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亀山城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0316.JPG←土塁で囲まれた主郭
 亀山城は、山田城とも言い、鎌倉初期に那須資隆の8男片田(堅田)八郎義隆によって築かれたと伝えられる。南西の平地には山田館(大関城)があり、義隆は山田館を平時の居館とし、亀山城を詰城としたと思われるが、後に片平城を築いて本拠を移し、以後は片平氏を称した。時代は下って戦国前期、那須氏が上・下那須両家に分裂していた時代に、上那須資親の実子資久は3歳で山田城(亀山城)に移され、山田次郎を名乗った。これは、既に白河結城氏から入嗣した資永が上那須氏の家督を継いでいたからであった。しかし資親は、資永を廃して実子資久に跡を継がせたいと思うようになり、重臣の大田原胤清・金丸義政に相談したが間もなく死没した。大田原・金丸両氏は資親の遺命を奉じて、資永のいる福原城を攻撃した。資永は、関義時・田川時法に命じて山田城を襲撃し、資久を奪取して福原城において刺殺した。このため山田氏は資久一代で滅亡したと言う。資久を殺した資永は自刃し、翌日、大田原氏らの攻撃によって福原城は落城した。しかし結果として資永・資久を失った上那須氏は断絶となり、下那須資房が跡を継いで両家を統一した。資房は、白河結城氏の攻撃に備えるため、1516年に山田城に子の政資を置いた。1520年、白河結城氏・岩城氏が山田城を攻撃し、これがきっかけで縄釣台(なわつるしだい)合戦が生起したと伝えられる。縄釣台合戦については不明点も多いが、那須氏が勝利したらしい。その後の亀山城の歴史は不明である。

 亀山城は、上那須家の滅亡に直接関わる重要な城であるが、城そのものは至って小さい。金丸氏要害のすぐ北西に隣接する比高50mの山上に築かれている。県道298号線と県道343号線が交わる片田交差点から少し南へ歩いた所に竹薮があるので、そこを突っ切って北西の尾根に取り付くと、小道が付いている。ほぼ単郭の城で、山上に主郭を置き、南西と北側に腰曲輪を設けただけの縄張りである。主郭が外周に土塁がよく残っており、北に大手虎口が設けられ、北東部に横矢の張出しが構築されている。また西と南西に南西の腰曲輪への虎口が2ヶ所築かれている。主郭の北側の腰曲輪は細長く伸びており、北東では横堀となっている。主郭の南東部は採石で土塁ごと消滅している。この他、北東から登る大手道には小郭らしい平場や竪堀が見られる。また北側の最下段には高台になった平場があり、根古屋があった可能性がある。小規模ではあるが普請がしっかりされており、横矢掛りなど戦国期の城の形態をよく留めている。
大手道脇の竪堀→DSCN0306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.815280/140.139939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史散歩

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