安川城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]
←S字型の土橋
安川城は、般若野郷の荘官であった黒田太左衛門尉が立て籠もった城と伝えられている。室町後期に般若野郷を治めていた京の公家徳大寺実淳が視察のために薬勝寺に滞在し、太左衛門尉をこの地の荘官に任じたが、1474年に太左衛門尉は反乱を起こし、悪党(中世では、荘園領主や幕府などの公権力に反抗的立場を取った土豪や地場集団を指す)を従えて城に立て籠もったと言う。
安川城は、標高197mの山上に築かれている。北麓を通る車道脇に登道の誘導標識があるが、ちょっと登ったところで道がわかりにくくなってしまっている。散々迷った挙げ句、ようやく道を見つけて登っていくと、最初に現れるのが北東出丸である。尾根上にそびえるように築かれており、城道は出丸の西側から切通しとなって郭内に通じている。出丸の南に三ノ郭があるが、出丸との間は堀切があり、城道は堀切から三ノ郭の外周を迂回するように設けられ、三ノ郭の背後に至っている。この城道の途中には竪堀が1本穿たれている。三ノ郭は、西側が窪地となってえぐれた形となっている。三ノ郭の南は一騎駆けの土橋となり、その先には左右に食違いに堀切を穿ったS字形土橋が設けられている。その右手下方には、主郭北側の腰曲輪群が展開している。S字形土橋を越えて登った先が主郭である。主郭は頂部に設けられた縦長の曲輪で、城址標柱が立っているが、一面笹が生い茂っている。主郭南東部には土塁で囲まれた小郭があり、南東尾根には堀切が穿たれているが、熊笹の繁茂がひどく、その形状がほとんどわからない。一方、主郭の北西にも二ノ郭とそれに付随する腰曲輪群があり、その一番下に城主居館跡とされる広めの平場がある。城主居館曲輪には、井戸のような窪みがあり、曲輪前面には帯曲輪が置かれている。
以上が安川城の遺構で、以前は整備された形跡があるが、現在は維持管理できなかった城の典型となり、薮城と化してしまっている。また縄張り的にも少々面白みに欠ける印象である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.615002/137.031462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
安川城は、般若野郷の荘官であった黒田太左衛門尉が立て籠もった城と伝えられている。室町後期に般若野郷を治めていた京の公家徳大寺実淳が視察のために薬勝寺に滞在し、太左衛門尉をこの地の荘官に任じたが、1474年に太左衛門尉は反乱を起こし、悪党(中世では、荘園領主や幕府などの公権力に反抗的立場を取った土豪や地場集団を指す)を従えて城に立て籠もったと言う。
安川城は、標高197mの山上に築かれている。北麓を通る車道脇に登道の誘導標識があるが、ちょっと登ったところで道がわかりにくくなってしまっている。散々迷った挙げ句、ようやく道を見つけて登っていくと、最初に現れるのが北東出丸である。尾根上にそびえるように築かれており、城道は出丸の西側から切通しとなって郭内に通じている。出丸の南に三ノ郭があるが、出丸との間は堀切があり、城道は堀切から三ノ郭の外周を迂回するように設けられ、三ノ郭の背後に至っている。この城道の途中には竪堀が1本穿たれている。三ノ郭は、西側が窪地となってえぐれた形となっている。三ノ郭の南は一騎駆けの土橋となり、その先には左右に食違いに堀切を穿ったS字形土橋が設けられている。その右手下方には、主郭北側の腰曲輪群が展開している。S字形土橋を越えて登った先が主郭である。主郭は頂部に設けられた縦長の曲輪で、城址標柱が立っているが、一面笹が生い茂っている。主郭南東部には土塁で囲まれた小郭があり、南東尾根には堀切が穿たれているが、熊笹の繁茂がひどく、その形状がほとんどわからない。一方、主郭の北西にも二ノ郭とそれに付随する腰曲輪群があり、その一番下に城主居館跡とされる広めの平場がある。城主居館曲輪には、井戸のような窪みがあり、曲輪前面には帯曲輪が置かれている。
以上が安川城の遺構で、以前は整備された形跡があるが、現在は維持管理できなかった城の典型となり、薮城と化してしまっている。また縄張り的にも少々面白みに欠ける印象である。
主郭→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.615002/137.031462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城