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葛岡城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2987.JPG←主郭外周の横堀
 葛岡城は、大崎氏の支城である。伝承では、元々は鎌倉初期に坂東武士の鑑と讃えられた名将畠山重忠が、1189年の奥州合戦の戦功により源頼朝から葛岡郡を所領として賜り、城を築いて弟の重宗を代官として派遣したと言われる。その後、1205年に北条時政の謀略により二俣川で畠山氏が滅ぼされると、葛岡城は一旦廃城となった。時代は下って室町末期には、大崎氏の家臣葛岡太郎左衛門(『日本城郭大系』では葛岡監物としている)が城を築き直して城主となった。1588年に伊達政宗が大崎氏家中の内紛に軍事介入した大崎合戦では、伊達勢に中新田城が攻撃された際に、葛岡監物・同太郎左衛門が300余騎にて中新田城に籠城したと言う。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易となると、葛岡氏も没落し、再び廃城となった。

 葛岡城は、梅林寺背後の比高50m程の丘陵上に築かれている。寺の脇から登道があり、城内は薮払いされて整備されている。一部が墓地となっているので、やや改変を受けているものの、遺構は概ねよく残っている。城は山稜の主尾根から南に張り出した支尾根に築かれており、南北2郭で構成されている。北が主郭、南が二ノ郭で、2郭の間は堀切で分断され、更に二ノ郭外周と主郭の北西から背後の北東面にかけて横堀が穿たれている。この横堀は主郭背後を分断する堀切を兼ねている。2郭の間の堀切は城道を兼ね、虎口を形成していたとも考えられるが、改変があるので詳細はわからない。また主郭も二ノ郭も後部に土塁を築いている。二ノ郭は小さい長円形の曲輪で、いかにも物見台的な位置付けである。主郭は、内部が南北2段に区画され、北の段はきれいに削平されているが、南の段は緩やかに傾斜している。この他、二ノ郭の西側には腰曲輪状の段がいくつも見られるが、墓地となっているので、どこまでが往時の遺構であるか、判別し難い。遺構としては以上で、簡素な構造の小規模な城砦である。
堀切と二ノ郭土塁→DSCN2948.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.692134/140.904958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

続・東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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多田川城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2867.JPG←主郭の内枡形虎口
 多田川城は、大崎氏の支城である。城主は、岩手澤城主氏家弾正の家臣多田川大膳とも、大崎氏家臣大谷孫八郎(円幢院の解説版には大谷弥八郎義清とある)とも言われる。いずれにしても大崎氏勢力の城であり、築城は1400年以後とされる。

 多田川城は、円憧院背後の比高40m程の山稜上に築かれている。南麓の民家の入口脇に城址標柱があるが、明確な登道はない様なので、取付きやすそうな円憧院の墓地裏から斜面を直登した。ネットで入手した資料では、西館・中館・東館の3郭があるとしているが、実際には5郭で構成されている。ここでは仮に、西から順に北郭・三ノ郭(西館)・主郭(中館)・二ノ郭(東館)・南郭と呼称する。これらの曲輪が一直線に並び、それぞれ堀切で区画された連郭式の縄張りとなっている。北郭先端と南郭先端の堀切は浅いが、それ以外の堀切はなかなか深い薬研堀となっている。主郭の南東部には綺麗に構築された内枡形虎口がある。また二ノ郭の北東には搦手虎口と思われる虎口郭が付随している。この虎口郭は主郭との間の堀切から通じており、土塁で巻いた櫓台が堀切脇に付いて虎口を形成している。これらの主要な曲輪は、主郭以外は削平が甘く、塁線も不明瞭な部分が散見される。一方で、これらの曲輪の東西の斜面には腰曲輪が築かれている。特に西側は数段に分かれ、土塁や城道らしい跡がある。以上が多田川城の遺構で、基本的には単純な形の連郭式の城に近い形態だが、主郭の内枡形虎口や二ノ郭の虎口郭には見るべきものがある。大崎氏勢力の城としては、設計の新しさを感じさせる。
主郭~三ノ郭間の堀切→DSCN2752.JPG
DSCN2785.JPG←二ノ郭の虎口郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.628966/140.838010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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宿館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2694.JPG←宿館の遠望
 宿館は、矢田川館とも呼ばれ、奥州探題大崎氏11代義直の居館であったとの伝承がある。義直は大崎天文の内乱を巻き起こした当主であった。1534年、義直の横暴に怒った新田安芸頼遠は、中新田・高木・黒沢らの諸氏を誘って叛乱を起こした。これが大崎天文の内乱で、その経緯は泉沢城の項に記載する。義直は直ちに叛乱討伐に出陣したが、独力で鎮圧できなかったため、桑折西山城主伊達稙宗に援軍を要請し、その支援を受けて内乱をようやく鎮圧した。この結果、伊達氏が奥州支配の実権を握ることとなったが、伊達氏もやがて天文の乱と呼ばれる奥州諸侯を巻き込んだ大規模な内乱を起こし、大崎氏もその渦中に巻き込まれることとなった。大崎義直がこの地に居住したという伝承の真偽は定かではないが、内乱の過程で一時的に本陣を置いたか、この地に逼塞を余儀なくされたか、或いは隠居城であったか、いずれかであろうか。尚、宿館の南東の山林内に、大崎義直の墓と伝えられる円墳がある。

 宿館は、民家裏にある高台にあったらしい。スーパー地形などで見る限り、方形をした高台の台地であるようだが、民家の裏の畑や薮となっていて踏査できず、遠望しただけで撤収した。尚、大崎義直の墓は山林の手前に標柱があるが、場所がわからなかったので脇の民家のご主人に場所を教えていただき、お参りした。山林内の円墳の上に自然石の墓があったが、倒れていたので立て直しておいた。しかし多分その後の地震でまた倒れてしまったことだろう。円墳の周囲に土塁状の地形が見られたが、宿館に関連するものであるかどうかは不明である。
円墳上の大崎義直墓→DSCN2688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593504/140.808012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達一族の中世: 「独眼龍」以前 (515) (歴史文化ライブラリー)

伊達一族の中世: 「独眼龍」以前 (515) (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 喜良, 伊藤
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: 単行本


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夕日楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2442.JPG←堀切状の虎口
 夕日楯(夕日館)は、小野田城とも言い、南北朝期の1346年に旭(朝日)楯主7代内海重朝の弟石川七郎重仲が分封されて築いたと伝えられる。その後石川氏は大崎氏の家臣となり、大崎家臣団の一員として戦場で名を馳せたが、1590年の葛西大崎一揆の際に夕日楯主石川長門隆重は四竈城主四竈尾張守隆秀と共にいち早く伊達氏の軍門に降り、その先鋒となって宮崎城攻撃に加わったと言う。江戸時代になると石川氏は帰農した様である。

 夕日楯は、鳴瀬川南岸の標高130m、比高70mの山上に築かれている。北麓の車道脇に城址標柱があり、西の谷戸に奥に伸びる小道があり、その奥から北西の腰曲輪群に登る道が付いている。おそらくこれが大手道だったのだろう(この道があるのは降りてきた時にわかったが、登る時はわからなかったので北東の斜面を直登して訪城した)。夕日楯は中心に主郭を置き、外周に二ノ郭を環郭式に廻らし、更に山頂から五方向に伸びる尾根地形を利用して腰曲輪群を配置している。この城の特徴は星型をした主郭であり、五方向に塁線を突出させて横矢を掛けている。星型主郭の例としては栃木の金丸氏要害があるが、それと比べると夕日楯の主郭は小さく、大した居住性を有していない。夕日楯の主郭で南東に突き出た部分は、二ノ郭から登る坂土橋を兼ねている。また夕日楯では、主郭だけでなく二ノ郭も星形となっている。腰曲輪群は外周の斜面全周に築かれているが、北東・北西・西の斜面で多く築かれ、特に北西と西は段数が多い。しかも腰曲輪端には坂土橋や土塁が多く散在しており、堀切のような虎口も設けられている。この堀切状虎口の脇には物見台が備わっており、同じ形状の虎口が数ヶ所構築されている。特に二ノ郭北東部には虎口の脇に大型の櫓台と土塁が備わっている。また北西腰曲輪群の北西端、西腰曲輪群の北西端・南西端の3ヶ所に堀切が穿たれ、その前面に物見台を設けている。主郭の南端にも、堀切と物見台土塁が築かれている。この他、南尾根の腰曲輪の先には、東斜面に4本の畝状竪堀が、また西斜面には二重竪堀が穿たれている。宮城の城で畝状竪堀は希少である。但し、南尾根には林道(現在は薮)があるので、元々多重堀切があったものが、林道開削で尾根上の堀切が堙滅し、側方の竪堀だけが残った可能性もある。
 いずれにしても夕日楯は、宮城県内でも有数の巧妙な縄張りを有しており、一見の価値がある。写真ではその魅力が十分伝わらないのが残念である。
星型主郭の塁線→DSCN2563.JPG
DSCN2530.JPG←主郭南端の堀切と物見台
北西斜面の腰曲輪群→DSCN2668.JPG
DSCN2390.JPG←北西端の堀切と物見台
南尾根の畝状竪堀→DSCN2473.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.566849/140.776727/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


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天神山城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1952.JPG←主郭の櫓台
 天神山城は、魚津城攻防戦の際に上杉景勝が後詰に入った城として知られる。元々、1554年に上杉謙信が松倉城の支城として築城したとされる。史料上では1572年から天神山の名が見えている(『上杉家文書』)。この年、越中・加賀の一向一揆が砺波郡より東進して、上杉方の最前線日宮城を攻め落とし、更に富山城をも占拠した。この時、上杉諸将間の緊迫した往復文書の中に「天神山」が度々現れ、天神山城が新庄城と共に上杉方の重要な中継拠点であったことが知られている。当時、天神山城には上杉氏重臣直江景綱が、新庄城には鰺坂長実が在城し、日宮城将からの注進は、最初に新庄城の鰺坂氏に、次いで天神山城の直江氏へ伝えられ、そこから越後春日山城へと伝達されている。次に天神山城が歴史に現れるのは、1582年の魚津城攻防戦の時である。謙信没後の内訌「御館の乱」で大きく勢力を減退させた上杉氏に対して、柴田勝家を総大将とする織田勢の北陸方面軍は加賀・能登を攻略、更に越中に進撃した。1582年3月下旬頃、松倉城と並ぶ越中東部の上杉方の一大拠点で、中条景泰ら12人の武将が立て籠もった魚津城を織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らが攻撃し、以後激しい攻防が数ヶ月にわたって繰り広げられた。しかし揚北衆の新発田重家の反乱で苦境にあった上杉景勝は、なかなか援軍を出すことができず、4月23日に魚津城将12人が景勝の執政直江兼続に送った決別の書状を見るに及んで、不利を承知で5000余人を率いて出陣し、5月15日に天神山城に後詰として着陣した。この動きを知った織田方は5月下旬、旧武田領の上野を支配した滝川一益と、信濃川中島4郡を支配した森長可とが、それぞれ越後への侵攻を開始した。特に森軍は景勝の本拠春日山城を目指して進軍しており、急報を受けた景勝は5月27日、やむを得ず春日山城に向けて撤退した。魚津城の城将12人は、降伏を肯んぜず、織田勢の猛攻に力戦して一人残さず討死し、6月3日に魚津城は落城した。それは、本能寺の変の翌日のことであった。その後の天神山城の歴史は不明である。

 天神山城は、片貝川北岸の河岸段丘上の独立丘陵、標高162.9mの天神山に築かれている。現在城内は公園化され、また城内に魚津歴史民俗博物館が立てられ、車道が敷設されるなど、大きく改変を受けている。山頂に東西に長い主郭を置き、その西側に一段低く二ノ郭を配置している。主郭の南辺には櫓台とそれに続く長い土塁が築かれている。主郭の東側は尾っぽのように長く伸びて降り、駐車場となっている平場に繋がっているが、改変があるため往時の形状は不明である。二ノ郭の北から西にかけて数段の腰曲輪がある。また主郭・二ノ郭の北側斜面には散発的に竪堀が穿たれている。北東の車道下の草木に覆われた斜面には多数の腰曲輪群が築かれ、それらの西端部を画する様に竪堀が落ちている。この竪堀は、途中で一度横堀に変化し、更にまた竪堀に変化して落ちている。この他、東尾根と南斜面にも腰曲輪群がある様だが、当日は天候不順かつ凍えるような寒さだったので、踏査しなかった。これらについてはまた機会を改めて確認してみたい。
 天神山城は、概ねの遺構はよく残っているものの、残念ながら改変のため、どこまで往時の形を残しているのか不明な部分も多く、少々残念な状態である。
竪堀→DSCN1971.JPG
DSCN1921.JPG←北東斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.825200/137.450230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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白鳥城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1853.JPG←帯曲輪と本丸横堀
 白鳥城は、1585年の富山の役の際に豊臣秀吉が本陣を置いた城である。元々の創築は治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)の時と言われ、1183年に木曽義仲の重臣今井四郎兼平が布陣した「御服山」、および南北朝期の1362年に元越中守護桃井直常の先制攻撃を受けて敗れた加賀・越前の軍勢が逃げ登った「五服峯」(『太平記』第38巻)が、白鳥城の前身であったと推測されている。戦国後期には、射水・婦負郡守護代神保長職は富山城を築いて居城としたが、越後長尾氏の支援を受けた新川郡守護代の松倉城主椎名氏と抗争していた中で、富山城の出城として白鳥城を築いた。1562年の上杉謙信の越中侵攻に対し、長職は呉福山(白鳥城)に立て籠もった。この後、神保・椎名両氏が没落して上杉氏が越中東半を支配したが、1572年に加賀・越中の一向一揆が礪波郡より東進し、上杉方の日宮城を攻め落とした。この時、上杉方は日宮城への援軍を「五福山」に上げたが、一揆方の大軍に攻められ敗退した。1578年には神保八郎左衛門が白鳥城に居城したと言われる。1585年、豊臣秀吉に敵対していた富山城主佐々成政を討伐するため、秀吉は前田利家らを率いて越中に進軍した。この時、前田氏の部将岡嶋一吉・片山伊賀が白鳥城に入ったが、後に秀吉の本営となり、岡嶋・片山らは東麓の安田城大峪城へ移った。成政降伏後の1586年、利家は3人の守将を白鳥城に置いた。1597年、前田利長が守山城から富山城の居城を移すと、再び岡嶋・片山らを「呉福山堡」(白鳥城)に置いたが、岡嶋・片山らは後に安田城に移り、白鳥城を詰城とした。廃城時期は不明だが、少なくとも1599年までは存続していたらしい。

 白鳥城は、神通川西方に横たわる呉羽丘陵の最高峰の城山(標高145.1m)に築かれている。現在、城址公園として整備されている。訪城した日は車道の一部が工事中で通行できない区間があったため、南駐車場から西出丸を経由して訪城した。最高所にほぼ方形の本丸を置き、その外周に2段の曲輪群を東・北・西の三方に配置した梯郭式の縄張りとなっている。更に東・北・北西・南の各尾根に張り出した出丸を築いている。本丸には櫓台が築かれ、北から西にかけて横堀が穿たれている。横堀は西二ノ丸の西側外周にも円弧状に穿たれ、そのまま南尾根を掘り切っている。堀切はここと、北西に配置された北二ノ丸、本丸西側の二ノ丸、その下方の三ノ丸にそれぞれ穿たれている。この城で出色なのは各所に築かれた枡形虎口で、二ノ丸の北側下方や西一ノ丸越曲輪の北側下方に出枡形が構築されている。しかし残念なことに、いずれの遺構も未整備の薮に覆われており、きれいな形を写真に納めることができない。
 白鳥城は、中心的な曲輪は整備されているが、腰曲輪群はほとんど薮に埋もれてしまっている。しかしそれでも頑張って踏査すれば、枡形虎口による導入系の築城技術が多い城であることがわかる。今石動城など前田氏構築の山城を見ると、これらの遺構は前田氏による構築ではなく、秀吉が本陣を置いた際に改修されたものと考えるのが妥当と思うが、どうであろうか?
西二ノ丸の円弧状横堀→DSCN1676.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(薮が多い分☆一つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.697974/137.163963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2022/05/14
  • メディア: 大型本


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今石動城(富山県小矢部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1603.JPG←南腰曲輪から見た本丸
 今石動城は、前田利家と佐々成政が交戦していた1585年に、前田氏によって新造された城である。利家の弟前田秀継・利秀父子が津幡城から移って城を守った。同年8月に成政が豊臣秀吉に降伏した後、秀継は木舟城の城主となり、城下町を整備したが、11月に起きた天正大地震で城が潰れ、秀継は夫人と共に亡くなった。翌年利秀は、木舟城から今石動城に居城を移し、城下町を建設した。しかし1593年に病没すると、翌年前田利長は今石動城を廃城とした。こうした歴史から、築城から廃城までの期間が10年程と短く、後の改修の可能性が低いため、天正期の前田氏の山城の形を留めた典型例とされる。

 今石動城は、標高186mの城山に築かれている。主郭を中心に北・北東・南・南西に伸びる四方の尾根上に多数の曲輪群を築いている。主郭の南西下方の車道に解説板があり、車で行けるので訪城はたやすい。散策路もあるが、整備されているのは本丸と南の段曲輪一郭だけで、他は未整備の薮に覆われているので、なかなか遺構の踏査が大変である。基本的には尾根上に切岸だけで区画された曲輪群を連ねただけで、堀切はわずかしかない。その堀切も大きなものではないが、北尾根の付け根にある堀切では明確な竪堀が落ちている。虎口も比較的平易な作りで、本丸北東に張り出した虎口郭が築かれているが、巧妙な枡形虎口など導入系の先進技術は見られない。加越国境城塞群でもそうだが、どうも前田氏の軍団は、佐々氏などと比べるとあまり先進的な築城技術を持っていなかった様に見受けられる。
堀切から落ちる竪堀→DSCN1490.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683228/136.858621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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蓮沼城(富山県小矢部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1447.JPG←城址碑付近の現況
 蓮沼城は、礪波郡守護代となった遊佐氏の居城である。遊佐氏は南北朝期から畠山氏に仕えて重臣となった一族で、畠山氏が越中守護となると、室町中期に遊佐氏は礪波郡守護代となり、新川郡守護代椎名氏、射水・婦負郡守護代神保氏と共に、越中三守護代家が分立した。遊佐氏が越中の中世史に現れるのは1396年の遊佐河内入道(長護)からであるが、蓮沼城がいつ築城されたのかは不明である。蓮沼の名が現れるのは永享年間(1429~41年)頃からで、この頃の城主は遊佐加賀守であった。文明年間(1469~87年)には連歌師飯尾宗祇が越後に赴く途中、しばしば蓮沼城に立ち寄って、城主遊佐加賀守長滋の館で千句の連歌を興行した。宗祇が撰集した連歌集『新撰菟玖波集』には、遊佐加賀守の連歌が収められている。永正・大永年間(1504~28年)頃には、城主遊佐新右衛門慶親が埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進している。遊佐氏のその後の歴史は明確ではないが、江戸時代の史料によれば、上杉謙信の攻撃によって開城し、退去したと伝えられている。或いは慶親が礪波郡木舟で討死したとも言われる。その後、松倉城を逐われた椎名康胤が一時蓮沼城に拠ったとも言われるが、明証はない。1585年には、越中を平定した富山城主佐々成政の家臣が蓮沼城を守っていたが、前田利家によって攻略されたと言う。

 蓮沼城は、渋江川西岸の平地に築かれている。微高地に築かれた平城であったらしいが、城跡は現在宅地や水田に変貌しており、明確な遺構は全く確認できない。『日本城郭大系』掲載の古い地籍図では堀跡の水田が記載されており、また2mぐらいの高台になっていたらしいが、渋江川の河川改修で削られてしまったとのことで、遺構は壊滅状態である。わずかに集落内に城址碑と解説版が立っているだけである。この地の重要な城であったのに、かなり悲しい現状である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654967/136.857719/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/05/08
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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倶利伽羅堡(石川県津幡町) [古城めぐり(富山)]

DSCN1044.JPG←公園南西の堀切
 倶利伽羅堡は、平安末期から戦国末期まで繰り返し使用された堡砦である。治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)の際、1183年に木曽義仲軍の西上を阻止する為に北陸に出陣した平維盛率いる平家軍が、この地の猿ヶ馬場に本陣を置いたと伝えられる。しかし5月11日夜半、木曽勢の夜襲によって平家軍は大敗を喫した(倶利伽羅峠の戦い)。南北朝期の観応の擾乱の際には、1350年12月に足利尊氏方の加賀守護富樫氏が、足利直義方の桃井直常の上洛を阻止するため、倶利伽羅山に陣取った。戦国初期の1488年には、越智伯耆をリーダーとする一向一揆勢が倶利伽羅堡や松根砦に布陣した。戦国末期の1584年には、豊臣秀吉に敵対した富山城主佐々成政が、倶利伽羅に新たに砦を築き、秀吉方の前田軍攻略を開始し、末森城を攻撃した。

 倶利伽羅堡は、現在は倶利伽羅不動寺の境内となっている他、倶利伽羅古戦場の史跡広場となっている。そのため改変が進んでおり、明確な城砦遺構は少ない。しかし五社権現が祀られた標高276.7mの高台は周囲への眺望に優れ、城砦の主郭として適地である。この高台の周囲には2段ほどの帯曲輪状の平場が見られるが、遺構かどうかははっきりしない。また倶利伽羅公園の南西部にある墓地は、公園との間に堀切が見られる。公園の南斜面には畝状空堀が穿たれているとされ、笹薮でわかりにくいが、確かにそれっぽい地形が確認できる。
 倶利伽羅堡は、遺構はわずかであり、やはり倶利伽羅古戦場巡りとして行く方が適している。尚、他の加越国境城砦群と比べると城郭遺構があまりにわずかで、佐々勢がここに実際に砦を築いたのかどうか疑問に感じる。
高台周囲の帯曲輪状の平場→DSCN1065.JPG
DSCN1165.JPG←公園南斜面の空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.662317/136.816349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


木曽義仲 (読みなおす日本史)

木曽義仲 (読みなおす日本史)

  • 作者: 積與, 下出
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/10/13
  • メディア: 単行本


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一乗寺城(富山県小矢部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0788.JPG←四ノ郭虎口前面の枡形
 一乗寺城は、加越国境城砦群の一である。城の史料上の初見は南北朝時代の1369年で、観応の擾乱以来室町幕府に敵対し続けた元越中守護桃井直常が、能登・加賀に侵攻した際、桃井方が立て籠もる「一乗之城」を幕府方の能登守護吉見氏頼の軍勢が9月17日に攻撃し、桃井勢を追い落としたことが見える(『得田文書』『得江文書』)。その後時代は下って戦国末期の1584年、越中を平定した佐々成政は豊臣秀吉に敵対し、秀吉方の前田利家と加越国境を挟んで対峙した。この時に加越国境城砦群が両陣営によって築かれ、佐々方は松根城荒山城などと共に一乗寺城を構築し、杉山小助を守将として置いたと言う。

 一乗寺城は、標高279mの枡山に築かれている。幸い舗装された車道が城の西側近くまで伸びており、簡単に訪城できる。加越を結ぶ田近道を押さえるように築かれている。山頂に主郭を置き、東の斜面に大手を防衛する腰曲輪群をひな壇状に築き、その中を大手道が多重枡形によって幾重にも屈曲しながら登っている。主郭の西には尾根に沿って二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭が連郭式に配置されている。二ノ郭~三ノ郭間は片堀切を穿って導線を狭め、枡形虎口で二ノ郭に繋がっている。また三ノ郭~四ノ郭間も土橋を架けた堀切によって区画されている。四ノ郭は、西方からの接近が想定される敵勢を迎え撃つ最前面の曲輪であるため、土塁を築いた最も防備が厳重な曲輪で、南端と北西角に櫓台を築き、前面に当たる西側下方に大堀切を穿っている。また四ノ郭の北側虎口には前面に土塁で囲まれた方形の枡形を設けている。この枡形への進入路も竪堀や坂土橋で狭めつつ屈曲させている。この他、北側斜面に多数の腰曲輪群を築き、所々に竪堀状に小郭群を配置している。
 一乗寺城は、多重枡形を始めとする枡形虎口が多数構築され、巧妙な導入系の構築技術を見せている。加越国境城塞群では最も高度な縄張りであり、北条・武田・伊達といった先進的な築城技術を有した戦国大名の城と比べても、導入系の構築技術は群を抜く水準であり、織田勢力の築城技術の革新は認めざるを得ない。この技術革新がどこからもたらされたものなのか、考究していく必要があるだろう。
 尚、城内の主要部は薮払いされて整備されているが、北斜面の腰曲輪群は多くが深い笹薮に覆われてしまっており、この部分の遺構の確認は大変である。
大手の多重枡形虎口→DSCN0875.JPG
DSCN0823.JPG←二ノ郭の枡形虎口
四ノ郭前面の大堀切→DSCN0736.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637734/136.804011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織田・豊臣城郭 の構造と展開 上巻 (戎光祥城郭叢書 第1巻)

織田・豊臣城郭 の構造と展開 上巻 (戎光祥城郭叢書 第1巻)

  • 作者: 中井均
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/05/15
  • メディア: 単行本


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丸岡城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0585.JPG←丸岡城が築かれていた丘
 丸岡城は、歴史不詳の城である。『三州志』によれば、城主はこの地の土豪角淵新右衛門とされるが、角淵氏の事績についても不明である。ただ城のある西赤尾は、越中・飛騨の国境に位置し、西は刀利を経て金沢に通じ、南は白川を経て飛騨に至る交通の要衝であり、江戸時代には加賀藩が口留番所を設けて物資の流通監視を行い役銭の徴収が行われた要地でもあった。こうした要衝を押さえるために、 地元の土豪が拠点を設けたと推測されている。

 丸岡城は、行徳寺の背後の台地上にある丸岡という円形の独立丘に築かれている。しかし『日本城郭大系』によれば、以前に植物園を作る計画があったらしく、その際に山上が削平されてしまい、明確な遺構は残っていないと言う。実際に丘に登ったが、以前は公園になっていたらしく、ベンチが残っているが一面草むらに覆われている。頂部の平場の外周に腰曲輪状の平場があるが、どうも後世の改変のようである。また頂部の平場の西辺近くに土塁状の地形が見られるが、遺構かどうか判別できない。結局、『大系』が記している通り明確な遺構は確認できなかった。
 一方、南麓の台地の縁に、「城の腰」と呼ばれる土塁で囲まれた出丸状の曲輪があるとされるが、付近は一面の田んぼで、どこのことかよくわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.380203/136.868212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2022/04/28
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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小倉の土居(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0581.JPG←墓地となった土塁跡
 小倉の土居は、一向一揆に属し鷹栖館(小倉殿館)を本拠とした土豪小倉六右衛門の子孫小倉孫左衛門が、天正年間(1573~92年)に居住した館跡と伝えられる。

 館跡は、現在は水田となっており、その周囲の土塁の一部が残存している。ただその残った土塁も墓地となって改変を受けている。現在残る形状からだとコの字に土塁が残っているように見えるが、昭和30年代の航空写真で見ると、残存土塁はJ字型で、現在見られる土塁の内、南辺と東辺が遺構であるらしい。残る遺構はわずかとはいえ、きちんと標柱が立てられて保存されているのはありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.635030/136.927843/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

富山県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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安川城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0520.JPG←S字型の土橋
 安川城は、般若野郷の荘官であった黒田太左衛門尉が立て籠もった城と伝えられている。室町後期に般若野郷を治めていた京の公家徳大寺実淳が視察のために薬勝寺に滞在し、太左衛門尉をこの地の荘官に任じたが、1474年に太左衛門尉は反乱を起こし、悪党(中世では、荘園領主や幕府などの公権力に反抗的立場を取った土豪や地場集団を指す)を従えて城に立て籠もったと言う。

 安川城は、標高197mの山上に築かれている。北麓を通る車道脇に登道の誘導標識があるが、ちょっと登ったところで道がわかりにくくなってしまっている。散々迷った挙げ句、ようやく道を見つけて登っていくと、最初に現れるのが北東出丸である。尾根上にそびえるように築かれており、城道は出丸の西側から切通しとなって郭内に通じている。出丸の南に三ノ郭があるが、出丸との間は堀切があり、城道は堀切から三ノ郭の外周を迂回するように設けられ、三ノ郭の背後に至っている。この城道の途中には竪堀が1本穿たれている。三ノ郭は、西側が窪地となってえぐれた形となっている。三ノ郭の南は一騎駆けの土橋となり、その先には左右に食違いに堀切を穿ったS字形土橋が設けられている。その右手下方には、主郭北側の腰曲輪群が展開している。S字形土橋を越えて登った先が主郭である。主郭は頂部に設けられた縦長の曲輪で、城址標柱が立っているが、一面笹が生い茂っている。主郭南東部には土塁で囲まれた小郭があり、南東尾根には堀切が穿たれているが、熊笹の繁茂がひどく、その形状がほとんどわからない。一方、主郭の北西にも二ノ郭とそれに付随する腰曲輪群があり、その一番下に城主居館跡とされる広めの平場がある。城主居館曲輪には、井戸のような窪みがあり、曲輪前面には帯曲輪が置かれている。
 以上が安川城の遺構で、以前は整備された形跡があるが、現在は維持管理できなかった城の典型となり、薮城と化してしまっている。また縄張り的にも少々面白みに欠ける印象である。
主郭→DSCN0531.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.615002/137.031462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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長尾能景塚(富山県砺波市) [その他の史跡巡り]

DSCN0490.JPG←能景塚
 長尾能景は、上杉謙信の祖父に当たる。越中守護畠山氏の勢力が減退し、射水・婦負郡守護代神保慶宗が越中一向一揆と手を結んで自立の動きを見せると、1506年、畠山尚順は越後守護代の能景に支援を求め、これが越後長尾氏が越中の騒乱に関わるきっかけとなった。能景は、越後に一向一揆の勢力が広まるのを恐れて尚順の要請に応じ、7月に軍勢を率いて越中に侵攻した。そして同年9月、礪波郡盤若野で一揆勢と交戦したが敗れ、討死した【般若野の戦い、または芹谷のの戦いとも言う】。

 長尾能景塚は、市の史跡となっている伝長尾為景塚の東方180mの位置にある。民家の屋敷地の中に円墳の様な塚があり、その頂上近くに石造りの墓塔が立っている。ネット上には能景塚の情報がないので、為景塚の解説板に書かれている「東方180mの屋敷にある」という情報だけを頼りに場所を推測し、そのお屋敷の住人の方に敷地内に能景塚がありますかと訊いたら、家の裏手にあると教えていただけた。一般の民家であるので、詳細な場所を記載するのは差し控えさせていただく。
塚に立てられた墓塔→DSCN0491.JPG


上杉謙信 人物叢書

上杉謙信 人物叢書

  • 作者: 山田邦明
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/11/01
  • メディア: Kindle版


タグ:墓所
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孫次山砦(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0390.JPG←二重堀切
 孫次山砦は、増山城砦群の北端に位置する山城である。歴史は不明であるが、神保氏によって築かれたものであろうか?

 孫次山砦は、亀山城から谷戸を一つ挟んだ北の山稜上に築かれている。城内はかなりの部分が未整備の薮に覆われており、遺構の確認がなかなか大変である。南の車道脇から登道があったらしいが、私は知らなかったので亀山城主郭から北斜面を降って鞍部の腰曲輪を越えて訪城した。城は、西の円形の小さな曲輪と、東の「く」の字に曲がった曲輪と、大きく2つの曲輪群に分かれている。これら2つの曲輪群は中規模の二重堀切で分断され、一城別郭の縄張りとなっている。主郭は西の円形の曲輪と考えられ、細尾根で繋がった西側に突き出た舌状曲輪が付随している。これらの南側下方には何段かの腰曲輪が築かれて、亀山城との間の鞍部に至っている。一方、東のくの字形の曲輪は、二ノ郭と思われるが、郭内は削平が甘くほとんど自然地形に近い。しかしくの字の屈曲部から東に伸びる尾根には2本の堀切が穿たれ、二ノ郭の南下方にも帯曲輪と竪堀が構築されている。そして、北東斜面には土塁を伴った帯曲輪があり、また南東斜面にはかなり広い腰曲輪がある。この腰曲輪の北端の脇には、深い竪堀が長く落ちている。
 以上が孫次山砦の遺構で、砦にしては堀切がゴツく、腰曲輪脇の竪堀も長く、単なる物見のレベルではない。増山城の北方防衛の砦として重視されていたことがうかがえる。
長い竪堀→DSCN0463.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.656689/137.045603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

富山県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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