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西窪城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1653.JPG←物見台に挟まれた窪地状の主郭
(2020年12月訪城)
 西窪城は、信濃国滋野氏の庶流とされる西窪氏の居城である。西窪氏は、滋野源氏・海野氏の一族で、信州小県郡から幸盛の弟幸房が平安時代末期に三原庄下屋に来住して下屋氏を称した。幸房の3男伊弥平三郎が西窪に入部して西窪氏の祖となったと言う。西窪氏当主は代々、治部左衛門を称した。西窪氏は、一族の鎌原城主鎌原氏と共に関東管領兼上野守護の山内上杉顕定に属していたが、大永年間(1521~28年)頃に岩櫃城主斎藤憲次の幕下となった。やがて武田信玄が吾妻に侵攻すると、鎌原氏と共に武田氏に属した。武田氏滅亡後は真田氏に属し、そのまま沼田藩に仕えた。西窪氏は、1681年に沼田藩が改易となると、鎌原氏・湯本氏・横谷氏等と大笹関所番となった。

 西窪城は、鎌原城から吾妻川を隔てた対岸の丘陵上に築かれている。非常に変わった形態の城で、大きく東に向かって傾いた斜面全体を城域としている様である。斜面の下半分はひな壇状の平場群となっているが、現在は畑となっているので、どこまで往時の形を残しているのかよくわからない。斜面の北東端は小高い丘になっていて、ここが城の中心とされている。丘の西側は堀切となっている。丘の上に2つの物見台土塁に挟まれた窪地状の平場があり、主郭と推測されている。主郭の東側には大きく傾斜した斜面が広がり、その下に傾斜の緩くなった平場が広がっている。この裾の平場には中央にわずかに竪土塁が見られ、下方に虎口らしい部分もある。これらの城の中心部は、ほとんど居住性のない砦の様なもので、珍しい形をしている。ここから西側には起伏のある斜面が広がり、西にやや離れたところに大きな空堀が穿たれて、丘陵部を区画している。これは遠堀の様なもので、その上に物見台の土壇があるが、斜面全体が広すぎ、明確な普請のない場所もあることから、実際に城の曲輪として使われていたのかは不明である。結局、縄張りがうまく捉えられない、異型の城である。
西の空堀→DSCN1680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523346/138.538467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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