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三枝土佐守虎吉屋敷(山梨県中央市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7245.JPG←館跡の段丘
(2021年2月訪城)
 三枝土佐守虎吉は、武田氏の家臣である。三枝氏は古代の名族であったがその後断絶し、武田信虎の時代に石原守種の次男丹波守守綱が三枝氏の名跡を継いで再興したと言われている。守綱の子が土佐守虎吉である。虎吉の長男勘解由左衛門尉守友、次男源左衛門守義は、長篠合戦で討死した。3男平右衛門昌吉は、父虎吉と共に天正壬午の乱以降、徳川家康に仕えた。昌吉は後に東向村の館に本拠を移して三枝氏の本家筋となり、昌吉以外の子は独立して各地に散り、それぞれ徳川氏に仕えて繁栄したと言う。

 三枝土佐守虎吉屋敷は、七覚川の支流の小河川沿いの高内と呼ばれる段丘先端部に築かれている。かつては4つ程の曲輪が南北に並んだ縄張りであったらしいが、現在館跡は民家と畑に変貌しており、明確な遺構は見られない。ただ段丘の東西には堀跡の低地があり、館の地勢はよくわかる。尚、民家裏の段丘辺縁部に館跡の石碑と祠があるが、民有地の中なので遠くから眺めることしかできなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.575477/138.564516/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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右左口砦(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7189.JPG←主郭
(2021年2月訪城)
 右左口(うばぐち)砦は、甲斐・駿河を結ぶ重要街道である中道往還を押さえる砦である。1582年の天正壬午の乱の際、徳川家康は中道往還を通って甲斐に入り、北条氏直の大軍と2ヶ月半に渡って長期対陣した。黒駒合戦などで勝利を積み重ねた末、徳川方の優勢下で和睦が結ばれ、乱が終結したのが同年10月下旬である。乱終結後の11月4日に「うは口筋ニ取手普請候」と『家忠日記』にあり、その1ヶ月後の12月7日に「普請出来候」とあるのが右左口砦のこととされる。松平主殿助家忠が翌年まで中道筋の警護のために右左口砦を守備したと言う。しかし平山優著『天正壬午の乱』では、乱の最中に右左口砦は金刀比羅山砦と共に服部半蔵正成ら伊賀衆が守備し、中道往還の監視に当たったとしている。尚、砦の西麓には、武田氏を滅ぼした織田信長が駿河経由で凱旋するに当たり、徳川家康が整備したと言われる右左口宿がある。

 右左口砦は、右左口宿の背後にある標高537mの丘陵上に築かれている。幸い県道113号線が砦の背後まで通っているので、車で近くまで行くことができる。今冬は雪が少なかったので、まだ2月末にも関わらず県道を通行できた。県道から南斜面の桑畑を突っ切ると、山頂の主郭に至る。主郭は三角形に近い台形状の平場で、周囲を切岸で囲み、北西と東に腰曲輪を伴っている。また北西斜面は斜度が緩く、ここに竪堀群が見られる。しかし形状や意図がわかりにくく、謎の竪堀群である。遺構としてはそれだけで、耕地化による後世の改変もあるのだろうが、『家忠日記』にある1ヶ月も普請に要した城砦とは考えにくい。おそらく右左口砦と対となる金刀比羅山砦と合わせての普請だったと想像される。
謎の竪堀群→DSCN7206.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.566122/138.595394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大野城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7094.JPG←土塁のある二ノ郭
(2021年2月訪城)
 大野城は、歴史不詳の城である。昭和61年の県教育委員会の調査で確認された城とされるが、『甲斐国志』には烽火台の記述があり、また山名の別名も「城山」で、城砦があったことは古くから知られていた様である。隣接する花鳥山で行われた1472年と1523年の合戦が、この城に関連すると推測されている。1472年、小山城主穴山伊豆守は信濃の大井氏と花鳥山で戦った。また1523年3月には、小山城主穴山伊予守信永は鳥坂峠を越えて侵入してきた南部下野守と花鳥山で戦った後、小山城で防戦したが、二ノ宮常楽寺へ落ち延びて自刃した。こうしたことから、大野城は小山城主穴山氏と関係が深く、小山城の詰城であった可能性も指摘されている。

 大野城は、標高675mの小物成山に築かれている。登り口は北北西の尾根の先端にある。果樹園脇の獣除けの柵の扉を開けて尾根に取り付き、尾根伝いに南に登っていけばよい。大野城は近傍にある旭山城と同様に、最高所の標高693mの峰から北北西に伸びる尾根上に合計4ヶ所に渡って遺構が散在している。前述の登り口から高さ70m程登ると、最初に現れるのが大手の曲輪群で、2段の段曲輪と背後の堡塁で構成されている。2つ目の遺構は、そこから更に細尾根を登った標高615mの峰にあり、小さい平坦地で物見台と思われる。ここには祠と石仏が祀られている。この峰から主城部近くまでの尾根には、山林の境界を示す網が張られている。尾根の鞍部には堀切が穿たれ、その先は急傾斜の尾根となる。3つ目の遺構は大野城の中核となる主城部で、標高675m の峰にある。尾根を登りつめると4段の段曲輪群が現れ、その奥に土橋を架けた堀切があり、その上に二ノ郭がそびえている。二ノ郭は東西に長い長円形の曲輪で、南北両辺に低土塁が築かれている。二ノ郭の東側には土橋状の細尾根が繋がり、その先に三角形に近い不整四角形の主郭がある。二ノ郭の南西尾根には6段の段曲輪群が連なり、主郭の北尾根にも堀切の先に4段の段曲輪群が築かれている。但しこの堀切は、外側に土塁を築いて横堀のような形状にしている。主郭の背後に当たる南尾根には2つの堀切と段曲輪、更にその先の細尾根の曲輪に2つの堀切が穿たれている。主城部の各尾根の段曲輪群は高低差が大きく、登り降りが大変である。4つ目の遺構は南尾根を登った先の標高694mの峰にある。城内では最高所にある曲輪群である。遺構の前には鉄塔が建っていて、訪城した時は鉄塔の碍子交換の工事を行っているらしく、そのための搬送レールなどの機材が曲輪群の横に多数設置されていた。ちょっと遺構の損壊が心配な状況だったが、草木が伐採されているため、遺構は見やすくなっていた。最高所に2段の曲輪があり、西の支尾根に堀切1本、南の尾根に堀切の先に数段の曲輪群を築いている。最高所の2段曲輪の周囲には竪堀が穿たれている。以上が大野城の遺構で、曲輪群を広範囲に散在させ、主城部の背後の峰にも烽火台等の曲輪を築き、大手筋の途中の峰に物見台を配し、堀切・竪堀を多用しているなど、旭山城との類似点が多い。
大手曲輪群→DSCN7047.JPG
DSCN7059.JPG←物見台から見た主城部遠望
主郭北尾根の横堀状堀切→DSCN7105.JPG
DSCN7149.JPG←竪堀
最高所の2段曲輪→DSCN7154.JPG
DSCN7165.JPG←最高所背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【大手の曲輪群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.605978/138.679186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【標高615mの物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.604984/138.678650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【主城部】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.603518/138.680023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【最高所の曲輪群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.601477/138.680495/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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旭山城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6987.JPG←主郭の背後の石塁
(2021年2月訪城)
 旭山城は、一般には旭山烽火台と呼ばれ、御坂道を監視する城砦である。単なる烽火台にしてはかなりしっかりした普請がされていて、実質的に城郭として機能したと考えられるので、『戦国 武田の城』(中田正光著)の表記に従って、ここでは旭山城と記載する。1487年に武田信昌が広厳院に出した寺領寄進状に「南ハ城山之峰をきり」とあり、この時には旭山城が存在していたことが確認される。『甲斐国志』では寄進の意味から、この時には既に廃されていたと推測しているが、現在残る遺構や立地の重要性から、戦国期や天正壬午の乱の際にも使われていたのではないかと考えられている。

 旭山城は、御坂道の東にそびえる標高842m、比高380mの峻険な旭山に築かれている。山頂から金川に沿って並走する北西の尾根上に合計4ヶ所に渡って遺構が散在している。北西麓から登山道が整備されているので、迷うことなく登ることができる。最初に現れるのが大手中段の標高611m地点にある蚕影山の物見台で、切岸で囲まれた円形の平地となっていて、蚕影山の石碑が建っている。2つ目の遺構は、主尾根から北に派生した支尾根の先の標高735m地点にある出丸で、尾根上の平場とその先端に2段の腰曲輪がある。腰曲輪の両脇に竪堀があるとされるが、現状からではあまりはっきりしない。3つ目の遺構は旭山城の中核となる主城部で、標高809.4mの三角点のある峰にある。長円形の主郭を中心に周囲に腰曲輪1段を廻らしている。更に北西の大手筋に竪堀で側方防御した腰曲輪が置かれ、更に下方に尾根上の平場があり、付け根の両側を竪堀で穿っている。主郭の背後の切岸には石塁の残欠が見られ、竪堀もある。後部の尾根には浅い堀切が穿たれている。ここの主郭からは蜂城がよく見える。ここから更に登った旭山山頂にあるのが4つ目の遺構で、台形状の平場となっている烽火台である。この背後の尾根には合計3本の小堀切が穿たれている。尚、これら以外にも、途中の細尾根には竪堀で刻まれたS字型の土橋状の部分も見られる。遺構はよく残っているが、残念なことに旭山城の主城部や山頂の烽火台付近は、茶臼山烽火台と同様に強風による倒木で遺構が損壊しており、堀切に倒木が落ちて遺構が見にくくなっていたりもする。
 それにしても旭山山頂までは遠い登道で、参考にしている『甲斐の山城と館』の著者宮坂氏は御老体でよく登ったなぁと関心することしきりである。
蚕影山の物見台→DSCN6912.JPG
DSCN6936.JPG←北支尾根の出丸の腰曲輪
主城部の竪堀→DSCN6961.JPG
DSCN7018.JPG←山頂烽火台の堀切
登り途中のS字土橋と竪堀→DSCN6917.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【蚕影山物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.620492/138.703068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北支尾根の出丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.618486/138.707489/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【主城部】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.615834/138.709184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【山頂烽火台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.614177/138.712059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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蜂城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6885.JPG←主郭背後の二重堀切
(2021年2月訪城)
 蜂城は、武田氏一族の岩崎氏が詰城として築いた城と推測されている。岩崎氏は武田惣領家に匹敵する勢力を持った一族で、その事績は岩崎氏館の項に記載する。1457~8年の守護武田信昌と守護代跡部景家との戦いに巻き込まれて岩崎氏が滅亡すると、岩崎氏の遺領は栗原氏の支配下に入り、蜂城も栗原氏の管理下にあったと考えられている。

 蜂城は、標高738m、比高290mの蜂城山に築かれている。主郭には蜂城天神社があり、そこへの参道が東麓から整備されているので、迷うことなく登ることができる。標高680m付近まで登ると鳥居があるが、その下方には長い竪堀が穿たれている。また鳥居の上は急に傾斜が緩くなっていて、この緩くなった傾斜地に10数段にも及ぶ多数の帯曲輪群が築かれている。しかしこの帯曲輪群には、木が乱伐され、伐った丸太を乱雑に放置しているため、遺構がわかりにくくなってしまっている。しかも表土が崩され、遺構が損壊している部分もある。山梨県は元来山の国なので、山の手入れには気を遣っていると思っていたのだが、この状況はちょっといただけない。山頂には北側に腰曲輪を伴った主郭があり、前述の通り蜂城天神社が建っている。神社の後ろには土塁が残り、その後ろには土塁で囲まれた小さな窪地がある。ここから南東の尾根には浅い二重堀切と単発の堀切1本が穿たれ、更にその先の尾根には削平された痕跡が残り、脇には帯曲輪が築かれている。以上が蜂城の遺構で、縄張り的に技巧性はなく、主郭の前面の緩斜面を夥しい数の帯曲輪で防御しただけの、古風な縄張りの城である。尚、『日本城郭大系』の縄張図では多数の竪堀があるように描かれているが、実際にはほとんどはっきりせず、竪堀とは認識できないものがほとんどだった。
大手の長い竪堀→DSCN6801.JPG
DSCN6817.JPG←帯曲輪群
主郭後部の土塁→DSCN6855.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.636398/138.719398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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茶臼山烽火台(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6744.JPG←西尾根の堀切
(2021年2月訪城)
 茶臼山烽火台は、歴史不詳の城砦である。伝承では、勝沼氏の詰城であったとも言われる。勝沼氏は郡内小山田氏の目付であったので、勝沼氏がこの烽火台の管理に当たったとの説もある。また位置的には笹子口に備えた烽火台と推測されている。

 茶臼山烽火台は、標高948m、比高440m程もある峻険な山上に築かれている。以前は西麓から登山道が整備されていたが、近年の台風による倒木などで荒れており、登山道入口に「倒木危険 登山禁止」と掲示されている。茶臼山に登った人がネットに載せている記録の中に、本来の登山口から更に林道を奥に進み、標高670m付近から登ったものがあったので、そのルートを辿ることにした。しかし実際に訪れてみると、その付近では山林伐採が現在進行形で進んでいて、わずかにあるとされた踏み跡は、荒れ果てたガレ場に変貌していた。従って、道も消失しており、きつい斜面を高さ200mも直登することになった。そんなわけでキャッスリング上級者向けの城砦であることを最初にお断りさせていただく。苦労してようやく標高850m付近の尾根に出て、そこからは尾根に沿って東に登っていけば、やがて烽火台に至る。しかしこの尾根上も倒木が多数あった。また私が斜面直登で登り付いた地点から西の尾根は倒木でジャングルジム状態になっており、元の登山道は登攀困難だと思う。山上の烽火台は、小規模な城砦で、主郭の周囲に腰曲輪が廻らされ、東と北東の尾根には1本ずつ堀切が穿たれ、南の尾根だけ2本の堀切が穿たれている。縄張りとしてはそれだけの、単純な構造である。主郭には「大龍王」の石碑が建っているが、これは雨乞いのものであるらしい。遺構はよく残っているが、各曲輪の内部や堀切にも根こそぎ倒れた木がたくさんあり、城内はかなり荒れてしまっている。最近の連年の自然災害により、こうした城郭遺構が失われていく危機を目の当たりにした思いである。
山頂の主郭→DSCN6766.JPG
DSCN6764.JPG←主郭周囲の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.636189/138.738452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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吉田城山(山梨県富士吉田市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6677.JPG←土塁のある主郭
(2021年2月訪城)
 吉田城山は、まだ駿河の今川氏親の大将として活動していた伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が、甲斐侵攻の際に布陣した城である。『勝山記』によれば1502年9月18日、甲斐に侵攻した宗瑞は、吉田城山と小倉山に布陣した。20日には合戦が行われた。武田信縄は国内勢力を動員して対抗し、宗瑞は10月3日夜に退陣したと言う。この甲斐侵攻は、武田氏の内訌への今川氏による介入に基づくものと考えられている。また1515年には上野城主大井信達が武田信虎に反旗を翻して内戦が起こり、翌16年7月に大井氏に呼応した今川勢が甲斐に侵攻して吉田城山を占拠したと言う。その後、小山田氏の部将小林宮内丞が吉田城山の奪還を図り、武田勢の総攻撃も加わって今川勢は1517年正月に撤退した。

 吉田城山は、鎌倉往還(現在の国道138号線)の北側に位置する標高874m、比高40m程の南北に長い丘陵上に築かれている。この山は、南方の忍野鐘山、小倉山と共に、吉田地域へ入る東南の関門の役割を果たしていた。吉田城山の丘陵は、南半分がホテルの跡地となっていて破壊されている。しかしそれより北側に遺構が残っている。特に明確な登道はないが、私は北端から登城した。ここだと、すぐ近くにベイシアがあるので、そこの駐車場に車を停めることができるので便利である。但しスーパーが近いため、すぐ脇を通る車道は車の通行量が多いので、丘に取り付く際に怪しまれないように注意しないといけない。北端部は細尾根になっているが、段曲輪らしい平場が何段かあり、形状はややはっきりしないが虎口らしい地形も見られる。尾根を登って南に進むと、広い平坦地が広がり、その中央に切岸で囲まれた二ノ郭がある。二ノ郭とその南の尾根の東側には帯曲輪らしい平場がはっきりと確認できる。更に南に進むと、途中に堀切状の窪みがあり、その南に3段ほどの平場群があり、最上段が主郭と考えられる。主郭の後部には土塁が築かれ、背後に切岸があり、そこから東に向かって片堀切が落ちている。しかしその南のホテル跡地は伐採が進んでいて、どうも何かの建設が行われそうな感じである。伐採が主郭の際まで迫っているので、遺構の破壊が心配である。遺構としては以上であるが、実はこれらの一部は、後世の耕作・植林のために削平された可能性があるらしい。破壊された部分もあるので、全体としてどのような縄張りの城だったのか、明確でないところがあることは留意すべきである。
二ノ郭と腰曲輪→DSCN6626.JPG
DSCN6664.JPG←堀切状の窪み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.470570/138.802718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名・伊勢宗瑞 (角川選書)

戦国大名・伊勢宗瑞 (角川選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/08/26
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忍野鐘山(山梨県忍野村) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6564.JPG←東の堀切と虎口
(2021年2月訪城)
 忍野鐘山は、鐘撞堂を備えた烽火台であったと推測されている。山裾を鎌倉往還(現在の国道138号線)が通っており、北方1.6kmにある吉田城山、西方1kmにある小倉山と共に街道を監視する要地であった。この付近では、1495年、1502年と駿河今川氏の大将として伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が甲斐に侵攻して布陣しており、忍野鐘山も陣場になったと言われている。また鐘山の山裾にある熊野大権現の社伝では、この地は今川・武田両軍が戦った城山古戦場であったとあり、戦没者供養塔も建てられている。

 忍野鐘山は、杓子山から続く山地の西端部の比高50m程の小山に築かれている。前述の通り南西麓に熊野大権現があり、そこまで車で行くことができる。大権現の背後の山が忍野鐘山の西尾根の曲輪に当たり、高さ10m程度なので大権現裏の斜面を直登した。鐘山と言うが普請は山城そのものである。山頂の三角形の主郭を中心に、西・北・東の三方の尾根に曲輪を配した縄張りとなっている。登ってきた西尾根は主郭と斜面だけで区画され、尾根上は2段の平場で構成されているが、段差の切岸はあまり明瞭ではない。しかし北・東の曲輪は普請がしっかりしており、主郭北では堀切が穿たれ、その先に縦長の北1郭があり、更にその北に堀切が穿たれて北2郭が構築されている。この北郭群の東側から東郭の北側にかけて大きな腰曲輪が築かれている。前述の北郭群の2本の堀切の東端部は、いずれもこの東腰曲輪に接続している。主郭東側も堀切で区画されているが、堀切の手前に内枡形の虎口が構築されている。このことから東尾根が大手であったことがわかる。東の堀切の先には東郭が置かれている。また堀切の北端は東腰曲輪に接続している。以上が忍野鐘山の遺構で、堀切は中規模でしっかりと穿たれている。城の北にある通りは「鐘山通り」と言うなど周辺地名にその名が残っている。
 尚、北西麓にはクレー射撃場があるため、山の西側には「立入禁止キケン」と書かれたロープが張られている。西側にはあまり近づかない方が良いだろう。
東腰曲輪→DSCN6546.JPG
DSCN6541.JPG←東腰曲輪から見た堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.457830/138.807846/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
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谷村烽火台(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6434.JPG←烽火台跡のピーク
(2021年2月訪城)
 谷村烽火台は、郡内の領主小山田氏が築いた烽火台と考えられている。西麓の谷村には小山田氏の居城谷村城があり、1532年に小山田越中守信有が中津森館から谷村城に居城を移して以後、郡内地方の政治の中心地となった。構築時期は不明であるが、その立地は谷村防衛の上で欠くことのできない位置にあることから、小山田氏の勢威が強かった頃に、急を郡中に告げる烽火台であったと推測されている。

 谷村烽火台は、標高658mの蟻山(音岩、茶臼山、獅子岩などとも呼ばれる)に築かれている。ただでさえ狭い山頂には、現在電波塔・テレビ中継施設が所狭しと建てられており、主郭部の遺構はかなり改変を受けている。蟻山の登山道はいくつかあるようだが、北西の尾根筋から登るのがわかりやすい。登り口は尾根先端北側の金毘羅神社の脇にある。ここから登っていくと、尾根上に至るが、尾根先端付近は平場になり、側面には腰曲輪状の平場があり、遺構である可能性がある。またここから東に登っていくと、途中の標高562mの峰やその先に曲輪・堀切・物見台らしい地形も見られ、これらも遺構である可能性がある。もしこれらが本当に遺構であるとなると、かなり広い範囲を城砦化していたことになる。そのまま尾根伝いに登っていくと、標高620mの峰辺りから城域に入る。蟻山の北尾根には、物見台状のピークや細尾根の平場があり、途中に合計3本の堀切が穿たれている。主郭は蟻山山頂にあるが、前述の通り電波塔などが建っていて、その背後に当たる東側のピークが烽火台跡と現地表記されている。烽火台のピークから西に向かっては大きく地形が傾斜しており、そこに電波塔・テレビ中継施設が建っているが、建設の際に削平したのか、元々遺構として曲輪群があったのかはわからない。上段のテレビ中継施設の西側にわずかな石列・石塁があるが、遺構の可能性がある。主郭の北から東にかけて数段の腰曲輪が築かれている。東側では2段の腰曲輪の下に舌状曲輪が伸び、その先を堀切で区画している。その先は細尾根となっている。この他、主郭の南西にも腰曲輪がある可能性があるが、改変が多くはっきりしない。以上が谷村烽火台の遺構で、普請の形跡ははっきりしているが、他の郡内地方の烽火台と比べると堀切が比較的多い一方で、曲輪が小規模で少々見劣りする。『甲斐の山城と館』では小山田氏の要害城(詰城)との見解を示しているが、遺構の規模から考えると少々無理がある見解の様に思う。
北尾根の3つ目の堀切→DSCN6395.JPG
DSCN6446.JPG←腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.552471/138.916100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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猿橋の城山(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6289.JPG←二ノ郭、奥は主郭
(2021年2月訪城)
 猿橋の城山は、歴史不詳の城砦である。西方には隣接するように駒橋御前山砦があり、西北西3.4kmの位置に岩殿城がある。猿橋の城山は東方の桂川流域の監視を担い、急を岩殿城へ伝えたと推測されている。

 猿橋の城山は、標高544.5m、比高210m程の山上に築かれている。城郭本などでは東麓の妙覚寺の裏から登るルートを紹介しているが、北麓から北西尾根に取り付いて登る登山道が整備されており、そちらを登った方が良い。妙楽寺ルートは、山頂近くで道が消失しているからである。北麓ルートは、猿橋小学校の西の脇を登る車道を南に登っていき、突き当たりの笹薮に埋もれかけた柵にある出入口が登り口となっている。小学校北側の県道脇には「天王山参道」と書かれている。前述の柵を入っていくと、西に登っていくルートとなり、その後は城山の北西の尾根を直登するルートとなる。途中に小祠を祀った神社があるが、その先は岩場の登りとなる。途中に傾斜のきつい登りもあり、健脚者向きの城砦である。城域北端の岩場を越えると、何本かのアンテナが立つ細尾根の平場があり、その背後に堀切がある。その先をちょっと登れば主城部に至る。猿橋の城山は頂部に主郭を置き、北に二ノ郭、北西に腰曲輪を配置し、東にやや降ったところに東郭がある。いずれの曲輪もきれいに削平されており、主郭の後部には櫓台のような土壇があり、ここに三角点が設置されている。主城部は杉林で覆われていて眺望が利かないが、城域北端の岩場は物見台であったらしく、ここからは岩殿城と駒橋御前山砦を間近に見ることができる。城砦としては規模が小さいが、ここも普請の手はしっかりと入れられており、重要な軍事施設であったことがうかがわれる。
主郭の櫓台状の土壇→DSCN6309.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.607164/138.982383/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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駒橋御前山砦(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6217.JPG←山頂の御前岩と富士山
(2021年2月訪城)
 駒橋御前山砦は、歴史不詳の城砦である。『甲斐国志』では、郡内地方に多い「御前山」と呼ばれる山は、いずれも烽火台跡であろうとしており、駒橋御前山砦も烽火台跡と考えられている。但し『甲斐の山城と館』では、駒橋御前山砦がかなり高所に築かれていることから、単なる桂川流域での情報伝達ではなく、桂川流域から山影になる地域へ情報伝達する必要性からこの山が選ばれたと推測している。即ち、小沢川の谷筋から朝日地区・都留地区への重要な間道があり、その道筋の村々への伝達が必要であったとの見解を示している。

 駒橋御前山砦は、標高730m、比高380mの峻険な山上に築かれている。北西の谷筋の奥の標高400m地点まで車で行くことができ、そこから国土地理院地形図にも描かれている登山道が整備されているので、迷わず登ることができる。ちなみに標高400m地点までのアクセスは、大月バイパス駒橋交差点西側のオーバーブリッジの道を登るのが良い。この道は一部未舗装路となるが、途中からまた舗装路になり、道幅もしっかりしている。一方、駒橋交差点の50m東にも登道があるが、このルートは道幅が狭くSUVやミニバンは通ることができないだろう。
 車道の奥の登り口(厄王山の鳥居がある)から高さ150m程登ると、駒橋御前山の北尾根に到達する。ここに浅い片堀切が穿たれている。そこから更に登っていくと、厄王山の祠を経由して駒橋御前山の西の尾根に至る。砦はそのすぐ目の前にある。頂部に南北に長い主郭を置き、その北に舌状の二ノ郭、また主郭の西斜面に腰曲輪と、西尾根に三ノ郭を配置した縄張りとなっている。主郭の背後には御前岩と呼ばれる岩塊があり、そこが山頂となる。御前岩からの眺望は最高で、富士山もよく見えるし、桂川流域も一望できる。自然の岩塊のままなので、そのまま物見として使われたのだろう。主郭内部には塚状の土壇と穴蔵状の窪地がある。二ノ郭は主郭と切岸で区画され、西に竪堀が落ちている。二ノ郭の北は自然の細尾根である。主郭西の腰曲輪は、中間に竪堀状の一段低い窪地があり、即ち曲輪内部を段差で区画している。三ノ郭の基部の南北には竪堀が落ちている。遺構としてはこれだけで、簡素な城砦であるが普請は明瞭である。
二ノ郭と主郭切岸→DSCN6243.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.602070/138.960282/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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比志城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6120.JPG←二ノ郭の上にそびえる主郭
(2021年2月訪城)
 比志城は、比志の城山、比志の烽火台とも呼ばれ、塩川流域に築かれた烽火台の一つである。ここから信州峠を越えて信濃佐久に通じる小尾街道が通り、南には大渡烽火台獅子吼城、北には前の山烽火台があり、信濃の情報を伝達する烽火通信の重要な中継地点でもあった。近くの比志神社の造営に関係したのは土豪の日向大和守是吉の一族とされ、東麓の徳泉寺には日向大和守兼繁の墓があるので、比志城も日向氏との関係が深いと考えられている。

 比志城は、徳泉寺の北東にそびえる標高909.6m、比高130m程の城山に築かれている。市の史跡となっているが、現在明確な登道は途絶している。徳泉寺の奥に登っていく林道の途中から薮を突っ切って北にトラバースし、背後の尾根に取り付いて登れば城に至る。南北2郭しかない小城で、尾根を登っていくと最初に現れるのが舌状の二ノ郭である。その上にそびえるのが主郭で、不等辺四角形をしており、秋葉神社と三角点がある。二ノ郭に通じる虎口にわずかに土塁の痕跡があるが、ほとんどただの平場である。比志城は大渡烽火台よりも普請はわずかで、城というより単なる烽火台という方が合っていると思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.845013/138.492697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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大渡の烽火台(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6094.JPG←土塁のある主郭
(2021年2月訪城)
 大渡の烽火台は、塩川流域に築かれた烽火台の一つである。ここから信州峠を越えて信濃佐久に通じる小尾街道が通り、また南の小森川上流の岩下集落から観音峠を越えて御岳方面に通じる間道があり、それらを押さえる交通の要地であった。烽火台のある山の背後を鳥井峠が通っており、峠道を押さえる砦でもあり、小尾衆が管掌したと推測されている。ここから南には獅子吼城、北には比志城前の山烽火台があり、信濃の情報を伝達する烽火通信の重要な中継地点でもあった。

 大渡の烽火台は、塩川曲流部に東から突き出た城山に築かれている。県道23号線の鳥井坂トンネルの上に当たる。東の尾根鞍部を貫通する鳥井峠の古道が残っており、そこから尾根に取り付いて登れば城域に至る。山頂に東西北の三方を土塁で囲んだ細長い主郭を置き、その東尾根に何段もの腰曲輪を築いている。主郭内には秋葉社などの祠5基と石灯籠1基がある。また主郭の西側には堀切が穿たれ、その先に細尾根が伸びている。堀切を南に下ると主郭の下を迂回する武者走りが残っており、東側の腰曲輪に通じている。小規模な城砦であるが普請は明瞭で、重要な役割を負っていたことがうかがわれる。
主郭西側の堀切→DSCN6093.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.843186/138.482312/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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獅子吼城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5827.JPG←二ノ郭外周の石積み
(2021年2月訪城)
 獅子吼城は、北条・徳川が争った天正壬午の乱で、徳川勢が攻め落とした城である。徳川方の記録には江草小屋と記載されている。元々、鎌倉末期には信田小右衛門実正・小太郎実高父子の居城であった。応永年間(1394~1428年)には武田信満の3男江草兵庫助信泰(信康)の居城となった。しかし信泰は若くして没し、その跡を弟の今井信景が継ぎ、以後今井氏が続いた。1532年、武田信虎は獅子吼城を落城させ、城主今井信元は信虎に臣従した。武田信玄の時代には烽火通信の重要な中継地点であった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に武田遺領をめぐって北条・徳川が争った天正壬午の乱の際には、若神子城に本陣を置いた北条氏が、後方守備と信州峠を越える街道を扼する拠点として兵を置いて押さえていた。しかし徳川勢との長期対陣中の9月初旬、武田氏遺臣の津金衆小尾監物祐光・津金修理進胤久らと服部半蔵正成率いる伊賀衆で構成された徳川方の別働隊によって奇襲されて陥落した。北条方は直ちに3000余の軍勢で奪還を図ったが、津金衆・伊賀衆は逆に不意打ちして撃退した。これに先立って大豆生田砦が陥落しており、更に獅子吼城の失陥によって北条方の中尾城は徳川方に囲まれて完全に孤立することとなった。逆に徳川方は獅子吼城を確保したことで、信州峠を越えて佐久方面へ侵攻することが可能となり、佐久の北条方諸城を攻略して北条方の補給路を断った。更に真田昌幸の離反によって窮地に陥った北条氏は、徳川氏と和睦して乱が終結した。

 獅子吼城は、塩川東岸にそびえる標高788.8m、比高140m程の城山に築かれている。以前は東の尾根から登れたらしいが、現在は西麓から新しい登山道が整備されている。岩山に築かれた城であるため、城内と周辺には多数の石が散乱しており、石垣も多数散在している。但し一部を除いて積み方は乱雑なものが多いので、あまり石積み技術を持たなかった北条勢力が、城の防備を強化した際に築いたものとも考えられる。縄張りは長円形の主郭の周囲に二ノ郭を廻らし、南西と北西の尾根に腰曲輪群を築いている。これらの切岸には石積みが多数見られ、石段で城道を構築しているため、城内通路がよく残っている。北東の腰曲輪群の先には円弧状横堀が穿たれ、堀は南側で一直線状に降っている。この横堀は、末端に綺麗な枡形虎口が構築されており、城内通路を兼ねていたことがわかる。横堀の北側下方にも何段かの腰曲輪が築かれ、竪土塁・竪石塁が見られる。城の背後に当たる東尾根にも曲輪群と堀切がある他、北側斜面に大きな竪堀も落ちている。獅子吼城は、「小屋」と言われるほど小規模な城ではなく、縄張りも比較的技巧性があり、中々見応えがある。
石積みのある腰曲輪群→DSCN5867.JPG
DSCN5904.JPG←北東の円弧状横堀
竪堀→DSCN5999.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.818570/138.465446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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星になった、てんちゃん [日記]

私事ですが、今日の未明、
うちで飼っていたセキセイインコのてんちゃんが病気で亡くなりました。
うちに来てから2年という、あまりにも早すぎるお別れでした。
家族の一員でしたし、愛娘だったので、ものすごくショックを受けています。
ですので、今日から1週間、ブログはお休みさせていただきます。
記事を楽しみにされている方には誠に申し訳ありません。
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旭山砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5731.JPG←主郭虎口
(2021年2月訪城)
 旭山砦は、1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際に、小田原北条氏が築いた陣城である。元々この地には武田氏の烽火台があったと言われる。本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。以後、同年10月下旬に両者で和睦が結ばれるまで、2ヶ月半に渡る長期対陣となった。この間、両者によって多数の城砦が修築、或いは新造された。旭山砦は、この対陣中ではなく、和睦成立後に北条方が信濃に軍を撤退するに当たって、背後を監視するために築いたと伝えられる。しかしこれを知った徳川家康は、和睦をしたばかりなのに砦を築いて敵意を示すとは言語道断と怒り、全軍に北条軍追撃の準備を命じた上で北条氏直に使者を派遣して砦普請を詰問させた。氏直は家康に陳謝し、旭山砦を放棄したと言う(平山優著『天正壬午の乱』)。

 旭山砦は、標高911.8mの旭山に築かれている。旭山は佐久往還を押さえる要地で、なだらかな丘陵地で要害性が高いとは言えないが、南の敵勢に備えるには絶好の位置にある。砦のすぐ北の尾根まで車で行くことができ、散策路もあるので訪城は容易である。南北2郭で構成され、北側が主郭、南側が二ノ郭となっている。自然地形を土塁と切岸で囲んだ城砦で、内部の削平は甘く、二ノ郭では西に向かって大きく傾斜している。主郭は北側に横堀を穿ち、南側に土塁を築いた南北に長い曲輪で、西と東には帯曲輪が廻らされている。主郭内はほとんど削平されておらず、地山のままである。南中央に虎口があって、二ノ郭に通じている。二ノ郭は直線的な塁線で囲まれた曲輪で、外周に土塁を築き、更にその外側に空堀を穿ち、南東部には横矢の張出しを設けている。前述の通り二ノ郭は西に大きく傾斜しているため、南西部の土塁・空堀も傾斜に沿って降っているため、竪土塁・竪堀状となっている。虎口は東西の中央部と南東の張出し部側方の3ヶ所に築かれている。現在残る遺構は、見るからに築城途中で放棄された状況を示しており、北条・徳川両氏の和睦成立後に短時日で築城・放棄されたことが事実であることがわかる。尚、旭山砦は散策路があるものの全体に薮が多いのが少々残念である。
二ノ郭南西の土塁・空堀→DSCN5686.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.853587/138.427187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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源太ヶ城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5553.JPG←主郭群
(2021年2月訪城)
 源太ヶ城は、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の孫、逸見冠者黒源太清光が創築したと伝えられる。佐久往還を押さえる要衝で、戦国時代には古宮城を本拠とした津金衆が詰城としていた。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に武田遺領をめぐって北条・徳川・上杉3氏が争った天正壬午の乱の際には、若神子城に本陣を置いた北条氏の後方守備の拠点となったと考えられている。

 源太ヶ城は、大門ダムによって形成された清里湖の南にそびえる、双峰の源太山に築かれている。ウッドペッカー・キャンプ場を抜ける車道が山の南東中腹まで付いており、そこからは歩きになるが、登山道が峰の近くまで整備されているので訪城は容易である。東西に並んだ双峰にそれぞれ独立した曲輪群が築かれている。東が主郭群、西が二ノ郭群で、いずれの曲輪群も頂部の曲輪を中心にその周囲にわずかに削平された腰曲輪・段曲輪を連ねただけの簡素な構造で、普請もささやかなものである。主郭群は、北東と南東の二方向に段曲輪群が築かれている。二ノ郭群は北西の尾根にだけ段曲輪群が連ねられている。両曲輪群を比較すると二ノ郭群の方が曲輪が広く、切岸などが明瞭である。以前は二ノ郭に模擬烽火台が建っていたが、現在は解体された残骸だけが残っている。この他、主郭群・二ノ郭群の間の鞍部には堀切が穿たれている。現状の遺構を見る限りでは、天正壬午の乱の際に使われたにしても、街道を押さえるための守備兵を置いただけで、積極的な普請はされていなかった様である。古い形態を留めた城である。
二ノ郭群→DSCN5571.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.870699/138.442787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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筑前原の塁(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5501.JPG←わずかに残る土塁
(2021年2月訪城)
 筑前原の塁は、歴史不詳の遺構である。伝承では堀田筑前という武士の居宅跡とも言われるが、定かではない。城郭遺構であるかどうかも不明で、近くには甲斐国分寺・国分尼寺があり、古代甲斐国の政治・文化の中心地であったことから、古代の官邸跡との見方や古代の軍団駐屯地の跡との見方もある。

 筑前原の塁は、一宮西小学校の南に遺構の一部が残っている。往時は東西約140m、南北約90mの範囲に縦横に土塁が残っていたというが、現在はわずかな範囲に二重土塁が残存しているに過ぎない。残っている土塁も未整備の竹薮になっているので、全体形状はよくわからない。謎の多い遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.647035/138.680645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:塁跡
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小山城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5463.JPG←南東の隅櫓台
(2021年2月訪城)
 小山城は、武田氏の一族穴山氏が城主であった城である。1450年には穴山伊豆守が小山城主で、武田信重が黒坂太郎を討伐中に、小石和の信重館を攻撃し、信重を自刃に追い込んだ。その後、1504年には穴山伊予守信永が小山城主であり、1523年3月に鳥坂峠を越えて侵入してきた南部下野守と花鳥山で戦った後、小山城で防戦したが、二ノ宮常楽寺へ落ち延びて自刃した。その後、小山城は南部氏に守られていたが、1548年に罪を得て城を捨て、小山城は一旦廃城となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、御坂城から徳川勢の背後を窺う北条氏の別働隊(北条氏忠隊)に対し、新府城に本陣を置いた徳川家康は鳥居彦右衛門元忠に小山城を修築させ、騎馬130・雑兵600人をもって守らせたと言う。元忠は、小山城から出撃して御坂城の北条勢を黒駒合戦で討ち破り、徳川氏の優勢を決定付けた。

 小山城は、笛吹川の支流浅川扇状地の北端の緩斜面上に築かれている。この地は、鎌倉街道の通る御坂路と鳥坂峠を越える若彦路が南北を通り、西にある中道往還(甲斐・駿河を結ぶ重要街道)にも近い交通の要衝である。大土塁で囲まれた方形城で、南辺の土塁の一部が削られているものの、遺構がよく残っている。市の史跡に指定され、公園化されている。東側に虎口が開かれ、外周には空堀がよく残っている。空堀の外には、東以外の3面に土塁も築かれていて、いわゆる比高二重土塁となっている。特に北側では、外土塁と空堀は周りの平地より高い位置に築かれていて、腰曲輪の様になっている。北西と南東の角には隅櫓台が築かれ、特に南東の櫓台は東に張り出して大手虎口に対して横矢を掛けている。なお、大手虎口には石組が残っていると解説板に書かれているが、どれのことか今一つよくわからなかった。
北側の空堀→DSCN5436.JPG
DSCN5442.JPG←西側の比高二重土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.617980/138.656548/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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勝山城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5360.JPG←丘陵東側の堀跡
(2021年2月訪城)
 勝山城は、甲斐・駿河を結ぶ中道往還を押さえる交通の要地に築かれた城である。郡内の勝山城と区別するため、曽根の勝山城とも呼ばれる。永正年間(1504~21年)に甲斐守護武田信縄の異母弟油川彦八郎信恵・同四郎縄美が勝山城に拠ったと伝えられる。信縄の父信昌は信恵を後継者に望んだが、信縄はクーデターを起こして実力で家督を継ぎ、信昌は隠居した。しかしその後も油川氏との間で家督をめぐる争乱は続き、一旦和睦するが、信縄が1507年に病死すると内訌が再燃し、結局1508年10月に信縄の後を継いだ若き信虎によって油川氏は滅ぼされ、乱が終息した。1515年、上野城を拠点に西郡一帯に勢力を持っていた庶流の大井信達・信業父子は駿河の今川氏親の援助を受けて、信虎に反抗した。信虎は大井氏討伐のため上野城を攻撃したが、大敗した。また大井氏を支援した今川勢は、郡内の吉田城や中道の勝山城に拠って信虎方に攻撃を加えた。しかし1517年、信虎は勢力を盛り返し、勝山城の今川勢を孤立させ、今川氏と武田氏が和睦し、大井氏も信虎に降った。1521年9月、今川氏の部将で遠州土方城(高天神城)主福島正成が1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻したが、この時勝山城は今川勢に占拠されている。時代は降って1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、中道往還を通って甲斐に入った徳川家康が、勝山城を修築し、服部半蔵に伊賀組を添えて守らせたと言う。

 勝山城は、標高271m、比高20m程の独立した低丘陵に築かれている。丘陵の東側は果樹園担っているが、それ以外は未整備の薮に埋もれている。南から果樹園となった腰曲輪を登る道があり、それを登っていくと丘陵の東側を南北に区画する幅広の空堀に至る。空堀の西端に虎口があり、その上に二ノ郭、更に先に主郭がある。主郭と二ノ郭は段差だけで区画されている。主郭はほとんど自然地形に近く、郭内はお椀状に傾斜している。主郭・二ノ郭の外周には腰曲輪が築かれているが、ほとんどが激薮に埋もれており、二ノ郭周囲の腰曲輪だけが果樹園となっていて形状が確認できる。北側の腰曲輪には竪堀があるらしいが、遠くから薮が凹んだ形になっていることでわかる程度である。勝山城は、歴史的に重要な城であるが、あまり大規模に普請された形跡がなく、縄張りにも見るべきものが少ない。ちょっと残念な城である。
虎口跡→DSCN5377.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.602402/138.596038/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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浅利与一館(山梨県中央市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5318.JPG←薮に埋もれた館跡碑
(2021年2月訪城)
 浅利与一館は、源平合戦で名高い浅利与一義遠の居館である。義遠は、甲斐源氏の源清光の十一男で、弓の名手であり、『平家物語』では壇ノ浦の戦いで遠矢で勇名を馳せた。佐奈田与一(義忠)・那須与一(宗高)とともに「三与一」と呼ばれたとされるが、那須与一については実在が証明されていない。浅利与一は、源頼朝の奥州合戦にも従軍して軍功を挙げた。

 浅利与一館は、浅利川西岸にある丘陵の北端にあったらしい。丘陵先端が一段低く抉れた台地となっていて、ここが居館伝承地となっている。北側の県道29号線脇に館跡の石碑があり、登道が付いているが、途中からは薮道になっていて、館跡の台地も耕作放棄地で一面の大薮に覆われている。薮の中にも館跡の石碑があるが、倒木で裏の解説文全体が見れないほど未整備となっている。台地内部は何段かの平場に分かれているが、薮がひどくて形状を追いきれない。台地の東端部に切通し状の登り口もあったが、これは耕作地の登道だったと思われ、遺構かどうかは不明である。結局の所、平場以外に明確な遺構は確認できなかった。
館跡の台地→DSCN5321.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.576349/138.549496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新版 平家物語(一) 全訳注 (講談社学術文庫)

新版 平家物語(一) 全訳注 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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最勝寺砦(山梨県富士川町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5185.JPG←二ノ郭背後の堀切
(2021年2月訪城)
 最勝寺砦は、歴史不詳の城砦である。古くから亭候(ものみ)を置いた場所と推測されている。

 最勝寺砦は、畔沢川と三枝川の合流点に西から突き出た比高120m程の山稜上に築かれている。南を通る県道420号線から、擁壁に架かった鋼製階段を登り、そこから山道を登っていけば砦に至る。但し階段の上は、尾根上に到達するまで急斜面で落ち葉が多く道も崩れている。従って滑落の危険性があり、キャッスリング上級者向けの城であろう。尾根上には緩斜面が広がっており、いくつかの平場に分かれ、部分的に石積みが見られる。これらは三ノ郭群と考えられるが、昭和期まで耕作地が広がっていたので、どこまでが往時の遺構で、どこからが耕作による改変なのかはよくわからない。しかし形状としては城の腰曲輪の雰囲気を漂わせており、往時の曲輪をそのまま耕作に転用している可能性もある。三ノ郭群の奥には斜面がそびえ、その上に物見台状の二ノ郭が築かれている。その裾に当たる、三ノ郭群の西端部にも石積みが見られる。二ノ郭は、後部に土塁を築き、背後に堀切を穿った独立性の高い物見台で、周囲に腰曲輪も築かれている。本格的な城域はここから始まる。堀切の西側には尾根上に曲輪が続き、奥の一番高い所に主郭がある。主郭の背後の鞍部には浅い二重堀切が穿たれている。その先の尾根にも掘切が穿たれて城域が終わっている。一方、主郭の南側には腰曲輪が付随しており、ここから南斜面に多数の腰曲輪群が築かれている。ここにも石積みが散在しているが、耕作に伴うものかどうかははっきりしない。以上が最勝寺砦の遺構であるが、各所に残る石積みは縄張り的には不合理はなく、往時も砦の番士によって耕作されていた可能性も考えられ、遺構である可能性も十分あると思う。
主郭背後の二重堀切→DSCN5219.JPG
DSCN5266.JPG←南腰曲輪群の石積み(耕作地跡?)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.551179/138.441821/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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須沢城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5094.JPG←城跡とされる広い緩斜面
(2021年2月訪城)
 須沢城は、1350年に生起した室町幕府の内乱「観応の擾乱」の際に、高師直の一族高播磨守師冬が滅亡した城である。城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる逸見孫六入道と言われている。これより先、足利尊氏の次男で幼少の基氏が関東の押さえとして鎌倉府に置かれ、その執事として尊氏党の高師冬と直義党の上杉憲顕の2人が就いていた。しかし観応の擾乱が生起して両党が争い始めると、関東でも1350年11月12日、上杉憲顕の子能憲(師直に殺された上杉重能の養子)が常陸国信太荘で師冬討伐に挙兵した。12月1日、憲顕も守護を務める上野国に下向して挙兵した。坂東八平氏・武蔵七党らは皆上杉方に付いた上、旗印であった基氏を直義党に奪われたため、寡兵の師冬は甲斐国へ落ちて須沢城に立て籠もった。1351年1月4日、上杉憲将が数千騎の軍勢を率いて師冬を倒すため、甲斐へ発向した。須沢城には上杉勢と下諏訪の祝部の軍勢が攻め寄せ、3日3晩の激戦の末に1月17日に64人の武者と共に自刃したと言う。

 須沢城は、御勅使川北岸にそびえる山地の上にある標高700m付近の広い緩斜面にある。この緩斜面は一面の畑となっており、明確な遺構は確認できない。南東に石祠の祀られた塚があるが、遺構かどうかは不明である。この横には倒れた解説板があるが、解説文は既に判読できない状態である。緩斜面の最上段には善応寺があり、観音堂の脇に城主のものとされる宝篋印塔が残っている。善応寺の寺伝では、高師冬滅亡の際に善応寺も被害を受けたとあることから、南北朝期によくある寺院城郭であったのかもしれない。いずれにしても、現在では畑地の段以外に城跡を思わせるものはない。
南東にある塚→DSCN5095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.656538/138.409796/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高一族と南北朝内乱 (中世武士選書32)

高一族と南北朝内乱 (中世武士選書32)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/03/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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湯村山城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5038.JPG←主郭腰曲輪の石積み
(2021年2月訪城)
 湯村山城は、武田信虎が築いた山城である。『高白斎記』に1523年に信虎の命で築城されたことが明記されている。それに先立つ1519年8月~12月に躑躅ヶ崎館を築館して信虎は本拠を移し、1520年に要害城が、23年に湯村山城が立て続けに築城されている。このことは、躑躅ヶ崎館を中心とした府中防衛構想の一環として築城されたことを物語る。一方、信虎の築城以前からこの地に砦があったとの説もある。

 湯村山城は、躑躅ヶ崎館の西方2.3kmにある、標高446mの湯村山に築かれている。現在は東麓からハイキングコースが整備されており、地元の人が朝の運動で数多く登っている。城内は大きく3つの曲輪で構成されている。南に主郭・二ノ郭が東西に並び、その北側に三ノ郭が置かれている。『日本城郭大系』等の縄張図では、南西の曲輪を主郭としているが、南東の曲輪の方が高所にあるので、南東のものが主郭である。岩山を削って城としたため、各所に石積みが多数散在している。主郭・二ノ郭間は長い仕切り土塁で区画されている。主郭・二ノ郭の外周には土塁が築かれ、後部にも土塁が築かれている。二ノ郭では後部に枡形虎口が築かれ、虎口周辺には石積みが残っている。主郭・二ノ郭と三ノ郭の間は堀切で区画されている。三ノ郭には枡形虎口が堀切に接続する形で構築されているが、三ノ郭内部は岩が多く、物見以外に機能しない曲輪である。主郭の南東に虎口があり、その下方に2段ほどの腰曲輪が置かれ、塁腺に石積みがある。主郭・二ノ郭の南側にも腰曲輪が広がり、二ノ郭の西側には帯曲輪が築かれている。帯曲輪の西側下方には採石跡と思われる窪地があり、石塁もあるので遺構と勘違いしそうで紛らわしい。この他、三ノ郭の北側斜面に円弧状の腰曲輪が築かれて、尾根筋を防衛している。湯村山城は適度に整備されており、遺構が完存する一方で薮が少なく遺構が見やすい。
二ノ郭の枡形虎口→DSCN4962.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.684063/138.552318/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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穴山氏館(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4908.JPG←土塁らしい土盛り
(2021年2月訪城)
 穴山氏館は、武田氏の一族穴山氏の居館と伝えられる。穴山氏は、14世紀の中頃に武田信武の5男義武がこの地に分封されて穴山氏を称した。15世紀前半に南部氏の旧領であった河内地方に進出し、下山に居館を移した。『甲斐国志』によれば、次第窪・重久の間に桟敷場と呼ばれる地があり、そこが穴山氏の発祥の地であるとされる。

 穴山氏館は、七里岩台地の上の丘陵の一角にあったらしい。丘陵の西側登り口に標柱・解説板があり、そこから北東に向かって小道が伸びている。小道の先を行くと、『甲斐の山城と館』に記載されている土塁が確認できる。丘陵の北東辺縁部にも土塁らしいものが見られる。また、前述の小道は、丘陵東側で堀状になっている。これらが遺構であるかどうかは即断できないが、一応ここでは館跡の痕跡としておく。
堀状の小道→DSCN4924.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.765310/138.418272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本



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