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森田高館城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8845.JPG←主郭背後の堀切
 森田高館城は、歴史不詳の城である。加登べ城の南に隣接するように築かれており、また森田城から平地を挟んで西方1.2kmの位置にあることから、森田氏に関係する城と推測されている。城郭関連書籍では単に高館城と記載されるが、同じ那須烏山市内に同名の高館城があり紛らわしいので、ここでは森田高館城と記載する。

 森田高館城は、北に向かって突き出た比高70m程の丘陵上に築かれている。一応北麓から登道が残っているのだが、城内はどこも激薮で、遺構の確認が大変である。南北に2つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りとなっている。『栃木県の中世城館跡』によれば、南が主郭、北が二ノ郭とされる。いずれの曲輪も外周に土塁が築かれている。二ノ郭の前面には小郭が置かれ、小郭の前面に堀切が穿たれている。この堀切は、西側で横堀となってクランクしながら二ノ郭の西側に回り込み、そのまま主郭の西側を掘り切っている。二ノ郭の後部には主郭との間に虎口が築かれ、虎口の西には櫓台、東にはL字型の堀切が構築されている。主郭背後には深い堀切が穿たれている。主郭の南西にはゴルフ場があって遺構の一部が破壊されているが、堀切の南にも2つの曲輪が確認できる。これらの曲輪の東側には横堀があり、2郭の間の堀切も確認できる。以上が確認できた森田高館城の遺構であるが、あまりに薮がひどく、遺構の全容がよくわからない。もう少し整備されるとありがたいのだが。
 なお、かつて二ノ郭前面の小郭にあったという鉄塔は、今はなくなっていた。
二ノ郭西側の横堀→DSCN8815.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮がひどいので星1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632034/140.115134/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:中世山城
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加登べ城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8722.JPG←堀切
 加登べ城は、根小屋城とも言い、歴史不詳の城である。森田城から平地を挟んで西北西1.2kmの位置にあり、森田氏に関係する城と推測されている。

 加登べ城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。東麓の民家の脇から登道が付いているので、民家のおばあさんに立入りのお願いをしたところ、「加登べ城」では話が通じず、「根小屋城」と言ったらわかってくれたので、地元では根小屋城の名で通っているらしい。登道を登っていくと、まず城の東外周に巡らされている帯曲輪に至る。帯曲輪はきれいに手入れされた竹林の中を、山形に沿って屈曲しながら城の北端まで伸びている。帯曲輪の上にあるのが城の中心となる曲輪で、現在は1つの曲輪にしか見えないが、『栃木県の中世城館跡』によれば、往時は土塁と空堀で東西2郭に分かれており、東が主郭、西が二ノ郭であったらしい。また主郭・二ノ郭の周囲には土塁も巡らされていたが、明治時代に畑の拡張で土塁は壊されたらしい。現在は主郭に当たる部分の北辺に土塁が残っているだけである。二ノ郭には、以前は民家が建っていたらしく近代の井戸跡などが放置されている。二ノ郭の西側には、台地基部を分断する堀切が穿たれている。この堀切の裏にも、北端部と南端部に空堀があり、端部だけ堀が二重となっている。堀切の北側は、そのまま二ノ郭北西の腰曲輪に繋がっており、物見台のような土壇や竪堀が見られ、腰曲輪の東端には外側に土塁が築かれている。以上が加登べ城の遺構で、『栃木県の中世城館跡』では「保存度不良」とされているが、堀切も含めて外周部の遺構はよく残っており、往時の雰囲気はよく感じられる。
腰曲輪の土塁→DSCN8743.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.635857/140.115144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:中世平山城
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放下僧館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8688.JPG←館跡に立つ祠
 放下僧館は、大里館とも言い、この地の豪族牧野左衛門勝重の居城と伝えられている。勝重は、上州伊香保温泉へ湯治に出向いた際、相模の住人利根大膳信俊と遊女のことで喧嘩となり、殺されたと言う。勝重の子、次郎丸と小次郎は出家し、禅僧の姿で踊りや雑芸をしながら物乞いに歩く放下僧となり、父の仇信俊を捜して諸国を巡った。やがて二人は武州金沢にある瀬戸明神社で信俊を見つけてこれを討ち取り、父の墓前に首級を供えて弔った。時の烏山城主那須之隆は兄弟の忠義を称え、次郎丸に永楽100貫の地を与え、牧野家を再興させたと伝わる。異説もあり、烏山城主那須資胤の子牧野顕高が刃傷沙汰で落命し、顕高の子が放下僧となり、やがて父の仇を討ったとも伝えられている。

 放下僧館は、荒川と沢で挟まれた台地突端に築かれている。西側を走る市道脇に「放下僧館跡」の案内表示が建っており、そこから東に向かって畑の中の畦道を歩いていくと、館跡に至る。しかし遺構が明瞭でないため、どこから館跡なのか判断しにくいが、畑の中にわずかな段差が残っており、そこから東側が館跡と考えられる。畑の先は薮になっているが、そこに館の解説板が立ち、その奥に小さな祠が祀られている。祠の先の薮の中にも平場が続き、先端近くで一段低くなっている。確認できるものとしてはそれだけで、要害地形ではあるが台地基部に堀切も残っていないので、往時はどの様な城館だったのか、現状からだけでは推測が難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.643054/140.112988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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高瀬館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8679.JPG←土塁の残欠らしき土盛り
 高瀬館は、歴史不詳の城である。その位置から、森田城主森田氏に関連した城と推測されている。

 高瀬館は、荒川と支流の沢によって半島状に区画された台地の先端部に築かれている。『栃木県の中世城館跡』によれば、台地の北東端に土塁、また台地の基部には土塁と堀切があったらしいが、大正時代頃に塁濠はほとんど埋められたとされる。また郭内には民家が2軒建っていて、その周りは薮に覆われているので、遺構の踏査はほとんどできない状況である。わずかに民家手前の小道の脇に、土塁の残欠らしき土盛りが薮の中に確認できただけである。今となってはほとんど失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.653349/140.102302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


あなたの知らない栃木県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない栃木県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2013/01/11
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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小塙館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8522.JPG←西側の水堀・土塁
 小塙館は、小塙陣屋・森田陣屋とも呼ばれ、大田原城主大田原綱清の次男出雲守増清が築いた陣屋である。1600年の関ヶ原合戦の際、大田原晴清・増清兄弟は上杉景勝軍の南下に備えるために徳川家康が派遣した諸将の指揮下で大田原城の防衛に当たった。戦後の論功行賞で増清は森田氏の旧領1500石を与えられ小塙館を築いた。以後、森田大田原氏(交代寄合旗本)10代の居館となって幕末まで存続した。

 小塙館は、荒川曲流部の南岸に築かれている。近世の陣屋なので、方形の縄張りを想像するところだが、小塙館は西側に向かってすぼまった、不整形な外形となっている。『栃木県の中世城館跡』の縄張図と、昭和20年代前半の航空写真を見ると、西側に二重の土塁を築き、北辺と西辺にも土塁を設け、東西と南に水堀を巡らしていたらしい。しかし昭和50年代に館跡を東西に貫通する市道が建設され、それに伴って遺構の一部が破壊を受けた。その後、主郭跡に集会所が建てられ、また耕地化に伴って西の内側の土塁が湮滅してしまっている。しかし辛うじて、西の外側の土塁と水堀が残り、また北辺と東辺にも土塁が残っている。東側の水堀は、元々天然の沢を利用したものであったらしく、今でも薮の中に深い沢がある。館の南辺は、耕地化による改変で塁線が追えなくなってしまっている。全体の半分ほどの遺構が湮滅してしまったのは残念だが、残った遺構だけでも後世に残してほしいものである。
北辺の土塁→DSCN8537.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.643553/140.120766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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大将古家要害(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8499.JPG←山頂の主郭
 大将古家要害は、歴史不詳の城である。那須氏が佐竹氏の侵攻に備えて臨時的に築いた城砦と推測されている。尚、大将古家の名は、文治年間(1185~90年)に源頼朝が奥州合戦に出陣した際にここに陣を構えたという伝承によるらしいが、もとよりただの伝説である。

 大将古家要害は、標高303.2mの山上に築かれている。国土地理院の1/25000地形図には西麓からの登道が記載されており、車道脇の登り口にはちゃんと「大将古家」という表示も出ているが、このルートは途中から倒木がひどく、完全なジャングルジム状態になる上、尾根近くになると道が消失してしまうので、踏査は困難である。こんな荒れた道を帰りに使いたくなかったので、帰りは北西尾根を降って高館城を経由するルートで降ったが、このルートも途中に急峻な岩塊があり、一筋縄では行かないルートだった。そんなわけで、大将古家要害を目指す人は、十分な装備と時間と覚悟を持って臨んだ方が良い。

 大将古家要害は、三角点のある山頂部に主郭を置いていたと見られるが、曲輪の加工度が低く、ほとんど自然地形に近い。ただ元からなのか、かなり平坦な地形である。一方で、西側斜面の下方には明瞭な腰曲輪が確認できる。確認できる遺構はこの程度である。
 大将古屋要害は、遺構は大したものではないが、高館城・高館上の城を北西に展開している配置から考えて、これらの城砦群の司令塔として、佐竹勢の侵攻に備えた陣城であったものと推測される。
西斜面の腰曲輪→DSCN8512.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.616173/140.186512/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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高館上の城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8402.JPG←南尾根の堀切
 高館上の城は、城巡りの先達ヤブレンジャーの方々が発見した城である。位置的には高館城の尾根続きにあり、また上方の峰には大将古家要害があり、これらと密接な関連があった城と推測される。

 高館上の城は、高館城のすぐ東隣の峰にある。高館城から堀切を越えて東に進むと間の尾根鞍部に広い平場があり、ここには土塁も確認できる。おそらく軍団駐屯地の小屋掛けや倉が置かれた場所なのだろう。そこから更に尾根を登っていくと、小さい腰曲輪群がいくつか見られ、その上に城の中心部がある。頂部の主郭はきれいに削平された曲輪で、西には一段低い舌状の二ノ郭が置かれている。主郭の北側にも傾斜した腰曲輪群がある。主郭周囲の切岸はあまり明瞭ではないが、唯一南側だけは明確な切岸で区画されている。その先にある背後の尾根には土橋が架かった堀切がある。遺構は以上で、簡素な陣城ではあるが、高館城の後背部を固める外郭であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.619222/140.183895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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高館城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8324.JPG←腰曲輪から見た主郭
 高館城は、歴史不詳の城である。戦国後期に常陸太田城主佐竹義重は、頻繁に那須氏の領国に攻め込んでおり、この頃に佐竹勢の侵入路に沿ったところに那須氏側が築いた城と考えられている。

 高館城は、那珂川東岸に連なる山地の一峰に築かれている。明確な登道はないが、北西麓から沢を越えて登っていくと、城からかなり離れた下方に虎口脇の曲輪や腰曲輪が尾根筋に散在している。これらを越えて登ると、山頂付近にきれいに削平された曲輪群が現れる。小さい城だと思っていたが、主郭も腰曲輪も予想以上に広く、それなりの兵を置けるスペースがある。頂部に主郭があり、北から西にかけて階段状に広い腰曲輪群が配置され、その中には坂土橋の虎口や虎口郭が見られる。主郭は奥側がやや高く、全体に傾斜している。主郭の南と東に帯曲輪があり、東の帯曲輪には竪堀が穿たれている。また主郭南東に段曲輪が築かれ、その先は背後の尾根との間に円弧状の堀切が穿たれている。この堀切の西端は90度折れて、竪堀となって落ちている。堀切の先の尾根にも平場が見られる。
 高館城は、思った以上にきれいに普請された城で、那須氏がある程度恒常的に兵を置いて間道を押さえていたと推測される。また南東背後にそびえる峰には大将古家要害があり、高館城の峰続きには高館上の城もあるので、大将古家要害を司令塔として、高館城・高館上の城を間道南側に扇形に展開し、佐竹勢の侵攻に備えた重厚な陣地構成としていた可能性がある。中でも普請の規模の大きな高館城がもっとも佐竹勢の侵攻想定路に近く、重要な防衛拠点としていたことが想像される。
円弧状の堀切→DSCN8354.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.618860/140.181642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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野上要害(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8238.JPG←主郭背後の土塁
 野上要害は、塙要害とも呼ばれ、歴史不詳の城砦である。那珂川と江川に挟まれた野上地区の台地の南の突端に築かれている。台地基部に土塁と堀切が築かれて背後を分断している。ほぼ単郭の簡素の城砦で、曲輪内は2段に分かれているが、全域耕作放棄地の薮となっている。遺構としてはそれだけで、他にあったとしても薮で確認は困難である。
 位置的には向田城と荒川を挟んで対峙する位置にあり、また南東には那珂川を挟んで稲積城があり、これらを攻撃するための陣城であった可能性もあるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.629314/140.153790/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2022/02/25
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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森田城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8115.JPG←背後の堀切
 森田城は、下野の名族那須氏の一族森田氏の居城である。1187年に、那須資隆の長男太郎光隆がこの地に分封されて森田城を築き、森田氏を称した。光隆は子に恵まれず、弟泰隆の子を養子に迎えたが、その養子にも嗣子がなく、森田氏は2代で断絶、城も一旦廃城となった。時代は降って戦国中期の1546年に、烏山城主那須高資は弟資胤を森田城主とし、森田氏を再興した。1551年、千本資俊が宇都宮氏重臣の芳賀高定と謀って高資を千本城で誘殺すると、資胤が那須宗家を継いで烏山城に入り、代わって弟の福原城主福原資安(後に資邦)が森田氏を継いだ。その後、資信が跡を継いだが、1590年に豊臣秀吉によって那須資晴が改易となると、森田氏も没落して森田城は廃城となった。

 森田城は、荒川南岸に突き出た比高60m程の丘陵上に築かれている。西麓にある芳朝寺の脇から登道が整備されている。この登道は城の背後の堀切から落ちる竪堀で、従ってこれを登っていくと堀切に至る。そこから腰曲輪を経由して主郭に至る道が付いている。中心に主郭を置き、その北側に段差で区画された舌状の二ノ郭を築いている。二ノ郭には土塁がないが、主郭には東辺から南辺にかけて土塁が築かれている。これらを全周取り巻くように腰曲輪が築かれ、その半分ほどは外周に土塁が築かれて横堀状となっている。西側では腰曲輪は2段築かれ、上段は更に食い違って上下に重なり、主郭西側に通じる虎口を構成している。この他、西の下段の腰曲輪の先端から西斜面に竪堀が落ちており、この竪堀は近世に森田を寮した森田大田原氏の墓所の裏に落ちてきている。南東には腰曲輪の張り出しがあり、その脇に竪堀が落ちている。北斜面にも竪堀があるとされるが、薮で確認できなかった。
 森田城は、小規模な城であるが遺構はよく残っている。ただ薮が多く、主郭にある解説板も四阿も薮に埋もれかかっている。今後の整備に期待したい。
東側の主郭切岸と腰曲輪→DSCN8166.JPG
DSCN8221.JPG←西側の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632172/140.127933/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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丸子館(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8077.JPG←前館西側の空堀
 丸子館は、三ヶ尻館とも言い、葛西氏の一族三ヶ尻氏の居館である。三ヶ尻氏は、葛西三郎詮義の3男清義を祖とし、2代又次朗清秀、3代加賀恒逢と3代に渡る居館となった。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、主家の江刺氏はその主君葛西氏の改易と共に没落した。しかし江刺氏は、家老の三ヶ尻加賀恒逢が奥州仕置軍の軍監浅野長政に主家の再興を直訴し、その忠志を賞された結果、南部信直に仕えることとなり、家臣となった三ヶ尻氏は1603年に南部領和賀郡倉沢館の館主となった。以後、丸子館は廃館となった。

 丸子館は、北上川西方の段丘辺縁部に築かれている。空堀で区画された方形の曲輪群で構成された群郭式の縄張りで、中核の曲輪を丸子館、その南に東から順に前館・後館、これらの西側に三瓶屋敷が置かれている。現在は、前館が民家となっていて内部確認できず、また他の曲輪は耕作放棄地の深い薮で踏査不能となっている。館内を貫通する車道は丸子館と前館・後館とを画する空堀の跡で、また前館西側の空堀が車道から確認できる。しかし丸子館・後館西側の空堀は深い薮で全くその形状を追うことができない。町史跡であり、解説板・標柱も立っているが、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.214375/141.114578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


分裂から天下統一へ〈シリーズ日本中世史 4〉 (岩波新書)

分裂から天下統一へ〈シリーズ日本中世史 4〉 (岩波新書)

  • 作者: 村井 章介
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/07/21
  • メディア: 新書


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相去城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7940.JPG←主郭西側の空堀
 相去城は、和賀氏の家臣相去氏の居城である。相去氏については、1382年の黒岩城主和賀左近将監跡地の領知をめぐる鬼柳式部大夫擁立のための一揆同心状に相去壱岐守の名があり、この頃に相去氏が存在していたことが確認される。1391年、それまで江刺郡に属していた会佐利(相去)郷が和賀(鬼柳)伊賀入道の領地となった。1470年、和賀・江刺両氏の間に兵乱があり、翌年には和賀・葛西両氏が相去の地で合戦に及ぶなど、相去は和賀氏領国の南の境目となっていた。戦国後期の1565年には、胆沢西根城主新渡部摂津守頼長と伊澤(柏山)伊勢守が対立し、頼長は相去城で自刃しており、この時には相去城が存在していたことが確認できる。相去城の最後の城主は相去清三郎、或いは相去安芸守と言われ、1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で和賀氏が改易となると、相去氏も没落したと思われる。

 相去城は、洞泉寺背後の比高30m程の丘陵上に築かれている。城の東直下には幹線国道4号線が通る市街地であり、周囲は市街化が進み、城のすぐ側には工場も建っているが、奇跡的に城はほとんど原型を保っている。主郭は洞泉寺の境内であるらしく、北東隅に鐘楼が建てられていて、そこまでの登道も整備されている。この登道は主郭北東面の登城路であったらしく、横堀状の通路となっている。その周辺の斜面には腰曲輪群が築かれている。主郭は丘陵北東部を空堀で区画した広い曲輪で、半分が空き地、残り半分が山林となっている。空堀は西辺と南辺を囲んでおり、南東端部ではわずかに屈曲して横矢を掛けている。西側の空堀は二重横堀となっていて、中間の土塁は途中に膨らみがあり、外側に土塁、内側に平場があり、堡塁として機能していたと考えられる。これは宮城の前川本城と同じ形態である。更に西には少し平場が続いた後、外側に小さな横堀が穿たれている。また主郭の東斜面や南面に腰曲輪が築かれており、主郭の空堀の南西部から南の腰曲輪に通じる堀状通路もある。腰曲輪群の南東隅には、大きな竪堀が麓に向かって落ちている。
 以上が相去城の遺構で、主要な曲輪は主郭しかなく、残りは二ノ郭とは呼べない程度の曲輪群だけで囲まれた、居館的な城である。尚、城内の3/4は薮で覆われており、西の外堀などはわずかに形が分かる程度となっていて、ちょっと残念な状況である。
南東端の竪堀→DSCN7991.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.248565/141.097863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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上須々孫城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7844.JPG←東館の屈曲する空堀・土塁
 上須々孫城は、上煤孫城とも記載され、和賀氏の一族煤孫氏に関連する城と考えられている。『鬼柳文書』によると、1243年頃に和賀義行の3男景行に「須々孫野馬」が譲渡されており、この地が煤孫本郷と呼ばれていることから、煤孫氏の祖となった景行の居城であった可能性が考えられている。しかし和賀氏・煤孫氏の系図には混乱が多く、不明な点が多い。景行は、1285年頃に兄で和賀氏惣領の泰義と相論を起こして対立しており、煤孫氏が惣領の和賀氏から次第に自立していたことがうかがわれる。南北朝時代には煤孫氏は南朝方として戦ったことが知られる。いつの頃からか、下須々孫城を居城としたと推測されるが、上須々孫城の遺構の状況から、戦国時代にも上須々孫城には有力な豪族が居住していたと考えられている。

 上須々孫城は、和賀川南方の比高30m程の段丘上に築かれており、下須々孫城の西方約1.5kmに位置している。熊沢の流れる谷戸を挟んで城域は東西に分かれ、便宜上それぞれ西館・東館と呼称される。
 西館は北東に向かって突き出た舌状台地の先端に築かれており、2本の堀切で分断された連郭式の縄張りとなっている。堀切の内側にはいずれも土塁が築かれている。内堀の内側が主郭、外側が二ノ郭と考えられ、内堀には中程と北端部と2本の土橋が架かり、中程の土橋には二ノ郭側からわずかな横矢が掛かっている。西館の東の縁を車道が通っていて遺構が一部破壊を受けているが、車道の東側にも外堀は残存している。また主郭の先端には経塚があり、鎌倉末期の元亨3年(1323年)銘の石塔婆が山林内に残っている。
 一方、東館は広い段丘の北西部を方形に区画した居館形式の城である。別名を林崎館とも言う。山形の鷹ノ巣楯によく似ており、南と西に直線状の堀を穿ち、南面中央と北東端部の2ヶ所に横矢掛りの櫓台を設け、土橋を架けている。西館と比べると堀の規模は大きく、内側には大きな土塁が築かれている。横矢掛りが見事な整然とした遺構と、堀・土塁の規模から、戦国末期の天正年間(1573~92年)頃の館と推測されているらしい。
 上須々孫城は、下須々孫城と比べると要害性に劣り、防御力も十分とは言い難い遺構ではあるが、東館の大きな堀と横矢掛りは見応えがある。但し、西館・東館ともに薮が多いのが難点である。
西館の外堀と土塁→DSCN7779.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【西館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.286757/140.997720/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【東館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.285744/141.000402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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下須々孫城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7657.JPG←主郭南東に突出した物見台
 下須々孫城は、煤孫城・観音館とも言い、和賀氏の一族煤孫氏の居城と考えられている。南北朝時代には南朝方に属して北朝方の和賀氏一族と争い、「西和賀殿」とも称される勢力を持った。1340年には、北朝方に転じた同族の鬼柳氏と岩崎城で戦いこれを敗ったが、南朝勢力の衰退に伴って北朝方に敗れた。1435年には、煤孫氏は本家の和賀氏と反目し、他の一族家臣を巻き込んだ大規模な内訌「和賀の大乱」を引き起こした。1590年、豊臣秀吉の奥羽仕置によって和賀氏が改易となると、煤孫氏も没落した。1600年、和賀忠親が旧領奪回を目指して南部氏に対して起こした岩崎一揆の際には、煤孫上野義重が岩崎城大手門の守将を務めた。また煤孫一族の下野守治義・助三郎隆義父子も岩崎一揆に加担して戦い、治義は討死し、隆義は和賀氏滅亡後浪人になったと言う。また義重は一揆敗北後、主君和賀忠親と共に伊達政宗の元に身を寄せたが、1601年に仙台の国分尼寺で忠親と共に自刃した。

 下須々孫城は、和賀川南方の比高30m程の段丘上に築かれている。大空堀で分断された東西2郭が主要な曲輪で、東の大きな曲輪が主郭、西の縦長の曲輪が二ノ郭とされる。主郭は公園・神社・畑、二ノ郭は山林・畑となっている。大空堀の南端は巨大な谷に落ち込んでおり、その南に3郭がそびえている。しかし谷は深く急峻で、切岸も絶壁となっていて3郭にはとても登れなかった。また主郭の南東には谷筋を見張る物見台が突き出ており、その脇に堀切で分断された独立した東郭がある。東郭には東・南に腰曲輪が付随している。またこの堀切からは主郭東側を廻る腰曲輪に通じている。腰曲輪の北東部は横堀が穿たれ、その脇に物見台が構築されている。物見台には指揮台石の様な石がある。主郭の北にも横堀・腰曲輪があり、横堀は城内通路を兼ねていたらしく、下方に枡形状の空間が構築されている。以上が、下須々孫城の遺構で、主郭・二ノ郭は何の変哲もない平場に過ぎないが、主郭の外周には中世城郭として見応えのある遺構が眠っている。
堀切と東郭→DSCN7659.JPG
DSCN7691.JPG←主郭北東の横堀と物見台
主郭北側の横堀→DSCN7712.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.281176/141.016774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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