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忍野鐘山(山梨県忍野村) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6564.JPG←東の堀切と虎口
(2021年2月訪城)
 忍野鐘山は、鐘撞堂を備えた烽火台であったと推測されている。山裾を鎌倉往還(現在の国道138号線)が通っており、北方1.6kmにある吉田城山、西方1kmにある小倉山と共に街道を監視する要地であった。この付近では、1495年、1502年と駿河今川氏の大将として伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が甲斐に侵攻して布陣しており、忍野鐘山も陣場になったと言われている。また鐘山の山裾にある熊野大権現の社伝では、この地は今川・武田両軍が戦った城山古戦場であったとあり、戦没者供養塔も建てられている。

 忍野鐘山は、杓子山から続く山地の西端部の比高50m程の小山に築かれている。前述の通り南西麓に熊野大権現があり、そこまで車で行くことができる。大権現の背後の山が忍野鐘山の西尾根の曲輪に当たり、高さ10m程度なので大権現裏の斜面を直登した。鐘山と言うが普請は山城そのものである。山頂の三角形の主郭を中心に、西・北・東の三方の尾根に曲輪を配した縄張りとなっている。登ってきた西尾根は主郭と斜面だけで区画され、尾根上は2段の平場で構成されているが、段差の切岸はあまり明瞭ではない。しかし北・東の曲輪は普請がしっかりしており、主郭北では堀切が穿たれ、その先に縦長の北1郭があり、更にその北に堀切が穿たれて北2郭が構築されている。この北郭群の東側から東郭の北側にかけて大きな腰曲輪が築かれている。前述の北郭群の2本の堀切の東端部は、いずれもこの東腰曲輪に接続している。主郭東側も堀切で区画されているが、堀切の手前に内枡形の虎口が構築されている。このことから東尾根が大手であったことがわかる。東の堀切の先には東郭が置かれている。また堀切の北端は東腰曲輪に接続している。以上が忍野鐘山の遺構で、堀切は中規模でしっかりと穿たれている。城の北にある通りは「鐘山通り」と言うなど周辺地名にその名が残っている。
 尚、北西麓にはクレー射撃場があるため、山の西側には「立入禁止キケン」と書かれたロープが張られている。西側にはあまり近づかない方が良いだろう。
東腰曲輪→DSCN6546.JPG
DSCN6541.JPG←東腰曲輪から見た堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.457830/138.807846/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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