SSブログ

石井館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7526.JPG←西の堀跡の田んぼ
 石井館は、佐竹氏家臣の石井氏の居館と伝えられている。佐竹氏が1570年に大山田氏を滅ぼした後、近辺の鉱山支配のために石井氏が派遣され、この居館に拠ったとされている。

 石井館は、武茂川西岸の台地に築かれている。郭内は民家になっているので、内部は確認できないが、民家の南と西に明確な堀跡の田んぼが残っている。北側の山林内にも堀跡が残っているが、民家の真裏なのでほとんど踏査していない。小規模な単郭方形居館であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.784499/140.214128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


47都道府県・城郭百科

47都道府県・城郭百科

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/31
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

下郷要害城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7436.JPG←主郭後部の櫓台
 下郷要害城は、武茂氏の庶流大山田氏が築いたと伝えられる。武茂氏初代泰宗の子孫泰景が大山田左京亮を称し、永禄年間(1558~70年)に築城したと言われる。大山田氏は那須氏に属しており、1570年に佐竹氏が攻め滅ぼした大山田城はこの城のことと推測されている。この後廃城になったと言う。

 下郷要害城は、『栃木県の中世城館跡』によれば、深い谷を挟んだ南北2ヶ所に城があると言う。一方、お城巡りの先達余湖さんのHPによれば、北の城を「新地の城」、南の城を「古城」と呼んでいるとのことで、ここでは余湖さんの記載に倣って、北の城を下郷要害城、南の城を下郷要害古城とし、本項では下郷要害城について述べる。

 下郷要害城は、武茂川東岸の比高90mの山上に築かれている。北西麓に武茂川を渡る橋があり、その先を東に向かって進み、道なりに南に入っていくと、城の東の谷筋を登っていくことになる。そのまま山道を進むと右手の尾根に登っていき、北尾根の堀切に至る。堀切の東側には腰曲輪が1段築かれている。北尾根には堀切の先に細長い4郭があり、その先端は物見台となって急崖に臨んでいる。前述の堀切には土橋が架かっており、その南に登ると二ノ郭に至る。ここからが城の中心部である。城の中心部は3段の曲輪で構成され、上から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭とひな壇状に並んでいる。主郭は三角形の曲輪で、後部に櫓台らしい土壇があり、背後の尾根に小堀切を穿っている。二ノ郭は最も広やかな曲輪で、主郭とは明確な切岸で区画され、二ノ郭南辺には主郭から続く土塁が築かれている。おそらく坂土橋を兼ねていたと思われる。二ノ郭の西には、一段低くT字型の三ノ郭が広がっている。三ノ郭の西端から北西に細尾根が伸び、先端には祠が祀られているが、これも往時の物見台であったと思われる。以上が下郷要害城の遺構で、あまり防御の固い城とは思えないが、急崖に臨んだ地勢ゆえに、あまり硬い防御を必要としなかったからかもしれない。
主郭背後の堀切→DSCN7442.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.788709/140.222669/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東・甲信越戦国の名城・古城歩いて巡るベスト100

関東・甲信越戦国の名城・古城歩いて巡るベスト100

  • 作者: 清水克悦
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2014/10/17
  • メディア: Kindle版


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

武茂東城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7355.JPG←主郭背後の円弧状堀切
 武茂東城は、武茂城の出城である。武茂氏の菩提寺である乾徳寺のある谷を挟んで、武茂城と相対するように築かれている。だいぶ前に訪城しようとしたが、既に夕暮れだったのと、まだ薮漕ぎに慣れていない頃だったので、途中で撤退していた。今回、15年ぶりの再訪である。
 武茂東城は、北東から南西に向かって伸びる細長い尾根上に5つの曲輪を連ねている。最上段に主郭があり、わずかな段差で南の二ノ郭と分かれている。二ノ郭は南西に細長く伸び、南端に一段低い段曲輪があり、その前面に堀切を挟んで物見台とされる土壇を置いている。但し、二ノ郭に至る明確な虎口がなかったので、この土壇はもしかしたら二ノ郭前面の虎口郭に繋がる木橋の入口であったかもしれない。二ノ郭の南には逆L字型をした三ノ郭が伸び、三ノ郭南端には枡形虎口が築かれている。三ノ郭の先には、更に四ノ郭・五ノ郭が細長く伸び、両曲輪の間は段差だけで区画され、段差の手前の脇に南斜面に通じる虎口が開かれている。一方、二ノ郭・主郭の両側には腰曲輪が延々と築かれ、主郭背後は円弧状の堀切が穿たれている。堀切は西端で折れて、竪堀となって落ちている。堀切の北東には自然地形の平場(北郭か?)があり、その先にも堀切が穿たれている。またこの平場の南西端には片堀切が穿たれ土橋で連結された小郭がある。
 武茂東城は、技巧的な縄張りは持たないが、武茂西城と共に武茂城の両翼を防衛する城砦として機能していたことがうかがわれる。
三ノ郭の枡形虎口→DSCN7311.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.742160/140.173509/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

武茂西城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7278.JPG←主郭背後の堀切
 武茂西城は、武茂城の出城である。武茂東城は古くから知られていたが、西城は近年発見されたものである(地元では城があることは知られていたらしい)。馬頭小学校の裏山にあり、尾根の南西端から遊歩道が整備されている。ほぼ単郭の城で、主郭内は4段の平場に分かれている。主郭の前後は円弧状の堀切で分断され、西側にはこれらの堀切と繋がる形で横堀が穿たれている。横堀は途中でわずかに折れ曲がっており、横矢を意識している。前述の遊歩道は、この横堀を通っている。主郭には、この横堀に沿って土塁が築かれ、主郭後部まで包み込むように土塁が伸びている。また主郭の南東には前面の堀切に繋がるように虎口も築かれている。城の南端は、お堂の建つ平場となって削られているので、南端部の往時の形状はわからなくなってしまっている。
 武茂西城は、小規模な城砦であるが、武茂東城と共に武茂城の両翼を防衛する城砦として機能していたことがうかがわれる。
主郭西側の横堀→DSCN7283.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.740165/140.168059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

城ヶ峰砦(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN7175.JPG←2本目の堀切
 城ヶ峰砦は、歴史不詳の城砦である。『信濃の山城と館』では、下伊那に移る前にこの地を本拠としていた知久氏か、知久氏に関係する土豪が築き、後に小式部城山を主峰とする城砦群と共に別の勢力によって改修されたのではないかと推測している。

 城ヶ峰砦は、前述の通り、小式部城山を主峰とする城砦群の一で、小式部城山の西麓の峰の一つに築かれている。標高850m、比高130m程である。山頂に土塁で囲まれた主郭を置き、西側斜面に幾重にも腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。この腰曲輪群を登っていく登道があるらしいのだが、この山、里山を大切にしている長野県ではかつて見たこともないような酷い笹薮で全体が覆われてしまっている。登路もほとんど消失しており、道が現れては消え現れては消えの繰り返しで、主郭まで辿り着くのが大変である。主郭には城址の石碑があったらしいが、薮で見逃してしまった。主郭背後に当たる東の尾根には、3本の堀切が穿たれているが、砦と言うにはあまりにも規模が大きい堀切である。しかもかなりの斜度を持った鋭い薬研堀で、側方に長い竪堀が落ちている。2本目と3本目の間はやや距離があり、間の尾根上に小さい曲輪が築かれていた様である。大きな連発の堀切だけが異彩を放つ城であるが、踏査は容易ではない。
主郭→DSCN7156.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.942775/138.003259/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福与城(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN7005.JPG←主郭南の空堀
 福与城は、史料では箕輪城と書かれ、上伊那の豪族藤沢氏の居城である。藤沢氏は、諏訪神(みわ)氏の庶流千野氏の一族で、千野光親の子親貞(清貞)が藤沢神次を称した。その子清親は伯父光弘と共に保元・平治の乱の際、大祝の代官として出陣し戦功を上げた。鎌倉幕府ができると清親は将軍に仕えて御家人となった。弓の名手として知られ、度々軍功を上げた。1221年の承久の乱の際には、幕府軍の総大将となった北条泰時が鎌倉を出立する前日に清親の館に泊まったと言われ、藤沢氏が北条氏の厚い信頼を得ていたことが知られる。清親は高齢のため承久の乱には出陣しなかったが、一族が挙って出陣し、その軍功により箕輪郷を拝領して入部したらしい。福与城の築城時期は明確ではないが、鎌倉時代とされる。南北朝期の1355年8月、南朝の宗良親王が北朝の信濃守護小笠原貞宗と戦った桔梗ヶ原合戦では、諏訪勢と共に藤沢氏も参戦したが、南朝勢は大敗して衰退した。その後、藤沢氏は小笠原氏に帰順したらしく、1440年の結城合戦では信濃守護小笠原政康に従って参陣している。戦国前期の天文年間(1532~55年)には藤沢頼親が城主であった。1542年に諏訪郡を制圧していた武田信玄は、1544年から上伊那郡への侵攻を開始した。形勢不利のため、信玄は一旦兵を引いたが、翌45年4月、再度上伊那に侵攻して高遠頼継が拠る高遠を攻撃し、これを落とした。次いで武田勢は藤沢頼親が拠る福与城を攻撃した。頼親は、上伊那衆・下伊那衆・府中の信濃守護小笠原長時(長時は頼親の妻の兄)に支援を求め、伊那諸豪と共に籠城して頑強に抵抗した。武田勢はこれに苦戦し、部将の鎌田長門守が討死した。50日間の籠城戦の末、6月に信玄は頼親との和睦を図り、頼親は舎弟権次郎を人質に出して和議を結んだ。しかし和睦と言っても実質的に藤沢氏の降伏であり、和睦の後、城は武田勢に放火破壊された。その後頼親は二度にわたって武田氏から離反し、そのたびに武田勢の攻撃を受け、最終的に1548年9月に信玄に降伏して福与城を明け渡した。1549年には、武田氏が福与城を修築(鍬立て)したことが知られる。一方、頼親は小笠原長時を頼って流浪の身となり、後に信玄によって信濃を逐われた長時と共に京都に上り、三好長慶のもとに身を寄せた。1582年3月、織田信長が武田氏を滅ぼすと、頼親は34年ぶりに伊那に戻り本領に復帰し、田中城を築いて居城とした。藤沢氏の復帰は信長の支援によると推測されている。そのわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、武田遺領の織田勢力は一挙に瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。伊那衆は当初、三河から伊那に侵攻した徳川勢に従属したが、その後北条氏の大軍が信濃に侵攻してくると、北条方に転じるものが相次ぎ、藤沢氏も北条方となった。しかしその後の情勢変化で北条方が苦境に陥ると、高遠城を奪取していた保科正直は徳川方となり、頼親にも徳川方への帰属を促したが、頼親はこれを拒否した。その結果、保科氏は軍勢を率いて田中城を攻撃し、頼親は懸命に防戦したが抗しきれず、城に火を放って自刃、藤沢氏は滅亡した。

 福与城は、天竜川東岸の比高50m程の河岸段丘先端部に築かれている。現在城跡の主要部は県史跡に指定されて整備されており、外郭は畑となっている。北に向かって突き出た断崖上の北端に三角形の北城(北郭)を置き、その南に空堀を挟んで東西に主郭・二ノ郭を配置し、更に空堀を挟んで南城(南郭)・権治曲輪などといった外郭を配している。主郭は周りの曲輪よりも高い位置にあり、北城・二ノ郭を見下ろす位置にある。二ノ郭は2段の平場に分かれ、南の一段高い平場は姫屋敷と呼ばれている。外郭は東から西に向かって段々に平場が築かれ、東の一番高い平場に権治曲輪・宗仙屋敷の名が残り、その西側に乳母屋敷・南城の名が残っている。これら外郭の南には天然の沢が入り込んでいる。この他、各曲輪には腰曲輪が1~2段付随している。福与城は、空堀はいずれも直線状で横矢掛りがなく、虎口にも目新しい構造は見られない。上伊那でも最大の勢力であった豪族の本拠であるが、全体に戦国前期頃までの古い設計の城と感じられた。
主郭から見た北城(北郭)→DSCN7024.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.895977/138.000362/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中坪丸山城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6932.JPG←浮島のような城の遠望
 中坪丸山城は、『日本城郭大系』では丸山館城と記載され、歴史不詳の城である。野口城と近い位置にあるが、関係は不明である。
 緩傾斜地に広がる水田地帯の只中に、浮島のような細長い丘陵地があり、それが城跡である。東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭が配置されている。主郭は民家の敷地なので、內部踏査はできず遠目に眺めるしか手はない。主郭から切岸だけで区画された二ノ郭は、空き地となっている。北側に竪堀があるが、笹薮で形状がわかりにくい。その西に三ノ郭があり、二ノ郭との間に堀切が穿たれているが、浅い堀切で笹薮に覆われているので、これも形状がわかりにくい。この様に一応城の形にはなっているが、単純な構造であり、防御性もそれほど高くない。居館機能を主とした城館であったと思われる。
堀切と三ノ郭→DSCN6945.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.864735/138.028150/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

野口城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6753.JPG←7郭から見た5郭と主城部
 野口城は、地元では春日城と呼ばれ、歴史不詳の城である。城主は春日氏とも小松氏とも野口氏とも言われ、定かではない。明治時代の報告書には、1241年に野口甚吾が西山に城を築いて三ノ郭に春日社を祀って城の守り神としたことから春日城と呼ばれるようになったとある。また1545年3月に武田信玄が伊那に侵攻して福与城の藤沢頼親を攻撃した際、福与城籠城衆の中に野口という武士の名が見られると言う。この野口氏が野口城と関係があるかは定かではないが、野口城が福与城に近く、位置から考えて福与城の重要な支城であったと推測されている。

 野口城は、標高830m、比高80m程の城山に築かれている。南麓の野口八幡神社の裏から登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。登った後でわかったことだが、東麓からも登道が整備されている様だ。私が訪城した時は城内の主要な曲輪の山林が皆伐された後で、まるで全面発掘調査したみたいな状態で、城の全貌が手に取るようにわかるようになっていた。しかも遺構を傷めないように伐採したらしく、遺構の損壊はほとんど見られなかった。
 城は、山頂に三角形の主郭を置き、西・南・東の三方の尾根にそれぞれ2郭・4郭・3郭を配置している。主郭とこれらの曲輪の間には浅い堀切が穿たれ、それぞれ片側の側方に竪堀が落ちている。2郭の北の尾根には二重堀切が穿たれている。また主郭・2郭の西斜面には腰曲輪群が築かれている。3郭・4郭の周囲にも腰曲輪が築かれ、特に3郭の側方と先端には数段の腰曲輪が取り巻いている。4郭の南のピークには5郭が置かれ、前後に段曲輪を築いている。5郭の東には細長い6郭があり、先端を二重堀切で分断している。5郭の南東尾根にも小郭と2本の堀切がある。5郭の南には堀切の先に物見台のような7郭がある。7郭の南と西にも浅い堀切がある。以上が『信濃の山城と館』や現地解説板の縄張図に載っている遺構であるが、皆伐されたおかげで2郭から南西に伸びる尾根の先にも遺構(段曲輪と片堀切)があることを発見した。かなり離れたところに片堀切が穿たれており、「北斗の拳」風に言うと「堀切があらわに。しかもあのような位置に。」と言ったところである。
 野口城は、しっかりとした普請が施されており、重要な城であったことがうかがわれる。
3郭と主郭→DSCN6824.JPG
DSCN6873.JPG←2郭北の二重堀切
南西に離れた所にある片堀切→DSCN6841.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.870299/138.020253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

城平の城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6692.JPG←堀切と主郭切岸
 城平の城は、歴史不詳の城である。この地は小出城を本拠とした小出氏(小井弖氏)の所領であり、城平の城も小出氏に関係する城と考えられている。

 城平の城は、比高40m程の丘陵先端部に築かれている。城のすぐ脇まで林道が通っており、城から落ちる竪堀がこの林道まで伸びているので、良い目印になる。ここから斜面を登っていけば城に至る。ほぼ単郭の城で、土塁で囲まれた縦長長方形の主郭を持ち、前面と背面に堀切を穿って防御している。主郭の南側に虎口が開かれ、南斜面に2本の竪堀が穿たれている。堀切から落ちる竪堀も、南斜面の竪堀も長く伸びているのが特徴で、前述の通り南下方の林道まで伸び、一部の堀は林道を貫通して更に下の沢まで伸びている。この他、主郭背後の尾根にもう1本堀切が穿たれている。従って主郭背後の尾根には2本の堀切が穿たれているが、堀切の間の尾根は明確な削平がなくほとんど自然地形となっている。以上の通り小規模な城で、物見や烽火台的な役割を負っていたものと推測される。
長い竪堀→DSCN6726.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.828139/137.926826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小出城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6602.JPG←二重空堀
 小出城は、この地の豪族小出氏の居城である。小出氏は、古くは小井弖氏と書き、藤原南家の流れを汲む伊豆国伊東の豪族工藤氏の庶流とされる。この地は、鎌倉初期に工藤氏の所領で、その地頭としてその一族が入部していたらしい。この一族は早くに信濃国に住み着き、1180年に源頼朝が石橋山で挙兵した際、甲斐源氏武田信義父子と共に平家方の大田切城を攻撃し、勝利の勲功により西春近を安堵されたと伝わる。鎌倉中期の工藤師能の時、郷名から小井弖氏を称した。南北朝期から室町期にかけて、中先代の乱・大徳王寺城戦・大塔合戦・結城合戦と参陣している。1453年頃、師能系の弾正忠朝能兄弟は、妹が神(みわ)氏(諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪に移住したと言う。尚、後に豊臣大名となった小出秀政は、小出氏の末流とされる。

 小出城は、天竜川西岸の河岸段丘の一角、戸沢川とその支流の沢筋が直交する部分の北西に築かれている。伊那地域の河岸段丘の城は、いずれも天竜川を眼下に望む段丘先端部に築かれているが、小出城はやや奥まった山間部の崖端に築かれている。工藤氏が入部した当初は、周辺豪族の勢力が強くて、隠れるように居住したものであろうか?城の構造は、南の段丘縁に主郭・二ノ郭を東西に連ねている。主郭は、外周の一部に低土塁が残存し、急崖である南以外を空堀で分断している。東の二ノ郭との間は二重空堀となっている。この二重空堀は、この手の居館形式の城では珍しい大型のもので、中間土塁も規模が大きい。二ノ郭は矢竹が密生しているのでわかりにくいが、土塁もない平場で、北側は主郭に続く空堀で分断されている。主郭の西は現在畑となっているが、西城の地名が残っている。主郭・二ノ郭の北は、東西に長い三ノ郭で、中城の地名が残り、民家・畑・杉林となっている。三ノ郭の北は、沢筋を利用した堀となっている。更にその北の畑の中にも堀端の地名が残っているらしく、往時はL字型の堀があった様だが、堀はほとんど埋められており、わずかに東端部の台地際に堀型が残っているだけである。以上が小出城の遺構で、周囲の曲輪はかなり改変が進んでいるものの、主郭周辺の遺構は見事である。
主郭→DSCN6599.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.819910/137.933114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城のつくり方図典 改訂新版

城のつくり方図典 改訂新版

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小黒城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6543.JPG←三ノ郭から見た空堀と主郭
 小黒城は、歴史不詳の城である。春日城からわずか750m程しか離れておらず、その占地や構造に春日城との共通点が多いことから、春日城の支城として機能していたと推測されている。

 小黒城は、天竜川と小黒川の合流点の北西にある比高30m程の河岸段丘の南東端に築かれている。現在明確に遺構が残っているのは主郭だけだが、往時は主郭の北や西にも曲輪があったらしい。主郭は土塁で囲まれた方形の曲輪で、郭内は雑木林となっているが遺構は見やすい。北と西に虎口がある。主郭の北と西は空堀が穿たれているが、西の堀は道路に変貌している。主郭の北には二ノ郭があったが、現在は宅地となっていて遺構は残っていない。主郭の西には三ノ郭があり、現在は小さい神社のある雑木林となっている。三ノ郭の西に鉄塔があるが、これが往時の空堀跡で、南の縁にわずかに竪堀だけが残っている。三ノ郭と北の住宅地の間には、堀跡と思われる切通し道が通っている。これらのほかは、周囲は一面の住宅団地に変貌していて、往時の面影はない。住宅団地の隅に、異次元空間のように奇跡的に残った城である。解説板も何もないのが残念である。
土塁が取り巻く主郭→DSCN6559.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.829861/137.946997/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2022/05/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

吉田本城・吉田古城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6413.JPG←本城主郭の土塁
 吉田本城・吉田古城は、松岡城主松岡氏の家臣吉田一族が拠った城とされる。吉田氏では、1400年の大塔合戦や1440年の結城合戦に吉田玄蕃という武士が参陣していることが知られる。尚、ここから少し南に離れたところにも吉田南城があるが、これらがどの様に使い分けられていたのかは、判明していない。

 吉田本城・吉田古城は、天竜川西方の河岸段丘上に位置し、北に胡麻目川による深い浸食谷が入り込んだ段丘北東角に築かれている。東にある複郭の城が吉田本城、北にある単郭の城が吉田古城である。
 吉田本城は、先端に主郭、その南西に二ノ郭を置き、更に二ノ郭の南西に小規模な出曲輪を配置している。出曲輪の脇から二ノ郭を通過して主郭に至る散策路が整備されている。主郭は、断崖に面した東辺以外を低土塁で防御しており、末広がりの四角形の形状をしている。南西角に枡形虎口があり、土塁がわずかに屈曲している。また南東端の土塁上には稲荷社があるが、塁線がやや外に張り出しており、横矢を掛けている。主郭の西と南は空堀で二ノ郭と分断されている。主郭の東斜面には横堀が穿たれているが、ガサ薮で形状がわかりにくい。二ノ郭は竹林になっており、西と南に切通し状の道が下っており、空堀を兼ねていたと思われる。西の切通し道を降った先にはお姫様の井戸と呼ばれる井戸跡が窪みとなって残っている。出曲輪も西と南を空堀で囲んだ小さな曲輪であるが、外周部は荒れた竹林で空堀がほとんどわからない。
 一方、吉田古城は、方形の主郭から成る城で、西と南に空堀を穿っているが、南の堀はほとんど埋まってしまっている。しかし東に小道を下ると、主郭東斜面の横堀があり、外側に土塁が築かれている。この横堀・土塁は、北端近くで二重空堀と二重土塁となっている。『信濃の山城と館』の縄張図ではここまでしか描かれていないが、実は北斜面にも遺構が残っている。主郭西の堀は切通し道になっていて、これを下っていくと北側の横堀に至る。この横堀は、腰曲輪に近い形状の部分もあるが、北東角で主郭東斜面の横堀と合流し、合流点で竪堀となって斜面を下っている。この竪堀の付け根には土塁が突き出ており、物見台となっていた様である。
 以上が吉田本城・吉田古城の遺構で、小規模な城館ではあるが遺構がよく残っており、伊那谷に多い、天竜川河岸段丘に築かれた小規模城砦の典型例となっている。
本城のお姫様の井戸→DSCN6387.JPG
DSCN6466.JPG←古城東側の二重土塁・二重空堀
古城北東角の横堀合流点→DSCN6506.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【吉田本城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.562439/137.884619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【吉田古城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.563399/137.883718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

古御屋城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6336.JPG←二ノ郭
 古御屋城は、単に古御屋とも呼ばれ、松岡城主松岡氏の支城と考えられている。一説には、松岡氏の古い居館があった所とも伝わる。

 古御屋城は、松岡城から東北東800m程の段丘先端部に築かれている。城内は堀切で、大きく北曲輪と南曲輪の2つに分かれている。北曲輪は西半分が宅地となって破壊されているが、東半分は遺構が現存しており、外周に土塁と腰曲輪(空堀跡?)が残っている。南曲輪は更に3つの曲輪に分かれており、最上段に主郭があり、高さ3m程のL字型の土塁で背後を防衛している。その東下方には二ノ郭があり、低土塁が築かれ、「お姫様の化粧水」と呼ばれる井戸跡がある。また二ノ郭の南に更に1段下がって小さな3郭がある。古御屋城は、小規模な城砦であるが、郭内に神社が祀られているせいもあって、南曲輪は薮払いされており、遺構がよく残っている。
南北を分断する堀切→DSCN6309.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.547914/137.872753/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

松岡南城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6262.JPG←主郭先端の堀切
 松岡南城は、小城とも呼ばれ、谷を挟んで松岡城と対峙する位置にある。台地先端部ではなく、台地基部の少しくびれた部分に築かれているため、松岡城より小型の城となっている。本来なら先端部に置かれるべき主郭がかなり退いて築かれているなど、その特異な構造から隠居城として築かれたとも言われている。いずれにしても本城の松岡城と深い関連を持っていた城であることは間違いないだろう。

 松岡南城は、前述の通り松岡城から浸食谷を挟んで南西に築かれている。両城の距離はわずか300m程に過ぎない。松岡城と同様に台地を堀切で分断した連郭式の城であるが、堀切の規模は松岡城と比べるとかなり小さく、防御構造もささやかである。北から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・4郭(出郭)を配置している。三ノ郭・二ノ郭はいずれも耕地化で改変を受けており、切岸や堀切の名残を残すが、切岸も堀切も往時の規模ではないようである。三ノ郭の西斜面には、数本の竪堀が斜めに合流して落ちており、この部分だけやや複雑な防御構造を残している。主郭は前後に堀切が穿たれた長方形に近い曲輪で、外周一部に低土塁が見られる。主郭には城址標柱と解説板が立っている。4郭は主郭との間を深い堀切で分断された横長の曲輪であるが、郭内は薮でほとんど形状がわからない。4郭の先端も堀切が穿たれている。4郭の南には広大な三角形の平地が広がっている様だが、薮がひどくて踏査不能である。松岡南城は、松岡城とは規模も構造も異なっており、役割の違いが縄張りに現れたものと考えられる。
三ノ郭西の竪堀→DSCN6210.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.544999/137.860672/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

長野県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

松岡城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6002.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の堀切
 松岡城は、市田城とも呼ばれ、市田郷を本拠とした豪族松岡氏の居城である。築城は南北朝時代と言われ、戦国時代を通して改修の手が加えられたと考えられている。松岡氏は、1400年に信濃守護小笠原長秀が信濃の国人領主連合軍に敗れた大塔合戦の際、小笠原氏に従って戦った。また1440年7月の結城合戦にも参陣している。1554年、武田信玄が伊那に侵攻し、鈴岡城主小笠原氏と神之峰城主知久氏を制圧すると、それを見た松岡氏は抵抗は無理と判断し武田氏の軍門に降った。以後伊那衆として50騎を率いて飯富三郎兵衛(山県昌景)の配下に属した。1582年、織田信長が武田征伐を開始すると、松岡兵部大輔頼貞は織田軍に降り、本領を安堵された。しかし武田氏滅亡のわずか3ヶ月後に本能寺で信長が横死し、北条・徳川両氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」を経て伊那谷が徳川家康の支配下となると、松岡氏は徳川氏に従った。1585年、松本の小笠原貞慶が徳川方から豊臣方に変心し、徳川方の保科氏が守る高遠城を攻撃した。この時、松岡右衛門佐貞利は徳川家康に臣服を約していながら、小笠原氏に味方して高遠城攻撃に向かったが、形勢不利と見て引き返した。その後、このことを家臣の座光寺次郎右衛門為時が伊那郡司菅沼定利に密告し、1588年に家康から改易を命じられて、井伊直政にお預けとなった。これは、今は亡き直政の父直親が今川義元に命を狙われた際、信州に逃れてきた直親を松岡氏が庇護したことから、その恩義に報いるため直政が必死に取りなしたことによると言う。直政は、貞利を500石の禄で家臣の列に加え、以後松岡氏は井伊氏の家臣となって存続した。一方、松岡城は松岡氏改易により廃城となった。

 松岡城は、天竜川西方の比高100m程の河岸段丘上に築かれている。両側に浸食谷が入り込んだ舌状台地を堀切で分断した連郭式の城で、城内は公園化されているが改変は少なく、遺構がよく残っている。先端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭が直線的に配置されている。主郭は三角形に近い縦長台形状の曲輪で、先端に一段低い腰曲輪、後部には土塁を築いている。二ノ郭は[型の曲輪で、主郭とは堀切で区画され、両端が突出して主郭側方まで回り込んでいる。三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭は、いずれも横長の曲輪で直線的な堀切で分断されているが、四ノ郭だけは北側が三ノ郭の側方まで突出して横矢が掛かっている。また四ノ郭~五ノ郭間の堀切は、現在五ノ郭にある松源寺の門前に当たるが、側方の竪堀以外はほとんど埋められてしまっている。松源寺の裏手には土塁が残っている。これらの主要な曲輪の側面にも防御構造が施されている。四ノ郭の北斜面には横堀が穿たれ、この横堀は東側が斜めに斜面を降って先端で折れ曲がり、竪堀となって落ちている。主郭の南から東にかけても横堀が穿たれている。更に主郭の南から南東に広がる斜面には、南尾根を中心としてV字型の斜面に多数の帯曲輪群が構築され、腰曲輪群の最下段には横堀が構築されて、斜面下からの敵の接近に対する防御線となっている。この横堀は、斜面に沿って曲がりながら北端まで掘り切っている。この他、城全体を囲む北と南の斜面には、薮でわかりにくいが竪土塁が何本か築かれている。現在の形状を見る限り、竪堀でなく竪土塁による斜面防御の構造で、初めて見る形態である。以上が松岡城の構造で、雄族の居城だけあって、規模が大きく見応えがある。
 尚、松岡城の南には谷戸を挟んで松岡南城(小城)が隣接している。
四ノ郭北側の横堀→DSCN5966.JPG
DSCN6104.JPG←主郭南東斜面の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.545714/137.864385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

上野南本城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5916.JPG←南西曲輪群の長い竪堀
 上野南本城は、座光寺南本城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。この地の国人、座光寺氏が築いた城と推測されている。伝承では、鎌倉前期に隣接する上野北本城が築かれ、応永年間(1394~1428年)に上野南本城が築かれたが、1582年の織田信長による武田征伐で落城したと言われている。座光寺氏は、諏訪大社大祝家の一族神(みわ)氏の出自と考えられ、戦国前期に神之峰城を本拠とする知久氏が勢力を拡大すると、座光寺氏も知久氏に服属した。その後、武田信玄が伊那に侵攻すると、座光寺氏も武田氏に従ったと言う。1573年には、武田氏重臣の秋山虎繁(信友)と共に、美濃岩村城に在城した。1575年11月、織田勢に攻められ降伏した座光寺氏らは長良川で磔にされた。1582年、織田信長によって武田氏が滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長も本能寺で横死し、武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発すると、座光寺氏の一族為清は徳川家康に服属した。為清の子為真(為時)は、松岡城主松岡右衛門佐貞利が徳川方の高遠城攻撃に動いていたことを徳川方に密告し、その功で上州大竹の知行を与えられて旗本となり、1602年に封千石で山吹に陣屋を構えた。

 一方、現在残る遺構の規模と構造から、上野南本城は国人クラスではなく戦国大名クラスの勢力が介在した城ではないかとの指摘がある。具体的には以下の4説が提唱されているらしい。
①1572~82年にかけての時期に、徳川氏・織田氏と対立した武田氏が関与した
②1582年の武田征伐の際に、織田氏の軍勢が築いた
③1582年の天正壬午の乱の中で、下伊那で衝突した徳川勢・北条勢のいずれかが築いた
④1583~85年に対立した徳川家康・豊臣秀吉のいずれかの配下が築いた
いずれが有力なのか、結論は出ていない。

 上野南本城は、麻績神社の背後にある比高80m程の丘陵上に築かれている。麻績神社から散策路が整備されており、広大な山城にも関わらず城の主要部だけでなく周辺の腰曲輪に到るまで、かなり広範囲に整備されている。現地でパンフレットが入手できるので、参考にするとよいだろう。城内は、主尾根に穿たれた2つの堀切で、南北に大きく3つの区画に分かれている。南が主城部で、土塁を築いた広い主郭を持ち、そこから南東と南西に伸びる尾根に曲輪群を築いている。2つの尾根の曲輪群は、いずれも途中に2本の堀切を穿ち、側方に長い竪堀となって落ちている。特に2つの尾根に挟まれた中央の谷戸に、いずれの竪堀も落ちてきていて、大手道の存在を伺わせる。南西の曲輪群では馬蹄形の曲輪と尾根上の細長い曲輪から構成されるが、南東の曲輪群では堀切前面の小郭から南・南東の斜面に腰曲輪群を何段も築いている。南東曲輪群の南下方には城道を兼ねたと思われる横堀も構築されている。一方、南西曲輪群の西面には横堀が穿たれているが、ここだけは薮が多くて形状がわかりにくい。この他、主郭の西には3段の腰曲輪群、東には古賀比神社のある馬蹄形の広い曲輪が置かれている。主郭の背後には堀切が穿たれているが、自然の鞍部を多少加工した程度で、両側に落ちる竪堀ははっきりしているものの、肝心の主郭背後の部分は余り鋭さがなくのっぺりした堀切である。
 この堀切の北にあるのが、3つの区画の内、真ん中に当たる北郭群で、西に向かって段々に下る形で、平場群が置かれている。北郭群の外周には低土塁が築かれ、郭群の頂部にはF字型の土塁が見られる。しかしこの頂部の遺構は作りがやや大味である。
 北郭群の北には明瞭な堀切が穿たれ、その先に3つの区画の北端に当たる遺構群が存在する。ここには物見台状の小さい堡塁が南北に2つ置かれ、いずれも背後に竪堀を落としている。北のものではこの竪堀は下方でL字に曲がって横堀に変化している。これらの堡塁の西側にも遺構らしい地形があるが、作りが大味で構造がわかりにくい。これらの北端の遺構群は、『信州の山城』(信濃史学会編)では二重馬出しとしているが、それほど形が明瞭ではない。以上が上野南本城の遺構で、城域は広く、しっかりした遺構が残っているが、部分的に作りが大味な城である。

 ここで上野南本城に関わった可能性がある戦国大名勢力について考察してみたい。織田・豊臣勢力の城では、塁線が直線的で複雑な枡形虎口があるのが特徴であるが、上野南本城ではそれらは見られない。また武田氏の城では、曲輪外周を巡る横堀・放射状竪堀・馬出・枡形虎口などの特徴があるが、上野南本城ではこれも見られない。北条・徳川の城の特徴も余り感じられず、結局どういう勢力が介在した城だったのか、結論は得られなかった。
広い主郭→DSCN5761.JPG
DSCN5781.JPG←主郭背後の堀切
北郭群の北の堀切→DSCN5836.JPG
DSCN5849.JPG←竪堀と堡塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.535535/137.852218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北原城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5648.JPG←主郭の土塁
 北原城は、この地の豪族知久氏の居城神之峰城の支城である。平沢藤左衛門が拠ったと伝えられる。別説では、平沢備前守道正の城とも伝えられるらしい。

 北原城は、天竜川東岸の河岸段丘先端部に築かれている。北東の台地から小道を進むと、その先に堀切状の窪地があり、その南西に主郭がそびえている。小規模な城で、公園化などで改変を受けたため往時の形状が明確でない部分もあるが、3つの曲輪で構成されていたらしい。前述の通り、堀切状窪地の南西にあるのが主郭で、平行四辺形の様な形をしており、後部に土塁を築いている。主郭の西から南にある平場が二ノ郭であるが、最も改変されている部分である。二ノ郭の南には蟻の戸渡り状の細尾根が薮の中にあり、それを突破すると出丸状の三ノ郭がある。三角形の小さな曲輪で、後部に土塁を築き、西から南にかけて帯曲輪を廻らしている。いかにも物見台という感じの曲輪である。以上が北原城の遺構で、天竜川西岸に睨みを効かせた物見の城であったと思われる。
尚、三ノ郭は幅1mに満たない細尾根の先にあるので、滑落の危険がある。踏査はお勧めできないが、行く人は自己責任でお願いしたい。
小さな三ノ郭→DSCN5664.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.494089/137.862990/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

兎城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5614.JPG←主郭の大土塁
 兎城(とじょう)は、この地の豪族知久氏の居城神之峰城の出城として15世紀後半に築かれた城である。城主は桃井氏であったが、武田氏によって滅ぼされるとそのまま廃城となったと言う。また現地解説板によれば、「謀反の心ありとの告げ口により、一夜に取り囲まれ一族40余名が斬首された」との伝承や、「西の久米ヶ城に対して東城と呼ばれていたのが、いつしか兎城となった」との伝承があるらしい。

 兎城は、天竜川と鼬(いたち)ヶ沢川の合流点に南から突き出た段丘先端部に築かれている。南北に曲輪を連ねた連郭式の縄張りとなっている。現在公園化されているので、一部改変や湮滅が見られるが、遺構は概ねよく残っている。南の公園入口にあるのが三ノ郭で、ただの空き地であるが外周に切岸が残っている。但し、三ノ郭付近は後世の改変がある可能性が高い。三ノ郭の北には、かなり埋まっているものの堀切跡が残り、「外濠跡」という石碑が立っている。わずかに土塁も残っている。その北が二ノ郭で、空き地と畑になっている。北辺に低土塁があり、そこに神社の祠と石碑が立っている。二ノ郭の北には一段腰曲輪があり、その北に大きな堀切が穿たれている。堀切の東には物見台状の土壇があり、祠が祀られている。大堀切の北が主郭で、公園となっているが、大堀切沿いに大土塁が築かれている。主郭は長方形の曲輪で、北辺にも低土塁が築かれている。その北の切岸下方に四ノ郭がある。四ノ郭の東西の斜面には竪堀が落ちている。おそらく主郭に通じる動線制約の為であろう。この他、二ノ郭の西側に帯曲輪群が数段確認できる。一方、主郭・二ノ郭・三ノ郭の東側は目隠し壁が立っていて、遺構がよくわからない。東下は廃棄物の最終処分場らしいのだが、訪城当日は地元のどんど焼きをやっていて、人が集まっている最中だったので、立入りを遠慮したため、東側の切岸は確認できなかった。兎城は大きな城ではないが、それにしては不釣り合いなほど主郭の土塁と堀切の規模が大きく、見応えがある。
二ノ郭~三ノ郭間の堀切跡→DSCN5590.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.463894/137.837123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

干沢城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5563.JPG←二ノ郭西斜面の大竪堀
 干沢城は、樋沢城とも書かれ、諏訪氏の一族上社大祝家の詰城である。大祝家は、諏訪大社上社前宮の神殿(ごうとの)を居館としていた。干沢城の築城年代は不明であるが、諏訪氏の系譜は古く、16代諏訪為仲が源頼義・義家に従って前九年の役・後三年の役に参陣しており、その後も一族が保元の乱で源義朝の軍に参陣するなど、関東武士団の形成と歩みを同じくして諏訪氏も武士化した。その過程で居館の防衛や砦の構築を進めていたことが伺え、干沢城も早い時期から何らかの砦が築かれたと推測される。文献上、初めて干沢城が現れるのは、1483年である。古代以来諏訪氏では、幼少時に大祝として神に仕え、長じてからは惣領として武士団・政権を司る祭政一致の形態が取られていた。しかし中世の動乱の中で、神事の権威である大祝と、諏訪一門の棟梁である惣領という二重構造を強めた。1456年、惣領の安芸守信満とその弟で大祝の伊予守頼満との間で争いが起き、惣領信満は上原城に拠って宮川以東を領すると共に一門を率い、大祝頼満は前宮に残って宮川以西を領すると共に祭祀を司った。これ以後、惣領家と大祝家とは分裂状態となり、諏訪氏は祭政分離となった。頼満の子大祝継満は、1483年正月8日に信満の子で惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。その後、同月15日継満は一族と共に干沢城に立て籠ったが、諏訪氏の一家眷属は継満の暴挙に激怒して同月19日夜、干沢城を攻撃し、継満は父頼満をはじめ一族に多数の犠牲者を出し、雪の中を妻の実家の高遠継宗を頼って伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城と対峙したが、惣領勢に攻められて退去した。同年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。一方、継満は1486年、大熊に新城(大熊荒城)を築き、諏訪氏と継満一派との戦いは繰り返されたが、間もなく継満の死により頼満の家系は断絶した。1542年には、武田信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と連携して諏訪に侵攻し、干沢城も攻撃を受けた。その後惣領家の諏訪頼重を自刃させた武田氏は諏訪を支配下に置いた。その後の干沢城の存廃は不明である。

 干沢城は、諏訪大社上社前宮の東にある北に向かって突き出た比高80m程の丘陵上に築かれている。北西麓から登道が整備され、城内も薮払いされて遺構がよく確認できる。南北に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、北から順に四ノ郭・三ノ郭・二ノ郭・主郭が配置されている。四ノ郭・三ノ郭は、切岸だけで区画された、いずれも馬蹄形の曲輪で、外周には幾重にも腰曲輪群が配置されている。三ノ郭の背後には堀切が穿たれ、二ノ郭が構えられている。二ノ郭は3段の平場に分かれ、郭内に鉄塔が建っている。二ノ郭と主郭の間は東半分を片堀切で穿っている。この堀切は東斜面に長い竪堀となって落ちている。二ノ郭も東西の斜面に腰曲輪群を築いており、西側下方では大きな竪堀が腰曲輪群を貫通して北に向かって落ちている。この竪堀は形状からすると、登城路だったと思われる。主郭も3段の平場に分かれ、外周に腰曲輪群を築いている。南東では堀切の先に馬蹄形の出曲輪が配置され、その下方の腰曲輪の横から竪堀が落ちている。また南の腰曲輪の一部では、わずかに土塁が築かれている。主郭の南西は大きな鞍部となっているが、後世の耕地化で改変されているらしい。その南に配水池の大きなタンクがあり、その南に干沢城の背後を防衛する長林砦が築かれている。
 長林砦は、南北2つの曲輪群で構成されている。北郭群は3段の小平場で構成され、背後に堀切がある。さらにその南に登った先にあるのが南郭群で、ここも3つの平場があり、2つ目の後ろに浅い堀切がある。しかし長林砦の堀切は、いずれもほとんど自然地形である。
 以上が、干沢城の遺構で、諏訪氏の山城の中ではかなり規模が大きい部類に入る。実戦が行われたことが文献に残る数少ない城の一つでもあり、遺構も見やすく、必見の城である。
四ノ郭から見た三ノ郭→DSCN5417.JPG
DSCN5437.JPG←三ノ郭~二ノ郭間の堀切
片堀切から落ちる竪堀→DSCN5478.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.988815/138.136768/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

埴原田城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5329.JPG←二ノ郭から見た主郭
 埴原田城は、文明年間(1469~87年)に諏訪氏の一族埴原田小太郎行満が築いた城である。行満は諏訪氏惣領家の政満の弟で、惣領家と長く抗争状態にあった大祝家の大祝継満が1483年正月に政満を前宮の神殿に謀殺した際、兄政満・その子宮若丸・御内人10余人と共に殺害された。

 埴原田城は、永明寺山から東に伸びた尾根先端の茶臼山と呼ばれる比高40m程の小山に築かれている。東にある観音堂の脇から登道が付いており、簡単に登城できる。山頂に南北に並んだ主郭・二ノ郭を置き、周囲に多数の腰曲輪を廻らした城で、基本的に腰曲輪群だけで構成されている。主郭には祠が数基祀られ、「埴原田小太郎の碑」と伝えられる石碑も立っている。主郭背後の尾根には2つの堀切があるとされるが、自然地形の鞍部に近く、堀切と言うほど形は明瞭ではない。主郭・二ノ郭の土塁も、ささやかなものである。この他、南西に舌状に突き出た曲輪が確認できる。埴原田城は、地形的な要害性も低く、城の縄張りも単に曲輪群を連ねただけであり、居館的な趣の強い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.015930/138.172216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鬼場城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5227.JPG←主郭背後の二重堀切
 鬼場城は、諏訪氏の庶流矢ヶ崎氏の城である。当初、齢松山城の支城として造られたが、位置の重要性とその堅固さから本支の逆転があり、後に鬼場城が本城となったと推測されている。天文年間(1532~55年)には、矢崎和泉守が鬼場城に拠って武田信玄に属したと伝えられる。山道を通して上原城とも簡単に連絡でき、北山浦一帯の交通路が集中する所であったため、交通の要衝であり、上原城防衛網の重要な支城であったと考えられている。

 鬼場城は、永明寺山から延びた支尾根が上川へ落ち込む先端の、標高905.5m、比高75mの峰に築かれている。城山団地の奥から北に伸びる車道があり、その脇から散策路が整備されており、そこから南東に進んでいけば、大した山道を登ることなく簡単に訪城できる。頂部に土塁囲みの主郭を置き、東側に虎口郭と堀切を挟んで二ノ郭(鉄塔が建つ)を築いている。主郭は小さく、土塁で囲まれてすり鉢状になっており、齢松山城のものより居住性がない。主郭・二ノ郭の周囲には数段の腰曲輪群が配置され、二ノ郭北の腰曲輪には大井戸の跡が残っている。主郭の南には小さな横堀が構築されている。主郭背後の尾根には二重堀切が穿たれ、その先に小さな三ノ郭がある。三ノ郭は削平が甘く、ほとんど自然地形に近いが、南北に腰曲輪群を配し、中央に堀切らしい窪地も見られる。三ノ郭の外側には、搦手筋を守る長さ100m余りに及ぶ土塁と空堀が築かれ、緩斜面の尾根を防御している。以上が鬼場城の遺構で、遺構はよく残っており、主郭と背後の尾根筋は薮払いされて見やすいが、腰曲輪や主郭の東側は笹薮に覆われてしまっている。
主郭南の横堀→DSCN5253.JPG
DSCN5273.JPG←腰曲輪に残る大井戸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.004908/138.173311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー