程の段丘先端部に築かれている。この城へは西側から近づくのが最も早いと思うが、西側は一面の耕作放棄地のガサ薮となっており、背丈ほどの草薮を強行突破する必要があり、なかなか大変な訪城である。しかしその先にある遺構はその苦労をするに足るものである。城は3つの曲輪で構成されており、東端にあるのが主郭、その西に二ノ郭、二ノ郭の北に三ノ郭が配置されている。二ノ郭・三ノ郭の西側には台地基部を分断する二重空堀が穿たれ、内側には土塁が築かれている。前述のガサ薮を越えて山林内を進んでいくと、最初に現れるのがこの二重空堀である。二重空堀は内堀の中央付近で内側の塁線が凸字状に突出して横矢を掛けている。また、二重空堀の中間部は帯曲輪状になっており、両側に土塁を築いて中央が窪んだ形になっており、通路状に武者走りがあった様である。二重空堀の南端には、非常に複雑な虎口構造が見られる。土塁の脇をすり抜けて外に出るとL字型の堀・土塁で囲まれた小郭が置かれ、更にそこから土橋を出ると、L字の堀・土塁で囲まれた南北に長いコの字形の堡塁が築かれている。これは全国的にも類例の少ない重ね馬出しの構造である。慶長年間の本郷氏時代の改修だろうか。二重空堀の北端にも馬出し状の構造があるようだが、薮がひどくて形状がよくわからない。二ノ郭と三ノ郭は東西に伸びる一直線の土塁と空堀で分割されている。また主郭と二ノ郭も、土塁と空堀で分断され、また主郭先端には物見台があり、その脇に枡形虎口があって下方に通じている。本郷楯は大きな城ではないが、重ね馬出しと二重空堀で防御を固めた城で、見て損はない。
二重空堀→DSCN9738.JPG
DSCN9760.JPG←二重空堀の内側塁線の突出部

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.281111/140.766052/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

御殿楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9663.JPG←主郭群西側の横堀
(2020年11月訪城)
 御殿楯(御殿館)は、歴史不詳の城である。国分氏に関連する城(国分35城の中の古天城)とも、或いは野武士達が立て籠もった城とも言われる。尚、城のある御殿山には古くから「山神の祠堂」が祀られていたと言われ、1189年の奥州合戦の際、源頼朝はこの祠堂に戦勝を祈願し、合戦後配下の伊沢家景(留守氏の祖)に社殿を造営させ、その本殿は1457年まで御殿山山頂に祀られていたと言う。

 御殿楯は、諏訪神社の背後にある標高180m、比高70m程の独立丘陵に築かれている。東麓の諏訪神社脇から散策路が整備されており、簡単に登ることができる。城内は大きく3つの曲輪群で構成されている。ここでは西の山頂から順に主郭群・二ノ郭群・三ノ郭群と呼称する(現地解説板では、主郭群を西曲輪、二ノ郭群・三ノ郭群を合わせて東曲輪としている)。散策路を登っていくと、最初に現れるのが三ノ郭群で、頂部に細長い三ノ郭を置き、北側下方に広い四ノ郭を築いている。四ノ郭の北側には横堀が穿たれている。また三ノ郭群の東端から北西に降るようにもう1本の横堀が穿たれており、散策路と並走している。頂部の三ノ郭の南斜面にも数段の帯曲輪が築かれている。三ノ郭群の西にある二ノ郭群は、頂部の二ノ郭はほとんど自然地形であるが、その後部に祠のある小さな土壇がある。南斜面には帯曲輪群が三ノ郭群から繋がる形で築かれている。二ノ郭の先の西尾根と主郭群を区画する部分に、南に降る堀底道があり、これは堀切とされている。堀底道を降った所に「湧水の池」があり、御殿山山頂にあった神社の御神水とのことだが、御殿楯の水の手であったのだろう。主郭も削平が甘く、頂部に水分神社が鎮座している。その背後には土塁状の土盛りが見られる。主郭群の西側は大きな横堀が穿たれている。南に向かって降っており、中央部が凸型に突出して横矢を掛けている。横堀に沿って内側には延々と土塁が築かれている。主郭群は、頂部にある主郭の南に段状に曲輪群を築いているが、少々薮が多いせいもあって普請が明瞭でない部分もある。しかし南東部にははっきりと帯曲輪群が確認できる。以上が御殿楯の遺構で、主郭群西側の横堀はしっかりしているが、それ以外はそれほどしっかりした普請ではなく、野武士達が立て籠もった城という伝承もあながち嘘ではないかもしれない。
主郭の水分神社→DSCN9582.JPG
DSCN9575.JPG←水の手であった湧水の池
四ノ郭北側の横堀→DSCN9680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.266051/140.754229/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

西館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9451.JPG←館跡の平場群
(2020年11月訪城)
 西館は、伊達政宗の長女で、徳川家康の6男松平忠輝に嫁いだ五郎八(いろは)姫の仮御殿である。元々は、慶長年間(1596~1615年)の頃に伊達氏の家臣山岸修理之助定康の屋敷であった。定康は、富沢館主山岸三河守宗成の子であった。その後1621年頃から、伊達政宗の重臣茂庭綱元の屋敷となり、政宗は5回以上、この綱元の屋敷を訪れていることが記録に残っている。最後の訪問は1636年4月19日政宗の死の1ヶ月前のことで、この時の政宗は「御顔色衰へさせられ、御膳も進みたまわず」という状況であったと言われる。綱元屋敷訪問の翌日江戸に向かった政宗は病状が急速に悪化し、翌月24日に品川の江戸屋敷で70歳で病没した。政宗の訃報を聞いた88歳の綱元は、栗原郡文字村に引き籠もり、その地で没した。綱元は、この屋敷を引き払った際、五郎八姫に屋敷を差し上げたと言う。五郎八姫は、夫の忠輝が不行跡により改易となったため、離縁して政宗の元に帰り、仙台城二の丸の西屋敷に移り住み、「西館様」と呼ばれた。綱元が去った後、西館では新たに普請が加えられ、五郎八姫の仮御殿として利用されたらしい。この時五郎八姫は43歳で、以後68歳で仙台城西屋敷で没するまで、仙台城とこの粟生西館の両方で生活した。即ち、西館は五郎八姫の別荘的な性格を持っていた屋敷であったと考えられている。

 西館は、愛子バイパス(国道48号線)の南の段丘上に築かれている。現在、市の史跡に指定されており、館跡の主要部は整備されている。館内には、段差で区画された平場群があり、最上段の小さな平場には、小さい稲荷社が祀られている。南側と西側には土塁が築かれ、その外側には空堀跡が残っている。西の入口は坂土橋になっているが、遺構かどうかは不明。東の平場は一部が畑、大半が耕作放棄地の藪になっているが、段差部分に石積みが残っている。前述の神社の建つ平場の切岸にも、石積みらしい跡が残る。昭和61年に発掘調査が行われ、東半部北側の館入口に当たる部分に石垣が発見されたが、バイパス道建設のため破壊された。西館は、城館というより上流階級層の屋敷地であるが、江戸初期の屋敷の形態を留める遺構として貴重である。
西側の土塁→DSCN9454.JPG
DSCN9489.JPG←石積み遺構

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.264855/140.789688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年

伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年

  • 作者: 菅野正道
  • 出版社/メーカー: 株式会社プレスアート
  • 発売日: 2021/05/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

郷六館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9415.JPG←北辺の土塁
(2020年11月訪城)
 郷六館は、国分氏の一族郷六大膳盛元の居館である。郷六氏は、国分盛氏の庶子盛政を祖とし、宮城郡国分荘の内、愛子・郷六の2郷を領し、郷六館に居住していたと言う。天正年間(1573~92年)に伊達政宗の叔父国分盛重が家中の統制が取れずに政宗の家臣となると、国分氏の家臣団は政宗直轄の国分衆として再編され、郷六氏は郷六村を没収されて郷六館は廃館となった。1598年、元猶が当主の時に郷六氏は森田氏に姓を改めた。

 郷六館は、広瀬川曲流部西岸にある比高10m程の丘陵上に築かれている。対岸には葛岡城がある。周囲は宅地化・市街化が進んでいるが、郷六館は奇跡的にその遺構を残している。周囲より一段高くなった、ほぼ方形をした畑地で、北面と西面には土塁が築かれ、主郭内は2段の平場に分かれている。主郭の塁線は全て直線ではなく、北面で歪んでおり、南西では櫓台状に突出している様であるが、西側は薮が激しく確認が難しい。また畑に通じる小道のある北面には腰曲輪が置かれ、その北側には堀跡が残っている。西側にある水路も堀跡で、南には幅広の水堀跡が低地となって残っている。いかにも小豪族の居館という雰囲気の漂う館跡である。
南の幅広の水堀跡→DSCN9430.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.261502/140.814096/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史散歩

宮城県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

菅生楯(宮城県村田町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9387.JPG←主郭背後の堀切
(2020年11月訪城)
 菅生楯(菅生館)は、菅生助八郎の居城と伝えられる。『伊達世臣家譜』によると菅生氏は下野の小山下野守高朝の後裔と言われ、小山氏が室町時代に滅亡した後に柴田郡菅生村に移住して菅生氏を称したと言う。菅生氏の祖は伯耆で、伯耆の子与作は相馬氏との戦いで討死した。その子助八郎は伊達政宗に仕え、葛西大崎一揆の宮崎の役で軍功を挙げた。1595年に菅生村で100石を給され、その後、栗原郡刈敷村に改められたと言う。

 菅生楯は、標高200m、比高80m程の丘陵先端部に築かれている。東北自動車道の菅生PAのすぐ北に当たる。現在は「菅生舘跡のうそんこうえん」として整備されている。公園の駐車場の奥には二重堀切があり、その先に副郭が置かれている。この二重堀切は、それぞれ土塁を伴っており、土塁同士の間が堀状地形となっているため、実際には2.5重堀切とでも言うべき形となっている。副郭の先は主郭との間を分断する堀切が穿たれているが、副郭側の堀切沿いに1段腰曲輪が付随し、横堀状の通路となって南側に下っている。主郭は2段の平場に分かれ、西側と南側に土塁を築いている。主郭の東側には舌状の腰曲輪が広がっているが、この腰曲輪は後部に櫓台を築き、櫓台と主郭との間を堀切としている。この他、主郭・副郭の南斜面には数段の腰曲輪群が築かれ、東斜面まで腰曲輪が囲んでいる。但し、南斜面の腰曲輪群は山林内にその姿をよく残しているが、東斜面のものは薮に覆われてその形状がよくわからない。以上が菅生楯の遺構で、いかにも小土豪の詰城という趣の城である。
東の腰曲輪と櫓台→DSCN9348.JPG
DSCN9354.JPG←主郭南側の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.171965/140.764035/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小野城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9192.JPG←主郭後部の土塁と堀切
(2020年11月訪城)
 小野城は、伊達氏の家臣小野雅楽之允の居城である。小野氏は、砂金城主砂金氏・上楯城主支倉氏と並ぶ川崎地方の豪族で、戦国時代頃から伊達氏の家臣となり、伊達稙宗・晴宗父子が争った伊達天文の乱では晴宗に属して戦功を挙げた。また1576年に伊達輝宗が相馬盛胤との間で伊具郡の領有を巡って争った際には、小野氏は砂金氏・支倉氏と共に参陣した。1588年、伊達政宗が大崎氏家中の内紛に軍事介入した大崎合戦では、小野雅楽之允は支倉紀伊と共に出陣した。1600年の慶長出羽合戦では、伊達政宗が山形城主最上義光に援軍を送った際、小野雅楽之允・弥七郎も従軍したと言う。江戸時代に入り、幕藩体制が確立すると、小野氏は仙台伊達藩から「召出」の家格を与えられ、小野城の故地に屋敷を構えて代々居住し、そのまま幕末まで存続した。

 小野城は、小野集落の北側にそびえる標高230.1m、比高70m程の丘陵上に築かれている。現在城跡は山林が伐採されて整備されているので、遺構がよく確認できる。頂部に東西に長く広い主郭を置き、背後に堀切を挟んで西郭を置いている。西郭の背後も堀切で分断しているが、西郭は薮だらけでほとんどその形状がわからない。主郭は3段の平場に分かれ、堀切沿いと北辺に土塁を築き、南東に虎口を築いている。主郭の南北の斜面には腰曲輪を築いており、特に南斜面には3段以上の腰曲輪があり、一番広いものが二ノ郭とされている。二ノ郭には熊野神社が建っている。また主郭の東尾根には段曲輪群が置かれ、堀切と竪堀が確認できる。この他、南東の腰曲輪には横堀も穿たれている。主郭の北側1/3はフェンスで仕切られ、立入禁止となっているが、現地で入手できるパンフレットの縄張図によれば、北面の山腹にも横堀がある様だ。小野城は、主郭は広いものの全体の規模はさほど大きくはなく、それほど技巧的な縄張りでもないが、整備により遺構が確認しやすいのがありがたい。
主郭東側の段曲輪群と堀切→DSCN9165.JPG
DSCN9146.JPG←南東山腹の横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.187989/140.665115/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2021/05/08
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

砂小坂道場(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9054.JPG←尾根筋に残る堀跡
(2020年11月訪城)
 砂小坂道場は、本願寺勢力(一向衆)が築いた寺院城郭である。二俣越を押さえる加越国境の要地で、戦国前期に一向衆が砺波平野に進出する拠点として構築された。後の善徳寺や光徳寺の創建の地と伝えられ、本願寺8世蓮如が土山御坊を創建したのと同時期に、この地の豪族高坂四郎左衛門の協力を得て、砂子坂道場を築いて布教の拠点とした。この頃、加賀守護の富樫政親は、当初は弟幸千代との後継争いで一向衆と同盟を結んで幸千代を滅ぼしたが、その後、一向衆が勢いを増すと、政親は一転して一向衆を弾圧した。加賀一向一揆衆は井波瑞泉寺を頼って逃げ延びたが、1481年に富樫氏から瑞泉寺討伐の要請を受けた福光城主石黒光義と山田川の田屋川原で激突し、石黒氏を滅ぼした。砂小坂道場の尾根筋に残る大規模な堀跡は、この当時の緊張状態を今に伝えるものと考えられている。

 砂小坂道場は、富山県南砺市と石川県金沢市の境界線を跨いで築かれている。主要部が金沢市域にあるので、どちらかといえば石川県の城郭に分類した方が良いのかもしれないが、砂小坂道場を詳しく解説した資料「となみ山城マップ」が南砺市側発行のものなので、ここでは富山県の城郭として分類した。
 砂小坂道場は、県道27号線の南にある標高314mの丘陵地にある。現在は全域山林になっており、一部を除いて笹薮が繁茂している。内部には蓮如が自らたたらを踏んで黄金の阿弥陀如来像を鋳造したことを示す記念碑が建っている。やや南に離れた所にも「善徳寺創建之跡」という石碑が建っている。道場跡には多くの平場群があり、中には土塁で囲まれた方形の区画もいくつか見られ、まさに寺跡という雰囲気である。またこれら平場群を繋ぐように堀状通路が散在している。丘陵北側の尾根筋には長い堀跡が残っているが、堀というより古道跡という雰囲気である。一向一揆勢が寺を城砦化した例は多いので、砂小坂道場も往時は武装化した寺院だったと思われるが、遺構を見るとやっぱり城跡というより寺跡という印象が強い。
土塁で囲まれた方形の平場→DSCN9036.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.568132/136.802047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国と宗教 (岩波新書)

戦国と宗教 (岩波新書)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/22
  • メディア: 新書


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

御峰城・土山御坊(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8960.JPG←御峰城主郭の城址標柱
(2020年11月訪城)
 御峰城は、土山城・土山砦とも呼ばれ、本願寺8世蓮如が土山御坊を設けた地にある平山城である。土山御坊は勝興寺の前身で、吉崎御坊に居た蓮如が文明年間(1469~87年)に叔父如乗が創建した二俣本泉寺を頼って医王山西麓一帯を巡錫した際、この地の豪族である杉浦万兵衛の屋敷に逗留し、土山御坊を設けて布教の拠点とした。土山御坊は後に勝興寺の寺号を与えられ、蓮如は次男の蓮乗を後継として残し、自身は瑞泉寺の復興に当たった。蓮乗は本泉寺・瑞泉寺を掛け持つ立場にあったため、4男蓮誓を勝興寺(土山御坊)に置いて布教に当たらせた。勝興寺(土山御坊)は1494年に高木場に移り、更に1519年に火災のため安養寺に移り栄えた。1584年、越中を支配した佐々成政は、神保氏張の持城であった古国府城の地を寄進して、一向宗徒の拠点であった勝興寺を古国府城の地に移し、現在に至っている。一方、御峰城は、佐々成政が1584~85年頃に加賀・能登を領する前田利家との争いが激化する中で、加越国境防衛の為に修築され、家臣の稗田善助・青木孫右衛門が守将として置かれたと言う。

 御峰城は、標高260mの小高い丘の上に築かれている。北の頂部に主郭を置き、その北に2段の腰曲輪、南東の尾根に小郭群を連ね、南端に二ノ郭を配置している。しかし主郭には現在給水施設が建ち、そこまで至る小道が尾根を削って付けられているので、遺構はやや破壊を受けている。主郭の南北には土塁があるようだが、薮がひどくてわかりにくい。腰曲輪や小郭群も薮に埋もれている。南東尾根と二ノ郭の間には切通しの道が貫通しているが、堀切があった可能性がある。また北の下段の腰曲輪の東側には横堀が穿たれている。
 土山御坊は、御峰城の東側に広がる平坦地で、市の史跡となっており、民家の東側が公園として整備されている。この公園が万兵衛屋敷と言われ、北側に土塁が見られ、南西の民家の裏にも高い土壇がある。また土山御坊が置かれた万兵衛屋敷の西の丘上に御峰城が置かれ、万兵衛屋敷の南東に丘上には「御亭(オチン)」と呼ばれる高台があり、南辺に低土塁と空堀が残っている。即ち土山御坊は東西を城砦で守られた中世寺院だったらしい。また御峰城の西側の畑地奥の山林内にも、空堀や堀切状地形が見られ、「ゴモン」「ゴモンノサカ」などの地名が残っている。

 以上が御峰城・土山御坊の状況で、御峰城は佐々成政が国境防衛のために築いた城とは言うものの、他の加越国境城砦群と比べると規模は小さく、縄張りも平凡で、御坊跡に駐屯させた軍団の為の見張りの城に過ぎなかったように思われる。
御峰城腰曲輪の横堀→DSCN8977.JPG
DSCN8997.JPG←土山御坊跡
御亭に残る空堀→DSCN9012.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【御峰城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579058/136.804987/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【土山御坊】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.578403/136.807047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【御亭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.577834/136.807390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蓮如―聖俗具有の人間像 (岩波新書)

蓮如―聖俗具有の人間像 (岩波新書)

  • 作者: 五木 寛之
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1994/07/20
  • メディア: 新書


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

桑山城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8880.JPG←横矢張出の櫓台と堀切
(2020年11月訪城)
 桑山城は、福光城主石黒氏の支城である。石黒氏の家臣坊坂四郎左衛門が桑山城を預かっていたが、仔細あって同城を追い出され、土山安養寺に入っていた。1481年、石黒右近光義と医王山惣海寺の衆徒とが、井波瑞泉寺の一向一揆勢と山田川において戦った(田屋川原合戦)が、この時坊坂四郎左衛門は光義の企てを加賀衆に知らせ、安養寺の大将となって加賀勢と共に医王山を焼き払い、石黒氏の居城福光城にも火を放った。この結果、石黒勢は総崩れとなって滅んだと言う。その後の桑山城の歴史は不明だが、現在残る遺構は戦国後期のものと推測されている。

 桑山城は、標高292.4mの桑山の山頂に築かれており、砺波平野を一望できる要衝である。桑山山頂には桑山火宮社とテレビ塔があり、そこへの林道(未舗装路)が山頂付近まで通っているので、車で城近くまで行くことができる。城は山頂の北半分に築かれている。ほぼ単郭の小城砦で、半長円形をした主郭とその周囲を廻る円弧状の横堀・腰曲輪から構成されている。主郭内は削平が甘く緩やかに傾斜している。主郭の南側には堀切を穿って南の山頂部と分断している。この城の特徴は、この堀切に設けられた横矢掛けの張出櫓台で、ちょうど凸字の形に突出し、それに沿って堀切も屈曲している。堀切に沿った塁線には土塁が築かれ、前述の櫓台と共に主郭面より一段高くなっている。城の構造としてはそれだけで、非常に簡素な構造であり、あくまで砺波平野の物見を主任務とした城であったことがうかがわれる。
腰曲輪と横堀→DSCN8914.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579178/136.853396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

西勝寺城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8811.JPG←主郭~北郭間の堀切
(2020年11月訪城)
 西勝寺城は、戦国時代に越中石黒氏の宗家石黒太郎光秀の居城と伝えられる。また光秀の弟五郎光信が福光城、光秀の次男石黒宗五郎が山本城を居城としたと言う。しかし石黒氏の戦国期の事績には混乱が多く、詳細は不明である。

 西勝寺城は、桑山から東方に伸びる尾根先端の標高160m、比高80mの山上に築かれている。くの字に折れ曲がった尾根に配列された3つの曲輪で構成されている。主郭は中央の曲輪で、周囲に腰曲輪1段を伴っている。主郭の南には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭の先には腰曲輪があり、その先はそのままなだらかな尾根となっている。一方、主郭の北側には大きな谷地形を利用した堀切がある。この堀切の西にはL字型の土塁で防御した虎口、東にも竪土塁で構築した木戸口がある。堀切の上には北郭がそびえている。北郭は東西を堀切で区画し、東側の堀切はそのまま横堀・腰曲輪と変化して南に伸びている。北郭の西には堀切を挟んで尾根が続いているが、外郭があったらしく、ここにも平場と竪堀状虎口などが見られる。この他、主郭の西側下方には横堀の様な切通しの道があり、古道が通っていたらしい。どうも古道を監視する役目も果たしていた城だった様である。
 西勝寺城は、小規模な城であり、あまり技巧的な構造も見られない。また主郭・二ノ郭は薮が多いのも残念である。但し、城のすぐ脇に林道が通っているので、訪城は容易である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.577266/136.864275/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/05/05
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

安居城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8724.JPG←主郭周囲の腰曲輪
(2020年11月訪城)
 安居城は、歴史不詳の城である。現地解説板によれば、規模や構造から見て室町~戦国時代に在地の勢力が、小矢部川の水運と山麓の陸路を押さえる目的で築いたと推測されると言う。また室町時代の越中の棟別銭に関する記録(東寺百合文書)に、足利一門の斯波高経の5男義種の子満理の側近として「安居弥太郎守景」が見えており、地名を冠した当地の豪族だったとすれば、この城の城主であった可能性が考えられる。

 安居城は、標高122m、比高70m程の丘陵上に築かれている。北西の用水池前の車道脇に城の解説板があり、そこから山中に入って南の尾根に登り、尾根上を東に向かえば城に至る。丘陵基部に堀切を穿ち、その東に高さ3m程の切岸で囲まれた主郭を置いている。主郭内は削平甘く、東に向かって傾斜している。外周には腰曲輪が1段廻らされ、北西部では横堀となっている。北東には緩斜面が広がるが、前述の腰曲輪にはこの斜面に向かって虎口が築かれ、その先にも段差や土塁状の土盛り、堀状の通路が見られることから、前衛の曲輪があったらしい。しかし、ダラダラと斜面が続いているので、どこまでが城域であったのかは明確ではない。城の形態から見る限り、戦国期以前の古い形態の城と考えられる。
主郭西側の堀切→DSCN8690.JPG
DSCN8723.JPG←北東斜面の土盛り

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.593479/136.880862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 室町幕府

図説 室町幕府

  • 作者: 丸山裕之
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/06/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

幾保比城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN8513.JPG←枡形虎口
(2020年11月訪城)
 幾保比城は、将軍足利尊氏と弟直義が争った室町幕府の内訌「観応の擾乱」の際に尊氏方武将長野家光が奮戦した居城と伝えられる。また戦国後期に織田信長から鹿島半郡の領有を認められた長連龍が、築城したとの伝承もある。伝説では、古代の仲哀天皇の御宇、外船がしばしば能登の港に入港したので、その警戒のために三室孝原が築いたともされる。

 幾保比城は、赤蔵山の南東に張り出した標高151mの平らかな峰上に築かれている。おたまじゃくしの様な変わった形状をした主郭を持った、ほぼ単郭の城である。主郭内は薮がひどくて判然としないが、数段の平場に分かれているらしい。主郭外周には土塁を築き、その内側は一段低い横堀状とし、また主郭周囲の西から北側にかけて横堀状の腰曲輪を廻らしている。従って城の全周は土塁で囲まれている。その周囲には帯曲輪が1段取り巻き、南西端と西端では堀切状となっている。主郭の北西に平虎口があるが、その外側の横堀状通路を西にずれた所に枡形虎口を築いている。また主郭の東側にも櫓門らしい平虎口がある。主郭の西の角部の外には小郭が置かれ、その両側にはそれぞれ二重竪堀が落ちている。この他、北西と北東の尾根にはそれぞれ2本の浅い堀切が穿たれている。
 幾保比城は、時折見られる一点豪華主義の城で、西側の枡形虎口だけが異彩を放っている。南北朝期の古い城の基本形はそのまま引き継ぎ、虎口部分だけ改修を加えたものだろうか?
主郭土塁の西端部→DSCN8593.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.041254/136.872751/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/05/02
  • メディア: 大型本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

金丸城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN8430.JPG←主城部南東斜面の腰曲輪群
(2020年11月訪城)
 金丸城は、仏性山砦とも言い、将軍足利尊氏と弟直義が争った室町幕府の内訌「観応の擾乱」の際に歴史に現れる城である。元々この仏性山には天平寺と言う寺があり、多くの衆徒を擁して勢威を誇っていたと伝えられる。1350年11月4日、尊氏党であった能登守護桃井義盛は京都から能登に下向した。同月19日、直義党の桃井直信(元越中守護桃井直常の弟)は数千騎を率いて越中から能登に進攻し、高畠宿に陣を敷いた。以後、両軍は連日激しい戦闘を繰り広げ、12月13日に義盛は金丸城に籠城した。直信勢は金丸城を攻撃したが、城中から長野季光が打ち出して戦い、これを撃退した。1369年には桃井直常が能登に進攻し、得田章房・得江季員ら能登武士は能登守護吉見氏頼からの軍勢催促を受け、4月28日、鹿島郡の金丸城・能登部域に馳せ参じた。当時、両城は守護吉見氏の軍事拠点であり、金丸城に守護吉見氏頼が、能登部城に守護代吉見伊代入道が在城していた。章房らは両城の麾下にそれぞれ属して、連日桃井勢と合戦を繰返し、6月1日にこれを撃退したと言う(得田章房軍忠状・得江季員軍忠状)。時代は下って1557年、能登守護畠山氏の内紛「弘治の内乱」の際、温井・三宅反乱軍が金丸城に籠城した。七尾城方は金丸城を攻撃したが、撃退された。1580年には、織田方の長連龍と七尾城方の温井景隆・三宅長盛兄弟とが戦った菱脇合戦の舞台の一つとなった。連龍は福水城に本営を置き、鉢伏山砦を前線基地とした。一方、温井一党は金丸仏性山砦に陣営を置き、八代肥後・古浦屋新助が拠ったと言う。6月9日、邑知潟淵の菱脇で激戦が展開され、八代肥後以下の温井方将兵百数十余人が討死し、温井・三宅連合軍は敗北、仏性山砦は長氏方に攻められ落城したと言う。その後金丸城は史料に現れず、代わって徳丸城が現れるようになっているので、菱脇合戦から程なくして金丸城は廃城になったと推測されている。

 金丸城は、邑知地溝帯の北に連なる丘陵地帯の一角、標高120m、比高110mの仏性山に築かれている。この山は南麓から登山道がついている。南麓に能登生國玉比古神社があるが、そこから東に民家裏の車道を入り、60~70m程進んだところで北側に山中に入る道があるので、そこを入っていく。入って40m程で西側の尾根に登っていく道があるので、そこを登ると、尾根先端の平場に至る。ここも曲輪だったと思われ、そこから北に尾根筋を登っていけば、尾根途中の中段の曲輪を経由して主城部に至る。金丸城の主城部は、標高120mの最高所ではなく、そこから南に下った標高97mの峰を中心に築かれている。峰上に南北に長い狭小な主郭を置き、主郭には内枡形虎口がある。主郭下方の南尾根・南南東尾根・南東尾根に挟まれた南東の斜面上に7~8段の腰曲輪群を末広がりに築いている。南南東尾根の先には段曲輪があり、南東尾根の先にも舌状曲輪群が築かれ、その先端付近を二重堀切で分断している。一方、主郭の背後の小掘切を越えて北に伸びた細尾根の先に城内最高所となる物見台の小郭があり、背後に明確な堀切を穿って尾根筋を分断している。物見台から南東に伸びる尾根にも曲輪群が築かれている。途中、土橋状の尾根の側方に帯曲輪が付随する曲輪を経由して、下方に南東の出曲輪群が築かれている。ここには2本の堀切が穿たれているが、いずれも規模が比較的大きい。特に上の堀切では西側に竪堀が曲がりながら長く落ちている。南東出曲輪群の先端の平場からは、西斜面に竪堀が落ちている。
 以上が金丸城の遺構の状況で、やや薮が多く遺構が見辛い部分もあるものの、徳丸城と比べると求心性の強い縄張りで、支尾根に築かれた堀切の規模も大きい。縄張り的には徳丸城よりも優れていると考えられる。尚、主城部から独立して築かれた、物見台の南東出曲輪群は、主城部とは随分と築城思想が異なっているので、築城主体が違う可能性がある。主城部が南北朝期の縄張りをそのまま引き継いでいるのに対して、温井・三宅連合軍が金丸城を使用した際に新たに出曲輪群を築いたのかもしれない。
主郭→DSCN8420.JPG
DSCN8337.JPG←物見台背後の堀切
南東出曲輪群の二重堀切→DSCN8450.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【主郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.952207/136.842409/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.953253/136.842967/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


足利尊氏 (角川選書)

足利尊氏 (角川選書)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/03/24
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

徳丸城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN8236.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 徳丸城は、天正年間(1573~92年)に織田方に付いた能登畠山氏の家臣長連龍が拠った城と伝えられる。連龍は、1577年の上杉謙信による七尾城攻撃の際、上杉氏の調略に応じた遊佐続光らの計略によって兄綱連を始めとする一族を滅ぼされた。復讐に燃える連龍は、織田信長の支援を受け、福水城に本営を置いて能登進攻の態勢を固め、1580年6月9日、菱脇の合戦で七尾城方の温井景隆・三宅長盛兄弟の連合軍を破った。能登の状況を見た信長は、同年9月1日、七尾城方の温井・三宅一党と連龍の和睦の調停をはかり、織田軍の尖兵となって能登で奮戦した連龍は信長より鹿島半郡を与えられ、福水城を居城とすることを認められた。連龍は次いで徳丸城に居城を移し、その後田鶴浜館を築館して居住したとされる。
 一方、徳丸城は、南北朝期の抗争の際、能登守護吉見氏の拠点の一つとして現れる能登部城と同一のものとする説がある。得田章房軍忠状・得江季員軍忠状によれば、1369年の元越中守護桃井直常の能登進攻に際し、得田章房・得江季員ら能登武士は能登守護吉見氏頼からの軍勢催促を受け、4月28日、鹿島郡の金丸城・能登部域に馳せ参じた。当時、両城は守護吉見氏の軍事拠点であり、金丸城に守護吉見氏頼が、能登部城に守護代吉見伊代入道が在城していた。章房らは両城の麾下にそれぞれ属して、連日桃井勢と合戦を繰返し、6月1日にこれを撃退した。この能登部城が発見されていないこと、徳丸城の縄張りが戦国末期のものとは考えにくいことから、徳丸城こそが能登部城であった可能性があると言う。

 徳丸城は、邑知地溝帯の北に連なる丘陵地帯の一角、標高150m、比高130mの清四郎山に築かれている。南麓に徳丸観音堂があり、その裏から登山道が整備されている。南北に伸びる主尾根に曲輪を連ね、更にそこから東西に派生する尾根にも曲輪を連ねた縄張りとなっている。前述の登山道を登ると、主尾根から南東に伸びる支尾根の先端にある小郭に至る。小郭の先に土橋の架かった堀切が穿たれ、その上に曲輪、更に堀切を越えた先に三ノ郭(別名、火の見台)がある。三ノ郭は南東と西に腰曲輪があり、西尾根の先に西郭が築かれ、その先端も堀切が穿たれ、その先に小郭が置かれている。三ノ郭と西郭との間の尾根は、両端の付け根に片堀切が穿たれている。三ノ郭の北の尾根の先には二ノ郭群(別名、風呂屋敷)が築かれている。二ノ郭群は、頂部の狭小な曲輪とその南東斜面に築かれた数段の曲輪群で構成されている。東端には物見台がある。二ノ郭群の更に北に主郭群(別名、調度)がある。主郭群も頂部の小ぶりな平場と、南と西の腰曲輪群で構成されている。主郭の北と東に堀切が穿たれ、東尾根には小郭群が続き、堀切もある。主郭の北西にも段々に円弧状の腰曲輪群が築かれている。主郭群の北には、北郭(別名、馬責場)がある。北郭はおそらく物見であろう。その東西にも小郭があり、特に東尾根の先端には堀切が穿たれている。
 以上が徳丸城の遺構で、曲輪はあるものの大した広さはなく、また基本的に峰と峰を細尾根で繋いだ地勢なので、城内の居住性はほとんどない。また堀切の規模も大きくはなく、長連龍が拠った戦国末期の時期から考えると、前時代的な縄張りである。そうした事実を考えると、徳丸城が南北朝期の能登部城と同一の城とする見解は、至極妥当なものと思う。
最初に出てくる堀切と土橋→DSCN8086.JPG
DSCN8100.JPG←三ノ郭
二ノ郭群→DSCN8147.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.969695/136.867493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Kindle版


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

勝山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7989.JPG←中城の巨大竪堀
(2020年11月訪城)
 勝山城は、1555年に生起した能登守護畠山氏の内紛「弘治の内乱」の際に築かれた城である。畠山義綱は実権を取り戻すため、実権を握っていた重臣の温井総貞(紹春)を暗殺した。これをきっかけに温井氏と温井氏と親しい三宅氏は畠山晴俊を当主として擁立し、加賀一向一揆を味方につけて大規模な反乱を起こした。これが「弘治の内乱」で、温井・三宅連合軍は、勝山城を反乱拠点として築城したとされる。一時は義綱方を七尾城に追い込んだが、その後は劣勢となり、1558年3月に勝山城は落城し、反乱軍は鎮圧されて畠山晴俊・温井続宗らは討死したと言う。1584年、越中を支配した佐々成政の命を受けて、成政の重臣の守山城主神保氏張は能越国境の要衝として勝山城を取り立て、部将の袋井隼人を勝山城に置いたと言う。七尾城にいた前田安勝はこれを知り、前田良継・高畠定吉・中川光重らに勝山城を攻撃させたが、撃退された。同年9月の末森合戦では、佐々勢を撃退した前田利家は、佐々勢が撤退した荒山城・勝山城を占領した。翌85年、豊臣秀吉の富山遠征によって成政が秀吉に降伏すると、勝山城はその使命を終えたと思われる。

 勝山城は、邑知地溝帯の南に連なる丘陵地帯の一角、標高230m、比高130mの山上に築かれている。主尾根から北東に弓なりに伸びる尾根の北端部に登り口がある。車道脇の民家の裏に解説板があり、その奥が登道の入口である。登道と言ってもわずかな踏み跡程度のものだが、細尾根なので迷うことはない。勝山城は、能登国内としては勿論、石川県全域で見ても5本の指に入る巨大城郭で、城内は大きく3つのブロックに分かれる。ここでは便宜上、それぞれ北城・中城・南城と呼称する。

北東尾根の物見台→DSCN7859.JPG
DSCN7884.JPG←北東尾根の曲輪の一つ
主郭後部の切岸→DSCN7924.JPG
 北城は勝山城の中心的な郭群で、頂部に主郭を置き、北に伸びる尾根と北東に伸びる弓なりの尾根とに曲輪群を連ねている。大手は北東の弓なりの尾根で、主郭の東斜面から尾根の先端まで、びっしりと曲輪群が築かれている。それぞれ切岸で明瞭に区画され、途中には物見台が2ヶ所ほど見られる他、細尾根の動線を制限する片堀切が構築されている。尾根の付け根は一騎駆け状の長い土橋となっている。その先に腰曲輪群があり、尾根筋からはL字型の坂土橋が構築され、上段の腰曲輪に登っていく。腰曲輪群を登っていくと、北城の主郭に至る。主郭は後部に土塁を築いて防御し、北に向かって数段の舌状曲輪を連ねている。その先は2本の坂土橋で下の曲輪に通じている。先端部には数段の小郭が築かれて城域が終わっている。一方、主郭の東側から南側には南郭が置かれ、西辺に短い土塁があり、土塁と主郭切岸との間は堀切となっている。北城の南郭から南の尾根を登っていくと、土橋状通路の先に中城がある。

DSCN7969.JPG←中城前面の大堀切
土塁で囲まれた中城の主郭→DSCN7972.JPG
 中城は、まず前面に前衛となる小郭数段を置き、その後部に土塁を築き、背後を大堀切で分断している。その南側にあるのが中城の主郭で、南から東面にかけて大きくL字状に土塁を築いて防御している。その背後にも大堀切が穿たれ、ここから北東に向かって巨大な竪堀が落ちている。この大竪堀は100m以上も伸びる圧巻の規模で、これに近いものは上野岩櫃城や下野山田城でしか見たことがなく、それを凌駕する長さである。大竪堀の内側(中城側)には竪土塁が延々と構築され、南にある南城との間を完全に分断している。竪土塁を下っていくと、竪土塁は下方で2ヶ所の折れを持ち、その内側に腰曲輪群を構築している。この様に中城は、前後の大堀切と東の大竪堀で防御されている。竪土塁・大竪堀の南側にあるのが南城である。

DSCN8015.JPG←南城から見た大竪堀
南城の腰曲輪群→DSCN8011.JPG
DSCN8025.JPG←南城の主郭
 南城は、尾根上に小さな主郭を置き、主郭後部には土塁が築かれ、その南に南郭、また主郭の前面には虎口を伴った北郭が置かれている。これら3つの曲輪の東斜面に、多数の腰曲輪群が築かれ、前述の大竪堀沿いにもびっしりと段が連なっている。また南郭から伸びる細い南尾根には堀切が3本穿たれて城域が終わっている。
南尾根の堀切→DSCN8054.JPG

 この様に勝山城は、並の山城3つ分の規模を有する巨大山城で、ネット上ではほとんど無名というのが信じられない。薮もそれほどひどくないので、遺構も比較的確認しやすい。

 ここでちょっと勝山城の構造について考察してみたい。北城・中城・南城と分かれた区画は、それぞれ城の構造が全く異なっており、それぞれの役割の違いを表していると考えられる。一つの仮説として、北城の主郭は実力者の温井続宗が在陣し、それより高所にある中城の主郭は主君として擁立された畠山晴俊の御座所が置かれたとも推測できる。その場合、大竪堀で分断された南城との関係が問題になる。南城は明らかに軍兵の駐屯地であり、畠山晴俊と兵卒の身分差が大竪堀に表れたのだろうか。また別の仮設として、七尾城を攻略した上杉謙信が勝山城を支配していた時代があったのかもしれない。その際に、上杉氏によって大竪堀と南城が拡張されたとも考えられる。有数の戦国大名が、山城を拡張して外郭を独立した区画として新規構築した例は、北条氏の房総半島の城などにその類例がある。ただ能登の上杉系城郭でよく見られる畝状竪堀が構築されていないのは、ちょっと引っかかる。一方で、大堀切・大竪堀は織田勢力の城ではあまり見られず、逆に織田勢力の城の特徴である直線的な塁線や枡形虎口がこの城にはなく、佐々氏・前田氏が整備拡張したとは考えにくい。なかなか考えさせられる城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.960746/136.926717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

二穴城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7776.JPG←主郭~二ノ郭間の段差
(2020年11月訪城)
 二穴城は、能登守護の七尾城主畠山氏が築いた城と言われている。1581年に前田利家が能登に入部すると、家臣の高畠茂助・宇野十兵衛を置いて守らせたと言われる。小口瀬戸と七尾南湾を航行する船舶を監視する役目を負っていたと考えられている。

 二穴城は、七尾南湾に突き出た丘陵上に築かれている。城の北東に多賀神社があり、その裏から城内の畑跡に通じる道が伸びている。城内は耕作放棄地と竹薮になっている。南北に主郭・二ノ郭を配置した城で、2郭間は高さ1m程の段差だけで区画されている。南の主郭は丘陵突端にあり、西辺に低土塁を築いている。更に主郭・二ノ郭の西側には数段の腰曲輪が築かれ、この腰曲輪群を貫通して竪堀状の通路が下っている。また二ノ郭の東側にも腰曲輪が1段築かれている。二ノ郭の後部にも土塁があり、段差で北側の尾根と区画されている。そこから北側は一面の酷い薮で、踏査困難なため、遺構の有無は確認できていない。
 二穴城も向田城と同じく、現地解説板ではずっと北側に続く尾根や南西に張り出した丘陵上も城域だったとしているが、『能登中世城郭図面集』では遺構とは認定していないので、どちらが正なのかよくわからない。
主郭西辺の土塁→DSCN7811.JPG
DSCN7798.JPG←主郭西側の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.113155/137.016624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/04/25
  • メディア: 大型本


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

向田城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7725.JPG←北斜面の腰曲輪群
(2020年11月訪城)
 向田城は、南北朝史に現れる金頸城に比定されている。金頸城は、南北朝史の主軸を成す『太平記』には現れず、合戦に参加した武士の軍忠状に現れる。室町幕府の内訌「観応の擾乱」後の1353年8月28日、北朝方の能登守護吉見氏頼は、能登島の向田を本拠とする南朝方の長胤連討伐の為、嫡男修理亮詮頼を大将とする軍勢を能登島に侵攻させた。胤連の下には、将軍足利尊氏に反抗する元越中守護桃井直常の弟桃井兵庫助が能登での南朝勢力拡張のため派遣されていた。翌29日、吉見勢は胤連の館を焼き払い、胤連は金頸城に籠城した。同年9月、吉見勢は「一口駒崎」に陣取り、金頸城を包囲した(『得田文書』)。その後の経過は不明であるが、胤連はこの一連の合戦で討死したと推測されている。1355年、長胤連の一族家人が蜂起したため、3月17日、吉見氏頼は再び詮頼を大将に軍勢を能登島に派遣した。同月20日、胤連の残党は金頸城に追い込まれたが、長一族は激しく抵抗し、3ヵ月後の6月14日夜、ようやく金頸城は落城し、長一族は壊滅した(『天野文書』)。その後の金頸城(向田城)の歴史は不明だが、現在残る遺構から戦国期まで使用されたものと推測されている。

 向田城は、七尾北湾に突き出た標高44mの城ヶ鼻と呼ばれる岬の上に築かれている。岬の基部には現在県道257号線が貫通している。西側の県道沿いに駐車場があり、以前はそこに城の解説板があったらしいが、現在はなくなっている。岬の上にあるのが主郭であるが、登道はないので、急な斜面を無理やり登攀した。頂部に狭小な主郭があり、北側の斜面に腰曲輪群を築いている。腰曲輪群の北辺は尾根が天然の土塁として張り出しており、腰曲輪群は2つの尾根の間の谷状の部分に築かれている。また主郭の南東側にも帯曲輪があり、竪堀らしい地形も確認できる。主郭の南には細尾根が伸びている。一方、県道を挟んで南の尾根には三重堀切が穿たれ、そこから東斜面には三重竪堀が落ちている。その南に伸びる尾根の先にも外郭の曲輪があるらしいが、時間の都合で踏査しなかった。

 向田城は、遺構はよく残っているが、全体に薮が多く、特に主郭を中心とする岬の遺構は確認が大変だった。かつてあった解説板では、はるか南の尾根の先まで城域だったとしているようだが、『能登中世城郭図面集』では遺構とは認定していない。どうも能登の城は、神和住城と言い、天堂城と言い、実際の遺構が過去に作られた縄張図と合わない例があり、判断に苦しむ。
南尾根の三重竪堀の一部→DSCN7761.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.141914/137.009007/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/04/24
  • メディア: 大型本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

熊木城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7618.JPG←北郭の畝状竪堀
(2020年11月訪城)
 熊木城は、七尾城主で能登守護畠山氏の家臣熊木氏の居城である。一説には、鎌倉初期に長氏の祖長谷部信連が居城したと言い、その後信連は穴水へ移ったと言う(『長家伝』)。一方、南北朝期には熊木荘を支配した熊木左近将監の居城となったとされる。1566年に畠山義綱が家臣団によって追放されると、熊木氏も義綱に従って能登を離れたと言う。しかし熊木氏の一族は熊木荘に残留していたらしく、1576年に上杉謙信が七尾城を攻撃した際、長綱連や熊木氏以下の畠山家臣団が七尾城に籠城している。上杉軍は富木城穴水城と共に熊木城を攻め落とし、三宝寺平四郎・斎藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を熊木城に配した。翌77年3月、上杉謙信が一旦帰国すると七尾城方は反撃に転じ、同年5月には七尾の将兵を引き連れた長綱連が熊木城を囲んだ。甲斐荘家繁が謀略をもって斎藤氏を降し、七杉氏を自害させ、内藤・三宝寺氏を降して誅殺し、熊木城には仁岸石見を守将として置いた。閏7月、謙信が再び能登に出征すると、穴水城を攻撃していた綱連は七尾城へ引き返し、殿軍を熊木兵部が受け持った。兵部は七尾落城後、松波城に退いたが、9月に上杉勢と戦って討死した。一方、能登を制圧した上杉氏に服属した一族もいたが、1578年の謙信急死により能登の上杉勢力が弱体化すると、その混乱の中で熊木氏は滅亡したと推測されている。

 熊木城は、熊木川北岸の比高90m程の丘陵上に築かれている。100m程離れた北郭・南郭の2つの城域から構成されており、南郭が本城で、北郭が出城と推測される。南東麓から散策路が整備されているので、登るのは容易である。ただ、この城への登道は最初がわかりにくい。民家脇を北北東に伸びる農道を真直ぐ行ってしまうと、全く城から離れたところに行ってしまう。農道入口を民家の手前ですぐに左に入り、民家と民家の間を北側に入っていくのが正解である。畑の脇を抜けて、散策路を山林の中に入っていくと、最初に高台になった平地がある。この高台の入口は土塁を築いた虎口になっているので、ここも城下の一郭であったことがわかる。その先に行くと散策路は二股に分かれ、左側の「きゅう坂」を行くと南郭へ、右側の「だんだら坂」を行くと北郭へ到達する。
 北郭は単郭の砦で、円形の主郭を中心に、北東側に土橋を架けた堀切を穿ち、北斜面には畝状竪堀を築いている。この畝状竪堀は薮払いされているので形状がわかりやすい。主郭の南側には横堀を穿ち、北西側には腰曲輪を築き、南西に大手虎口を設けている。また主郭背後の堀切からやや離れて、もう1本北端の堀切を設けている。
 南郭は、大きく南北2郭に分かれ、主郭は周囲に土塁を築き、背後には二重堀切を穿っている。主郭背後の切岸は北郭のものより大きく、こちらの方が本城として防御を固めていたことがわかる。主郭の南側には空堀・竪堀で固めた馬出しが設けられ、やや変則的な枡形虎口が形成されている。そこから南西に降ると舌状の二ノ郭がある。二ノ郭の南西端には小掘切が穿たれている。南側は薮の多い自然地形で、ここにも畝状竪堀があるとされるが、よくわからなかった。

 熊木城は、規模的には土豪の築いた小城砦の域を出ないが、馬出しや畝状竪堀など、上杉氏による改修と思われる痕跡を残している。
北郭南側の横堀→DSCN7638.JPG
DSCN7658.JPG←南郭の二重堀切の内堀
南郭の馬出し→DSCN7677.JPG
DSCN7595.JPG←高台入口の虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【南郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.129751/136.844577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.130881/136.844963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー