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旭山砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5731.JPG←主郭虎口
(2021年2月訪城)
 旭山砦は、1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際に、小田原北条氏が築いた陣城である。元々この地には武田氏の烽火台があったと言われる。本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。以後、同年10月下旬に両者で和睦が結ばれるまで、2ヶ月半に渡る長期対陣となった。この間、両者によって多数の城砦が修築、或いは新造された。旭山砦は、この対陣中ではなく、和睦成立後に北条方が信濃に軍を撤退するに当たって、背後を監視するために築いたと伝えられる。しかしこれを知った徳川家康は、和睦をしたばかりなのに砦を築いて敵意を示すとは言語道断と怒り、全軍に北条軍追撃の準備を命じた上で北条氏直に使者を派遣して砦普請を詰問させた。氏直は家康に陳謝し、旭山砦を放棄したと言う(平山優著『天正壬午の乱』)。

 旭山砦は、標高911.8mの旭山に築かれている。旭山は佐久往還を押さえる要地で、なだらかな丘陵地で要害性が高いとは言えないが、南の敵勢に備えるには絶好の位置にある。砦のすぐ北の尾根まで車で行くことができ、散策路もあるので訪城は容易である。南北2郭で構成され、北側が主郭、南側が二ノ郭となっている。自然地形を土塁と切岸で囲んだ城砦で、内部の削平は甘く、二ノ郭では西に向かって大きく傾斜している。主郭は北側に横堀を穿ち、南側に土塁を築いた南北に長い曲輪で、西と東には帯曲輪が廻らされている。主郭内はほとんど削平されておらず、地山のままである。南中央に虎口があって、二ノ郭に通じている。二ノ郭は直線的な塁線で囲まれた曲輪で、外周に土塁を築き、更にその外側に空堀を穿ち、南東部には横矢の張出しを設けている。前述の通り二ノ郭は西に大きく傾斜しているため、南西部の土塁・空堀も傾斜に沿って降っているため、竪土塁・竪堀状となっている。虎口は東西の中央部と南東の張出し部側方の3ヶ所に築かれている。現在残る遺構は、見るからに築城途中で放棄された状況を示しており、北条・徳川両氏の和睦成立後に短時日で築城・放棄されたことが事実であることがわかる。尚、旭山砦は散策路があるものの全体に薮が多いのが少々残念である。
二ノ郭南西の土塁・空堀→DSCN5686.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.853587/138.427187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

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  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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