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亀山城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0291.JPG←西1郭先端の堀切
 亀山城は、増山城の出城と言われ、神保安芸の居城と伝えられている。一説には、南北朝期の1362年に二宮円阿が警固した和田城とは、増山城ではなくこの亀山城ではなかったかとも言われる。

 亀山城は、増山城の北方、法花坊谷で隔てられた標高133.0mの独立山上に、増山城と隣接するように築かれている。南の車道から主郭まで散策路があるので訪城は容易だが、薮払いされて整備されているのは主郭から南西に伸びる尾根筋だけで、それ以外の腰曲輪群は未整備の薮に埋もれている。主郭は瓢箪型をした曲輪で、南東に一段低く舌状の平場が伸びている。主郭の南斜面から東斜面にかけて腰曲輪群が広がっているが、薮で形状がわかりにくい。辛うじて堀切や竪堀が確認できる。主郭から南西に登る尾根筋に大手道があったらしく、この登城路に沿って段曲輪があり、登城路の北西斜面には散発的に竪堀が3本穿たれている。尾根を降っていくと西1郭があり、先端に堀切が穿たれ(前述の散策路はここに登ってくる)、その先にL字型土塁を築いた西2郭がある。西2郭の北斜面にも竪堀が1本あり、先端に土橋を架けた堀切で分断している。その先にも小郭がある。一方、主郭の北斜面にも腰曲輪があり、この腰曲輪の西端には小堀切が穿たれている。この腰曲輪の北には鞍部の平場を挟んで、孫次山砦が築かれている。
 亀山城は、広大な曲輪群と大堀切で武装した巨城・増山城と異なり、オーソドックスなコンパクトな山城である。もう少し腰曲輪群を薮払いしてもらえるとありがたいのだが。
西2郭先端の堀切・土橋→DSCN0286.JPG
DSCN0309.JPG←登城路の竪堀2本

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.655656/137.045002/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/04/25
  • メディア: 単行本


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池ノ平等屋敷・七ツ尾山屋敷(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0224.JPG←池ノ平等屋敷の西虎口
 池ノ平等(いけのたいら)屋敷・七ツ尾山屋敷は、いずれも増山城亀山城の間の丘陵地にある。明確な歴史は不明であるが、増山城に関連する屋敷地と考えられ、特に池ノ平等屋敷については、増山落城の際に神保夫人が入水した井戸が伝えられている。

 池ノ平等屋敷は、南北を谷で挟まれた丘陵上に築かれている。ほぼ方形に近い曲輪で、外周を土塁で囲んでいるが、西辺と北西には土塁がなく、切岸だけで区画されている。また北と東に空堀を穿っている。虎口は北・西・南東の3ヶ所にあり、西のものは食違い虎口になっている。主郭の西側に、神保夫人入水の井戸が残っている。それにしても「平等」と書いて「たいら」と読むとは、難読漢字の一つである。

 七ツ尾山屋敷は、池ノ平等屋敷からしばらく東に尾根筋を進んだ先にある。小高い丘陵上にあり、主郭の前面に当たる西側に虎口を形成する土塁・浅い堀が見られる。主郭は、西側に屈曲する坂土橋を持った虎口を有した不整形な曲輪で、北端の尾根にだけ浅い堀切が穿たれている。それ以外に土塁などはなく、南東に伸びる尾根は明確な区画もなく、主郭からダラダラと続いてしまっている。あまり意図がはっきりしない屋敷である。

 尚、池ノ平等屋敷は散策路沿いにあるので訪城は容易だが、七ツ尾山屋敷は散策路から外れた山林内にあるので、訪城の際は迷わないように注意が必要である。
七ツ尾山屋敷北端の堀切→DSCN0256.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【池ノ平等屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.653883/137.044551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【七ツ尾山屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654382/137.045925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2022/04/24
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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増山城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0893.JPG←大手道を防衛するF郭
 増山城は、越中3大山城の一つに数えられ、射水・婦負郡守護代となった神保氏の主要な居城の一つである。史料上の初見は、南北朝時代の1362年とされる。即ち『二宮円阿軍忠状』によれば、室町幕府に敵対した前越中守護桃井直常討伐に従軍した二宮円阿は、和田合戦などを転戦した後、和田城を警固している。この和田城が増山城のことであろうと推測されているが、別説では隣接する亀山城のこととも言われる。その後、越中守護畠山氏の下で射水・婦負両郡に勢力を張った神保氏が、居城放生津城の支城として整備したとされる。神保氏は、1520年に守護畠山尚順の要請を受けた越後守護代長尾為景の攻撃で当主神保慶宗が滅ぼされて没落したが、後に慶宗の子神保長職が家名を再興し、長職は1543年に富山城を築いて居城とした。勢力を強めた神保氏は長尾方の松倉城主椎名康胤を圧迫したため、1560年、椎名氏救援のため、越後守護代長尾景虎(上杉謙信)は越中に侵攻し、神保氏を攻撃した。長職は富山城を放棄して増山城へ逃れたが、長尾勢の追撃を受けて再び落ち延びた。1562年、謙信は再度増山城を攻撃して落城させた。1566年、長職は謙信と結んで増山城に拠って一向一揆と戦った。しかし1572年頃に長職が没すると、増山城は一向一揆勢に占拠された。1576年、謙信の攻撃によって栂尾城と共に攻略され、謙信の部将吉江宗信が増山城を守った。こうして越中一国は上杉氏の支配下となったが、謙信が急死すると織田勢が越中に進出した。1581年、織田勢は増山城の上杉勢を攻撃し、城を焼き払った。1583年、越中を平定した佐々成政の支配下となり、85年には豊臣秀吉との戦いに備えて増山城を整備した。富山の役で成政が秀吉の軍門に降ると、礪波郡は前田氏に与えられ、増山城は前田利家の重臣山崎庄兵衛長徳と中川清六光重(巨海斎宗半)が守った。しかし最後の城主中川光重は不在期間が長く、実質的には妻の蕭姫(利家の二女)が城を守り「増山殿」と呼ばれた。廃城時期は不明であるが、1605年頃にはまだ存続していたことが知られている。

 増山城は、増山湖東岸にそびえる標高120mの丘陵上に築かれた城である。広大な6つの曲輪を配置し、周囲を多数の腰曲輪群で防御した巨大山城である。前日に行った松倉城もそこそこの規模であったが、それより遥かに大きく、全域を踏査するのが大変である。また各曲輪間や尾根筋を分断する堀切は、いずれも深さ10m近い規模の鋭い薬研堀で、見るからにえげつない堀切が連発している。堀切を確認するために急斜面を降りていたら、数m滑落して肋骨折ってしまった程である。国指定史跡となっているので、散策路が敷設され、城内もかなりの部分が整備されている。

 曲輪は、北西から順に馬之背ゴ・通称一ノ丸(実質二ノ郭)・通称二ノ丸(実質主郭)・三ノ丸を連ね、更に主郭の北に安室屋敷、南に無常という曲輪を配している。この内、馬之背ゴ・主郭・三ノ丸・安室屋敷には土塁が築かれ、特に主郭の北東隅(鐘楼堂)と南西隅には櫓台が築かれており、北東隅のものは規模から考えて天守があった可能性がある。大手は馬之背ゴと二ノ郭の間の谷戸にあったようで、大手を防衛する曲輪(F郭)が大手道を遮るように構築されている。大手道の両翼にある尾根筋には、大型の鋭い薬研堀が穿たれ、北尾根からの敵の接近を阻止している。また無常の南端には鐘搗堂・南櫓台という2つの土壇が各々堀切を介して連ねられている。ここから西の斜面には搦手道があったらしく、その脇には搦手道を防衛する畝状竪堀が穿たれている。また主郭の南には、堀切を介してK郭が築かれている。この堀切も深い切り通しとなって斜面を下っている。前述の鐘搗堂・K郭・三ノ丸が築かれた3つの尾根を貫通して、長大な堀切の防御線が城域南部に構築されている。この堀切ラインは、三ノ郭南では横堀となり、半円形の腰曲輪を取り巻くように円弧状に穿たれ、東端は三ノ丸東側の横堀と繋がり、更に南東に竪堀が落とされている。安室屋敷の周囲にも横堀・堀切が穿たれている。

 以上、城の主要部をラフに概観したが、ここから北東の亀山城との間にも、外郭となる御所山屋敷・足軽屋敷といった曲輪群がある。これだけの規模の城、一体どれだけの兵で守ったのか、想像することも難しい。いずれにしても曲輪の規模は近世城郭並みであり、必見の城である。
一ノ丸腰曲輪北端の大堀切→DSCN0941.JPG
DSCN0986.JPG←主郭虎口
無常南の堀切と鐘搗堂→DSCN1040.JPG
DSCN1183.JPG←三ノ丸南側の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.651197/137.041204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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武隈屋敷(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9824.JPG←外周の石垣
 武隈屋敷は、小菅沼城とも呼ばれ、松倉城主椎名氏の家老と伝えられる武隈氏の居館である。金山谷から松倉城への途中に位置しているが、この小菅沼地区には他にも土塁で囲まれた館跡が存在しており、松倉城の時代に支城や城館群が多数存在していたと考えられている。

 武隈屋敷は、小菅沼集落の西端部にある。外周を石垣で囲んだ居館で、東西に虎口があり、いずれも枡形虎口となっている。特に西側のものは土塁で明確に枡形が構築され、虎口両翼の塁線には石垣が組まれている。但し、近代まで武隈氏の屋敷として使われていたということなので、どこまで中世の遺構かは明確ではない。屋敷地内に残る建物脇にも石垣を伴った土塁があったりするので、余計に怪しい。しかし上野の彦部家屋敷が戦国時代の武家屋敷の面影を色濃く残していたように、この武隈屋敷も中世戦国期の形態を残しているのかもしれない。尚、すぐ近くに人の気配がある土地なのに、カモシカが郭内に出現したのには驚いた。
西の枡形虎口→DSCN9841.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.767243/137.438021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/04/18
  • メディア: 単行本


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水尾城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9770.JPG←主郭背後の堀切
 水尾城は、松倉城の支城群の一つである。『得田文書』によると、南北朝期の1346年7月に、北朝方の能登守護吉見頼隆の軍勢が、前越中守護普門(井上)俊清討伐のために水尾南山要害と水尾城を攻めたと記載されている。しかしこれ以後、水尾城は文献史料には登場せず、戦国期の歴史は不明であるが、戦国時代にも松倉城の支城として機能していたと推測されている。

 水尾城は、松倉城西方の標高303mの南北に長い峰に築かれている。城の脇まで林道が伸びており、車で近づくのは道が荒れていて困難だが、迷うことなく歩いていくことができる。堀切によって区画された5つの曲輪群から構成されている。仮に、北から順に北2郭・北1郭・主郭・南1郭・南2郭と呼称すると、北2郭が最も広く、北西斜面に何段もの腰曲輪群を連ねている。北東尾根には堀切が穿たれている。更に尾根の先には北端の堀切があるらしいが、時間がなく未確認である。北1郭は平坦な曲輪で、背後の堀切で主郭と分断されている。この堀切に沿って石積みが見られる。主郭は最も小さい曲輪で、後部に土塁を築き、その背後に堀切を穿っている。南1郭は緩斜面となっていて、削平の甘い曲輪である。南側に浅い堀切を穿っている。その南に南2郭があるが、斜面上に築かれた曲輪群で構成されている。南2郭まで来たところで猿軍団が出現したので、末端まで遺構を確認することができず早々に撤退した。城内は現在はほとんど整備されていないが、遺構がわからないような薮ではないので、遺構は比較的わかりやすい。ただ、かつて整備された堀切に架かる橋が朽ちて崩落してしまっている。水尾城は、石積みがあるものの、縄張りは古風なもので、南北朝時代の縄張りをほとんどそのまま受け継いでいると思われる。尚、主郭とした曲輪は、規模が小さく、実際に主郭だったのかどうかは確信が持てない。
堀切に残る石積み→DSCN9812.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.750654/137.427721/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

富山県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


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石の門砦(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9686.JPG←石門の大型の石組み
 石の門砦は、南升方城と水尾城の間の丘陵鞍部に位置する大型の石組遺構を中心とした砦である。一説には、城下町があったとされる鹿熊集落や松倉城へと通じるための出入口(大手門)とされる。尾根に直交して貫通する切通し道の両側に、大型の川原石を積み上げた石門が築かれている。石門の東の丘陵地には平場群があるが、削平が甘く遺構かどうかはっきりしない。しかし土塁が確認でき、砦遺構があったことがわかる。この様な大規模な石門遺構は珍しく、一見の価値がある。車道脇にあるので、探訪も容易である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.754642/137.423537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/04/17
  • メディア: 単行本


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升方城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9633.JPG←横堀状の二ノ郭
 升方城は、松倉城の支城群の一つである。城の歴史は明確ではないが、江戸時代に書かれた史料では松倉城主椎名氏の家老小幡九郎が最初の城主で、その後佐々成政の家臣佐々新左衛門が守将となったと言われている。

 升方城は、標高241m、比高120m程の城山に築かれている。城の西端部の曲輪が公園となっていて、車道も整備されているので訪城は容易である。公園から城に登る散策路があり、四阿やトイレが郭内に置かれ、以前は城址公園としてある程度整備されていた形跡があるが、現在は未整備の薮城と化しており、維持管理できなかった城址公園の典型となってしまっている。升方城の縄張りは、山頂に長円形の主郭を置き、その周囲を取り巻くように腰曲輪状の二ノ郭を廻らし、そこから西に降る城道に沿って曲輪群が置かれている。主郭も二ノ郭も土塁が築かれ、特に二ノ郭の東側は横堀状になっている。二ノ郭には井戸跡も残っている。西の城道は曲輪群を登りながら屈曲して二ノ郭に通じている。この城道に沿った曲輪群の内、西端部の3郭には外周に土塁が築かれ、その外側下方に横堀が穿たれている。横堀の外には4郭がある。4郭の西側下方は公園の平場であるが、ここも曲輪であったと考えられる。この他、二ノ郭の北側にも腰曲輪・横堀があり、竪堀も数本確認できる。また北西に伸びる尾根には堀切が2本穿たれている。東尾根には堀切を穿って城の背後を分断している。二ノ郭から南尾根に降るところにも小郭数個を設けた城道があり、その先に堀切がある。この南の城道の西側に広がる南斜面には畝状竪堀が穿たれているが、薮に埋もれてしまっている。ここの畝状竪堀は、東と西で落とし方が異なり、東は直接斜面に穿っているが、西は横堀から竪堀を落としている。この他、西の城道沿いや二ノ郭土塁に石積みが残るが、薮に埋もれてほとんどわからなくなってしまっている。以上が升方城の遺構で、遺構はよく残っているが薮に埋もれているのが残念である。主郭にある城址碑と解説板も、薮に埋もれかけている。
南斜面の畝状竪堀→DSCN9611.JPG
DSCN9548.JPG←北西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.763874/137.420146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
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平峰砦(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9437.JPG←東の堀切
 平峰砦は、松倉城の北東尾根の先にある物見の砦である。標高431.2mの峰上に築かれており、松倉城との間の尾根筋には連絡を分断する堀切が3ヶ所穿たれている(この堀切の内、最も規模が大きい北のものは散策路が通過している)。東西に長い主郭を持ったほぼ単郭の砦で、南北の斜面に腰曲輪を配し、東西の尾根筋を堀切で分断しただけの簡素な縄張りである。主郭は小さな段差で東西2段に分かれている。東西の堀切の先には小郭が置かれ、その先にも遺構があるようだが、時間の都合で未踏査である。尚、東の堀切には石積みの城戸か何かがあったらしく、大きな切り石が散乱している。
 平峰砦からは、北に眺望がひらけ、物見として絶好に位置にあったことがうかがえる。尚、主郭までは散策路が整備されているので、松倉城からちょっと足を伸ばせば行くことができる。
主郭内の段差→DSCN9433.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.758321/137.441776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国越中外史

戦国越中外史

  • 作者: 宏太郎, 盛永
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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松倉城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9123.JPG←主郭
 松倉城は、越中3大山城の一つに数えられ、新川郡守護代となった椎名氏の居城である。松倉城の文献上の初見は南北朝初期の1338年で、『太平記』第20巻に越中守護普門(井上)蔵人俊清が越後南朝方との戦いに敗れ、松倉城に立て籠もったとの記述がある。1344年、俊清は東大寺領の荘園押領等によって越中守護を罷免されたことから室町幕府に背き、幕府から追討されることとなった。1347年、幕府は桃井直常・能登守護吉見氏頼らに俊清を討伐させ、俊清の籠もる松倉城を攻撃し、1348年10月に松倉城を攻略した。俊清は逃れて、内山城に立て籠もり、その後没落した。その後桃井直常が越中守護となったが、直常は足利直義党の最右翼の武将で、1350年に足利尊氏・直義兄弟による幕府を二分する内訌「観応の擾乱」が勃発すると、直常は終始直義党として尊氏に激しく反抗し、直義没後も反幕府勢力として越中を拠点として活動した。1369年、直常は能登に進攻し、能登吉見勢と能登・加賀・越中3国で交戦し、同年9月29日には松倉城に引き籠もり、その後も継続して松倉城を拠点として抵抗を続けた。しかし幕府方の攻撃によって、桃井氏は没落した。後に畠山氏が越中守護となると、在地豪族の椎名氏は畠山氏に服属して松倉城を本拠とした。椎名氏は元々下総の名族千葉氏の庶流で、その一族が鎌倉時代に越中に入部したらしい。室町中期に椎名氏は新川郡守護代となり、礪波郡守護代遊佐氏、射水・婦負郡守護代神保氏と共に、越中三守護代家が分立した。畠山持国の後継を巡る内訌が生じると、椎名氏は畠山政長派となった。畠山氏の内訌が直接の契機となって応仁の乱が勃発すると、椎名氏は東軍に属して戦った。戦国時代に入ると、神保・椎名両氏が越中を二分して拮抗した。守護畠山氏の勢力が減退し、神保慶宗が越中一向一揆と手を結んで自立の動きを見せると、1506年、畠山尚順は越後守護代の長尾能景に支援を求め、これが越後長尾氏が越中の騒乱に関わるきっかけとなった。1515年、尚順は再び越後守護代長尾為景(能景の子)に神保氏討伐の支援を求めた。以後、為景はしばしば越中に侵攻し、神保慶宗・椎名慶胤らと交戦を繰り返した。1520年、為景は神保慶宗・椎名慶胤を滅ぼし、翌21年に畠山尚順から新川郡守護代に任ぜられた。為景は、椎名氏の旧領を安堵して椎名長常を又守護代とし、新川郡支配を委ねた。1536年、長尾為景が没すると椎名氏の支配は不安定化し、神保慶宗の子長職による神保氏再興運動が活発化した。神保氏は勢力を拡大し、椎名氏と越中を二分して抗争を繰り返した。1560年、富山城の神保長職と敵対する松倉城主椎名康胤救援のため、越後守護代長尾景虎(上杉謙信)は越中に侵攻。景虎は神保氏を破り、椎名氏を安泰にして帰国した。しかし後に七尾城を追放された能登国守護畠山義綱への対応を巡って、康胤と謙信との間に溝が生じ、1568年 、遂には武田信玄・越中一向一揆と結んで上杉氏から離反した。翌年8月、謙信は康胤が籠もる松倉城を攻撃し、康胤は松倉城を追われた。その後は上杉氏の属城となり、魚津城と並んで上杉氏の越中における重要拠点となった。その後、謙信の重臣河田豊前守長親が松倉城を守ったが、1578年に謙信が急死して御館の乱が生起すると、その隙を突いて越中に侵攻した織田軍に圧迫され、上杉方は越中東部に圧迫された。1580年には織田方の神保長住が松倉城下に進撃して放火している。翌81年、長親は松倉城で病没した。1582年、柴田勝家・前田利家・佐久間盛政・佐々成政らの織田軍が上杉方の松倉城・魚津城を攻撃し、6月3日に魚津城は玉砕して落城した。これは本能寺の変で織田信長が横死した翌日のことであった。本能寺の変の報を受けて織田勢は撤退し、上杉勢は直ちに魚津城・小出城などを奪還したが、翌83年に再び佐々成政の攻撃を受け、松倉城・魚津城は攻略されて越中は成政によってほぼ平定された。佐々氏やその後の前田氏の支配時代に松倉城が使用されたかどうかは不明であるが、慶長年間(1596~1615年)初期に廃城になったと伝えられる。

 松倉城は、標高413m、比高340m程の山上に築かれている。まともに登ったら大変だが、県の史跡に指定されており、城内まで車道が延びており、城の間近まで車で行くことができる。山頂の主郭を中心にY字型をした尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の縄張りとなっている。主軸となるのが北東尾根に連なる曲輪群で、南の主郭から順に二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭が堀切を介して連なっている。それぞれの曲輪には腰曲輪が付随して、守りを固めている。主郭の後部は一段高くなっているが、巨岩がゴロゴロしていて建物が建てられるようなスペースはなく、櫓台ではなく信仰的な施設が置かれたものと思われる。主郭の背後にも堀切を介して八幡堂と言う物見台のような曲輪が置かれているが、これも信仰的施設だったのだろう。八幡堂の周りにも腰曲輪が見られる。また二ノ郭の南西には虎口郭が付随し、三ノ郭には土塁が巡らされ、その東の尾根に数本の小堀切が穿たれている。四ノ郭は後部に物見台状の土壇を設け、北側に土塁を廻らしている。先端は堀切が穿たれ、更に東側に横堀を穿って防御している。一方、主郭の北西の尾根には大きな切岸で区画された何段もの広い舌状曲輪が連なっている。その先には木戸口があり、そこから更に西に下った所に大見城平と呼ばれる広大な居館地区の平場群がある。大見城平の最上部に当たる南東部には土塁で構築された屈曲した動線の枡形虎口が見られる。また大見城平の最下部には石垣の残る大手口があり、北西下方には大きく窪んだ井戸曲輪、北側には独立した物見砦がある。
 以上が松倉城の遺構で、主要部は整備されて見易いが、腰曲輪や主郭北西の曲輪群はほとんど未整備となっている。また車道によって腰曲輪群が改変されてもいる。しかし全体としては、往時の姿をよく残しており、見応えがある。尚、城までの車道の途中では、20~30頭の猿軍団のお出迎えがあった。
四ノ郭東の横堀→DSCN9396.JPG
DSCN9276.JPG←大見城平の平場群
大手門の石垣→DSCN9248.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.754505/137.437656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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小田野城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

DSCN9050.JPG←主郭背後の二重堀切
 小田野城は、佐竹氏の一族山入氏の庶流小田野氏の居城である。室町初期に、佐竹貞義の7男山入師義の3男自義がこの地に分封されて小田野氏を称し、小田野城を築いた。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、山入与義は同族の長倉氏・額田氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。この時、小田野氏は、山入氏の庶家であるにも関わらず佐竹氏方に付いて戦った。山入の乱は100年に渡って続き、小田野氏は軍功により佐竹氏家中での地位を確立し、重臣となった。小田野義正は和田昭為と共に佐竹義昭の側近の筆頭となった。義正の弟義房は兄の跡を継いで、佐竹義昭・義重2代に仕えた。義房の子義忠の時の1590年、小田野氏は水戸へ移り、小田野城は廃城となった。1595年には、義忠は佐竹義宣から久慈郡深萩の蔵入地1173石余を預かった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の時には、義宣に仕えて肥前名護屋に在陣した。1602年、佐竹氏が秋田へ転封となると、小田野義忠は子宣忠と共に秋田に移って常陸を離れた。

 小田野城は、比高60m程の山上に築かれている。東麓には地元の有志で活動している「森と地域の調和を考える会」が立てた解説板があり、そこから登城道が整備されている。城内も会によって薮払いされているので遺構をよく確認できる。山頂に主郭を置き、周囲に帯曲輪を数段廻らし、西側の背後の尾根に二重堀切とやや離れて堀切を穿っている。また南東の尾根に堀切で区画した舌状曲輪を置き、また北東の尾根にも基部に堀切を穿っている。基本的には小郭群と帯曲輪群で構成された小型の城で、主郭も狭小で居住性はほとんどない。堀切もいずれも規模が小さく、大した防御性を持っていたとは考えにくい。遺構はよく残っており、考える会のお陰で縄張りがわかりやすく整備されているが、城としては小規模で、あくまで有事の際の詰城の位置付けであった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678255/140.266378/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国佐竹氏研究の最前線

戦国佐竹氏研究の最前線

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大木須城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8970.JPG←主郭の湯殿神社
 大木須城は、木須大膳館とも言い、下野の名族那須氏の庶流木須氏の居城である。那須資実の次男頼実が、明応年間(1492~1501年)頃に大木須・小木須・横枕の地を与えられ、木須民部大輔を名乗り、大木須城を築いて居城としたと言う。頼実の子康実は1551年に主君那須高資と共に千本城に赴いて主君とともに謀殺された。康実には与九郎・与八郎という子があったが、二人は母方の羽田氏に引き取られて藤形輪館に移ったため、大木須城は廃城となったと伝えられる。

 大木須城は、比高70m程の山上に築かれている。明確な登山道が見当たらないので、西麓から斜面を直登した。ほぼ単郭の小規模な城砦で、山頂部に主郭を置き、その周囲に1~2段の腰曲輪を廻らしただけの簡単な構造である。東側の腰曲輪には竪堀が穿たれている。主郭の中央には土壇があり、湯殿神社の小祠が祀られている。主郭の北側は緩斜面となっていて、その先に二重堀切があるが、痕跡はわずかでほとんどわからない。更に少し降ったところに城域の北限を区切る堀切が穿たれている。以上が大木須城の遺構で、有事の際の詰城であったと思われる。
北端の堀切→DSCN8991.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632224/140.220662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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興野城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8928.JPG←西斜面の堀と帯曲輪
 興野城は、下野の名族那須氏の庶流興野氏の居城である。那須氏が室町時代に上那須・下那須両家に分裂した際、下那須家の当主となった那須資重の子資持の次男持隆が、興野・大沢村に領地を与えられ、1472年に興野氏を称し、7人の家来と共に興野城を築いて移ったと言う。築城当時は味城館と称し、後に「内曲輪・外城」と合わせて3館を構えていたとされる。1590年の那須氏改易によって廃城となった。

 興野城は、下那須氏の居城烏山城から那珂川を挟んだ対岸の河岸段丘上に築かれている。ちょうど興野大橋が架かっている場所にあり、そのため県道が城内を貫通して破壊を受けている。『那須の戦国時代』の縄張図によれば、南北に細長い三角形をした城であったらしく、現在は畑や宅地に変貌している。城の北端に堀切を兼ねたと思われる谷があり、その南側の小道脇に土塁と腰曲輪が残っている。あとは平場だけなので遺構は明確でないが、西斜面に堀を穿った帯曲輪があり、これも城の遺構と思われる。ただ堀と言うより溝に近い形状なので、本当に遺構なのかどうか、少々悩ましい。また城の南端部は宅地化で大きく様変わりしているので、どこまで城域だったのか、はっきりしない。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.667240/140.164196/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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