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高林館(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4017.JPG←館跡付近の遠望
 高林館は、高林太郎左馬守が居住していたと伝えられている。その事績は不明であるが、左馬守の妻は塩原氏の出と言われ、3代後に常陸国大子に移ったと言う。

 高林館は、高林地区の「くさんど地蔵堂」と言う所にあったらしい。くさんど地蔵堂がどこなのか、よくわからなかったが、会津中街道の北側に杉林がこんもり茂った一角があり、『那須の戦国時代』の写真と見比べると、どうもその付近であるらしい。周りが全て広大な畑で囲まれていて近づく術がなく、遺構は確認できていないが、何も残っていないらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.982012/139.950585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東周辺歴史トレッキング 攻める山城 50城

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  • 出版社/メーカー: 山と溪谷社
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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千人桝(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4015.JPG←館跡付近の現況
 千人桝は、歴史不詳の城館である。『那須の戦国時代』によれば、九尾の狐退治の際に人数を測ったという伝説があるらしい。伝説はともかく、中世城館の一つと推測されている様だ。

 千人桝は、槻沢地区の平地にあったらしい。かつては「四角に掘られた桝の如き所があった」とされ、『那須の戦国時代』(平成元年初版発行)の編纂時点でもわずかに形跡があったらしい。現在では一面の水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。歴史ともども失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.908082/139.995260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


隠れた名城 日本の山城を歩く

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/07/02
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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佐良土宮内館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3979.JPG←館跡付近の現況
 佐良土宮内館は、那須資胤の家臣佐良土宮内少輔の居館である。『那須記』によれば、宮内少輔は薄葉が原合戦や資胤が大金備後守重宣を広瀬に攻めた時に活躍したと言う。また資胤の子資晴は、豊臣秀吉によって小田原不参の故を以って改易されて佐良土館に閉居することとなったが、後に資晴が大坂に伺候した際、足軽佐良土久助を伴ったと伝えられ、この久助は宮内少輔の所縁の者と推測されている。

 佐良土宮内館は、佐良土館の南西100m程の位置にある。民家裏の方形の畑となっているのが館跡と思われるが、堀跡も土塁も湮滅してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.788091/140.123019/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

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  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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狭間田城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3968.JPG←東から見た城跡付近
 狭間田城は、宇都宮氏の家臣狭間田小四郎の居城と伝えられている。1464年に小四郎が狭間田に移住して狭間田城を築いたと言われる。1597年に宇都宮氏が改易となると、家臣の小野政信が一族を率いて狭間田城に入部して帰農したと言う。

 狭間田城は、井沼川の西の微高地に築かれていたらしい。明治末期の耕地整理で遺構は完全に湮滅している。現在は宅地と水田となっている。今では正確な場所も不明であるが、東にわずかな段差がある微高地で、地勢は城の名残りを感じさせる。尚、城主狭間田小四郎の墓が、城の西側にある薬師堂の墓地内にお地蔵さんと並んで残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678306/140.014701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2021/11/18
  • メディア: 単行本


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桜野城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3961.JPG←城跡付近の現況
 桜野城は、宇都宮氏の家臣粕谷(糟谷)又左衛門の居城と伝えられている。那須氏の氏家侵略に対する前衛的な支城で、那須氏の侵攻に当たっては真っ先に攻撃対象となった。『氏家記録伝』によれば、五月女坂合戦の際に粕谷又左衛門は勝山城主氏家左衛門尉・飛山城主平石美濃守・子息能登守・嫡子佐渡守・馬場城主船生石茂四郎らと共に宇都宮勢の先陣を務めたが、那須勢と戦って敗退したとある。廃城は、勝山城と同じく1597年の宇都宮氏改易の時と推測されている。

 桜野城は、氏家市街地の東方の平地にあったらしい。江戸時代に水田となり、遺構は完全に湮滅している。その為城の規模も正確な位置も不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.681886/139.977665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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将門の首塚(栃木県宇都宮市) [その他の史跡巡り]

DSCN3953.JPG←首塚
 宇都宮市の旧河内町の下ケ橋地区には、平将門の首塚と伝えられる供養碑がある。将門縁故の者がこの地に遁れ、将門の怨霊を弔うために建てたものと伝わる。

 将門の首塚は、県道125号線と239号線が交わる東下ケ橋交差点の南東にある。馬頭観音堂の裏手にあり、覆屋のある供養碑が立ち、その脇に将門の事績を伝える石碑が建てられている。将門にまつわる史跡は関東各地にあるが、将門討伐で功のあった藤原秀郷の本拠があった下野国内では将門の史跡は珍しく、希少である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.651352/139.943032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

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  • 作者: 乃至政彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: Kindle版


タグ:墓所
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堀の内城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3935.JPG←北側の堀跡らしき水路
 堀の内城は、歴史不詳の城である。詳細不明であるが、宇都宮氏の家臣の居城と言われ、主家滅亡と共に廃城になったと言う。

 堀の内城は、日光宇都宮道路のすぐ西側を南北に走る車道脇にある。この小道は、旧日光街道であるらしい。城跡は民家となっており、堀の内という地名が残っている。民家の東と北には水路が流れているが、往時の堀跡であろうか。また北側の一部にわずかに土塁跡らしいものも確認できる。
尚、堀の内城のすぐ南に隣接する民家の敷地内に、源義経の家臣亀井六郎のものと伝えられる墓があるが、敷地の少し奥にあるので、遠目に見ることしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.656379/139.834757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

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  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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藤本館(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1557.JPG←南側の空堀跡
 藤本館は、高橋城とも言い、宇都宮氏の家臣高橋氏の居城である。伝承では、高橋氏は元々源頼朝の重臣で三河国を本拠としていたが、源氏滅亡に伴って三河を離れ、宇都宮氏9代貞綱に仕えたと言われる。その後、宇都宮氏13代持綱の時に帰農したと言う。

 藤本館は、姿川支流の小河川の東の段丘上に築かれている。現在、城主のご子孫の宅地となっている。南に空堀が穿たれ、門前には解説板が設置されている。宅地の東から北にかけて、南東部に横矢のクランクを設けた空堀が穿たれているらしく、傾斜量図で見ると規模が大きそうだが、夏場は薮に覆われていてほとんど確認できない。また宅地内には1376年の北朝年号のある宝篋印塔があり、城の古さを示すものと言う。尚、藤本館から少し南に離れたところに、高橋一族の大きな墓地がある。墓碑によれば、藤原南家流新里高橋家と称している。

【2023-6-15追記】
 その後、冬場に再訪して、ご主人の許可を頂いて東・北の空堀を確認した。薮がひどいが大きな空堀が穿たれていた。空堀の北西端部には、横矢掛かりの屈曲があり、櫓台が築かれている。またこれらの空堀の更に東にも外郭があり、その北と東に浅い空堀が巡らされている。木々に埋もれかけた宝篋印塔も、ようやくのことで見つけることができた。
北の空堀→DSCN1588.JPG
DSCN1663.JPG←宝篋印塔

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625525/139.826217/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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田中城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3890.JPG←土塁と空堀
 田中城は、宇都宮氏の家臣田中氏の居城と伝えられている。半蔵山丘陵の南東端の峯地区にある。段丘上の城で、かつては土塁と堀が約70m四方に構築されていたと言うが、ゴルフ場造成のための土取りによって破壊されてしまっている。城の中心部の西部には高台となった墓地があり、周りはそこより5m程低くなっていて、これが土取りによって削られた平坦面なのだろう。しかしこの低地の東には、削り残された土塁状の土壇があり、その東は数mの切岸があり、その下に南北に走る空堀が残っている。空堀の東には土塁も伴っている。これらの東にある山林は平坦な平場で、構造から見てここも城の一郭であったと考えられる。そこから推測すると、東西に並ぶ複郭の城であった可能性がある。また前述の墓地の西の山林内には腰曲輪と思われる平場も確認できる。ゴルフ場造成などという公共性の全くない、極めてくだらない理由のために破壊されてしまったことが悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.627471/139.815745/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2021/11/11
  • メディア: 単行本


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茂呂堀ノ内(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3871.JPG←民家周囲の切岸・土塁
 茂呂堀ノ内は、上師城に当たると推測されている。『那須記』では、1586年に宇都宮国綱に従う者として「上師城主山崎丹波守」が見え、『宇都宮記』では「上茂呂の城主山崎丹波守」とあると言う。即ち、茂呂堀ノ内は山崎丹波守の居城に当たると考えられている。

 茂呂堀ノ内は、茂呂山東麓の平地にある。現在は民家となっているが、この家は山崎家で屋号を「ホンノチ(堀ノ内の転訛)」と称するらしいので、おそらく山崎丹波守のご子孫の居宅なのだろう。かつてあった土塁や堀は消滅していると言うが、実際に現地を訪れると、宅地は周囲より一段高くなっていて、わずかに切岸や土塁の痕跡を残している。またこの民家の前面には立派な長屋門があり、城の雰囲気を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.546182/139.780276/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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北原城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3815.JPG←段丘縁にある民家
 北原城は、歴史不詳の城である。北原城の北方にある中城の伝承では、多気山城と北原城の間にあったことから、「中城」という名前が付いたと伝えられているので、北原城は宇都宮氏の支城であったと推測される。

 北原城の正確な位置はよくわからないが、『栃木県の中世城館跡』『宇都宮の旧跡』などの地図によれば、姿川と鎧川の合流点東側の段丘上に位置する民家付近であったと思われる。パチンコ店の南側で、付近を散策したが特に明確な遺構はなく、『栃木県の中世城館跡』でも「遺構なし」とされている。ただ、西側には段丘端部の切岸がある微高地であり、城があってもおかしくない地勢である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.575293/139.832568/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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中城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3803.JPG←クランクする土塁跡
 中城は、歴史不詳の城である。多気山城と北原城の間にあったことから、「中城」という名前が付いたと伝えられる。名前の由来からも、また勢力圏から考えても、宇都宮氏の支城であったのだろう。

 中城は、姿川と鎧川に挟まれた平地に築かれており、東側は鎧川に接している。方形単郭居館で、北・西に堀があったらしいが既に湮滅している。ソーラーパネルが設置されている平地の北側にクランクした鍵型の土塁が残っているのが唯一の現存遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.581599/139.828813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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高谷殿(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3783.JPG←わずかに残る土塁跡
 高谷殿は、この地の豪族高谷隼人の居館と伝えられる。昭和5年に建立された高谷殿の石碑の碑文によれば、遠江の松崎備中守光成の後裔松崎親直は浪人となり、下野国上都賀郡上粕尾の地に移住した。親直は、宇都宮城主宇都宮公綱に仕えて戦功を挙げた。高谷隼人の子孫の娘と結婚し、親直は隼人を氏神として祀り、人々は隼人を高谷殿と称したと言う。但し、地誌類にはこれらの記述は見えないと言う。

 高谷殿は、武子川東側の段丘上にある。かつては二重の堀で囲まれていたらしいが、近年の採土で遺構のほとんどが消滅し、わずかに空き地の中に土塁の断片が残っているだけである。この土塁の上に、前述の高谷殿の石碑が立っている。非常に残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.590438/139.764462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


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板荷堀之内(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3780.JPG←板荷堀之内付近
 板荷堀之内は、歴史不詳の城館である。『鹿沼の城と館』では、「城館跡と断定できるような遺構は現状ではみられないが、峠道を押さえる位置にあることや(堀之内という)地名などから、城館跡である可能性は高い」としている。またこの付近に代官所があったとの伝承もあるらしい。

 板荷堀之内は、県道149号線の北側の、北に山を背負った緩斜面にある。前述の通り、明確な遺構はないが、東の民家周囲に切岸と堀跡っぽい畑がある。また、堀之内から東にはずれたところにある民家は土塁で囲まれており、これも遺構なのであろうか?
 尚、南にそびえる山は、いかにも詰城があるのではないかと思わせるような地形にも見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.643123/139.693608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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鳥居戸館(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3763.JPG←土塁が残る鳥居戸館遠望
 鳥居戸館は、歴史不詳の城館である。北側から西にかけて土塁が残存しているが、『鹿沼の城と館』では、この周辺には土塁を廻らした民家が集中していたらしく、館跡と言うよりそうした民家の遺構と推測している。
 尚、鳥居戸館の北東にも土塁囲郭の民家があり、南東には「ホリノウチ」の屋号を持つ水路に囲まれた民家がある。しかしこれらもそのまま中世城館に遡るのは考えにくいようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.596916/139.729228/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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新城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3742.JPG←土塁
 新城は、歴史不詳の城館である。「新城」と言う地名が残り、城があったという伝承はあるらしい。現在は延蔵寺の境内となっているが、方形館の跡を寺に転用した可能性が指摘されている。寺の北から東には水路が流れ、南と西には土塁が残っている。但し、土塁の規模は小さく、城館の遺構として考えるには、少々無理があるように思う。謎が多く、後究を待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.593867/139.727554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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下沢館(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3726.JPG←民家の脇に残る土塁
 下沢館は、下沢城の城主居館と推測されている。下沢館に建っている民家は、屋号を「ホンノウチ」と言い「堀の内」のことであるのは論を俟たない。この民家の南北両辺には土塁が残っている。館の前面に当たる東側には、以前は空堀跡があったらしいが、現在は耕地化で湮滅している。館の背後には、下沢城のある山がそびえており、城があった当時の姿が浮かんでくるようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.581858/139.696333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木ゆかりの歴史群像―日本史上の人物と地域との関わり

栃木ゆかりの歴史群像―日本史上の人物と地域との関わり

  • 作者: 松本 一夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2021/11/03
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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村井城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3715.JPG←主郭の現況
 村井城は、鹿沼城主壬生綱重の3男資長が築いて居城としたと言われ、資長は大門氏を称した。資長の後は、その子図書助弥七郎資忠が継いで城主になったと言う。但し確証はないらしい。また、八幡太郎源義家が奥羽遠征の際に一夜にして築いたとの伝説があるが、もとよりただの伝説に過ぎないだろう。

 村井城は、小藪川西岸の低段丘の端に築かれている。大きく南北2つの曲輪で構成されており、南が主郭、北が二ノ郭と考えられる。古い航空写真を見ると、主郭・二ノ郭の間には一直線の空堀が穿たれていたが、現在は埋められてしまい、湮滅している。地籍図によれば、主郭の周囲には土塁があり、南辺部に横矢の折れがあり、その前面に馬出し状の方形区画があったらしい。しかしいずれの遺構も現在は耕地化・宅地化で湮滅している。結局、微高地周囲に残る段差だけが、城の名残を残すに過ぎない状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.546751/139.741555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


シリーズ旅する日本百選1 名城を訪ねる旅 東日本編 (シリーズ旅する日本百選 1)

シリーズ旅する日本百選1 名城を訪ねる旅 東日本編 (シリーズ旅する日本百選 1)

  • 出版社/メーカー: 東京ニュース通信社
  • 発売日: 2021/08/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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武内館(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3704.JPG←館跡付近の現況
 武内館は、歴史不詳の城館である。多功城を中心とする城館群の一つと推測されている。
 武内館は、下大領地区にあったらしい。姿川東岸の平地で、一部が民家となっているほかは一面の水田地帯である。田圃整理で遺構は完全に湮滅しており、旧状を推し量ることは不可能であり、その正確な位置もわかっていない。尚、武内(たけのうち)とは「館内(たてのうち)」の転訛と推測されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:(推定地)
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.411846/139.841645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城郭考古学の冒険 (幻冬舎新書)

城郭考古学の冒険 (幻冬舎新書)

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2021/01/27
  • メディア: 新書


タグ:居館
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郭内館(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3694.JPG←車道沿いに残る土塁と空堀
 郭内館は、歴史不詳の城館である。その位置関係から多功城の支城と推測されている。
 郭内館は、国道352号線と県道65号線が交わる第3工業団地入口交差点付近にあったらしい。古い地籍図によれば、「郭内」の地名は交差点の南東脇のコンビニ付近らしく、ここが館の中心であった可能性がある。一方、現在残る遺構は、このコンビニから東北東約400mの所にあり、車道沿いに土塁と空堀跡がはっきりと残っている。土塁は空堀の西側にあるので、普通に考えれば主郭は東側の日光街道沿いにあったとも考えられ、位置に謎の多い城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.424969/139.861193/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2021/11/02
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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天神館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3677.JPG←館跡の天満宮
 天神館は、歴史不詳の城である。JR石橋駅東側約400mのところを南北に走る街道筋にある天満宮付近にあったらしい。かつては北側に二重の堀・土塁があったと言うが、現在周囲は住宅街になっており、遺構は完全に湮滅している。しかし天満宮の境内は周囲よりやや高い微高地となっている。特に西側は段差が大きいが、昭和20年代の航空写真を見ると、石橋駅との間を流れる小河川沿いの段丘辺縁部に館があり、この段差は段丘崖の名残らしい。いずれにしても失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.436035/139.870398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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南部氏館(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3611.JPG←館跡に残る井戸
 南部氏館は、後に伊達氏と並ぶ奥州の雄となった南部氏の発祥の地である。甲斐源氏の祖新羅三郎義光から3代の裔加賀美次郎遠光の3男三郎光行が、1180年に平家打倒に挙兵した源頼朝に従って軍功を挙げ、甲斐国南部郷を与えられて入部し、南部氏を称した。光行はこの地に居館を構えたが、1189年の奥州合戦の軍功により、奥州糠部の地を賜った。光行は、3男六郎実長を波木井に残し、自身とその一族は奥州に移って栄えた。その為、南部氏館はいつまで使われたかは明らかではない。

 南部氏館は、富士川西岸の微高地に築かれている。しかし館跡は市街化で宅地に変貌しており、遺構はほとんど残っていない。わずかに民家の敷地の中に井戸だけが残っていて、町の史跡となっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.290617/138.455393/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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四条氏屋敷(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3588.JPG←四条金吾頼基夫妻の墓
 四条氏屋敷は、鎌倉後期に北条氏一門の江馬氏の被官であった四条金吾頼基の屋敷である。頼基は中務三郎左衛門を称し、唐名により四条金吾と呼ばれた。日蓮に深く帰依し、1300年3月15日に71歳で没すると、屋敷跡を寺としたと伝えられる。その寺が内船寺であると言う。但し、内船寺は1288年に四条金吾が開基したとも言われ、いずれが正しいのかはわからない。

 四条氏屋敷は、前述の通り内船寺の境内となっている。内船集落背後の丘陵上に位置し、眺望に優れる要害の地であり、土豪の居館を置くには適地であったと思われる。但し土塁などの遺構は残っていない。内船寺の墓地には、四条金吾頼基夫妻の墓がある。
 ちなみに、Google日本語入力で「四条金吾」と入力すると、変換候補一覧の中に「四条金吾殿御返事」と出るので、何だろうとググったら、日蓮上人の御書全集に出てくる文書で、日蓮が四条金吾頼基宛に佐渡の配流地などから出した手紙のことらしい。四条金吾頼基は、創価学会では有名人らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.287903/138.465972/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大島古戦場(山梨県身延町) [その他の史跡巡り]

DSCN3583.JPG←柵で囲われた古戦場の一角
 大島古戦場は、甲斐に侵攻した駿河今川氏の部将福島正成率いる今川勢と、甲斐の武田勢が戦った古戦場である。1521年、今川氏親の家臣で遠州土方城(高天神城)主福島正成は1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻した。甲州河内に駐留していた所、8月28日に武田信虎は総攻撃を掛けて今川勢を敗走させた。しかし今川勢は態勢を立て直して逆襲に転じ、9月6日に富士川左岸の大島で武田勢を迎え撃ち、これを撃破した。今川勢は敗走する武田勢を追って富士川沿いを遡り、9月16日に甲府盆地の入口にある富田城を攻略し、この城を前進基地とした。その後、今川勢は甲斐府中の武田信虎の館(躑躅ヶ崎館)を目指して進撃を開始した。一方、武田信虎は大井夫人を要害城に避難させ、2千の兵を率いて荒川左岸の飯田河原に布陣した。正成率いる今川勢は、登美の龍地台に布陣して荒川を挟んで信虎の軍勢と対峙した。10月16日に飯田河原で両軍は激突し、武田勢が勝利した。今川勢は態勢を立て直し、再び11月23日に上条河原で武田勢と激戦を交えたが、信虎は再び今川勢に大勝した。大敗した今川勢は総大将の福島正成を始め多くの部将を失い、富田城へ敗走した。そのまま越年し、1月14日に駿河に引き上げたと言う。この戦いで今川勢に味方した波木井城主波木井義実は、1527年に信虎に攻められ、峯の城(波木井城)で滅ぼされたと言う。

 大島古戦場の場所は非常にわかりにくい。場所は大島集落の南端で、県道10号線から少し東に入ったところにある柵で囲まれた空き地が大島古戦場に指定されており、解説板が設置されている。空き地の中には東西に離れて2つの五輪塔がポツンと立っている。この今川勢侵攻に関する史跡は複数あり、戦国甲斐の歴史にとって非常に重要な事件であったことが伺われる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.332379/138.450587/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


今川氏親 (中世関東武士の研究26)

今川氏親 (中世関東武士の研究26)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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波木井城(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3522.JPG←二ノ郭西側の切岸
 波木井城は、峯の城とも言い、甲斐源氏南部氏の庶流波木井氏の居城とされる。南部光行の3男六郎実長が波木井氏を称したとされる。光行は源頼朝に仕え、1189年の奥州合戦の軍功により、奥州糠部の地を賜り、光行とその一族は奥州に移って栄えた。一方、波木井六郎実長はこの地に残って波木井城を築いたと言われるが、明証はない。また梅平集落南側の山裾にも実長の居館跡があり、波木井城との関係はわかっていない。『太平記』第30巻によれば、南北朝期の1351年の薩埵山合戦の際、南部一族と羽切遠江守ら300余騎は足利尊氏方として薩埵山の一陣を守備し、攻撃してきた直義方の児玉党(武蔵七党の一)を撃退したと言う。波木井城が歴史に現れるのは、戦国期の武田信虎(信玄の父)の時代で、1521年に駿河今川氏の部将福島正成が甲斐に侵攻した時、波木井義実は今川方に内通した廉で、1527年に武田信虎に峯の城(波木井城)で攻め滅ぼされたと言う。

 波木井城は、身延山の南東の尾根筋の標高350mの峰に築かれている。城内は一部が宅地、大半が畑となり、墓地や鉄塔が立っているなど、地形改変が多くて遺構がよくわからない。鉄塔の立つ頂部の小郭が主郭と思われ、その西側には平坦な二ノ郭が広がっている。二ノ郭の南西部には土門と呼ばれる虎口跡があり、車道が通っているが、その脇には明確な切岸が残っている。主郭の東側斜面には腰曲輪らしい平場が段々に連なっている。腰曲輪群の北東部には、城址碑が立っており、その下方にも腰曲輪らしい平場が残る。全てが遺構かどうかはわからないが、城らしい雰囲気は感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.387064/138.442647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(五) (岩波文庫)

太平記(五) (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/04/16
  • メディア: 文庫


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下山城(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3483.JPG←竹薮となった堀跡
 下山城は、穴山氏館とも言い、甲斐武田氏の一族穴山氏の居城である。穴山氏入部前には、下山氏の本拠地であった。下山氏は、甲斐源氏の一流加賀美遠光の長男秋山光朝の子、小太郎光重が建仁年間(1201~4年)に下山に入部して下山氏を称したことに始まるとされる。その後、兵庫介光基、次郎入道、兵衛太郎らの名が吾妻鏡等に見られる。光基は、日蓮の門下となったことが知られる。その後、1418年頃に穴山氏が河内に入部し、下山氏館跡に居城を構えたとされる。穴山氏の草創については穴山氏館の項に記載する。戦国時代には、武田氏の親族衆として、伊豆守信友、信君(梅雪)父子が活躍した。1569年に武田信玄が今川氏を滅ぼして駿河を手中にすると、1575年に信君は駿河江尻城主となり、下山は留守所となった。1582年に織田信長が武田征伐を始めると、信君は江尻城を明け渡して徳川家康に降った。しかしわずか3ヶ月後に本能寺の変が起こり、家康と共に堺にいた信君は帰国の途中、落ち武者狩りに襲撃されて落命した。穴山氏では信君の子で、まだ幼い勝千代が残されたが、勝千代が1587年に夭折すると穴山家は断絶し、穴山領は徳川氏の支配下となった。これに伴い、下山城は廃城になったと推測されている。

 下山城は、現在本国寺境内や保育園となっている。国道52号線から見ると、5m程標高が高い山裾の微高地であるが、遺構はほとんど残っていない。城址碑が立つ他、台地の北東部にわずかに堀跡が残っている。但し密生した竹薮となっていて、ほとんど形状がわからない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.413773/138.441167/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


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千須和備後守家屋敷(山梨県早川町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3458.JPG←千須和備後守の墓
 千須和備後守は、波木井氏と共に日蓮を身延山に招いた人物と伝えられる。しかし後に穴山氏と対立して討たれたらしい。伝承では、穴山梅雪の使者から出陣要請を受けたが、その時はまともな対応をせず、使者に対して接待もしなかったことから、バカにされたと思った使者は主君梅雪に千須和は出陣しない旨を報告した。その為、梅雪から討手を差し向けられて備後守は殺されたと言う。但し、日蓮のいた鎌倉時代と、穴山梅雪のいた戦国後期では時代が離れているので、2つの話に出てくる千須和備後守は生きた時代の異なる別人で、千須和氏は代々備後守を称したということなのだろうか。

 千須和備後守家屋敷は、『甲斐の山城と館』では本証寺境内と推測している。遺構はないが、寺の北西の墓地に千須和備後守の墓がある。尚、この地は山間の急峻な斜面に築かれた集落で、こんな所にも集落があるのかと驚かされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.423076/138.382298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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兵部平(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3452.JPG←伝飯富兵部少輔供養塔と古屋家墓
 兵部平は、武田信玄の重臣飯富兵部少輔虎昌の屋敷跡と伝わっている。虎昌は、天文年間(1532~55年)より東信地方を統括していた勇将で、飯富隊は赤備えで勇名を馳せた。信玄の信任厚く、嫡男太郎義信の傅役にも任ぜられたが、1565年に義信が反逆した罪で幽閉された、いわゆる義信事件に連座して、切腹させられた。虎昌の弟源四郎昌景が跡を継いだが、断絶していた名家、山県氏の名跡を継いで山県昌景と改姓したため、飯富氏は断絶した。しかし虎昌の遺児坊麿呂(時に4歳)は、京都三条家(信玄正室三条夫人の実家)に預けられ、成長して古屋弥右衛門昌時と改名して、17歳で父の故地飯富に帰って居を構えたと言う。昌時の4代の孫、弥次右衛門昌光は、富士川水運を中興する豪商となった。

 兵部平は、富士川と早川の合流点北西にある飯富集落付近にあったらしい。しかし『甲斐の山城と館』によれば、兵部平の位置は明確ではなく、虎昌がこの地に住んだとの確証もないらしい。永久寺や飯富八幡神社の背後にある台地が想定されるが、一面の畑となっていて明確な遺構は何もない。ただ、永久寺北西の畑の奥に、古屋弥右衛門昌時が亡父飯富兵部少輔の供養の為に建てたと伝わる宝篋印塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.434388/138.435845/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち

戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち

  • 作者: 丸島 和洋
  • 出版社/メーカー: 教育評論社
  • 発売日: 2016/06/23
  • メディア: 単行本


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依田氏屋敷(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3437.JPG←北東部の堀跡
 依田氏屋敷は、依田出雲守義忠の屋敷である。義忠の事績は不明であるが、依田氏一族は下山地域を支配した穴山氏に仕えていたらしい。武田氏滅亡後、依田氏一族はこの地を領した徳川家康の家臣菅沼藤蔵定政の先手として働いたらしいが、義忠が一族中どの様な立場で、どんな動きをしたのかもわかっていない。

 依田氏屋敷は、円通寺境内の南側にある。丘陵南端に近く、方形に近い形状の台地となっていて、内部は山林となっている。土塁はないが、北東に堀跡らしい地形が見られる。遺構としてはこの程度であるが、寺の本堂の裏には依田義忠の宝篋印塔が残っている。尚、墓にお参りした後、寺から出ようとしたら、ご住職に呼び止められて、寺に来たら声掛けてくれと注意された。城巡り、史跡巡りで各地の寺に数多く訪れているが、こういうことを言われるのは初めてである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.443147/138.447776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: ムック


タグ:居館
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菅沼城(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3413.JPG←南西斜面の腰曲輪群
 菅沼城は、1582年の天正壬午の乱の際に徳川氏によって新規築城された城である。1582年6月2日本能寺の変が起こり、堺に滞在していた徳川家康は、決死の伊賀越を敢行して6月4日に岡崎城に帰還した。そして領内に密かに匿っていた武田遺臣達を次々と召し出し、甲信の国人衆へ徳川方に帰属するよう工作を開始した。6月6日には、駿河衆の岡部次郎右衛門正綱に命じて、下山地域に築城することを命じた。こうして築かれたのが菅沼城である。下山地域は武田一族で勝頼を裏切って織田方に投じた穴山梅雪(信君)の所領であったが、本能寺の変後の混乱の中で梅雪とその重臣達が落人狩りで落命し、穴山氏には幼い嗣子勝千代が残されただけであった。家康は、穴山氏家臣団を徳川方に従属させるとともに、徳川領北方の備え、及び甲斐侵攻に当たっての富士川沿いの軍事・補給ルートの確保を企図していたと考えられる。この後、甲斐に侵攻した家康は、小田原北条氏の侵攻に対応するため、諸将を各地の城に配置した。菅沼城には菅沼藤蔵定政を置いて富士川筋の守備に当たらせた。菅沼城の呼称は、城将菅沼氏に由来する。天正壬午の乱終結後の菅沼城の動向は不明であるが、1587年に穴山勝千代が夭折して穴山氏が事実上断絶すると、穴山氏旧領の河内領9千石は菅沼定政に与えられた。1590年の小田原の役では河内郷士21騎を率いて下総小金城に出陣した。小田原の役後、菅沼氏は下総守谷城に移封となり、菅沼城は1602年に廃城になったと言う。

 菅沼城は、冨士川西岸の比高70m程の丘陵南端に築かれている。古い航空写真を調べると、1970年代前半に中富中学校が主郭跡に建設されて主要部の遺構が破壊されてしまった。その中学校も2016年に廃校となり、現在はドローン会社の所有地になっている。その為主郭内の無断踏査はできない。旧校地の南東には舌状に張り出した二ノ郭があり、その西側の南斜面から西斜面にかけては腰曲輪群が築かれている。しかし夏場だと二ノ郭は草茫々である。また腰曲輪群の中にはコンクリートの護岸があり、腰曲輪も改変を受けているらしい。山林の中に城道らしい山道が南麓から残っていて、往時の大手道であるらしい。以上が現在の遺構の状況であるが、1950年代後半の航空写真を見ると、二ノ郭は現在残るよりも北に大きく広がっており、主郭とは横矢掛りの屈曲を伴う切岸で区画されていたらしい。また主郭の北西端には物見台のような突出部があり、西側には延々と腰曲輪が築かれていた様である。築城時期が明確な、戦国末期の貴重な城であったが、高度成長期の開発で失ったものは大きい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.470361/138.442283/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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