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李埣館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6089.JPG←堀跡のような道路
 李埣(すもぞね)館は、『伊達世次考』では李曽根要害と記載され、大崎氏の家臣米谷越前入道の居館であったと伝えられる。同書によれば、1536年の大崎氏の内訌の際に、岩手沢一栗氏ら氏家党の攻撃を受け、米谷越前入道・治部父子は李埣館から逃れたと言う。

 李埣館は、李埣八幡神社の境内付近にあったらしい。主郭と外郭から成っていたらしいが、現在は神社のすぐ南の館跡中心部付近を市道が貫通するなど、市街化で遺構は全く残っていない。その正確な場所すら明確ではないが、南西に堀跡らしいカーブを描く道路が見られる。また南の空き地に水路、また北の市道沿いにも水路があり、これらも堀跡であった可能性がある。いずれにしても明確な痕跡ではなく、今後の考究に待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.574063/140.977163/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: ムック


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掻引城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6032.JPG←主郭外周の空堀
 掻引城は、葛西氏の家臣で唐梅館主長坂千葉氏(千葉刑部少輔の名が伝わる)の平時の居館であったと考えられている。

 掻引城は、唐梅館の南麓1.3kmの位置にある。砂鉄川北岸の段丘上にあり、現在は主郭とその北・西周囲の空堀・帯曲輪が公園化されて残っている。それ以外の周囲は住宅地となっていて、主郭南東の住宅地も曲輪跡かと思ったが、帰ってから昭和20年代前半の航空写真を調べると、主郭の周りは宅地造成でかなり地形が削られて改変されているようである。従って、現在方形郭として残っている主郭も、往時はもっと南と東に広がっていたらしい。改変を受けているとはいえ、住宅地の中に主郭と空堀・帯曲輪が残っているだけでも、良しとすべきであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.994915/141.249311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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伊勢館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5967.JPG←堀切と笹曲輪
 伊勢館は、歴史不詳の城館である。興田集落北東の台地上に築かれている。現在は伊勢館公園となっており、主郭は野球場が建設されて大きく改変されている。ネット上に全く情報がない上、公園として改変しつくされている様だったので、遺構には全く期待しないで訪城した。主郭東側の丘陵基部は堀切で分断されていたらしいが、現在は半分以上が道路となって改変されている。主郭跡の野球場の南には一段低い平場があり、二ノ郭であったと思われる。その端っこに解説板があったが、字は消えてしまっていて全く内容を読むことができない。二ノ郭の東側には腰曲輪らしい平場が見られるが、かなり改変されているので、確証は持てない。しかし二ノ郭の南に小堀切が残っており、その先に物見台らしい笹曲輪があって、神社が建っている。確実な遺構としてはそれだけであるが、全く期待しないで行ったので、堀切が残っていたのは嬉しい誤算だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.049627/141.369259/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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及川館(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5949.JPG←及川一族の墓
 及川館は、元葛西氏の家臣及川氏の近世の居館である。葛西浪士であった及川善右衛門恒吉が1595年に築いたと言う。奥友館主菊池喜左衛門に代わってこの地を知行し、1627年に遠野南部氏が鍋倉城に入部すると、遠野南部氏に仕えて小友代官などを勤め、明治維新まで藩境警備に当たったと言う。

 及川館は、小友小学校の校地にあったらしい。車道より数m高い高台となっている以外に明確な遺構は残っていない。尚、及川館主及川一族の墓が鷹鳥屋川対岸の常楽寺に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.270944/141.424534/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


口語訳 遠野物語 (河出文庫)

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  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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谷地館(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5925.JPG←館跡近くの八幡宮
 谷地館は、遠野阿曽沼氏の一族宇夫方氏の居館である。『日本城郭大系』によれば、1189年、源頼朝の奥州合戦の軍功により阿曽沼広綱は遠野十二郷を与えられたが、広綱は一族の宇夫方広房を代官として派遣し、遠野を統治させた。その後、建保年間(1213~19年)に広綱の子阿曽沼親綱が遠野に入部した際、広房の孫広光が谷地館を築いて居住したと言う。1450年、葛西氏の家臣、気仙の金成政実が谷地館を攻撃したが、館主宇夫方守儀は近隣の鱒沢氏・宮森氏・大迫氏・達曽部氏らの援軍に助けられ辛くもこれを撃退したと伝えられる。この結果、宇夫方氏はより守りの固い山城の西風館を築いて居城を移したと言う。1557年に西風館が落城して宇夫方氏が衰退すると、阿曽沼氏の一族上野広吉が上野館から谷地館に居館を移した。一方、八幡宮にある館跡碑によれば、1235年に宇夫方広治が築いたと言う。南北朝期の1338年、陸奥国司・鎮守府大将軍北畠顕家が足利尊氏攻撃に出陣した際、宇夫方親定はこれに従軍して足利勢と戦い討死した。また1372年には宇夫方広儀は南朝方として足利勢と戦い討死したと言う。

 谷地館は、JR釜石線・岩手二日町駅の南側にあったらしい。現地解説板によれば、円形に近い形の曲輪で、外周を堀で囲まれ、東西に門を構えていたらしい。現在館跡は一面の水田と宅地に変貌しており、南東部には堀形を思わせる円弧状の道路が見られるが、明確な遺構は残っていない。館跡北西には八幡宮があり、その鳥居脇に館跡碑と館跡想像図が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.322388/141.456249/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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鍋倉城(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5852.JPG←二ノ丸西側の腰曲輪群
 鍋倉城は、遠野城とも言い、遠野阿曽沼氏が天正年間(1573~92年)に築いた城で、元の名を横田城と言った。阿曽沼氏は、平将門討伐で軍功を挙げた藤原秀郷の後裔、藤姓足利七郎有綱の4男広綱を祖とし、下野国安蘇郡阿曽沼郷を本領とした(居城は阿曽沼城)。源頼朝の奥州合戦の軍功により閉伊郡遠野保を与えられ、当初は代官を派遣していたらしいが、後に阿曽沼氏庶流が入部して横田城(古城)を本拠とし、遠野阿曽沼氏となった。戦国後期の城主は阿曽沼四郎広郷で、遠野十二郷を支配し、葛西氏領の岩谷堂城を攻撃するなど武威を誇ったが、一方で一族の鱒沢氏らが反抗的な動きを領内で示していた。この広郷の時に、新たに鍋倉山に新城を築いて移り、旧城の名前を継承して横田城(新城)と称した。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で小田原不参の故を以って没落したが、蒲生氏郷らの尽力で南部氏に仕えて家名を保った。翌91年の九戸氏の乱では嫡子広長が参陣した。1600年の関ヶ原の戦いでは、広長は南部利直に属して山形に出征したが、留守中に一族の鱒沢広勝らが反逆して横田城が占拠され、帰城できなくなった広長は妻の実家である気仙郡世田米城に逃れた。その後も広長は横田城奪回を図ったが失敗し、遠野十二郷は南部氏の支配下に入った。以後城代を置いて支配させたが、治安の乱れが続いたため、1627年、利直は一族の八戸領主根城南部直義(直栄)を横田城に移し、12,500石を領する遠野南部氏の歴代の居城となった。直義は城の名を鍋倉城と改め、城下町を再整備した。以後10代240年余り遠野南部氏の支配が続いて明治維新を迎えた。

 鍋倉城は、遠野市街地南方の標高343.5m、比高80m程の鍋倉山に築かれている。城跡は現在鍋倉公園となっていて、夏場でもほとんどの遺構を確認できる。元和の一国一城令によって城ではなく要害屋敷と称されたが、通称は城で、その構造も中世以来の山城そのものである。中心に本丸を置き、南に大堀切を挟んで二ノ丸、北東にも堀切を挟んで三ノ丸を配置している。これらの曲輪には、外周に低土塁が築かれ、外側には腰曲輪が幾重にも築かれている。本丸は三段の平場に分かれ、上段に遠野南部氏の館があったが、現在は礎石が残っているだけである。本丸上段の北側に大手枡形虎口、東に枡形虎口、西に搦手門跡、南に裏門跡が残っている。本丸の北には2段の段曲輪が築かれ、工藤屋敷・澤里屋敷と呼ばれる重臣屋敷があった。また本丸北西にも腰曲輪、その南には竪堀を挟んでコの字土塁で囲まれた横堀、更にその南に搦手門に通じる横堀が構築されていて、本丸西側を防御している。特に搦手門に通じる横堀は、重厚な土塁で防御されている。二ノ丸は遠野南部氏の一族新田小十郎の屋敷があった所で、現在は遠野南部氏の廟所が置かれている。そのため改変を受けているが、二ノ丸への通路は往時の名残を留めているらしく、通路の途中に「御門跡」の標柱があり、虎口状の地形と門の礎石が残っている。三ノ丸には遠野南部氏の一族中舘氏・福田氏の居館があったが、現在は公園化で大きく姿を変えている。本丸から三ノ丸にかけての北斜面には、腰曲輪群が構築され、登城道が残っている。この他、本丸の南東には舌状曲輪が伸び、小新田屋敷と呼ばれている。二ノ丸背後の尾根は自然地形を利用した堀切で区画している。以上が、鍋倉城の遺構で、公園化されているものの往時の遺構をよく残している。この城で聞いたSLの汽笛の音は、ノスタルジックでなんとも忘れ難い。
土塁囲みの横堀→DSCN5752.JPG
DSCN5743.JPG←搦手門跡と横堀
二ノ丸御門の礎石→DSCN5796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.326007/141.527274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
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槻館城(岩手県大船渡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5513.JPG←主郭背後の堀切跡
 槻館城は、葛西氏の家臣今坂遠江・信濃父子の居城である。今坂氏は、信濃が病没して断絶したとも、1590年の葛西氏改易と共に没落したとも言われる。

 槻館城は、綾里港の北西にある比高35mの高台に築かれている。主郭は平坦な地形で公園となっている。特に明確な遺構は見られないが、後部には松の木が生えた土壇があり、土塁の名残りである可能性がある。主郭背後の尾根には堀切が凹地となって残っている。主郭の先には堀切跡の車道を挟んで二ノ郭があり、市杵島神社が建っている。二ノ郭は小さな曲輪だが、先端は一段高くなっており、物見台か櫓台があった様である。二ノ郭の更に先には殿見島という小さな島があり(現在は港の岸壁の一部となっている)、殿様が月見の宴をはった島と言い伝えられている。槻館城は小さな城館で、改変も受けているが、往時の形態はほぼ追うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.043294/141.793971/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一生に一度は行きたい日本の名城100選 (TJMOOK)

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  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2018/11/30
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赤崎城(岩手県大船渡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5484.JPG←城跡の現況
 赤崎城は、葛西氏の家臣新沼美作守の居城である。美作守は、1590年に生起した葛西大崎一揆の際、桃生郡深谷の殿入沢で、伊達勢によって惨殺されたと言う(須江山の惨劇)。

 赤崎城は、大船渡湾最奥部の東岸に位置する比高10m程の独立台地に築かれていた。現在は赤崎公園となり、また公民館・保育園・民家が建っており、城の遺構は失われている。残っているのは崖で囲まれた地勢だけである。城のある台地の周辺は、東日本大震災の時の津波の被災地で、震災から10年以上を経過した現在でも、まだ再建途上にある。尚、公園の隅に城址碑が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.065956/141.737677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 作者: 日本城郭協会
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岩谷堂城(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5375.JPG←中の丸後部の堀切
 岩谷堂城は、藩政時代には岩谷堂要害と呼ばれ、伊達氏が領内に置いた21要害(城の一つ下のランク)の一である。元々は、葛西氏の一族で家臣であった江刺氏が築いた城と伝えられる。南北朝期以降、江刺氏は江刺郡の惣領職にあったらしく、葛西氏5代信詮の次男江刺次郎信満が岩谷堂城主となったと言う。その後、勢力を拡大した江刺氏は、葛西宗家しばしば抗争するようになり、1361年・1485年・1495年に葛西氏との間で合戦があったとされる。1495年の合戦では、江刺隆見は葛西政信と合戦して敗れ、岩谷堂城は政信の孫三河守重胤が相続し、郡内を再統一した。1585年頃には、重胤の後裔三河守信時が葛西宗家から勘当され、代わって江刺重恒が城主となった。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏は改易となり、同年に生起した葛西大崎一揆では重恒の養嗣子重俊は桃生郡深谷で討死した(須江山の惨劇)。しかしどうゆう経緯があったか不明であるが、奥州仕置で下向した秀吉の重臣浅野長政は、重恒を南部信直に託したことから江刺氏は南部氏の家臣となり、重恒は稗貫郡新堀城に1500石で封じられ、1612年には養嗣子重隆の子隆直が伊達藩領との境域に近い土沢城に移封され、藩境の警備に当たった。一方、江刺氏の去った岩谷堂城には秀吉の家臣木村吉清の家臣溝口外記が入ったが、葛西大崎一揆で殺害された。一揆鎮圧後は伊達氏の領国に組み込まれ、伊達政宗の重臣桑折摂津守政長が岩谷堂城主となり、城下の整備を進めた。1659年には伊達家一門の岩城宗規(仙台伊達藩2代藩主忠宗の7男)が岩谷堂城主となり、以後岩谷堂伊達氏として9代続いて明治維新を迎えた。

 岩谷堂城は、人首川西岸の標高114.9m、比高70m程の丘陵上に築かれている。広大な城で、本丸付近の城の中心部は館山史跡公園として公園化されているが、二ノ丸は岩谷堂高校のグラウンドに、また外郭(下中屋敷)は旧岩谷堂高校・総合運動場(旧小学校)・住宅地に変貌している。しかし本丸から二ノ丸にかけては旧状をよく残している。本丸には現在、館山八幡神社や二清院が建っているが、外周には土塁がめぐらされ、その外側には2段の腰曲輪が築かれ、本丸東側には横堀も穿たれている。本丸腰曲輪と二ノ丸の間には、双方と堀切で分断された中の郭が置かれている。二ノ丸の後部には大土塁が残り、後部土塁の西端部には枡形状の地形も見られる。またグラウンドの東西に土塁が残存している。二ノ丸の南側には水堀と腰曲輪が確認できる。その南側は改変されて旧状を失っている。
 以上が岩谷堂城の遺構で、「要害屋敷」と言うものの、その縄張りは山城そのままである。その他の要害でもそうだが、城ではないと称しつつ有事の際には城として機能する形を維持しており、仙台伊達藩はよくもまあ江戸幕府を舐めていたものだ、政宗はさすがにふてぶてしいと呆れてしまう。幕府も密偵による情報収集でわかっていたはずで、よく黙認していたものだと思う。
二の丸南側の水堀→DSCN5457.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.198081/141.183028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
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豊田館(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5263.JPG←館跡の公園
 豊田館は、亘理権太夫藤原経清とその子清衡の居館である。経清は、平将門を討滅した藤原秀郷の子孫と言われ、多賀城国府の官人で宮城県亘理地方を支配していたが(居館伝承地は中島館)、後に奥六郡を支配する俘囚長安倍頼時の娘婿となり、豊田館に移住した。前九年の役が起きると、経清は最初は朝廷軍の将源頼義・義家父子の麾下に属したが、後に頼時の子貞任に味方して朝廷軍と交戦し、黄海の戦いで朝廷軍を撃破するなど活躍した。しかし頼義が出羽の豪族清原氏を味方につけることに成功し、源氏・清原氏連合の大軍で逆襲に転じると敗退し、貞任らと立て籠もった厨川柵で敗れ、捕えられて斬首された。経清の妻は遺児清衡を連れて敵将清原武貞の後妻となった。清衡は、清原清衡として成長したが、20年後に清原氏の内訌により生起した後三年の役で、源義家を味方につけた清衡が勝ち残り、奥六郡の支配者となった。姓を亡父の藤原に戻し、豊田館に帰って奥羽を治めた。康和年間(1099~1104年)に平泉に本拠を移し、奥州藤原氏の初代となった。

 豊田館は、人首川東方の比高10m程の台地先端部に築かれていたらしい。現在は館跡の中心には変電所があり、南西部が公園となっている。台地となっている以外に明確な遺構はないが、江戸時代から藤原経清・清衡の館跡と伝承され、古い石碑が公園内に立っている。館の南東1km弱のところには、経清一族の墳墓とされる五位塚墳丘群があり、経清にまつわる伝承を色濃く残している土地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.180136/141.191483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


奥州藤原氏―平泉の栄華百年 (中公新書)

奥州藤原氏―平泉の栄華百年 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2002/01/01
  • メディア: 新書


タグ:居館
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巣伏古戦場(岩手県奥州市) [その他の史跡巡り]

DSCN5250.JPG←古戦場碑
 巣伏の戦いは、蝦夷の族長アテルイ(阿弖流為)が征東将軍紀古佐美率いる朝廷の大軍を撃破した戦いである。『続日本紀』によれば、桓武天皇は789年、蝦夷勢力の拠点を制圧するため、紀古佐美を征東将軍に任じ、大軍をもって胆沢地方に侵攻させた。古佐美は征東軍を3軍(前中後)に分け、北上川を渡ってアテルイ率いる蝦夷軍を攻撃した。中後軍から各々2千人を選んで渡河し、アテルイの居所に着く頃に蝦夷軍300余人と迎撃戦となった。戦闘は征東軍が優勢で、村々を焼き払いながら進軍した。巣伏村で前軍と合流する予定であったが、前軍は蝦夷の別働隊に阻まれ、渡河できずにいた。そうした中、中後軍に蝦夷軍800人程が次々と来襲し、その激しい攻勢に征東軍は後方へと押し戻された。更に東の山上の蝦夷の伏兵400人程が征東軍の横・後方から急襲して挟み撃ちにし、征東軍は退路を断たれ総崩れとなった。結局征東軍は、戦死者25人、矢に当たった負傷者245人、川での溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人の損害を出して大敗したと言う。小軍が巧みな戦術で大軍を討ち破った、日本古代史上稀有な戦いであった。

 巣伏古戦場は、県道251号線の四丑橋付近で行われたとされる。「四丑」(しうし)の地名は、古代の「巣伏」(すふし)であったとされる。墓地の前に石碑と解説板が立っている。またここから南南西1.4kmの北上川対岸には、物見やぐらが立つ巣伏古戦場跡公園がある。現在ではのどかな田園地帯が広がっているだけだが、蝦夷の時代から前九年の役・後三年の役に至るまで、朝廷に翻弄された東北の歴史の重要な一コマである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.156962/141.173930/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 樋口 知志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2013/10/10
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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金ケ崎城(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5158.JPG←大庭外周の堀・土塁
 金ケ崎城は、藩政時代には金ケ崎要害と呼ばれ、伊達氏が領内に置いた21要害(城の一つ下のランク)の一である。城の起源は不明であるが、802年に坂上田村麻呂が蝦夷征討時に築いたとも、前九年合戦の際に安倍貞任の叔父金為行が居城としたとも、或いは新渡戸氏の西根城または南部氏と九戸氏の胆沢攻略の舞台となった和賀川崎城と同一のものとも言われるが、いずれも確証はない。1590年の葛西大崎一揆の後、この地が伊達領になると、北の南部氏に備える北辺防衛の拠点として金ケ崎城が築かれた。元和の一国一城令の後は金ケ崎要害と呼ばれた。城主は、1602年には桑折左衛門景頼が岩谷堂城から移って城主となったが、1614年に伊達秀宗が伊予宇和島藩に分枹された際に景頼は後見役として伊予に移った。翌15年には一関城主留守宗利が入ったが、宗利も1629年に水沢城に移され、その後しばらく空城となったらしい。1644年に大町備前定頼が東山藤沢城から2千石で移封され、以後幕末まで大町氏の支配下となった。

 金ケ崎城は、北上川南岸の段丘上に築かれている。西から順に二ノ丸・蔵館・本丸・東館・観音館、更に本丸の南には大庭(馬場)と呼ばれる外郭が築かれている。これらの曲輪の内、北上川に面した北辺部は川による浸食で削られ、蔵館に至っては全てが侵食されてしまっているらしい。現在城内は宅地化が進んで改変が進んでおり、特に本丸は住宅地に変貌してしまっている。しかし公園となっている二ノ丸の外周や大庭の外周には堀・土塁がよく残っている。本丸の外周にもわずかに堀の名残りが見られる。城内は民家が多いので確認できる遺構は限られているが、城の名残りはよく感じることができる。
二ノ丸南側の堀→DSCN5177.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.196800/141.124384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


代官の判決をひっくり返した百姓たち―仙台藩入会地紛争

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  • 出版社/メーカー: 築地書館
  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: 単行本


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舟形館(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5125.JPG←北側の堀跡
 舟形館は、歴史不詳の城館である。現在泰養寺が築かれている小高い台地が、江戸時代には舟形館という地名で呼ばれており、中世城館があったと推測されているが、金ケ崎城との関係は不明。
 舟形館は、金ケ崎城がある台地から堀で分断された平坦な独立丘となっている。比高は10mに満たないが、台地の北側に沢を利用した堀が残っている。西側も往時は沢を利用した堀だったらしいが、現在 は県道が通っていて改変を受けている。土塁などは見られないが、地勢と堀はよく残っている。
 尚、館跡に建つ泰養寺の墓地には、伊達家家臣で江戸時代の金ケ崎要害の領主大町家の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.193657/141.119921/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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鳥海柵(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5078.JPG←二ノ郭から見た堀と主郭
 鳥海(とのみ)柵は、奥六郡を支配した俘囚長安倍氏が築いた12柵の一であり、12柵の内で唯一場所が確定している城柵である(他の柵はいずれも擬定地である)。安倍頼時の3男宗任が鳥海柵の城主であったと伝えられる。前九年の役では、陸奥守・鎮守府将軍源頼義が津軽の安倍富忠を調略すると、頼時は富忠説得のため津軽に向かうが、富忠勢の攻撃を受けて深手を負い、本営の衣川に戻る途次、鳥海柵で死去した。頼時の跡を継いだ貞任は、引き続き頼義率いる国府軍と交戦し、黄海の戦いで国府軍に大勝した。しかしその後、頼義は出羽の豪族清原氏を味方につけることに成功し、清原氏の大軍と連合したことで形勢を逆転した。頼義は安倍氏の本拠地衣川を攻略し、貞任・宗任兄弟は鳥海柵に後退し、更に厨川柵に撤退して立て籠もった。しかし厨川柵も源氏・清原氏連合軍に攻略されて安倍氏は滅亡し、前九年の役は終結した。宗任は捕えられて京に送られた。その際、京の公卿の一人が田舎者は梅の花を見たこともないだろうと侮って、梅を一枝折って「これは何という名の花か」と差し出したところ、宗任は「我が国の 梅の花とは 見たれども 大宮人は いかがいふらむ」と和歌で返したため、その教養や風流が高く評価されたと言う。その後、宗任は九州へ配流された。
 鳥海柵は、鎮守府胆沢城に近く、当主頼時が亡くなった地であることから、安倍氏にとって最重要拠点であったと考えられている。

 鳥海柵は、胆沢川北岸の比高10m程の台地先端に築かれている。現在国指定史跡となっているが、明確な遺構はほとんどない。台地を深く刻んだ浸食谷をそのまま堀とした要害で、昭和20年代の航空写真を見ると、西側の台地基部に1本の大きな空堀を穿って分断していたが、ちょうど堀付近を東北自動車道が貫通して破壊され、残った堀も埋め立てられて水田となっている。結局現在残っているのは地勢だけという状況である。堀の谷を越えた北側の台地も二ノ郭があったらしく、前述の航空写真では北側から西側にかけて堀らしい跡が確認できるが、現在はすべて破壊されている。解説板の他、主郭先端部には大きな城址看板が立っているものの、表面観察上はなにもない水田で、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.188053/141.114771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/29
  • メディア: 単行本


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陣ヶ岡(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN4923.JPG←主郭外周の空堀
 陣ヶ岡は、歴史不詳の城である。伝承では、北上川対岸にあった黒沢尻柵(安倍五郎正任の居城)を攻撃するため、1062年に源頼義・義家が築いた陣跡とされるが、確証はない。またこの小高い丘には、源氏以外にもヤマトタケル・安倍比羅夫・坂上田村麻呂・源頼朝・蒲生氏郷など数多くの武将が陣を構えたとの伝承があるが確証がないことは同じである。空堀跡から元代~14世紀の中国の焼き物が発見されていること、戦国時代に葛西氏の領国との境に接する和賀氏の領国内であったことから、葛西氏やその家臣江刺氏の侵入に対する警備を担っていた和賀氏の城であったと推測されている。

 陣ヶ岡は、北上川の東岸にそびえる標高100m、比高45m程の丘陵上に築かれている。単に陣ヶ岡と言うより、「陣ヶ岡楯(陣ヶ岡館)」などと呼んだ方がわかりやすいだろう。城内は公園化され、散策路も整備されているので夏場でも訪城できる。外周を空堀で囲まれた主郭を頂部に置き、西の尾根先端に堀切を挟んで二ノ郭を配置している。二ノ郭の南側にも主郭外周から続く形で空堀が穿たれ、二ノ郭から突き出た西尾根先端には見張り台(物見台)がある。主郭も二ノ郭も、郭内はあまり削平されておらず、地山に近い自然地形である。現地解説板には描かれていないが、主郭の南にも舌状の平場があり、三ノ郭であったと思われる。公園化で遺構が改変を受けている部分もあって、全てが往時の形状ではないと思うが、形態としては完全な山城である。しかし郭内が削平されておらず居住性がないことから、作戦上の都合で臨時的に築かれた陣城であった様に思われる。
二ノ郭南側の空堀→DSCN4942.JPG
DSCN4995.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.271094/141.127689/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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新年明けましておめでとうございます! [雑感]

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年も結局まる1年、新型コロナに明け暮れる大変な年となりました。
重症化リスクの強いデルタ株は収束してきましたが、
新たに感染力の強いオミクロン株が徐々に拡大をしてきています。

1日も早い終息を心から祈念するとともに、
皆様にとって健康な1年であることを願っております。

早く、マスクをしなくても出歩ける日が来ないものか・・・。
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