蜂城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]
←主郭背後の二重堀切
(2021年2月訪城)
蜂城は、武田氏一族の岩崎氏が詰城として築いた城と推測されている。岩崎氏は武田惣領家に匹敵する勢力を持った一族で、その事績は岩崎氏館の項に記載する。1457~8年の守護武田信昌と守護代跡部景家との戦いに巻き込まれて岩崎氏が滅亡すると、岩崎氏の遺領は栗原氏の支配下に入り、蜂城も栗原氏の管理下にあったと考えられている。
蜂城は、標高738m、比高290mの蜂城山に築かれている。主郭には蜂城天神社があり、そこへの参道が東麓から整備されているので、迷うことなく登ることができる。標高680m付近まで登ると鳥居があるが、その下方には長い竪堀が穿たれている。また鳥居の上は急に傾斜が緩くなっていて、この緩くなった傾斜地に10数段にも及ぶ多数の帯曲輪群が築かれている。しかしこの帯曲輪群には、木が乱伐され、伐った丸太を乱雑に放置しているため、遺構がわかりにくくなってしまっている。しかも表土が崩され、遺構が損壊している部分もある。山梨県は元来山の国なので、山の手入れには気を遣っていると思っていたのだが、この状況はちょっといただけない。山頂には北側に腰曲輪を伴った主郭があり、前述の通り蜂城天神社が建っている。神社の後ろには土塁が残り、その後ろには土塁で囲まれた小さな窪地がある。ここから南東の尾根には浅い二重堀切と単発の堀切1本が穿たれ、更にその先の尾根には削平された痕跡が残り、脇には帯曲輪が築かれている。以上が蜂城の遺構で、縄張り的に技巧性はなく、主郭の前面の緩斜面を夥しい数の帯曲輪で防御しただけの、古風な縄張りの城である。尚、『日本城郭大系』の縄張図では多数の竪堀があるように描かれているが、実際にはほとんどはっきりせず、竪堀とは認識できないものがほとんどだった。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.636398/138.719398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2021年2月訪城)
蜂城は、武田氏一族の岩崎氏が詰城として築いた城と推測されている。岩崎氏は武田惣領家に匹敵する勢力を持った一族で、その事績は岩崎氏館の項に記載する。1457~8年の守護武田信昌と守護代跡部景家との戦いに巻き込まれて岩崎氏が滅亡すると、岩崎氏の遺領は栗原氏の支配下に入り、蜂城も栗原氏の管理下にあったと考えられている。
蜂城は、標高738m、比高290mの蜂城山に築かれている。主郭には蜂城天神社があり、そこへの参道が東麓から整備されているので、迷うことなく登ることができる。標高680m付近まで登ると鳥居があるが、その下方には長い竪堀が穿たれている。また鳥居の上は急に傾斜が緩くなっていて、この緩くなった傾斜地に10数段にも及ぶ多数の帯曲輪群が築かれている。しかしこの帯曲輪群には、木が乱伐され、伐った丸太を乱雑に放置しているため、遺構がわかりにくくなってしまっている。しかも表土が崩され、遺構が損壊している部分もある。山梨県は元来山の国なので、山の手入れには気を遣っていると思っていたのだが、この状況はちょっといただけない。山頂には北側に腰曲輪を伴った主郭があり、前述の通り蜂城天神社が建っている。神社の後ろには土塁が残り、その後ろには土塁で囲まれた小さな窪地がある。ここから南東の尾根には浅い二重堀切と単発の堀切1本が穿たれ、更にその先の尾根には削平された痕跡が残り、脇には帯曲輪が築かれている。以上が蜂城の遺構で、縄張り的に技巧性はなく、主郭の前面の緩斜面を夥しい数の帯曲輪で防御しただけの、古風な縄張りの城である。尚、『日本城郭大系』の縄張図では多数の竪堀があるように描かれているが、実際にはほとんどはっきりせず、竪堀とは認識できないものがほとんどだった。
大手の長い竪堀→
←帯曲輪群主郭後部の土塁→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.636398/138.719398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1