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鎌原城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1606.JPG←二ノ郭に残る堀切
(2020年12月訪城)
 鎌原城は、信濃国滋野氏の庶流とされる鎌原氏の居城である。鎌原氏は、滋野源氏・海野氏の一族で、平安時代末期より三原庄を支配した豪族下屋氏の後裔と伝えられる。三原庄を開拓した下屋将監幸房の子孫幸兼がこの地に入部し、鎌原氏を称したと言う。築城は1397年と伝えられる。関東管領兼上野守護の山内上杉憲政が北条氏康によって越後に逐われると、吾妻地域は岩櫃城主斎藤憲広の支配するところとなり、鎌原城主鎌原宮内少輔幸重も斎藤氏に従った。1560年、鎌原氏は同族の真田幸隆を介して武田信玄に通じ、武田氏の吾妻侵攻に当たってその尖兵として岩櫃城攻略に掛かった。対する斎藤氏も鎌原城を攻撃した。以後、1563年に岩櫃城が武田氏に攻略されるまで、鎌原城は武田氏の吾妻侵攻の拠点として重視され、上杉氏の後援を受けた斎藤氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられた。1562年には斎藤氏麾下の羽尾氏に鎌原城を奪われ、信濃へ退去したが、その後武田氏の支援を受けて鎌原城を奪還した。以後武田氏に仕え、1575年の長篠合戦で嫡男幸澄は討死した。武田氏滅亡後は真田氏に属し、そのまま沼田藩に仕えて家老などを務めた。1615年の元和一国一城令で鎌原城は破却された。鎌原氏は、1681年に沼田藩が改易となると、西窪氏・湯本氏・横谷氏等と大笹関所番となった。

 鎌原城は、吾妻川東岸の比高90m程の段丘上に築かれている。段丘西側は吾妻川に臨む垂直断崖で隔絶された要害の地である。先端が二股に分かれたY字状の段丘を利用しており、台地基部に広大な三ノ郭を置き、Y字の左の先に二ノ郭・主郭・笹曲輪を南から順に連ねている。三ノ郭・二ノ郭・主郭の西側には広大な腰曲輪が築かれている。またY字の右の先には谷状になった窪地に東曲輪を配置している。主郭・二ノ郭・三ノ郭の背後にはそれぞれ堀切が穿たれているが、耕地化で多くが埋められてしまっており、明確に残っているのは二ノ郭のものだけである。但し、わずかな段差が残るほか、崖縁に堀形が残っており、その位置を知ることができる。その位置からすると、三ノ郭だけは食違い虎口になっていたらしい。また主郭・二ノ郭の堀切は西の腰曲輪まで貫通して掘り切っている。主郭の先端には電波塔が建ち、その先に断崖に面した細尾根上の笹曲輪がある。笹曲輪は小郭でただの物見であろう。一方、東曲輪は谷の緩傾斜地となっているが、東西に突き出た高台で挟まれ、先端には一段高く物見台が築かれている。尚、城は主要部が公園化されていて、各所に標柱も建っているが、三ノ郭の標柱だけは実際の三ノ郭から少し南に離れた所に立っている。鎌原城は、それほど技巧的な縄張りではないが、城域が広く、吾妻川上流部を押さえる拠点城郭であったことが伺われる。
主郭→DSCN1538.JPG
DSCN1504.JPG←西腰曲輪を貫通する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.524467/138.544518/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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