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高田城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9748.JPG←主郭背後の土塁
 高田城は、八幡館・東館城とも言い、奥州千葉氏の一流千葉矢作氏の一族浜田(千葉)氏の歴代の居城である。浜田氏は、矢作内館主千葉重慶の子胤慶を初代とする一族で、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭でもあり、後に葛西氏の一族西館氏から継嗣を迎えたことから葛西氏の親族衆となり、気仙郡での権勢を増大させた。浜田氏でよく知られるのは、主家葛西氏に反逆して浜田の乱(浜田兵乱)と呼ばれる戦乱を起こした安房守広綱である。その経緯は、米ヶ崎城の項に記載する。広綱は米ヶ崎城に居城を移し、高田城には家臣の高田壱岐を置いた。しかし結局広綱の反乱は鎮圧され、没落した。広綱の没後には村上丹後守則道が城主となったと言う。また葛西大崎一揆に関する伝承では、佐沼城に籠城した葛西旧臣団の中に、高田城主高田壱岐守胤冬の名が見える。

 高田城は、陸前高田の市街地中心部のすぐ北にある標高40~50mの丘陵上に築かれている。南から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭と、堀切で分断された3つの曲輪を南北に連ね、その東西に腰曲輪を配置した縄張りとなっている。主郭は本丸公園となっているが、後部が一段高くなり、背後から東西両辺にかけて土塁が築かれている。南には段曲輪が置かれている。本丸公園は、2011年の東日本大震災の時には大勢の市民が避難して、大津波から逃れることができた場所である。主郭の東の腰曲輪には天照御祖神社が建っている。また西側には広い腰曲輪群が置かれており、山林となっている。主郭の北には堀切が穿たれ、この西の腰曲輪群の北側に大竪堀となって落ちている。この竪堀は登城道でもあったらしく、北側に竪土塁が築かれ、この竪土塁は中間でL字に曲がって物見台を構築している。その下に二ノ郭西側の腰曲輪群に入る虎口が築かれ、その西に更に竪土塁が伸びている。二ノ郭には八幡神社が建っており、ここも後部が一段高くなり、西側に土塁が築かれている。二ノ郭の西側にも腰曲輪群が広がるが、一面の笹薮である。二ノ郭北に堀切が穿たれ、その北に三ノ郭がある。三ノ郭は、内部が2段に分かれ、西に段曲輪群が置かれている。三ノ郭の北には北郭があったが、震災後の高台移転で住宅地が建設され、大きく削られている。それでも南側には腰曲輪が見られる。以上が高田城の遺構で、市街地間近の城でありながら遺構がよく残っている。
 尚、城の麓の平地には、まだまだ空き地が多く、津波で壊滅した傷跡を残している。かつての賑わいを取り戻す日が来ることを願ってやまない。
主郭西側の腰曲輪群→DSCN9740.JPG
DSCN9723.JPG←堀切から落ちる大竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.018992/141.629004/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


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米ヶ崎城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9636.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 米ヶ崎城は、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭であった千葉(浜田)安房守広綱の居城である。広綱は、主家葛西氏に反逆して浜田の乱(浜田兵乱)と呼ばれる戦乱を起こしたことで知られる。米ヶ崎城は、この戦乱の中で築かれたとも言われる。浜田氏は、奥州千葉氏の一流千葉矢作氏の一族であったが、後に葛西氏の一族西館氏から継嗣を迎えたことから葛西氏の親族衆となり、気仙郡での権勢を増大させた。この頃の浜田氏の居城は高田城(東館)であったが、広綱の時に米ヶ崎城を築いて居城を移した。一説には、城主であった及川氏から米ヶ崎城を召し上げて改修し、及川氏は後に蛇ヶ崎城に移ったとも言われる。1587年、広綱は朝日楯主本吉大膳重継と衝突し本吉郡に侵攻したが、葛西太守晴信の仲裁で撤兵した。しかし本吉侵攻に対する葛西太守の所領減の措置に不満を抱き、翌88年春、広綱は反乱を起し(浜田の乱)、近隣を侵して勢力を拡大していった。これを知った晴信は、反乱鎮圧のため領内の諸勢を動員し、自らも気仙郡に出陣した。浜田勢は葛西方の防衛の主力である気仙沼熊谷党と篠峯山麓で激戦を繰り広げたが劣勢となり、後退した。その後も浜田の兵乱は続いたが、8月に至って広綱は降伏した。浜田氏は所領を没収され、気仙郡の旗頭は矢作氏に移された。1590年の奥州仕置による葛西氏改易の後、広綱の子信綱は葛西大崎一揆に参陣し、深谷の役(須江山の惨劇)で討死した。

 米ヶ崎城は、広田湾の北岸から南に突き出た標高25m程の半島上に築かれている。半島全体が城域となっており、北半分は宅地化などで改変されていてどこまでが城域であったのかは明確ではない。一方、南半分は畑や山林となっていて遺構がよく残っている。南から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭が並び、それぞれ堀切と鞍部の曲輪で区画されている。主郭には米崎八幡神社が建っている。小さな高台で、西側には広い腰曲輪が広がっている。主郭から堀切を挟んで北に二ノ郭がある。二ノ郭は北東部が入隅となった横矢掛りのある曲輪で、畑となっている。二ノ郭の北端には千葉安房守・老臣大和田掃部・他2名の家臣の墓が立っている。二ノ郭の北は幅広の鞍部の曲輪があり、その北に横長の三ノ郭があるが、この付近は薮が酷くて踏査困難である。鞍部の曲輪の西側に竪堀状虎口があり、下に広がる腰曲輪に通じている。三ノ郭の北側も堀状の曲輪となっているが、畑と宅地になっている。ここから北側は前述の通り宅地や畑となっており、改変を受けている上、未踏査できない場所が多い。それでも住宅地に曲輪跡や土塁が散発的に残っている。やや残念な状況ではあるが、南半分は城跡らしい雰囲気をよく残している。
二ノ郭の切岸→DSCN9612.JPG
DSCN9646.JPG←主郭と広大な腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.000868/141.659303/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 豊臣秀吉 【オールカラー】

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渡良瀬遊水地のツバメのねぐら入り [日記]

DSCN3321.JPG←乱れ飛ぶツバメさん
                            (クリックで拡大)
今日の夕方、初めてツバメのねぐら入りというものを見ました。
場所は渡良瀬遊水地です。

昨日も行ったのですが、
ツバメさん達のいる場所がよくわからなかったり、双眼鏡がなかったりと準備不足で、
先に来ていたベテランの人に教えてもらってなんとなくはわかりましたが、
あまりよく見えませんでした。

今日は、午前中に双眼鏡を買いに行って、再チャレンジしました。

最初はヨシ原の見晴らしのいい場所に行きましたが、
数羽のツバメさんが見えただけでした。
違う場所に移動して、先にカメラなどで陣取っている人たちの所に行きました。
日没時間が過ぎて、結構あたりが暗くなってきたのに、
ほとんどツバメが飛んでいませんでした。
先にいたベテランの方が「(ツバメが)今日は違う場所に移動しちゃったかもしれないねー」
なんて言っていたので、半分諦めかけていました。

ところがしばらくして、真上を何羽ものツバメさんが飛び始めました。
すると、向こうに見えるヨシ原の上に何十羽ものツバメさんが飛び交い始めていました。
双眼鏡で覗いていると、どんどん数が増えてきて、
何百というツバメさんが乱れ飛び始めました。
一部は吸い込まれる様にヨシ原に入っていきます。

その後もどんどん数が増えてきて、
数千羽のツバメさんの大集団が、渦を巻くようにヨシ原の上空を旋回し始めました。
肉眼では遠くてよく見えません。
肉眼で見えるのは、比較的近くを乱れ飛んでいるツバメさん達だけです。
だけど遠くに乱れ飛ぶ大群は、双眼鏡で初めて分かる距離にいました。

さすがにカメラでは、一眼レフでも光量不足で撮影が難しいでしょう。
でも私の城歩き用のコンデジで、なんとか影だけは撮ることができました。
それが冒頭の写真です。

ほとんど初めて来たのに、これだけの規模のねぐら入りが見れたのは幸運でした。
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末崎城(岩手県大船渡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9565.JPG←主郭周囲の空堀
 末崎城は、武田丹後・式部大輔信政父子が城主であったとも、及川伊賀が城主であったとも言われる。いずれにしても葛西氏の家臣で、1590年の葛西氏改易と共に没落した。

 末崎城は、門之浜湾の東側にある館ヶ崎と呼ばれる半島上に築かれた城である。海を挟んで対岸には蛇ヶ崎城がある。半島付け根の東部に横長長方形の主郭を置き、その北と西に空堀を穿ち、帯曲輪を廻らしている。主郭内は段差で東西2つの平場に分かれているようだが、東側は進入不能の薮で全く形状が追えない。西半分だけ薮払いされ、城址石碑が立っている。周囲の空堀は、一部埋まっているのか腰曲輪状になっている部分もある。また帯曲輪の東端部は高くなっていて、物見台になっている。北西には緩斜面が広がっており、縁に段差が見られるが、曲輪の跡かどうかはよくわからない。この緩斜面ではキツネが逃げていった。主郭の南には切岸の下に緩斜面がある。半島は主郭の南西に伸びているが、一部に段差が見られるもののほとんど自然地形である。その先に谷があり、その南西にまた丘陵があるが、丘陵の上に登ると縁に低土塁のある平場があるので、ここも城域だったと思われる。しかしその先はまた自然地形である。結局、主郭周辺以外は取りとめのない城である。尚、この城も2月の北東北であるがマダニがいるので要注意である。
帯曲輪東端の物見台→DSCN9566.JPG
DSCN9582.JPG←南西部丘陵に残る土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.990378/141.725940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
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根ノ城(岩手県大船渡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9444.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 根ノ城は、千田九兵衛の居城と伝えられる。一説には、城主は猪川備前とも言われる。いずれにしても事績は不明である。

 根ノ城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。北西麓に墓地があり、そこから登道が付いている。登道の脇には段々になった腰曲輪群が見られる。頂部には主郭があるが、主郭は、正方形の北西部を入隅にした形をした曲輪で、内部は2段に分かれている。南東が高くなっていて、祠が祀られている。主郭の全周に帯曲輪・腰曲輪が廻らされ、西側がやや幅広となっている。更に北斜面に前述の通り腰曲輪群が配置され、北には舌状曲輪(北郭)が張り出している。北郭の北端は高台になっていて、物見台だったと思われる。物見台には祠や石碑が立ち並んでいる。遺構としては以上で、居住性のある居館的な城である。尚、城の周りは住宅地や市街地なのだが、北郭のところで鹿が逃げていったのにはびっくりした。
北郭の物見台→DSCN9511.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.083930/141.706467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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金崎館(岩手県大槌町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9432.JPG←館跡の大念寺
 金崎館は、歴史不詳の城館である。『日本城郭大系』や『岩手県中世城館跡分布調査報告書』には記載がなく、いわてデジタルマップの文化財地図に載っているのが唯一の情報源である。大念寺の境内が館跡とされている。背後の山上には大槌城があるが、大槌城の大手道は大念寺の脇を通っていたと推測されており、大念寺はちょうど大手門に当たっていたとの説がある。

 金崎館は、前述の通り大念寺の境内となっている。改変されているので明確な遺構は見られない。大槌市街地より5m程の高台にあり、また背後を山で囲まれている。この様な場所に館を置く例は鎌倉時代に多いので、鎌倉時代の城館であろうか?或いは詰城の大槌城に対して、平時の居館であったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.358798/141.898813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
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タグ:居館
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大槌代官所(岩手県大槌町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9423.JPG←代官所跡公園
 大槌代官所は、1632年に南部藩が開設した代官所である。南は平田村から北は豊間根村、内陸方面の小国・江繋村に至る「大槌通」23ヶ村を統治したと言う。1869年(明治2年)に廃止された。

 大槌代官所は、現在の大槌町役場(旧大槌小学校)の敷地にあったらしい。現在はその南東に代官所跡公園があり、石碑が立っている。その後ろの山上には大槌城の曲輪が見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.357969/141.900530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


大槌代官所書留 下 (国会図書館コレクション)

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  • 作者: 不明
  • 出版社/メーカー: Kindleアーカイブ
  • 発売日: 2017/09/13
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タグ:代官所
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船越御所(岩手県山田町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9406.JPG←ただただ平坦な主郭
 船越御所は、南北朝時代に奥州南朝方の総帥であった鎮守府大将軍北畠顕家の嫡子顕成が拠った城との伝承が残る。顕成の事績ははっきりしないが、一説には浪岡氏の祖となったと言われ、1347年の霊山城陥落の後、稗貫から船越に流れてきて、1373年に浪岡に移るまで20年余を閉伊氏の一族船越氏の庇護を受けて船越御所で居住したとされる。但し明証があるわけではなく、実際に顕成がいたのかどうかは不明である。

 船越御所は、船越湾に臨む比高20mに満たない独立丘陵に築かれている。この丘陵は広く平坦な台地で、周囲を断崖で囲まれている。台地南端に館山八幡宮が建っており、そこから登ることがきできる。船越御所は、主郭とその東に一段低く腰曲輪を配しただけのほぼ単郭の城館である。しかし台地上は全域薮に覆われていて、踏査が大変である。しかも腰曲輪との間を区画する段差がある以外はただ単に平地が広がっているだけなので、半分ほど進んだ所で引き返した。
 尚、船越御所の周辺は、東日本大震災の津波で壊滅しており、現在は草茫々の空き地ばかりとなっている。前述の館山八幡宮は、かつては下の平地から見るとかなり高い位置にあったが、現在は神社の近くに防潮堤とその上を通る車道があるので、ほんの数m登るだけで神社に至る。10年以上経過しても震災の影を周囲に色濃く残す城館である。
南東の腰曲輪→DSCN9400.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.428246/141.980824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

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タグ:居館
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折壁楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9309.JPG←腰曲輪から見た主郭
 折壁楯(折壁館)は、伊豆国久澄を本拠とした伊藤駿河という武士が落人となってこの地に至り、居城として築いたと伝えられる。その後伊藤氏は、隣接する土豪根城氏(閉伊氏)に討たれて滅亡したと言う。しかし伊藤氏について確かな資料は一つもなく、伝承のみであるらしい。

 折壁楯は、長沢川とその支流の合流点に突き出た、標高103m、比高80mの丘陵上に築かれている。この城の中心部から東に突出した三ノ郭に神社があり、この城に登るにはこの神社への参道を使えばよいのだが、この参道の入口が非常にわかりにくい。この神社参道を見つけられるかどうかが攻略のポイントとなる。地元のお婆さんに教えていただいて、ようやく発見できた。民家の庭先を抜けていき、畑の中を登っていくので普通は無断での進入は気が引けるのだが、お婆さんにそこは通っていい道と言われたので、遠慮せず立ち入らせていただいた。県道290号線からの入口は、オモエエンジニアリング・サービスと書かれた緑色の看板と2台並んだ自販機が目印である。ここから真っ直ぐ西に登っていけば北西に登っていく参道がある。参道を登っていくと、途中に腰曲輪らしい平場がいくつか見られ、やがて三ノ郭外周の腰曲輪に至る。三ノ郭は腰曲輪の上に切岸で囲まれてそびえている。三ノ郭は東西に長い曲輪で、神社の拝殿と本殿が離れて建っている。三ノ郭の西に2段の段曲輪があり、北面から東面にかけて腰曲輪が取り巻いている。また三ノ郭の北東に伸びる尾根には舌状曲輪があり、その先に二重堀切が穿たれ、更に伸びる尾根の少し先にもう1本の堀切が穿たれている。その先には楕円形の平場があり、北郭であろう。三ノ郭の北に伸びる尾根にも段曲輪と堀切がある。一方、三ノ郭の西の段曲輪の先に堀切が穿たれていて、主郭腰曲輪との間を分断している。その西に腰曲輪で囲まれた主郭がそびえている。腰曲輪の北には一段低く北郭が張り出している。北郭にも外周に腰曲輪が廻らされている。主郭は切岸でそびえ立った長円形の曲輪で、南には段差で区画された二ノ郭があるが、主郭の南半分と二ノ郭の北半分とは矢竹が密生した薮で踏査困難であり、形状もよくわからない。主郭と二ノ郭の外周はきれいに削平された腰曲輪が取り巻いているが、ここも一部が密生した薮で覆われていて、踏査が大変である。二ノ郭の腰曲輪の下には更にもう1段の腰曲輪が築かれている。腰曲輪の南西には尾根には浅い堀切があるが、背後の守りはほとんど意識されていないようである。以上が折壁楯の遺構で、一部薮が酷いものの遺構はよく残っており、なかなか見応えがある。
 尚、この山はマダニの巣窟らしく、下山後にチェックしたら2月の岩手なのにトレッキングパンツにマダニが20匹以上もくっついていた。マダニ要注意の城である。
神社が建つ三ノ郭→DSCN9283.JPG
DSCN9257.JPG←二重堀切の一部
腰曲輪から見た二ノ郭→DSCN9346.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.597661/141.889211/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


岩手県の歴史 (県史)

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タグ:中世山城
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花輪楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9173.JPG←主郭の横矢の張り出し
 花輪楯(花輪館)は、田鎖氏(閉伊氏)の一族花輪氏の居城である。1546年に、田鎖十郎左衛門久朝の子、十郎左衛門朝重がこの地に分封され、花輪城を築いて移り住んだと言われている。以後、田鎖城防衛の一翼を担った。その子一朝の時に花輪を姓とし、花輪安房と称した。その子内膳政朝の養女お松(後の慈徳院)は、南部氏2代藩主利直が閉伊郡を視察した際、見初められてその側室となり、4代藩主重信の生母となった。重信は幼名乙松、後に花輪彦六郎を称し、1630年15歳で盛岡城内丸中屋敷に移り住むまで、花輪館で祖父政朝・生母お松と共に居住した。

 花輪楯は、長沢川西岸に連なる丘陵地の一角、標高96m、比高80m程の丘陵上に築かれている。城址東端部に華森神社が建っており、その参道を使って神社まで登り、その背後の斜面を登ればよい。ちなみに華森神社は、重信が花輪楯時代に屋敷地内に建立したお宮が起源で、社殿の両脇には生母お松の石塔 (慈徳院殿松宝琳貞大姉)とお松に関する解説板が立っている。神社背後には、段曲輪1段の上に細長い三ノ郭がある。三ノ郭は平坦であるが自然地形に近い。三ノ郭を南西に進むと、二ノ郭の切岸が見えてくる。二ノ郭は南東先端に段曲輪を設けた、東西に長い曲輪である。二ノ郭の西には斜面の先に主郭がある。主郭も細長いが、南北の塁線が凸凹した不定形な曲輪で、西端の北側で横矢の張り出しが見られる。主郭外周には帯曲輪が廻らされている。また主郭前部の北に支尾根が伸び、ここにも段曲輪群がある。主郭の南西には細長い平坦な尾根が伸び、その先に腰曲輪と切岸で囲まれた出砦がある。出砦の西側には腰曲輪の先に浅い堀切が穿たれている。また出砦の東に伸びる尾根にも段曲輪が築かれている。以上が花輪楯の遺構で、近世初頭まで使用された城であるにも関わらず、あまり巧妙な縄張りは見られない。
西の出砦→DSCN9215.JPG
DSCN9112.JPG←お松の石塔

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.611565/141.895230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

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タグ:中世山城
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根城楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9035.JPG←北郭群
 根城楯(根城館)は、単に根城とも呼ばれ、南北朝時代に閉伊氏の嫡流閉伊親光が築いた城と言われている。親光は、2度に渡る北畠顕家率いる奥州勢の上洛戦に従ったが、顕家が討死にして奥州勢が四散すると、親光は苦労の末に自領閉伊に帰着した。しかし閉伊も足利方の攻撃を受ける恐れがあったため、西上の折に聞いた楠木正成の千早・赤坂城に倣って、新たに山城を構築した。それが根城楯であると言う。後に閉伊氏が老木楯田鎖城へと居城を移してからも、西を守る支城として機能したと推測される。

 根城楯は、閉伊川南岸に突き出た比高105mの山上に築かれている。大まかに言うと、大きくU字型に開いた尾根上に曲輪を連ねた縄張りとなっている。北東麓に八幡神社の鳥居があり、そこから谷沿いに参道が整備されており、訪城はたやすい。山頂に八幡神社が建つ主郭を置き、その北尾根と西尾根に曲輪群を配置した連郭式の縄張りとなっている。谷沿いの参道が尾根上に至った部分は鞍部の平場になっていて、その東に菱形をした広い東郭があり、西には2段の平場が階段状に築かれて主郭に至る。この2段の曲輪はいずれも右手(登道から見ると左側)に物見台の土塁が突き出ている。主郭は、西以外の三方に腰曲輪を廻らしているが、神社本殿の建つ主郭は櫓台程度の広さしかない。主郭の南の尾根は細く伸び、曲輪はないが浅い堀切が2条見られる。主郭の北には舌状の長い北郭があり、その北東の尾根に沿って曲輪群が置かれている。この北郭群の円弧状の堀切があり、その先に2つの小ピークがあり、いずれも物見台であったと思われる。1つ目の物見台の周りには腰曲輪も見られる。
 『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では曲輪はこれだけであるが、実際には派生する全ての支尾根にも曲輪群が築かれている。即ち東郭の南・北・東の3方に伸びる支尾根、そして北郭群から分岐する北支尾根である。東郭の東尾根では段曲輪の先に細長い曲輪が2つあり、途中には竪堀も見られる。北郭群の北支尾根には堀切が見られる。以上が根城楯の遺構で、閉伊氏嫡流の城としては、老木楯や田鎖城よりもしっかりした普請がされ、戦国期まで改修を受けて使われた城と推測される。それにしても支城にすぎない根城楯の方が、規模は小さいものの縄張りの充実度が高く、なんとも理解に苦しむ。
北郭群の円弧状堀切→DSCN9053.JPG
DSCN9043.JPG←北郭群の北支尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.626309/141.866155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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老木楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8781.JPG←削平された北郭
 老木楯(老木館)は、閉伊氏(後の田鎖氏)の支城と推測されている。一説には鎌倉初期に閉伊頼基の家臣広沢平馬丞忠連が築いたとも言われる。当初根城楯を築いて居城とした閉伊氏が、松山楯主白根左京尉忠伯から奪った髪長の地を経営するために、新たに老木楯を築いて居城としたのではないかと推測されている。その後、更に東の田鎖城に居城を移しており、それ以降老木楯は田鎖城の支城として機能したものと考えられている。

 老木楯は、閉伊川南岸の標高110mの尾根上に築かれている。田鎖城から1本西の尾根に当たる。西に突き出た支尾根先端に田鎖神社があり、その参道を使えば迷うことなく登ることができる。実は田鎖神社が建っている小高い峰は、老木楯の出砦とされている。東に伸びる尾根には堀切があるとされるが、林道が切り開かれて破壊を受けており、わかりにくくなっている。この尾根を東に上った先の主尾根に主郭がある。縦長の細長い曲輪で居住性はほとんどなく、あまり削平もされておらず自然地形の尾根に近いが、西側に幅のある腰曲輪が付随している。主郭の北には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭はのっぺりした自然地形に近い曲輪で、倒壊した小屋(神社?)があり、西側には主郭下の腰曲輪が続いているが、東にだらっと平場が広がっていて、どこまでが曲輪の範囲か不明瞭である。二ノ郭の北東に伸びる尾根の先に北郭があり、ここだけは主要な曲輪の中できれいに削平されている。一方、主郭の南には林道が通り、電柱が立ち、その先の2つの峰に三ノ郭と出砦がある。三ノ郭は高圧鉄塔があり、自然地形に近い傾斜した曲輪であるが、東に派生する2つの支尾根にそれぞれ腰曲輪が見られる。また西に伸びる支尾根を下っていくと途中に小堀切があり、その先に鉄塔が建っているが明確な平場はない。三ノ郭の南の出砦も自然地形に近いが、東に伸びる主尾根に堀切が穿たれている。この堀切も林道で破壊を受けている。出砦の西には緩斜面の平場が広がっており、その先に切岸で区画された腰曲輪が数段ある。この腰曲輪は薮に覆われているが、『日本城郭大系』の縄張図では居館跡とされる。この下にも平場があった可能性があるが、重機で破壊されていて往時の形状がよくわからない。縄張図ではこの付近は大手口とされる。これらの西の平場群の南には、頂上の出砦から小道が麓の集落まで下っているが、この道は1/25000地形図には記載されていない。以上が老木楯で、腰曲輪は多いが主要な曲輪は自然地形で締まりがなく、田鎖城と同じ様な感じで理解に苦しむ縄張りである。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN8808.JPG
DSCN8853.JPG←三ノ郭の西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.624821/141.888363/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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払川楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8635.JPG←堀切と三ノ郭櫓台
 払川楯(払川館)は、津軽石館とも言い、戦国時代に千徳城主となった南部氏一族千徳氏(一戸氏)の庶流津軽石氏の居城である。一戸勝富が閉伊郡津軽石村に分封されて津軽石氏を称した。津軽石勝富は当初沼里館を居城としていたが、手狭になったため1522年に新たに払川楯を築いて居城を移した。後に勝富は宗家の千徳氏と仲違いを起こし、1583年正月に千徳城での饗応の席で謀殺された。そのまま千徳勢が払川楯を攻撃して落城させ、以後廃城となった。

 払川楯は、瑞雲寺北東の比高50m程の山上に築かれている。瑞雲寺境内の南東にある墓地の脇から登道が整備されており、簡単に登ることができる。頂部に大土塁を備えた主郭を置き、その東に二ノ郭、主郭の北東に堀切を挟んで、後部に櫓台を備えた三ノ郭を配している。二ノ郭の先に伸びる東尾根と、三ノ郭の先に伸びる北東尾根と、2つの尾根上に舌状曲輪が築かれ、間の谷を挟んで2つの曲輪群が並立している。三ノ郭には貯水池があって改変を受けているが、基本的な形状は残っていると思われる。二ノ郭の先にある舌状曲輪側方の腰曲輪では、腰曲輪を貫通して竪堀が落ちている。二ノ郭の南斜面にも段々に曲輪群があり、大手道はこの曲輪群を登っていくように敷設されている。一方、主郭の北側は切岸だけで区画され、背後尾根の西には砦とされる高台があるが、墓地に改変されている。この砦の脇から主郭・二ノ郭の西側を断ち切るように斜めに横堀が穿たれている。以上が払川楯の遺構で、比較的小さな城であるが、決して単純に曲輪群を連ねただけではなく、竪堀・横堀で要所を防御した縄張りを有している。
腰曲輪から落ちる竪堀→DSCN8611.JPG
DSCN8725.JPG←二ノ郭西側の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.568125/141.929519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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蛇ヶ崎城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8537.JPG←主郭背後の大堀切
 蛇ヶ崎城は、天正年間(1573~92年)に葛西氏の家臣及川掃部重綱の居城であったと伝えられる。城内にある八幡神社の社伝では、1385年に及川道光が城主であったと言う。一方別説では、馬籠千葉氏の庶流で矢作内館城主矢作千葉氏(重胤?)の3男広次が蛇ヶ崎城を築き、以後千葉氏10代に及んだが、1590年の奥州仕置で主家葛西氏が改易となると、蛇ヶ崎城主千葉信定は葛西紀伊と名を改め、伊達政宗の家士となった。そしてそれに代わって東山中川城(鳥海館遅沢館か?)主及川掃部が蛇ヶ崎城に居住したが、間もなくこの城を引き上げて東磐井郡猿沢に居住したと言う。しかし猿沢城の事績によれば、猿沢城主及川掃部信次は1559年に及川一族が葛西太守に武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)に加担して改易され、気仙郡蛇ヶ崎に逃れたとある。及川掃部が同族を頼って蛇ヶ崎城に逃れたと考えるのが自然で、蛇ヶ崎城主は及川氏が城主であった可能性が高いのではないだろうか。そして、葛西氏滅亡後にかつての居城猿沢城に戻ったと考えられる。
 また、葛西大崎一揆についての伝承では、桃生郡中津山香取(神取山城)に立て籠もった1700余騎の大将として気仙郡蛇ヶ崎城主及川掃部頭重綱の名が見える。神取山城の葛西勢は、蒲生氏郷軍に攻撃されて潰走し、及川掃部頭は佐沼城の葛西晴信に合流し、落城時の乱戦の中、奮戦して自害したと言う。葛西氏の歴史については不明点や史料上の食い違いや混乱が多いので、どの伝承が正しいのか不明である。

 蛇ヶ崎城は、門之浜湾の南に突き出た小半島に築かれている。湾の対岸には末崎城がある。城内は3つの曲輪群で構成されるが、蛇ヶ崎園地や畑・神社・民家などになっていて、大きく改変されている。台地基部を断ち切る大堀切が穿たれ、この堀切から大竪堀が南西に向かって落ちている。堀切は円弧状で、土橋が見られる。その南東側に主郭がそびえている。主郭は一段高い細長い平場と、その南の広い平場に分かれている。二ノ郭は八幡神社が建っている部分で、平場があるがはっきりした段・切岸がなく、明確な遺構に乏しい。二ノ郭先端部も小高くなっていて、蛇ヶ崎神社が建っている。二ノ郭の南に低地を挟んで、小高くなった三ノ郭がある。三ノ郭も何段かの平場に分かれているが、公園化されているせいもあって遺構は明確ではない。結局のところ蛇ヶ崎城は、主郭背後を分断する堀切・竪堀だけが異彩を放つ城である。
主郭→DSCN8554.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.984557/141.714749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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二日市館(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8378.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の堀切
 二日市館は、葛西氏の家臣今野助九郎・同内膳の居城と伝えられている。元々この地区では、15世紀初頭頃に矢作千葉氏の一族千葉慶宗が長部館を築いて入部して長部氏を称していた。今野氏と長部千葉氏との関係は不明であるが、長部千葉氏の家臣、もしくは長部千葉氏の後に長部地域を統治した可能性が考えられている。また今野内膳は、葛西七人衆の一人と言われる武将であったと言う。今野助九郎・内膳父子は、1590年の葛西大崎一揆で、桃生郡深谷で討死したと伝わる。その後、葛西・大崎両氏の旧領は伊達領となり、1592年に伊達氏の家臣鈴木宗記が城代として二日市城に駐屯した。その後も、中島大蔵・鈴木和泉・大条宗綱が順次城代として配された。また現在の田の浜地内には、慶長年間(1596~1615年)に藩境警備のため、仙台藩直参として足軽55人が組織され、屋敷割されたと言う。1617年に大条宗綱が没すると、大町豊後がこれに代わったが、1631年に知行替えとなってこの地を離れると、以後城代は置かれなくなった。伊達領となった近世初頭まで城代が置かれたことから、気仙郡の広田湾に臨む地域の重要な拠点城郭であったことが推測される。

 二日市館は、長部漁港の北側に突き出た標高55mの半島状の丘陵に築かれている。丘陵基部に当たる西側の住宅地から登道が付いており、城内まで通じている。住宅地の東に段差があり、その先は緩斜面の畑となっていて、四ノ郭と推測される。その東に段差で区画された三ノ郭が築かれている。三ノ郭は中央を仕切るように土塁が築かれている。三ノ郭の東には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭はほとんど自然地形の地山で、郭内もかなり傾斜している。しかし、南側と北西側に腰曲輪が築かれている。二ノ郭の北東に、縦長長方形の主郭がある。主郭は切岸で囲まれ、外周に数段の腰曲輪を築いている。主郭の西辺には土塁が築かれ、土塁の北端に内枡形虎口が築かれて下段の腰曲輪に通じている。また主郭の北東下には竪堀のような谷状通路があり、おそらく往時の船着き場に通じていたと思われる。尚、現在城のある丘陵の東に工場が建つ平地があるが、これは戦後の埋め立てによるもので、往時の丘陵の東縁は直接海に面していた。以上が二日市館の遺構で、技巧的とは言い難いが、海に突き出た要害であったことはよくわかる。
 尚、城があるのは集落の裏の丘であるが、カモシカさん1頭が御出ましになった。
主郭西辺の土塁→DSCN8500.JPG
DSCN8475.JPG←主郭の内枡形虎口
主郭北東の谷状通路→DSCN8431.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.996132/141.624048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


首都圏発 戦国の城の歩きかた

首都圏発 戦国の城の歩きかた

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: 単行本



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唐桑南館(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN8300.JPG←主郭に建つ八雲神社
 唐桑南館は、単に南館と呼ばれるが、それだけではどこの城館だかわからないので、ここでは唐桑南館と呼称する。阿部四郎左衛門の居城と伝えられているが、阿部氏は唐桑城の城主である。南館は唐桑城と谷を挟んで南北に並立していること、城の規模が唐桑城の方が大きいことから、南館は唐桑城の出城で、両城一対となって唐桑の港を掌握していたと考えられる。

 唐桑南館は、唐桑城の南方650mの位置にあり、標高107mの山上に築かれている。現在主郭に八雲神社が建っていて、その参道が東麓から整備されているので簡単に登ることができる。山頂に三角形の主郭を置き、南の参道沿いに段曲輪数段、南以外の主郭外周に腰曲輪を1~2段配しただけの簡素な縄張りである。堀切はなく、その形態と、唐桑城より高所且つ湾の入口近くにあることから推測して、物見の城として機能していたのだろう。
腰曲輪→DSCN8311.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.898206/141.638467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ビジュアル・ワイド 日本名城百選

ビジュアル・ワイド 日本名城百選

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2008/09/27
  • メディア: 単行本


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唐桑城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN8091.JPG←土塁がある主郭
 唐桑城は、葛西氏の家臣阿部四郎左衛門の居城とされる。1573年、阿部四郎左衛門頼為は朝日館主星忠信を攻撃し、忠信を滅ぼし朝日館を落城させた。しかし1580年、忠信の遺児星忠元は、姉の夫である気仙郡浜田城主浜田氏の加勢を得て頼為に逆襲し、数度の激戦の末に頼為を討ち滅ぼしたと伝えられる。また、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、唐桑城主阿部四郎左衛門重時は他の葛西氏旧臣と共に決起し、秀吉が派遣した奥州仕置軍に対抗したとされる。桃生郡中津山香取(神取山城)に立て籠もった1700余騎の中にその名が見える。
 尚、唐桑城から谷を挟んで南の山上には南館があり、そのため唐桑城は北館城とも呼ばれる。両城が一対となって機能していたと考えられる。

 唐桑城は、気仙沼湾の東の最奥部の湾に臨む比高70m程の丘陵上に築かれている。南麓の早馬神社脇から登道が整備され、途中で左の小道に逸れれば、簡単に主郭まで登ることができる。頂部に主郭を置き、その外周を取り巻くように二ノ郭を配している。主郭の北側には幅広の土塁が築かれており、櫓台や物見台が置かれていたと思われる。主郭には城址標柱がある。二ノ郭は幅が広い曲輪で、特に主郭北側に大きく広がっている。二ノ郭内の主郭裏の切岸近くには、石積みで囲まれた方形の土壇が見られ、往時の遺構の可能性がある。二ノ郭の北と西には腰曲輪が築かれ、西の腰曲輪から更に下段の腰曲輪に通じる部分には竪堀状の虎口があり、櫓門跡があったようである。腰曲輪の北西部にも岩盤を利用した竪堀状虎口がある。岩盤絶壁が威圧するように虎口脇にそびえていることから、大手虎口ではなかったかと想像される。二ノ郭の北側には、堀切を挟んで三ノ郭が置かれている。三ノ郭は薮があるが踏査は可能で、内部に城址解説板が立っている。但し、解説板に描かれている城の略図は、実態と異なっている部分が多くほとんど参考にならない。三ノ郭の外周にも腰曲輪が廻らされており、東の台地基部には堀切が穿たれて城域が終わっている。一方、二ノ郭西の腰曲輪の南西下方には、数段の腰曲輪の下に四ノ郭が張り出すように築かれているが、内部は薮だらけで踏査が大変である。四ノ郭周囲は切岸だけで区画され、北側下方は緩斜面となっている。以上が唐桑城の遺構で、それほど技巧性のある縄張りではないが、物流拠点の港を押さえる要害として重要であったことがうかがえる。
二ノ郭内の方形の石積み土壇→DSCN8268.JPG
DSCN8119.JPG←櫓門の可能性がある虎口
二ノ郭~三ノ郭間の堀切→DSCN8229.JPG
DSCN8254.JPG←三ノ郭内の解説板

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.904050/141.638103/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


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小泉城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7993.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 小泉城は、『日本城郭大系』では小泉中館と記載され、葛西氏の家臣三条小太夫近春の居城である。近春は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると他の葛西氏旧臣と共に決起し、秀吉が派遣した奥州仕置軍に対抗したとされる。深谷荘和淵村に出陣した800余騎の中にその名が見える。近春の最期はよくわからないが、葛西大崎一揆後のどこかの時点で伊達氏に誅殺されたらしい。桃生郡深谷での、いわゆる須江山の惨劇で討たれたのかもしれない。

 小泉城は、津谷川河口近くに突き出た比高30m程の丘陵先端部に築かれている。城内は車道が東西に貫通し、郭内は墓地や宅地など改変を受けているが、所々に遺構が散在している。現在アンテナ鉄塔が建っている場所が二ノ郭と思われ、現在は車道で分断されているが、車道の南北の平場全体が二ノ郭であったようである。二ノ郭の南半分はほとんどが空き地になっているが、どうも採土で削られているらしい。それでも、背後の主郭との間に堀切が残り、この堀切の南端には南側の腰曲輪が確認できる。二ノ郭東側には民家のある平場があり、往時の三ノ郭だろう。ここも改変されているのではっきりとはわからないが、二ノ郭とは切岸だけで区画されていたらしい。また二ノ郭の北西には堀切を挟んで細長い出曲輪があり、物見として機能していたと思われる。主郭は二ノ郭西側の曲輪と考えられ、車道の南側に小屋と石碑群がある。南側には腰曲輪があり、二ノ郭南側から続いている。主郭の北半分は畑となっている。主郭の西側にも堀切跡が残っている。堀切の西には外郭があったらしいが、北側が墓地になり、墓地の南は採土で大きく削られており、かなり破壊されている。しかしこの外郭にも西側に堀切が残り、北斜面には横堀と腰曲輪が構築されている。小泉城は、破壊された部分が多く、往時の形状がはっきりしない部分も多いが、断片的な遺構が城の痕跡を残している。
外郭北側の横堀・腰曲輪→DSCN8033.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.768163/141.500709/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史散歩

宮城県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


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大窪館(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7902.JPG←台地基部の堀切
 大窪館は、窪館・大久保城とも呼ばれる。城があったのは戦国時代と推測され、城主は小山播磨、或いは小山刑部と伝えられる。小山播磨と小山刑部は、同一人物か一族であったと考えられるが、その事績は不明である。いずれにして戦国期の勢力圏としては葛西氏の領域であり、小山氏は葛西氏の家臣であったものだろう。

 大窪館は、桜川の河口近くに突き出た比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭や腰曲輪の一部が畑となっており、東麓から登道が付いている。中央が少しくびれた瓢箪型に近い形状の主郭と、その周囲の1~2段の長い帯曲輪を廻らした縄張りとなっている。更に主郭の東前面には数段の腰曲輪が築かれている。主郭内はわずかな段差で2段に分かれ、東側の方がやや高く、面積も広い。北西の台地基部には1条の堀切が穿たれて分断されている。遺構としては以上で、簡素な構造の城館である。
主郭塁線と帯曲輪→DSCN7870.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.690911/141.485903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2022/05/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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石生山城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7817.JPG←4郭背後の土橋と堀切
 石生山城は、近年発見された城である。従って歴史も何もわかっていない。
 石生山城は、標高350m、比高190m程の石生山に築かれている。富岡武蔵さんのブログを参考にして北西麓の御前岩の横からアプローチしたが、登山道は途絶で途絶してしまい、結局薮の斜面を直登することになってしまった。しかも城に到達しても、城内は薮がかなり多く、遺構の確認がし辛い部分が多かった。つい4年程前まではわりと薮が少なかったようなので、これも新型コロナの影響なのかもしれない。山頂に主郭を置き、北に堀切を挟んで二ノ郭があり、更に堀切を介して自然地形の3郭がある。この2本の堀切はいずれもささやかなもので、ほとんど薮に埋もれてわかりにくくなっている。3郭の北東に、土橋が架かった堀切があり、その先に4郭がある。また主郭の南西尾根にも段曲輪があり、その先に小規模な堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭と4郭の内部には段差が見られるが、薮でわかりにくいため、形状がはっきりしない。全体に郭内の削平は甘く、堀切や腰曲輪もあるが普請はわずかである。佐竹氏が下郷要害城の大山田氏を攻撃した際に、臨時築城した付城であった可能性が考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.763444/140.210191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


杉山城問題と戦国期東国城郭 (戎光祥城郭叢書3)

杉山城問題と戦国期東国城郭 (戎光祥城郭叢書3)

  • 作者: 竹井英文
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/09/08
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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上郷要害城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7765.JPG←円弧状堀切と竪堀
 上郷要害城は、下郷要害城を本拠とした大山田氏の支城と推測されている。下郷要害城から北北西約3kmの位置にあり、武茂川西岸の比高120m程の山上に築かれている。北麓の廃屋の脇から登道が付いており、ほとんど迷うことなく訪城できる。細長い主郭と、前面の前郭、西側の帯曲輪などから構成されている。前郭は東西に虎口があり、前面下方に穿たれた堀切に通じている。この堀切の下方の斜面にも数段の段曲輪が見られる。主郭の北東部にも段曲輪があり、その先の細尾根に竪堀も見られる。主郭は内部がいくつかの段に分かれているが、あまり段差がはっきりしない。また両側面が一段低くなっているが、これもあまり段差が明瞭ではなく、全体にのっぺりした構造である。主郭後部は円弧状となっており、その下に円弧状堀切が穿たれている。この堀切は、南西部は外側にもう1本堀切が穿たれて、二重堀切となっている。内堀に当たる円弧状堀切は、西端部と中央やや東寄り、それと東端部に合計3本の竪堀が落ちている。竪堀は主郭西側の腰曲輪からも落ちている。この他、南西の尾根の先にもう1本、堀切が穿たれて城域が終わっている。以上が上郷要害城の遺構で、大山田氏の本拠である下郷要害城などと比べると、より防備を固めた出城であったように思われる。
西帯曲輪と主郭切岸→DSCN7766.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.812609/140.207584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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下郷要害古城出城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7530.JPG←出城の遠景、2本の堀切が見える
 下郷要害古城出城は、下郷要害古城の西の尾根に築かれた城である。城名は、お城巡りの先達余湖さんのHPでの記載に従った。下郷要害古城が武茂川から1本奥まった尾根に築かれているのに対して、この出城は武茂川沿いの尾根にあるため、西岸の石井館から出城の堀切がよく見える。このことから、佐竹氏勢力が築いたとされる石井館に関連して、物見または烽火台の砦として築かれた可能性も考えられる。

 下郷要害古城出城は、前述の通り下郷要害古城の西の尾根にある。城の南半分は木が皆伐されているので、南麓から伸びる作業用林道を古城に向かって登っていくと、途中で西にある尾根にその遺構を見ることができる。この出城はいわゆる細尾根城郭で、山頂部の主郭には中央で曲輪を南北に分断する堀切が穿たれている。この堀切は深さ2.5m程で、鋭い薬研堀となっている。この手の小城では大きい堀切で、しかも両側が切り立った急斜面となっているので、捕まる木もなく、堀切を越えるのには結構緊張感がある。主郭の少し北から東に突き出た支尾根にも、根元に堀切が穿たれている。主郭から北に尾根を下っていくと、東西2本の尾根に分岐する。この尾根の間の谷部には若干の平場が見られるが、ほとんど自然地形である。分岐した2本の尾根の内、東の尾根は細尾根が続くだけである。一方、西の尾根は分岐部から少し先に小堀切が穿たれ、その先で尾根が西に向かって折れた部分の北斜面に、2段に分かれた曲輪とその下方に腰曲輪1段が確認できる。更にその先の尾根には2つのピークがあって、物見台のようにも見受けられる。以上が下郷要害古城出城の遺構で、ほとんどまとまった広さの曲輪がない一方、下郷要害城や古城よりも堀切の普請がしっかりしており、物見または烽火台の砦として築かれた可能性を示唆している様に感じられた。
主郭の鋭い堀切→DSCN7609.JPG
DSCN7649.JPG←西尾根途中にある曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.783073/140.220459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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下郷要害古城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7569.JPG←主郭の尾根の曲輪群
 下郷要害古城は、武茂氏の庶流大山田氏が築いた城とされる。その仔細は下郷要害城の項に記載する。『栃木県の中世城館跡』によれば、下郷要害城は深い谷を挟んだ南北2ヶ所に遺構があると言う。一方、お城巡りの先達余湖さんのHPによれば、北の城を「新地の城」、南の城を「古城」と呼んでいるとのことで、ここでは余湖さんの記載に倣って、北の城を下郷要害城、南の城を下郷要害古城とし、本項では下郷要害古城について述べる。

 下郷要害古城は、前述の通り下郷要害城から深い谷を挟んだ南の山稜上に築かれている。武茂川の東の山稜であるが、直接武茂川に臨む尾根上には出城を配し、古城自体はそれより一つ東に奥まった尾根に築かれている。城へは、南麓の市道(馬頭ゴルフクラブの北側を通る道)脇から谷筋を登る作業林道が切り開かれており、これを登っていけば城跡まで達する。この林道は城内まで入っているので遺構は破壊を受けているが、おおよその遺構は確認できる。また城域内の木が皆伐されており、2022年2月時点では全く薮がない状態だったので、細尾根の段郭群がよく分かる状況だった。遺構は、北に向かってU字型に張り出した2つの細尾根に曲輪群を段々に配し、その2つの尾根の間の広い谷地形にも段々に平場群を置いている。2つの尾根の内、東の尾根の最上段が主郭と考えられ、祠が祀られている。その前面に2~3段の段曲輪が築かれ、小堀切も穿たれている。細尾根先端の下方にも腰曲輪が見られる。一方、U字尾根の後部の最高所には櫓台らしい土壇があり、背後に堀切が穿たれている。但し、林道が貫通して破壊を受けている。その少し南にも土壇が残っているが、かなり削られており、往時の形状がよくわからなくなっている。尾根の間の平場群は、かなり破壊を受けていて、これも往時の形状がわかりにくくなっている。下郷要害城とは縄張り上の共通点が多く、どちらの方が防備が厳重という感じでもないので、下郷要害城と下郷要害古城とが並立して機能していたのではないかと推測される。
西尾根の曲輪群→DSCN7581.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.785049/140.222089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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