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駒場城(長野県阿智村) [古城めぐり(長野)]

DSCN5261.JPG←主郭背後から南に落ちる竪堀
 駒場城は、歴史不詳の城である。伝承では、応永年間(1394~1428年)頃に林氏によって築かれたとされるが、仔細は不明。その後、天文年間(1532~55年)に伊那谷が甲斐武田氏の支配下に入ると、武田氏が修築したと考えられている。1573年、西上戦を開始した武田信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝するなど着々とその兵馬を進めたが、進軍途上で病の為に甲斐へ撤退を開始し、その途中この駒場にて病没したと伝えられる。その後、1582年2月、織田信長は木曽義昌の離反を機に武田征伐を開始した。信長の嫡男信忠を総大将とする本軍が伊那谷に侵攻すると、伊那谷の諸将は相次いで織田方に帰順、もしくは城を捨てて逃走した。信長は武田勝頼の反撃を恐れており、軍監の河尻秀隆に書状を送り、安易に武田領国に深入りせず、繋ぎ城を数ヶ所築いて警護を固めるよう厳命している。この時繋ぎ城として取り立てるべき城の一つとして駒場城の名が上がっていることから、駒場城は織田勢によって修築されたと推測されている。

 駒場城は、阿智川南岸にそびえる標高650m、比高120mの山稜上に築かれている。主郭を中心に、東西の尾根に曲輪を連ね、要所を堀切で分断した典型的な連郭式山城の縄張りである。城内は公園化されており、山道の敷設で一部の遺構が損壊を受けているが、概ねの遺構はよく残っている。主郭は長円形で土塁はなく、南北の斜面に腰曲輪群を築いている。特に北斜面の腰曲輪群はかなり下方まで連なっており、多数に及ぶ。主郭の東尾根の曲輪群は、段々に連なっているが、山道による改変と薮で形状がわかりにくい。途中には2ヶ所、尾根両側に落ちる堀切がある。その下方に暗部の平場があり、その東には一段高く東郭があり、神社が建っている。東郭の先は尾根が東と南東にY字型に分かれ、それぞれ尾根の付け根に堀切を穿ち、その先に小郭を置いている。一方、主郭背後には堀切が穿たれ、南北の斜面に竪堀が長く落ちている。特に南側の竪堀は、両翼に腰曲輪群が段状に連なっており、竪堀沿いに登ってくる敵を迎撃できるようにしている。主郭背後の堀切の西には小さな二ノ郭があり、その西に三重堀切が穿たれ、細尾根の曲輪を挟んで西端の堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭西側にある堀切群は、主郭背後のものは大きいが、その他の堀切は小規模である。二ノ郭の南北にも腰曲輪があり、北斜面には竪堀が落ちている。以上が駒場城の遺構で、多重堀切がある以外は特色に乏しく、あまり武田氏・織田氏らしい城の痕跡が見られないので、武田氏以降にどの程度使用された城だったのか、検討の余地がありそうである。
主郭背後の堀切→DSCN5291.JPG
DSCN5253.JPG←主郭南斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.441504/137.738643/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 武田信玄

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  • 作者: 平山優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/02/03
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タグ:中世山城
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霞ヶ城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN5085.JPG←秋宮から見た館跡の高台
 霞ヶ城は、諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の一族手塚別当金刺光盛の居城と伝えられる。光盛は、大祝金刺盛澄の弟で、治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)の際、木曽義仲に従って倶利伽羅峠の戦いなど数々の戦いで軍功を挙げた。加賀篠原の戦いでは、敗走する平家軍の中にあってただ一騎踏みとどまって奮戦した斎藤別当実盛を一騎打ちの末に討ち取った。その後、義仲に最後まで従い、粟津ヶ原で討死した。

 霞ヶ城は、諏訪大社下社秋宮の南に隣接する高台の上に築かれている。またすぐ西の眼下には大祝の居館神殿(ごうどの)がある(現在の下諏訪中学校の校地)。以前はホテルが建っていたらしいが、現在建物は取り壊され、空き地・駐車場となっている。外周には腰曲輪状の平場が見られるが、遺構かどうかは不明。また秋宮境内との間には堀跡のような切通しの車道が通っているが、『信濃の山城と館』によれば昭和初期に公園化に伴って開削されたもので、往古は秋宮境内と続いていたらしい。明確な遺構はなく、残っているのは地勢だけであるが、館跡には金刺盛澄の銅像と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.073791/138.090441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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桔梗ヶ原合戦 宗良親王本陣(長野県岡谷市) [その他の史跡巡り]

DSCN4966.JPG←東堀正八幡宮境内の石碑
 桔梗ヶ原合戦は、南北朝期の1355年に南朝の宗良親王が結集した信濃南朝方と北朝方の信濃守護小笠原氏率いる軍勢との戦いである。これに先立つ1351年12月、観応の擾乱で足利方が尊氏党と直義党に二分して抗争した隙に乗じ、南朝方は一時京都を制圧(正平一統)、更に関東では宗良親王が新田一族と共に碓氷峠を越えて関東に進撃し、足利尊氏を攻撃した(武蔵野合戦)。一旦は足利勢を破って鎌倉を制圧したものの、体勢を立て直した尊氏勢の逆襲にあって敗退し、新田一族は四散、宗良親王も越後に逃れた。その後、宗良親王は再び信濃に戻っていたが、1355年に諏訪氏・仁科氏ら信濃南朝方を結集して挙兵し、北朝方の信濃守護小笠原長基の軍勢と桔梗ヶ原で合戦した。これは、同年に故直義の養子直冬の元に結集した旧直義党が南朝と組んで京都争奪戦を行っており、これに呼応して宗良親王も挙兵したものと考えられる。しかしこの桔梗ヶ原合戦については『太平記』にも記述がなく、史料も少ないため実情はよくわかっていないが、南朝方の大敗となり、信濃南朝方は大きく衰退した。

 この桔梗ヶ原合戦の際に、宗良親王が本陣を置いたと伝えられるのが東堀正八幡宮の境内である。ここには柴宮の地名が残っているが、これは宗良親王がこの地に来た時、諏訪社の社人が仮の御所を柴で造り御座所としたことから柴宮の名が付いたと伝えられる。現在はただの神社であるが、境内に宗良親王御舊蹟地と刻まれた石碑が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.075248/138.064435/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
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タグ:陣所
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花岡城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN4924.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 花岡城は、天竜川沿いに遡行してきた街道が諏訪盆地に入った地点の交通の要衝に築かれた城である。城主については、承久年間(1219〜22年)頃は有賀四郎、応永年間(1394~1428年)には有賀美濃入道性存の子豊後守、天文年間(1532~55年)には有賀備後守の名が伝わる。その他にも花岡氏・小坂氏・浜氏などの名が伝わり、天文年間(1532~55年)頃に武田信玄の弟左馬介信繁の勢500人がこの城を守ったとの伝承もある。

 花岡城は、諏訪湖の水が天竜川に流れ出す釜口水門の西に突き出た、標高810.9m、比高50m程の小山に築かれている。公園化されているので、破壊を受けている部分もあるが、大体の遺構は残っている。後部に土塁を築いた長円形の主郭を中心に、堀切を挟んで西に土塁のある二ノ郭を置き、北西尾根や主郭外周に何段もの腰曲輪群を築いている。主郭の東側は改変が多いが、北西尾根の曲輪群は遺構が明瞭である。別段、縄張りに特徴はなく、幾重にも連ねた腰曲輪群を防御の主体とした城だった様である。
主郭前面の腰曲輪群→DSCN4875.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.052699/138.050959/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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桜城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4822.JPG←主郭南の腰曲輪
 桜城は、諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の本城とされている。金刺氏は、金刺舎人を祖とし、科野国造家から分かれた一族と伝わる。平安後期には武士化し、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築いて居城とした。金刺盛澄は弓馬の達人として知られ、源頼朝からの出頭の命令に遅れたことで処刑されそうになったが、梶原景時の取り成しで御前で流鏑馬の技を披露し、その技の見事さに頼朝の怒りは解け、鎌倉幕府の御家人となった。建武の新政期には、諏訪大社上社の諏訪氏と共に最後の得宗北条高時の遺児時行を奉じて挙兵し、中先代の乱を起こした。乱が足利尊氏によって鎮圧された後、成長した北条時行が南朝方として活動すると、金刺氏も信濃南朝方の一翼を担った。しかしその後南朝勢力は頽勢に傾き、金刺氏も北朝方の信濃守護小笠原氏に属した。鎌倉末期から室町前期にかけての戦乱の中で、桜城が築かれたものと推測されている。その後、金刺氏は上社諏訪氏との間で対立を深めていき、1449年、遂に上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。その後も両者の対立は続いたが、概ね下社の劣勢であり、衰退の一途を辿った。1483年の上社諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時には、金刺遠江守興春は大祝継満に味方して挙兵し、上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。上社勢はそのまま下社に討ち入り、社殿を焼き払った。後に上社の分裂内訌は諏訪頼満によって統一され、1518年、頼満は金刺昌春が籠城していた萩倉の要害(山吹城か?)を攻撃した。萩倉要害は自落し、金刺氏は断絶、没落したと言う。1542年、甲斐の武田信玄が諏訪を制圧すると、翌43年に上原城と共に「下宮の城」を修築した。この下宮の城が桜城のことと考えられている。その後の歴史は不明である。

 桜城は、諏訪大社下社秋宮の北方にある標高880m、比高100m程の丘陵上に築かれている。現在城の主要部は公園化されているが、遺構はよく残っている。主郭の南東下方まで車道が通っており、そこから竪堀の登道を登っていけば、主郭背後に至る。主郭は柵で閉鎖されているので勝手に入ってもよいのか迷うが、地元の人に聞いたら入って大丈夫とのことだったので、遠慮なく入らせていただいた。主郭は土塁のない長円形の曲輪で、南斜面に何段もの腰曲輪を築いている。主郭の西側には腰曲輪1段を挟んで半月型の二ノ郭が築かれている。二ノ郭の付け根から北斜面には、大きな竪堀が落ちている。二ノ郭の西側下方にも数段の腰曲輪が築かれ、その北辺部分にも竪堀が落ちている。一方、主郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれ、竪堀が両側に長く落ちているが、笹薮で形状がはっきりしない。三重堀切の後ろには後郭があり、その背後も幅広の堀切で区画している。以上が桜城の遺構で、構造としては比較的単純であり、武田氏による改修の痕跡は三重堀切や竪堀の部分ぐらいにしか感じられない。
二ノ郭から落ちる竪堀→DSCN4855.JPG
DSCN4779.JPG←主郭背後の堀切群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.079237/138.091471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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山吹城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4547.JPG←大城の主郭土塁
 山吹城は、諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の詰城と考えられている。金刺氏の居城は、下社秋宮背後に築かれた桜城とされ、有事の際の詰城として山吹城が築かれたと推測されている。山吹城は、後方の大城と前方の小城の2つがあるが、それぞれの築城時期は定かではない。金刺氏は、南北朝期以来、中先代の乱・桔梗ヶ原の合戦・大塔合戦などの抗争を経て、諏訪大社上社の大祝であった諏訪氏との間で対立を深めていった。1449年、遂に上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。その後も両者の対立は続いたが、概ね下社の劣勢であり、衰退の一途を辿った。1483年の上社諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時には、金刺遠江守興春は大祝継満に味方して挙兵し、上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。上社勢はそのまま下社に討ち入り、社殿を焼き払った。後に上社の分裂内訌は諏訪頼満によって統一され、1518年、頼満は金刺昌春が籠城していた萩倉の要害を攻撃した。萩倉要害は自落し、金刺氏は断絶、没落したと言う。この萩倉要害が、山吹城の大城のことと推測されている。

 山吹城は、前述の通り、大城と小城の2つがある。諏訪大社下社春宮の北方の山上にあり、前方の小城は標高940mに、後方の大城は標高1020mの峰に築かれている。清掃センター付近から両城までの登道が整備されており、誘導標識もあるので迷うことなく行くことができる。
小城の主郭背後の堀切→DSCN4412.JPG
 小城は、主郭・二ノ郭・三ノ郭が一直線に並んだ連郭式の城で、それぞれの曲輪は堀切で分断され、主郭背後にも城内最大の堀切が穿たれている。主郭は前面と後部に土塁を築いているが、郭内は削平が甘く傾斜している。また西側に腰曲輪を築いている。二ノ郭は細長い曲輪で、特に特徴はない。三ノ郭は円丘を何段かの平場に造成しているが、切岸が余りはっきりせず、平場内も傾斜しているので、全体の構造がわかりにくい。三ノ郭下方の南尾根に小堀切がある。
DSCN4439.JPG←小城の三ノ郭の堀切

大城の竪堀状虎口→DSCN4580.JPG
 大城は、小城のある尾根から沢を越えた西の峰にある。中心部はY字型に曲輪が配置されている。主尾根には主郭と二ノ郭が南北に並んでいる。主郭は土塁で四周を囲んだ横長長方形の小さな曲輪である。その北に浅い堀切を挟んで縦長長方形の二ノ郭が置かれている。主郭の南東には東曲輪が、南西には西曲輪が突き出すように築かれている。これらの曲輪の外周には何段もの腰曲輪が築かれており、特に西曲輪周辺には多数の腰曲輪群が築かれている。二ノ郭の北西には弓形になった尾根に沿って繋ぎの曲輪と北曲輪、更にその先に堀切を挟んで出曲輪が築かれている。繋ぎの曲輪の付け根北側には、竪堀状の虎口が築かれ、虎口を防御する土塁が築かれている。この虎口に繋がる城道は二ノ郭北側の腰曲輪に通じ、この腰曲輪の北東部には土塁が築かれ、二ノ郭との間に城内通路を兼ねた堀切を形成している。土塁の北には竪堀が穿たれ、長く東の谷に向かって落ちている。現在はこの竪堀のところに登山道が整備されている。また繋ぎの曲輪の北側には枡形虎口が形成され、仕切り土塁が残っている。出曲輪の北斜面には4段程の腰曲輪が築かれ、最下部を堀切で穿ち、腰曲輪群の東の平場に湧水が残る水の手がある。以上が大城の主要部であるが、出曲輪の南西の尾根筋にはずーっと下まで平場群が続いている。しかし『信濃の山城と館』では、「かつて全山工作されていたため、(中略)削平地が広範囲にわたっているので、城域の特定は難しい」とし、出曲輪の先は遺構とは認定していない。ただ途中には堀切のような地形もあり、舌状にきれいに削平された平地もあり、遺構と考えてもおかしくないようなところもある。気になるのは、この南西尾根の平場群にだけ一部に石積みが残っており、遺構であるならば何故ここにだけ石積みがあるのか、謎もある。
 以上が山吹城の遺構で、薮払いされているので遺構が見やすく、見応えがある。
DSCN4592.JPG←大城の出曲輪の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【小城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.088063/138.088059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【大城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.091029/138.090420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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武部城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4383.JPG←北の腰曲輪と主郭切岸
 武部城は、HP『新 栃木県の中世城郭』のmasakiさんが発見した城である。従って歴史も不明である。尚、城名の漢字であるが、お城巡りの先達余湖さんは「健部城」としているが、武部、または健武がこの地域の名前なので、武部城か健武城とするのが正しいはず。ここでは発見者のmasakiさんの命名通り武部城と記載する。

 武部城は、標高234.3m、比高90mの山上に築かれている。南東の民家裏から尾根筋を登って訪城した。平坦で広い主郭と、南北に築かれた腰曲輪で構成されている。主郭は、北辺は明確な切岸で塁線が築かれているが、南辺は傾斜していれ塁線が不明瞭になっている。主郭の先端に当たる西側には堀切が穿たれ、その前面に小郭を置き、更に円弧状堀切を穿っている。これら2本の堀切と、主郭南の腰曲輪からは合計3本の竪堀が落ちている。腰曲輪は、北側のものは幅が広く、明確な切岸で主郭がそびえている。主郭の北東には舌状の北出曲輪が築かれ、付け根には片堀切が穿たれている。北出曲輪下方の北西尾根にも片堀切が円弧状に穿たれて城域が終わっている。小規模で単純な構造の城であるが、堀切・竪堀はしっかり構築されており、武茂城の東方にあって街道筋を監視する城として構築されていたことがうかがわれる。
主郭先端の堀切→DSCN4364.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.750825/140.200653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100 (CARTOP MOOK)

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  • 発売日: 2017/09/22
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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鳴神山城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4276.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 鳴神山城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』を始めとする城郭関係の書籍には全く記載のない城であるが、お城巡りの先達余湖さんのHPによれば、地元では城跡であると認識はされているらしい。

 鳴神山城は、標高260m、比高130mの山上に築かれている。武茂城の北東1.3kmの位置にある。この城に行くには、城の北尾根に登る未舗装路が西側の車道から付いているので、それを車で登り、尾根上の空き地で車を降りて尾根伝いに辿っていけば、大した高低差もなくお気楽な訪城ができる。この背後の尾根を辿っていくと、緩斜面の東側方に土塁状の小道が通り、西側には高台となった土壇が見られる。更にその先にも西側に土壇がある緩斜面がある。自然地形にも見えるが、城に関連する遺構である可能性も捨てきれない。更に尾根に沿って登っていくと、土橋の架かった堀切が現れ、ここからが本城域となる。城は、山頂に主郭を置き、周囲に腰曲輪を廻らし、南に二ノ郭、三ノ郭を連ねた縄張りとなっている。前述の堀切の先は平坦な斜面が広がり、そのまま主郭北側の腰曲輪に通じている。腰曲輪の手前には、動線を制約する竪堀が穿たれている。腰曲輪の東端には横堀が穿たれている。横堀はそのまま主郭の北東斜面を走り、東の堀切まで繋がっている。東の堀切から先は、武者走りの小道が伸び、短い横堀を経由して二ノ郭東側の帯曲輪に通じている。二ノ郭は先端に堀切を穿ち、東側に坂土橋を設けた虎口を築いている。三ノ郭は傾斜した曲輪で、その先端にも土橋を架けた堀切を設けている。二ノ郭の北には主郭腰曲輪があり、主郭への登道が付いている。この腰曲輪は西に長く伸びている。主郭は2基の祠がある平坦な曲輪であるが、西側は切岸不明瞭でだらっとした斜面となっている。西尾根にも堀切が穿たれている。鳴神山城は、腰曲輪・堀切・竪堀・横堀などが明瞭であるが、普請の規模は小さく、全体に中途半端な印象が拭えない。野戦築城された陣城だったものだろうか?
横堀→DSCN4239.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.748315/140.182049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東周辺歴史トレッキング 攻める山城 50城 山を歩き、山城に出合う旅へいざ出陣!

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タグ:中世山城
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谷田城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4173.JPG←主郭背後の堀切
 谷田城は、歴史不詳の城である。那珂川西岸の比高わずか10m程の段丘先端部に築かれている。場所が民家の裏なので、民家の方にお断りをして入らせいていただいた。舌状に突き出た段丘先端部を堀切で区画しただけのほぼ単郭の簡素な城砦で、民家裏に堀切と土塁が残っている。その北が主郭で、主郭の西側には帯曲輪があり、更に水路が外堀となって廻っている。立入りさせていただいた主郭南の民家も二ノ郭だった可能性があり、入口に土塁や堀っぽい起伏が見られる。
主郭西側の帯曲輪→DSCN4187.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.737259/140.138748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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大久保城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4130.JPG←南側の円弧状堀切
 大久保城は、下野の名族那須氏の庶流大久保氏の居城である。鎌倉時代に那須資村の4男資清は、出家の後に還俗して那須四郎と名を改め、宇都宮景綱に属して大久保に居城を構え、大久保源左衛門を名乗ったと言われる。また南北朝期には、金丸肥前守資国の子義国が大久保に住し、大久保掃部介を称したとも言う。天正年間(1573~92年)には白久隼人という武士が在城していたとも言う。

 大久保城は、白久神社の西方にある比高30m程の丘の上に築かれている。『栃木県の中世城館跡』では、本丸・二ノ丸から成るとされるが、実際は単郭の城である。白久神社裏から西に丘陵を登っていき、丘陵上に達したところで北西の丘陵突端を目指すと城に至る。南に円弧状堀切を穿った城で、主郭後部には土塁を築いている。主郭内には段差や傾斜があり、削平は甘い。主郭の北側にも堀跡らしい切岸が見られる。遺構としては以上で、小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.724482/140.131688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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下川井城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3866.JPG←堀切と南の小郭
 下川井城は、下野の名族那須氏の庶流川井氏の居城である。築城時期は不明だが、伝承では那須友家が上川井城と共に築城したとされる。1521年11月、岩城常隆・白河義永が宇都宮氏の加勢を得て那須領に侵攻し、上川井城を攻撃した。烏山城主那須資房の家臣川井(下川井)大膳掾は、上川井出雲守・熊田源兵衛高貞らと協力して防戦したと言う。1590年に那須氏改易と共に廃城となった。

 下川井城は、江川と岩川に挟まれた比高50m程の丘陵上に築かれている。登道がよくわからなかったので、西側の取り付きやすそうな山林の斜面から登った。城は、中央部が細くくびれた部分を境に、南北2つの郭群で構成されている。北が主郭、南が古本丸とされる。主郭も古本丸も外周を横堀と腰曲輪で囲んでいる。古本丸の南端では横堀が堀切となって尾根を穿ち、その南に独立堡塁状の小郭を置いている。小郭の先も堀切で分断している。また小郭と古本丸の間の堀切からは、西斜面に向かって竪堀が落ちている。竪堀は、古本丸北東の外周斜面にも見られる。古本丸と主郭の間には独立堡塁状の曲輪があり、前後を堀切で穿っている。主郭には土塁が廻らされ、東から北にかけて2段の幅広の横堀が構築されている。主郭の北に続く尾根には堀切がなく、後方の防御構造が貧弱である。
 下川井城は、堀跡などの表示があるので過去に整備したことがあるらしいが、その時に高木を伐採してしまった様で、日当たりが良くなった一方、整備を継続していないため、薮がひどくなってしまっている。そのため、横堀・土塁・堀切などがよく残っているものの、遺構がわかりにくくなってしまっている。残念な状況である。
主郭周囲の横堀→DSCN3972.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮で☆1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.694567/140.103579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 新書


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戸田館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3827.JPG←郭跡のような段差
 戸田館は、歴史不詳の城館である。入江野城に近いことから、入江野城との関係を指摘する説もある。

 戸田館は、塙古館の南東にあったらしい。占地も同じで、荒川沿いの河岸段丘上にあるとされる。現地を確認してもよくわからないが、段丘辺縁部の畑が方形をしており、周囲に段差や堀っぽい溝があるので、これが郭跡であろうか。場所がはっきりしないので、遺構なのかどうか、ちょっと自信がない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687117/140.070598/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

[カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

  • 作者: 萩原 さちこ
  • 出版社/メーカー: マイナビ出版
  • 発売日: 2018/09/14
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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塙古館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3795.JPG←西側の堀跡
 塙古館は、歴史不詳の城館である。荒川を挟んで対岸には入江野城がある。『栃木県の中世城館跡』では「入江野城との関係が考えられる」とあるが、詳細は不明である。

 塙古館は、荒川北岸の段丘辺縁部に築かれている。水堀で囲んだ半月型の曲輪の内部にいくつかの曲輪があり、土塁囲みの「御屋敷」という曲輪もあったらしい。しかし郭内は民家になっているので、遺構の確認ができない。しかし東西の堀跡が水路となって残っている。また西の堀の外側に西外郭があり、そこに建つ民家の南西側に土塁と櫓台が確認でき、その外側に横堀が穿たれ、先端で折れ曲がって竪堀となって落ちている。この部分が現在踏査できる唯一の明確な現存遺構であろう。全体としてはかなり残念な状況である。
西外郭の櫓台→DSCN3803.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.688356/140.068088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歴史家の城歩き

歴史家の城歩き

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/05/22
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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入江野城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3753.JPG←主郭背後の2本目の堀切
 入江野城は、佐久山氏の一族入江氏の居城である。1563年5月、福原資孝は兄弟の大関高増・大田原綱清と共に謀略をもって佐久山義隆を殺害し、佐久山氏を滅亡させた。この時、佐久山泰秀も福原氏に追われてこの地に移って入江野城を築き、以後入江氏を称して本拠とした。1586年、入江泰清の時に那須資晴に滅ぼされ、廃城となったと言う。

 入江野城は、荒川南岸の標高160m、比高50m程の丘陵突端部に築かれている。城があるのは民家の裏山で、北の車道から竹林の平地に入り、そこから左手の斜面を登って尾根上に登れば、もう城域である。そこは城の北端部に当たり、細尾根上の曲輪の先端に小堀切が穿たれ、その先に小郭が置かれている。堀切は西側に竪堀となって落ち、登城路を兼ねていたようである。尾根上の2つの曲輪の東側には帯曲輪が築かれ、尾根に沿って南に長く伸びている。また北東下方には屋敷神と思われる神社が祀られた腰曲輪がある。尾根を南に向かって登っていくと、2段の曲輪がある。上段の曲輪の付け根はわずかに窪んでおり、堀であったらしい。その上に主郭がある。主郭は3段の平場で構成され、後部に三角形の高台(櫓台か?)を設けている。しかし郭内は薮に覆われていてあまり見栄えしない。主郭の背後の尾根には2本の堀切が穿たれている。中規模のもので形状ははっきりしているが、あまり鋭さがなく、自然地形に少々手を加えた程度のものだったようにも思われる。以上が入江野城の遺構で、詰城らしい小型の山城である。
先端の堀切と小郭→DSCN3715.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.685000/140.063667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


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関宿城 その2(千葉県野田市) [古城めぐり(千葉)]

DSCN3641.JPG←搦手門付近の外堀跡
 関宿城には16年も前に訪城したが、その時は公園化された主郭ぐらいしかよくわからなかった。しかし今年に入って、お城仲間から関宿城には三ノ丸切岸や外堀も残っていると言われ、古い航空写真と現在のものとを照合して、再訪してみた。

 搦手門跡の南北に堀跡と切岸がはっきりと残っている。搦手門付近ではわずかに堀が折れていて、枡形虎口を形成していたらしい。大手門跡は堤防脇の車道にあるが、その東側にわずかに外堀の痕跡が残る。本丸の東側には、堀跡の水田を挟んで三ノ丸の切岸が確認できる。三ノ丸自体は大きく改変されているので、現状では西辺と北辺以外の形状を追うことはできない。
以上が現在確認できる現存遺構で、わずかではあるものの往時の雰囲気を残している。
大手門横の外堀の痕跡→DSCN3667.JPG
DSCN3676.JPG←堀跡と三ノ丸切岸

 場所:【搦手門跡】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.091739/139.784546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【大手門跡】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.091185/139.780190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


千葉県の歴史散歩

千葉県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:近世平城
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殿島城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3504.JPG←主郭北側の三重横堀の一部
 殿島城は、天文年間(1532~55年)に春日城主伊那部但馬守重成の次男、新左衛門がこの地に分封されて殿島大和守重国と称し、殿島城を築いたと伝えられる。1556年、甲斐の武田信玄が伊那に侵攻し、伊那の諸氏に降伏を迫ったが、重国らは武田氏に抵抗した。しかし多勢に無勢で重国ら8人衆は狐島で磔にされ、八人塚に葬られた。その後殿島城は、高遠城の支城となったとの説もある。

 殿島城は、天竜川東岸の比高40m程の段丘辺縁部に築かれている。南北に谷が深く入り込んだ段丘西辺の中央部に主郭を築き、南に二ノ郭、そしてこれらを取り巻くように東側に外郭を置いていたらしい。しかし現在主郭以外は住宅団地に変貌しており、二ノ郭・外郭の痕跡は断片的に過ぎない。主郭は公園化されており、四周を土塁で囲んだ曲輪がよく残っている。主郭の北と東には、三重横堀が見事に残っている。特に北側の堀・土塁は素晴らしく、ウネウネしているのがよく分かる。南側は二重の横堀が残っている。この他、西側の急斜面に入り込むと、主郭の西斜面には帯曲輪が築かれる他、二ノ郭西側の横堀が主郭南の二重横堀と直行している。また二ノ郭南端の空堀も、西端部の竪堀だけ斜面に残っている。段丘南端の谷部にも、谷に沿って横堀・帯曲輪が残っている。以上が殿島城の遺構で、伊那地域では珍しい三重横堀が見事である。
二ノ郭西側の横堀→DSCN3541.JPG
DSCN3567.JPG←谷沿いの南端部の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.805049/137.961524/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の名城解剖図鑑

日本の名城解剖図鑑

  • 出版社/メーカー: エクスナレッジ
  • 発売日: 2014/12/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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的場城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3428.JPG←外周の横堀
 的場城は、歴史不詳の城である。甲斐武田氏による高遠城の築城以前から、的場城が何らかの形で存在していたと考えられている。室町・戦国期には諏訪氏の一族高遠氏が高遠を支配していたが、高遠氏の居館・居城がどこであったのか判明していない。そのため、高遠氏が築いた要害城であったとの説もある。武田氏が高遠を制圧し、高遠城を築いて上伊那統治の拠点とすると、高遠城防衛のために山田城守屋山城などと共に補強改修を受けたのではないかと推測されている。

 的場城は、高遠城を眼下に見下ろす標高910m、比高160mの城山に築かれている。登道はいくつかあるらしいが、蓮華寺背後の墓地裏から山腹を巡る水路に出て、水路沿いに東に半周したところから登道があり、それが一番わかり易いと思う。城は、北東から南西に伸びる尾根上に築かれている。南から順に、三ノ郭・繋ぎの曲輪・二ノ郭・主郭と連郭式に配置した縄張りであるが、主郭に向かうにつれて段々と曲輪の高度が上がっていく梯郭的な配置でもあり、主郭や二ノ郭からは下方の曲輪を睥睨できるように設計されている。そしてこれらの曲輪群の外周に横堀または帯曲輪をほぼ全周させ、所々に竪堀を合計10本以上も落としている。竪堀はいずれも形状がはっきりしており、放射状竪堀で知られる甲斐白山城よりも竪堀は大きい。三ノ郭は城内で最も広く、土塁囲みの台形状の曲輪で、いかにも先端部の防衛陣地という趣である。東と南に虎口が築かれている。三ノ郭の南尾根には土塁や竪堀による防御構造がある。三ノ郭の北にある繋ぎの曲輪は細長い平場で、その上に二ノ郭が置かれている。二ノ郭も低土塁で囲まれ、南東と西側中央に小型の枡形虎口が築かれている。特に西虎口は横堀に架かる坂土橋で横堀外周の土塁に連結している。二ノ郭の北には1段高く前郭があり、その上に主郭がある。前郭の西側には横堀を屈曲させ、そこから斜めに竪堀を落として虎口を形成し、その横にも竪堀を落として側方遮断した巧妙な構造があり、前郭はこの虎口や堀底に対して横矢を掛けており、絶好の迎撃ポイントを形成している。主郭は三角形をした狭小な曲輪で、南に小規模な枡形虎口が築かれている。この虎口への動線は横堀土塁から坂土橋で連結した形となっており、他の城でも時折見られる構造だが、主郭虎口ではあまり見ない形態である。主郭には居住性がなく、城全体を俯瞰できる位置にあることから、防衛指揮所的な場所だったと想像される。主郭の北にはなだらかな平坦地が広がっており、東辺に土塁を築いている。平坦地の北端は高台となり、その先の尾根の付け根に堀切が穿たれている。的場城は大きな城ではないが、かなりテクニカルな縄張りの城で、高遠城防衛の重要な城だったと推測される。しかしそれにしては、1582年の武田征伐で織田勢が高遠城を攻撃した際にその動向は現れず、当時どの様な形で管理されていたのか、謎も多い。
土塁囲みの三ノ郭→DSCN3282.JPG
DSCN3317.JPG←横堀に架かる土橋
横堀屈曲部から落ちる竪堀→DSCN3410.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.842230/138.064735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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高遠城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2974.JPG←三ノ丸の空堀
 高遠城は、武田信玄が築いた伊那の拠点城郭である。元々この地には諏訪氏の一族高遠氏が本拠を置いていたが、居館の位置は明確ではない。高遠の地名の初見は1482年の『守矢満実書留』で、天文年間(1532~55年)には高遠頼継の本拠であった。1542年、諏訪氏の家督を狙う頼継は、武田信玄と結んで諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、次いで本領の高遠も攻撃されて、武田氏に降った。この時、信玄は「高遠屋敷」に陣を置いたと伝えられるが、その場所は西高遠と考えられている。1547年3月、信玄は高遠城の築城(或いは大改修)を開始した。高遠城は、以後伊那谷経略の拠点となり、4男の諏訪四郎勝頼を置いた。1582年、織田信長による武田征伐が開始されると、伊那谷の諸将は相次いで織田氏に降り、勝頼の異母弟仁科五郎盛信、小山田備中守昌成らが拠る高遠城だけが徹底抗戦した。しかし織田信忠率いる織田勢の大軍の猛攻により、わずか1日で落城し、盛信以下の将兵は壮絶な戦いの後に全滅した。これが武田勢の組織的な戦いの最後となった。武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に織田信長が横死すると、北条・徳川両氏による旧武田領争奪戦「天正壬午の乱」が起き、その過程で武田旧臣の保科正直が上野箕輪城主内藤昌月(実は正直の実弟)と共に北条氏の支援の下、高遠城を確保した。その後、徳川方が優勢となると伊那谷の諸将は相次いで徳川方に転じ、保科氏も徳川方となって北条方の箕輪城主藤沢頼親を攻め滅ぼし、高遠城一帯の上伊那郡を制圧した。乱の終結後、伊那谷は徳川氏の支配下となり、高遠城にはそのまま保科氏を置いた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、保科氏は下総多古に移った。高遠城は豊臣秀吉の支配下となり、飯田城主毛利氏及び京極氏の城代が居住したらしい。1600年の関ヶ原合戦後は、再び保科正光(正直の子)が高遠城主となり、2万5千石を領した。1636年、正光の養子正之(実は2代将軍徳川秀忠の隠し子)の時、兄の3代将軍家光に取り立てられて出羽山形藩20万石に加増転封となり、高遠城には入れ替わりで山形藩主鳥居忠春が3万石に減封されて移された。鳥居家2代の後、2年の天領期を経て、摂津富田藩主内藤清枚が高遠藩主となり、内藤家のまま明治維新を迎えた。

 高遠城は、三峰川と藤沢川の合流点東の比高50m程の段丘上に築かれている。城内は大きく2段に分かれ、北西部が城の中心部に対して1段低くなっている。高い方の段の辺縁部中央付近に方形の本丸を置き、その南に一回り小さな方形の南曲輪、これらの東側に二ノ丸、更にその外周に三ノ丸を配している。それぞれの曲輪周囲の台地続きの部分には深い空堀が穿たれている。南曲輪と二ノ丸の間は土橋で連結されている。本丸と南曲輪の間は、現在は土橋が架かっているが、これは後世の改変らしい。本丸と二ノ丸の間には木橋が架かり、石垣が残っている。また南曲輪の南側には、馬出し状の法幢院曲輪が置かれ、本丸・二ノ丸の西には、一段低く勘助曲輪が置かれている。武田時代の大手は東側にあったと思われるが、江戸時代の大手は西側に付け替えられ、その脇の坂には石垣が残っている。土塁は、本丸と二ノ丸の外周に見られる。公園化されているので、改変されている部分も多く、どこまで往時のままかわかりにくい部分もあるが、拠点城郭としては小ぶり、近世城郭としても小さい部類の城である。
 高遠城は、何よりも桜の名所として知られているが、今回満を持して桜満開のタイミングで訪城した。車中泊で前泊し、7時に朝駆けして車を北東下の城外駐車場を利用した結果、人混みはあったが渋滞と行列知らずで城を回ることができた。
二ノ丸の土塁と空堀→DSCN2995.JPG
DSCN3016.JPG←本丸空堀に架かる木橋

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.833254/138.062396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


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猿山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2788.JPG←南西の外堀
 猿山城は、宇都宮氏の家臣猿山大学の居城であったと伝えられる。猿山では、宇都宮氏家中の内訌「大永の内訌」の契機となった猿山合戦が猿山城の東方で行われており、この戦いの後、猿山城は廃城になったと伝えられる。猿山合戦は、1523年に結城城主結城政朝が宇都宮城主宇都宮忠綱を攻撃した戦いである。忠綱の家中統制強化に反発した宇都宮氏の重臣芳賀高経が密かに結城氏の元に行き、支援を求めた。政朝と忠綱は、前々から中村12郷を巡る対立などで関係が悪化しており、高経の支援要請を受けた政朝が宇都宮氏家中の対立に介入して起こったのが猿山合戦であったとされる。忠綱はこの戦いに敗北し、しかも居城の宇都宮城を反忠綱派の芳賀氏らに占拠されたため帰城もできず、やむなく忠綱派であった壬生綱房を頼って鹿沼城に逃れた。高経ら宇都宮家臣団は忠綱の末弟興綱を擁立した。以後、高経が専権を振るうようになった。失脚した忠綱は1527年に失意のまま没し、この忠綱の死をもって大永の内訌は収束した。

 猿山城は、江川と西方の小河川とで挟まれた低台地の上に築かれている。城跡は山林となっている。山林南西側に弧を描くように外堀が穿たれている。山林内には土塁と空堀がよく残っているが、明確に曲輪を形成した感じではなく、城内をいくつかに区画した様に構築されている。また山林内には古墳が点在し、土塁囲みの稲荷社(岩室稲荷)もある。どうも急造した城のような感じで、宇都宮城南方を押さえる規模の大きな陣城か、或いは猿山合戦前夜に臨時築城した陣城であったのかもしれない。それにしても城の位置は、宇都宮領全域から見ればかなり宇都宮城に近く、上三川城多功城など南方の要衝よりも領内深い位置にあり、猿山合戦が、宇都宮忠綱が完全に不意を衝かれた不本意な戦であったことを物語っている様である。
内部の空堀と土塁→DSCN2839.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.519061/139.912755/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 郁夫, 江田
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


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上館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2762.JPG←北側の堀と土塁
 上館は、上城とも呼ばれ、宇都宮氏の家臣篠崎主山の居館と伝えられている。上三川町域には中館下館があり、いずれも上三川城北東の鬼怒川西岸地区に北から順に配列しており、これら3つの館は何らかの関連があったのではないかと思う。

 上館は、上三川ホースパークという乗馬クラブの西側に隣接している。現在は民家となっているので、内部探索はできない。『栃木県の中世城館跡』の略測図や昭和20年代前半の航空写真を見ると、南北2郭または更に東の郭を合わせた3郭で構成されていたらしい。いずれも民家の敷地なので、遠目に確認できたのは主郭に当たると思われる北郭の北辺の堀と土塁だけである。堀は溝状でほとんど埋まってしまっている。尚、どこの部分か明確ではないが、以前は三重の堀があったらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.472348/139.942775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


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中館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2747.JPG←北側の二重土塁と空堀
 中館は、中城とも呼ばれ、宇都宮氏の家臣黒須氏の居館である。上三川町域には上館下館があり、いずれも上三川城北東の鬼怒川西岸地区に北から順に配列しており、これら3つの館は何らかの関連があったのではないかと思う。

 中館は、鬼怒川西岸の微高地にあり、現在は宅地となっているが、Google Mapの航空写真で見ると、ほぼ方形の敷地が現存し西・北・東に土塁が残っている。民家の敷地なので内部からは確認できていないが、北側の車道から望むと、北側には二重土塁と空堀が確認できる。また北東角の土塁も見られる。しかしその他は近づく術がない上、土塁付近は未整備の薮で覆われていて、確認が困難である。以前は西辺中央に枡形虎口らしいL字型の土塁があったが、現在は湮滅しているらしい。それでもまだこれだけきれいに遺構が残っているのだから、何とか保存の手立てを講じてほしいものである。

 尚、中館の西に隣接する満福寺は、戊辰戦争の際に土方歳三率いる幕府軍の別働隊が本陣を置いた場所である。ここから宇都宮城攻略に向かったのである。
北東角の土塁→DSCN2751.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.459717/139.940114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/28
  • メディア: 単行本


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下館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2742.JPG←丘陵周囲の切岸状の土手
 下館は、歴史不詳の城館である。上郷地区にあったらしいということ以外は何もわかっていない、謎の城館である。上三川町域には上館中館があり、いずれも上三川城北東の鬼怒川西岸地区に北から順に配列しており、これら3つの館は何らかの関連があったのではないかと思う。

 下館は、江川西岸にあったらしい。その正確な位置も判明していないが、江川西岸には弓形になった独立丘陵があり、そこが館跡ではないかと考えられる。明確な遺構はないが、この丘陵周囲は高さ2m程の切岸状の土手が見られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.445029/139.924750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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落合館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2734.JPG←館跡の民家
 落合館は、宇都宮氏の一族落合四郎親綱が室町初期に築いたと言われる。親綱は、宇都宮氏の有力な支族横田氏3代親業の3男で、河内郡落合郷に分封されて和泉守四郎左衛門尉と名乗り、落合氏の祖となった。館は、宇都宮氏改易の1597年まで存続したと伝えられる。

 落合館は、田川東岸の平地に築かれている。現在は御子孫の居宅の敷地で、遺構はほとんど湮滅している。館の西側に水路が流れているが、外堀の一部を成していたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447463/139.890697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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石田館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2724.JPG←南辺の土塁と堀跡
 石田館は、歴史不詳の城館である。『栃木県の中世城館跡』では戦国時代の小土豪の居館と推測している。

 石田館は、田川東方の平地に築かれている。感応寺の北東に当たり、現在は畑となっている。遺構はかなり断片的で、南辺の土塁と空堀の一部、北の土塁のごく一部などが残っているだけである。西の民家の東側にも土塁が見えるが、近づけないので形状はよくわからない。南辺の遺構は、薮がひどくてよくわからないが、二重の土塁の間に空堀があるようである。かなり残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465722/139.901447/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大山城(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2710.JPG←西側の空堀と二重土塁
 大山城は、歴史不詳の城館である。一説には、多功城の重臣の居館と言われる。多功城や梁館に程近く、これらと連携して宇都宮氏領の南方を防衛していたのだろう。

 大山城は、大山集落の南端付近に位置している。民家の宅地・農地になっているが、北と西に土塁・空堀が残っている。特に西の遺構は、二重土塁と空堀が良好に残っている。また北は一重の土塁と空堀だけになっており、外側の土塁は削られてしまったのかもしれない。北西角部も見れればよかったのだが、民家の裏であり、周囲からも丸見えなので進入は憚られる。南にも堀跡らしい水路が残る。南西には隅櫓台のような土壇があるのだが、これは遺構とは認定されていないようである。集落内の城館にしては遺構がよく残っている方である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.437295/139.881256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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下石橋館(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2699.JPG←館跡の現況
 下石橋館は、歴史不詳の城館である。位置関係から多功城の支城であったと推測されている。この館のすぐ脇には近世の日光街道(中世の奥大道)が通っており、宇都宮氏にとって南の小山氏の侵攻ルートに対する関門的な役割を持った城館であったことがうかがえる。実際に1380年の裳原合戦では、小山義政にこのルートから進撃されている。裳原合戦での侵攻を受けて、宇都宮氏がこの館を築いた可能性も考えられる。但し、必ずしも中世館跡とは断定できないらしい。

 下石橋館は、国道4号線西側の工場団地の中にある。2000年頃までは山林のまま残っていたようであるが、現在は完全に更地化されてしまい、遺構は完全に湮滅している。往時は、東辺が斜めになった台形状の曲輪があったらしく、四周に廻らされた空堀のみが残存していたと言う。しかし土塁がなかったことから、前述の通り中世館跡とは断定できなかったと言う。それにしても更地化するにあたって発掘調査も行わなかったのだろうか?もし全く発掘調査を行っていなかったとしたら、現代の行政対応としては怠慢の謗りは免れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.418805/139.861021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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上長田館(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2672.JPG←わずかに残る空堀
 上長田館は、歴史不詳の城館である。周囲には、古屋敷・内屋敷・前原・女夫塚などの地名が残っている。

 上長田館は、姿川西岸の低段丘の北辺部に築かれている。占地としては多功城とよく似ている。周辺は民家や水田となっており、現状からでは城域は確定できない。民家裏の林の中に段丘北辺に沿って空堀があるが、薮がひどくてわずかな痕跡しか確認できない。城館に関する伝承も残っていないようなので、早くに失われた城館であったらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.471934/139.843876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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保谷沢城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2443.JPG←5郭堀切と主郭切岸
 保谷沢城は、歴史不詳の城である。城下の田原集落は、元々殿島の分村であったことから、殿島氏が南方に備えて築いた支城ではないかとの説がある。また周囲の城との位置関係から、伊那谷の急を知らせる狼煙台であったとの説もある。

 保谷沢城は、天竜川東方の比高60m程の段丘先端部に築かれている。南西麓から鉄塔保守道(春近高遠線No.3鉄塔)があり、それを使って登ることができる。土塁囲みの五角形の主郭と、南の尾根上に2郭・3郭・4郭を堀切を介して連ね、東には5郭を配置している。鉄塔保守道を登っていくと細尾根上に至り、尾根上を歩いていくと鉄塔の立つ4郭に至る。鉄塔背後に土塁と小堀切があり、その北に3郭がある。3郭は先端に土塁が築かれ、後部に墓地がある。3郭の北には幅広の堀切が穿たれ、その北が2郭となる。2郭は幅が狭いが、後部に方形の土壇を築き、その裏に主郭との間を区画する堀切が穿たれている。2郭からは主郭西側の腰曲輪に道が繋がっている。腰曲輪から主郭に登る道がついているが、これは後世の改変であるらしい。主郭の大手虎口は、現状ではあまりはっきりしないが南にあったとされており、そうなると2郭後部の方形の土壇は、主郭虎口に繋がる橋台であったかもしれない。主郭は現在空き地となっていて、解説板が立っている。主郭の東には城内最大の堀切が穿たれ、その先が5郭である。5郭は舌状の曲輪で、先端も小堀切で分断されている。主郭・5郭の北には畑が広がっているが、ここに外郭があった可能性があり、東西の斜面に堀型が残っている。保谷沢城は、鉄塔が建てられたりして改変を受けているものの、全体としては遺構がよく残っている。
2郭堀切と3郭→DSCN2394.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.784534/137.967103/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

長野県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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北の城・下の城(長野県宮田村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2271.JPG←北の城主郭の土塁と空堀
 北の城・下の城は、歴史不詳の城である。中世に中越の地頭職であった中越氏に関係する城であったと推測されている。中越氏は、1400年の大塔合戦に参陣していることが知られる。戦国時代に甲斐の武田信玄が伊那を制圧すると、1561年に高遠之新衆として武田氏に属した者の中に中越与次郎の名が見える。

 北の城・下の城は、天竜川に望む西の段丘辺縁部に築かれている。まず北の城は、天竜川沿いの氾濫原が途切れて、川筋が狭まった部分の北端にある。現在主郭は公園に、外郭は畑に変貌している。主郭は目の形をした曲輪で、外周に土塁を築き、外側に空堀を廻らしている。主郭の南部を車道が貫通し、また公園化による改変を受けているが、西側に虎口が残っている。西には西曲輪、南には南曲輪があったとされるが、耕地化による改変でどこまでが城域だったのか判然としない。
 次に下の城であるが、北の城の南に大沢川を挟んで築かれている。天竜川に沿って南北に3つの曲輪が並んでいる。中央が主郭で、台形に近い形をしており、外周に土塁が築かれ、西と南に空堀が穿たれている。虎口は西側中央に開かれている。主郭の北には帯曲輪が一段築かれ、その下方に三ノ郭がある。三ノ郭は内部が東西2段に分かれ、北に腰曲輪を築いている。腰曲輪の北辺は大沢川に望む急崖となっているが、竪堀地形が3つある。また主郭の南には空堀を挟んで二ノ郭がある。下の城は全域が山林となっているが、冬期であれば薮はそれほど酷くはない。西には外郭があったと思われるが、畑になっているので、往時の形態はわからない。
 以上が北の城・下の城で、小規模な城砦であるが、それぞれ形態が異なり、詰城と館城という役割の違いを示しているように思われる。
下の城主郭の土塁→DSCN2329.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【北の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.772483/137.960172/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【下の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.770133/137.960064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野「地理・地名・地図」の謎 - 意外と知らない“信州

長野「地理・地名・地図」の謎 - 意外と知らない“信州"の歴史を読み解く! (じっぴコンパクト新書)

  • 作者: 原 智子
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2014/11/06
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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表木城(長野県宮田村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2211.JPG←空堀と主郭切岸
 表木城は、歴史不詳の城である。一説には面木(表木)氏の城であったとも、別説では、古くは勘林喜兵衛尉忠重、天文年間(1532~55年)には唐澤右衛門尉美久が居住したとも言う。面木(表木)氏は、1487年に高遠の諏訪継宗が伊那勢を率いて諏訪に攻め込んだ合戦で、真木氏・福島氏・高見氏らと共に討死している。また表木主膳は18貫文を有して表木に居住し、世々高遠城に属して天正年間(1573~92年)に家名を失ったとある。いずれにしても、表木城は室町前期頃にその母胎が築かれ、戦国期に武田信玄が伊那を制圧してこの地を支配した時期に城主は滅亡したと推測されている。

 表木城は、天竜川西岸の河岸段丘辺縁部に築かれた城である。城の東辺部をJR飯田線が貫通していて、やや破壊を受けている。空堀で外周をコの字に囲んだ長方形の主郭を中心に、北に二ノ郭、南に三ノ郭を配している。二ノ郭の北と三ノ郭の南も、それぞれ空堀で周囲の台地と分断している。主郭は土塁で東以外の三方を囲んでいるが、線路で破壊された東辺にも土塁があった可能性がある。虎口は西側中央に築かれている。主郭周囲の空堀は規模が大きいが、薮だらけである。主郭内も薮で覆われている。三ノ郭は、内部が何段かに分かれ、土塁も築かれている。また線路の向こうにも三ノ郭の遺構が残り、東斜面に横堀が穿たれ、横堀は南側で折れて竪堀となって落ちている。以上が表木城の遺構で、土豪が築いた小規模な館城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.785783/137.945087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


男の隠れ家 特別編集 日本の名城を訪ねて

男の隠れ家 特別編集 日本の名城を訪ねて

  • 作者: 三栄
  • 出版社/メーカー: 三栄
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: Kindle版


タグ:中世崖端城
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