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金丸氏要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0405.JPG←主郭外周の横堀
 金丸氏要害は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の居城である。正平年間(1346~70年)に那須資藤の次男資国が金丸の地を与えられて金丸肥前守と称し、根小屋館を築いて居館とした。その後、応永年間(1394~1428年)に大関氏が根小屋館の北方に白旗城を築いて居城を移すと、金丸氏は亀山の地を与えられて要害を築き(金丸氏要害)、居城を移したと言う。永正年間(1504~21年)には、上那須資親の実子資久が3歳で山田城(亀山城)に移され、山田次郎を名乗り、金丸肥前守義政は大田原美作守胤清と共に資久を預かり養育したと言う。当時、那須氏は上・下那須両家に分裂しており、既に白河結城氏から入嗣した資永が上那須氏の家督を継いでいたが、養父資親は実子資久の後継を望み、このことが上那須氏を滅亡させることとなった。その経緯は福原城の項に記載する。尚、資久が山田城に入ったのは、金丸氏がわずか3歳の資久を庇護するため、居城のすぐ北に独立峰としてそびえる山田城が適地とされたためであろう。その後金丸氏は、下那須氏によって再統一された那須氏の家臣として各地の合戦に従軍した。しかし1590年の小田原の役の際、豊臣秀吉の元に参陣した大関高増は、金丸氏を家来として申し出たため、金丸氏の領地は大関領として秀吉に認められてしまった。一方で那須氏は改易されたため、以後金丸氏は大関氏の家臣となり、居城を捨て麓に移り住んだと言う。

 金丸氏要害は、標高201m、比高60mの丘陵上に築かれている。北の県道27号線から南に入る林道があり、未舗装路で少々荒れているが、車で城のすぐ脇まで行くことができる。主郭を中央に置き、北西に細長く伸びる二ノ郭を配し、南には三ノ郭・四ノ郭を配置した縄張りとなっている。いずれの曲輪も規模が大きい。主郭は至るところで塁線が内側に歪んでいて、複雑な横矢掛りを形成し、全周横矢とも言うべき構造になっている。主郭の東から北にかけては大規模な空堀が廻らされ、二ノ郭・三ノ郭との間は大きな堀切で分断している。主郭内には土塁や櫓台らしい土壇が築かれ、南西に築かれた主郭虎口には小規模な枡形虎口が構築されている。虎口の外側前面には高台の堡塁が置かれて、虎口に攻め込む敵兵を背後から攻撃できるようにしている。二ノ郭は基部に土塁が築かれ、東西に腰曲輪が廻らされている。西側の腰曲輪の一部は横堀となっている。主郭と二ノ郭の土塁配置からすると、両郭は木橋で連結されていたらしい。主郭南の三ノ郭は広大で、郭内は西側が一段低くなり、東西には横堀が構築されている。主郭と三ノ郭の西側にかけては広い腰曲輪が広がり、その南端部から北西に向かって堀底道が下っており、往時の大手道であったと考えられる。この大手道が腰曲輪に繋がる部分の北側には櫓台が築かれて、大手を厳重に監視している。三ノ郭の南には浅い堀切を挟んで四ノ郭がある。四ノ郭は南東に向かって3段に分かれ、徐々に降る形となっている。四ノ郭の南には台地基部を分断する堀切が穿たれ、更に南東の斜面に大竪堀が落ちている。以上が金丸氏要害の構造で、大型の横堀群を多用して防御を固めた、戦国期の城の姿をよく留めている。堀はほとんどが箱堀形状となっていて、幅を広く持たせているのもこの城の特徴である。ただ全体に薮がひどく、特に三ノ郭やその西の腰曲輪は激薮で、見栄えしないのが残念である。
堀底道となっている大手道→DSCN0560.JPG
DSCN0609.JPG←四ノ郭の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.812360/140.141033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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