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大崎城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5705.JPG←四ノ郭外周の屈曲する横堀
 大崎城は、矢作城とも呼ばれ、下総の名族千葉氏の庶流国分氏の居城である。千葉氏5代千葉介常胤の5男五郎胤通が国分郷に分封されて国分氏を称した。胤通は本矢作城を築いて居城としたが、鎌倉末期頃に5代泰胤が新たに大崎城を築いて居城としたと言う。これは、鎌倉末期から南北朝時代の動乱の中で、より要害性を求めてのことであったと思われる。以後大崎城は、天正年間(1573~92年)の廃城まで、国分氏歴代の居城となった。国分氏は、戦国時代には他の千葉氏一族と同様、小田原北条氏に属して勢力を有した。永禄年間(1558~69年)に、安房里見氏の部将正木氏が東総に侵攻、一帯を席巻したとされるが、これは1560年の上杉謙信の越山に呼応したものか、1564年の第二次国府台合戦の前哨戦として行われたものと推測される。この時大崎城も攻め落とされたが、間もなく奪還したとされる。その後国分氏は、1590年の小田原の役で北条氏と命運を共にした。その後、徳川家康が関東に移封になると、その家臣鳥居元忠が大崎城に入ったが、程なく岩崎に居を移したという。

 大崎城は、香西川とその支流の合流点に半島状に突き出した、比高30m程の丘陵上に築かれた城である。大きく4つの曲輪群に分かれており、更にこれらが「城の内」「外城」の大きく2つのブロックに分かれた一城別郭式の広大な城である。尚、現在城域には両総用水の水路が貫通しており、一部遺構が破壊を受けている。
 まず北側の「城の内」であるが、南北に並んだ主郭群とニノ郭で構成されている。主郭群は、北西部の約1/3が前述の通り水路建設で改変されているが、それ以外は段々に曲輪群が残っている。西側や北端に物見台状の曲輪がそびえ、南東部が最も高所に位置し、主殿が置かれていたと考えられる。ニノ郭との間は直線状の巨大な二重堀切で分断され、特にニノ郭側の堀切は上総・安房方面に多い垂直絶壁切岸の深い堀切である。ニノ郭は西辺と南辺を土塁で囲まれた平場となっている。
 次に「城の内」から大きな谷戸を挟んで南に位置する「外城」であるが、本命寺の南にそびえる東西に長い丘陵に三ノ郭群が築かれ、その南西に四ノ郭群が配置されている。三ノ郭群は東側に物見台の曲輪群が築かれ、そこから南辺に沿って土塁が築かれている。三ノ郭の南下方には、横堀も築かれている。三ノ郭群と四ノ郭群の間は堀切で分断されているが、この辺は薮がひどく、踏査が大変である。四ノ郭群はいかにも外郭という感じの広大な曲輪群で、北東側の先端部は自然地形だが、上部の南西部は綺麗に削平された広い曲輪となっている。南東斜面には腰曲輪群が築かれているが、上部に櫓台を置き城道を兼ねた横堀で背面を防御した扇状地形の曲輪群となっている。四ノ郭で出色なのは、南端の外周部に穿たれた横堀で、幾重にも屈曲して横矢の掛かった、比較的規模の大きな堀で厳重に防御されている。ここはいかにも北条的な部分である。この横堀の西端はそのまま竪堀となって斜面を降っているが、竪堀の先に土塁で囲まれた扇型の腰曲輪が築かれており、ちょっと珍しい形をしている。横堀の外の白幡神社までが城域だったらしく、この付近にも幾つもの平場が確認できる。
 大崎城は、当初は「城の内」部分だけで構成されていたものが、北条氏支配時代に拡張され、新たに「外城」部分が追加されたことが遺構を見ても明確にわかる。用水路による改変以外は遺構がよく残っており、特に四ノ郭の横堀は見事である。また垂直切岸の大堀切や一城別郭構造など、遠く離れた千本城との類似点も垣間見られ、興味深い。
主郭二重堀切の1本目→IMG_5133.JPG
IMG_5140.JPG←主郭二重堀切の2本目
三ノ郭の物見台曲輪群→IMG_5611.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.871399/140.488230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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鴇崎城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5037.JPG←大きな主郭堀切
 鴇崎城は、千葉氏の庶流大須賀氏の一族鴇崎氏の居城と言われている。別説では、鎌倉中期以前は大須賀氏がこの地を領し、その後は同じ千葉一族の国分氏が領したとも言われる。その他の城の歴史は不明である。

 鴇崎城は、大須賀川西岸の標高29.1m、比高24mの台地先端部に築かれた城である。南端にひしゃげた長円形の主郭を置き、その北にニノ郭、三ノ郭を配置し、三ノ郭の東に「新館」と呼ばれる四ノ郭を配置している。主郭は外周に腰曲輪を廻らし、南に虎口、北から東にかけて土塁を築いている。主郭内は畑となっている。ニノ郭との間は大規模な二重堀切で分断されているが、2本目は埋もれているのかかなり浅くなっており、鋭さもない。ニノ郭は山林となっているが、内部に謎の土壇があり、何かの塚(古墳?)の様である。ニノ郭と三ノ郭の間も屈曲した堀切で分断され、堀底道となっている。三ノ郭は藪がひどく、冬場でも踏査はできない。三ノ郭の西側には鴇崎氏の奥津城がある。一方、三ノ郭と四ノ郭の間も堀底道の通る堀切で分断されている。四ノ郭も薮で踏査不能であり、しかも東側は採土で破壊されている様である。遺構はよく残っており、特に主郭の堀切は規模が大きく見応えがある。尚、主郭への入口には現在解説板が立っている。
屈曲したニノ郭の堀切→IMG_5071.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.877972/140.438374/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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馬洗城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5015.JPG←かつて曲輪が連なっていた地形
 馬洗城は、大須賀氏の居城松子城の支城である。松子城からわずか500m程しか離れておらず、地続きの半島状台地の南北両端に位置し、松子城周辺の城砦群(伊能塙城・久井崎城・奈土城・中野城・津富浦城)の中でも優れた縄張りを有している城の一つであったことから、松子城の南方を防衛する重要な出城であったと思われる。

 馬洗城は、国道51号線のすぐ南に位置する比高20m程の台地先端部に築かれていたが、現在は大栄公民館や給食センター、公園などの変貌し、遺構は完全に湮滅している。かつては、主郭を中心にY字状に曲輪を連ね、曲輪間を堀切で分断していた様である。しかしほぼ曲輪の連なっていた地形に沿って造成されたらしく、わずかに地勢は残っており、往時の曲輪配置は変わり果てた現状からでも凡そ推測できるのがせめてもの救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.831415/140.419535/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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松子城 その1(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5012.JPG←城址の現況
 松子城は、千葉氏の庶流大須賀氏の本城である。大須賀氏は、千葉常胤の4男大須賀四郎胤信を祖とし、松子城を本拠に、助崎城など東総地域に多くの支城を有していた。惣領家の松子大須賀氏は次第に有力国人領主として千葉宗家から独立する傾向を示す様になり、一方庶家の助崎大須賀氏は千葉宗家を支えて惣領家と並び立つ勢力を有した。1455年の享徳の乱の際には、関東管領山内上杉氏を支援する室町幕府から派遣された東常縁に付いた松子大須賀氏に対し、助崎大須賀氏は古河公方足利成氏に属し、政治的には二家は独立した勢力となっていた。しかし戦国時代に小田原北条氏の勢力が下総を圧すると、松子大須賀氏も千葉氏や助崎大須賀氏と共に北条氏に服属し、北条氏が滅亡すると大須賀氏も命運を共にした。

 松子城は、大須賀川西岸の台地上に築かれた城である。かつては有力国人領主の城らしい立派な遺構があった様で、昭和20年代の航空写真を見ると、ニノ郭の大空堀などもはっきりと確認できる。しかし現在は成田空港建設に伴う土取りで、遺構は完全に湮滅している。しかも削られた台地上は一面の畑と化しており、城址の痕跡は全く残っていない。他にも採土できる山はいくらでもあるだろうに、何でよりによってこうした歴史のある城のあった台地を削ったのか、疑問を感じざるを得ない。
 尚、帰ってからわかった話だが、城址北側に稲荷馬場と呼ばれる外郭があり、そこは往時のまま横堀などの遺構が残っているそうである。機会があれば再訪したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.835643/140.420415/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

※その後の稲荷馬場の再訪記はこちら
タグ:中世平山城
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津富浦城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4938.JPG←主郭虎口
 津富浦城は、歴史不詳の城である。千葉氏の庶流大須賀氏の本城松子城の支城と推測され、大須賀氏の家臣葛生氏の城であったと考えられている。

 津富浦城は、比高30m程の丘陵上に築かれた城である。横堀が多用された城で、丘陵先端部に築かれた主郭の外周には、規模は小さいものの助崎城の様に横堀が廻らされており、主郭角部から横堀を睥睨し、横堀途中には虎口を兼ねたと思われる竪堀や土塁の切れ目が築かれている。主郭は北西部に虎口が築かれており、ここだけ土塁が構築されている。主郭虎口は単純な坂虎口であるが、動線部分はニノ郭より一段高い土壇となって、主郭に繋がっている。ニノ郭は、東側に横矢の掛かる横堀が穿たれ、その東に窪地状の曲輪が広がっている。その北と南には物見台を兼ねた大土塁が築かれ、城内東辺部の防御を固めている。ニノ郭東側の横堀は、北端で大土塁との間を分断する堀切を兼ね、その先でニノ郭北側の横堀と直交している。この北側の横堀も横矢が掛けられ、横堀に沿って土塁が築かれている。三ノ郭との間はこの横堀から繋がる形で堀切があったようだが、現在はかなり埋もれてしまっている。三ノ郭の先には一段高く四ノ郭があり、その先に長い堀切が穿たれている。津富浦城は、堀の規模などは大したことはないが、普請はしっかりしている。
主郭外周の横堀→IMG_4906.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.840218/140.407948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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名古屋城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4876.JPG←ニノ郭腰曲輪の横堀
 名古屋城と言えば、普通に思い浮かぶのは金の鯱で有名な、徳川御三家筆頭尾張徳川氏の居城であるが、ここは全く別の中世城郭である。
 名古屋城は、歴史不詳であるが、千葉氏の庶流大須賀氏の本城松子城の支城と言われる。しかし位置的には、その傍流の助崎大須賀氏の居城助崎城に近いので(距離わずか1.5km)、実際には助崎大須賀氏の支城であったものと推測される。

 名古屋城は、比高25m程の台地辺縁部に築かれた城である。城内は耕地化されている為、明確な遺構はわずかだが、かなり広い城である。基本的には先端部の主郭と大きな二ノ郭で構成され、二ノ郭東側に腰曲輪を伴っている。西の小道から城に近づいていくと、まずニノ郭西側の谷戸地形が目に飛び込んでくる。その形状から、自然地形に手を加えて外堀としたことが明らかである。小道に沿って進んでいくと、薮の中に東側の腰曲輪が埋もれている。ここは遺構が明瞭で、城道を兼ねた横堀が穿たれ、上の腰曲輪には土塁と櫓台が築かれている。ニノ郭先端部と主郭の間は、広い窪地になっているが、これは往時の空堀であろう。かなり埋められてしまっているが、その広さから考えれば、おそらく戦国末期に鉄砲戦を想定して改修された遺構と思われる。主郭も耕地化と藪が多いが、虎口部に土塁がはっきりと残っている。広いことは広いが、造りはかなりざっくりしていて、村人の避難城という説があるのも首肯できるものがある。
主郭~ニノ郭間の大空堀→IMG_4890.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.855020/140.368917/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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小御門城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4819.JPG←屈曲する空堀
 小御門城は、小帝城とも記載し、歴史不詳の城である。伝承では、1332年に元弘の変で下総に配流された大納言花山院師賢が居住した場所とされる。師賢は後醍醐天皇の寵臣の一人で、1331年、倒幕計画が露見して笠置山に脱出した後醍醐天皇が挙兵した際、師賢は後醍醐の命を受けて玉衣をまとって後醍醐に成り代わり、比叡山に入った。天皇を迎えたと信じ込んだ叡山の衆徒は一時的に意気上がり、幕府軍に対して善戦したが、間もなく身代わりであることが露見すると、僧兵達は俄に心変わりし、師賢は叡山から落ち延びて、結局幕府に捕縛された。翌32年、後醍醐は隠岐に配流となり、皇子・寵臣達も遠流となった時、師賢は千葉介貞胤に預けられ、下総に配流となった。この時小御門城の地に籠居したと言われ、当地で出家したが間もなく病死したと『太平記』に伝えられている。齢32歳と伝えられる。

 小御門城は、比高20m弱の台地辺縁部に築かれた城である。空堀で囲まれた主郭と外郭から成る城であるが、外郭は耕地化により遺構はほとんど湮滅している。主郭は東辺部以外を空堀で囲繞し、郭内には土塁や隅櫓台を築いて防御を固めている。空堀はわずかに折れが付けられて、横矢が掛けられている。その構造から考えれば、戦国期の遺構と推測される。この他、外郭東側にもわずかに腰曲輪が確認できる。尚、主郭内には「公家塚」と呼ばれる花山院師賢の墓があり、城の北には師賢を祀った小御門神社が建てられている。
主郭北東の隅櫓台→IMG_4844.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.854220/140.358209/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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助崎城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4715.JPG←主郭外周の大空堀
 助崎城は、千葉氏の庶流大須賀氏の一族、助崎大須賀氏の居城である。大須賀氏は、千葉常胤の4男大須賀四郎胤信を祖とし、松子城を本拠に、助崎城など東総地域に多くの支城を有していた。中でも助崎城を本拠とした助崎大須賀氏は、惣領の松子大須賀氏と並び立つ勢力を有し、1455年の享徳の乱の際には、関東管領山内上杉氏を支援する室町幕府から派遣された東常縁に付いた松子大須賀氏に対し、助崎大須賀氏は古河公方足利成氏に属し、「信濃守」を称して本佐倉城の千葉氏に仕えるなど、政治的には惣領家とは独立した勢力を有した。戦国時代には、千葉氏と共に小田原北条氏の麾下に属し、岩槻城滝山城に在番した。1590年の小田原の役の際には、助崎城も豊臣秀吉の派遣した軍勢によって、落城したとも言われるが、確かなことは不明である。

 助崎城は、尾羽根川北岸の比高25m程の丘陵上に築かれた城である。先端に主郭を置き、背後に続く台地上にニノ郭・三ノ郭や外郭群などを築いた、かなり広大な城である。しかし主郭~三ノ郭以外は宅地化が進み、改変が激しく遺構が明瞭でない部分も多い。主郭はほぼ完存しており、周囲に大きな空堀と帯曲輪を巡らして防御し、主郭内部は隅部のみ土塁を築いて防御を固めている。主郭とニノ郭の間は車道が通っているが、明らかに往時の大堀切である。ニノ郭は畑と化しているが、先端近くに横堀状虎口が築かれ、西側に腰曲輪も確認できる。三ノ郭は進入不可能な畑であるが、西側に櫓台とその腰曲輪が築かれている。一方、稲葉山と呼ばれる外郭の周辺にも遺構が残っており、西端郭に比較的小規模な横堀と竪堀状虎口が築かれ、櫓台が備わっている。助崎城は、小田原北条氏に属した有力国人領主の城らしく規模は雄大である。
稲葉山西端部の横堀・虎口遺構→IMG_4795.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.842361/140.363549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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東和泉城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4666.JPG←笹曲輪に架かる土橋
 東和泉城は、千葉氏の庶流大須賀氏一族の城である。大須賀氏は、千葉常胤の4男大須賀四郎胤信を祖とし、松子城を本拠に、助崎城など東総地域に多くの支城を有していた。この城に関する戦国期の伝承は、『東国闘戦見聞私記』と言う、およそ信ずるに足らない荒唐無稽な軍記物に記載されているだけなので、ここでは敢えて記載しない。

 東和泉城は、荒海川西岸に半島状に付き出した比高20m程の丘陵上に築かれている。大きく4つの曲輪を直線的に配置した連郭式の城で、現地解説板では先端から順にⅠ郭・Ⅱ郭・Ⅲ郭・Ⅳ郭としているが、どれが主郭であったかは論議のあるところで、ここでは先端から笹曲輪・主郭・ニノ郭・三ノ郭としておく。各曲輪は中規模の堀切で分断されており、笹曲輪~主郭間と主郭~ニノ郭間には土橋が架かっている。特に笹曲輪~主郭間では、珍しいことに堀切の両端にそれぞれ土橋があり、2本の土橋で連結されている。また主郭~ニノ郭間の土橋に対しては、どちらの曲輪にも隅櫓台が築かれ、虎口への防御を固めている。この3つの曲輪の中では、中央の主郭にのみ、両端に土塁や櫓台が築かれて防御が固められている。笹曲輪と主郭は山林となっているが、ニノ郭は畑となり、隅に星神社が鎮座している。ニノ郭と三ノ郭の間は広幅の堀切となり、山麓からここまで登道が整備されている。この広幅の堀底は曲輪としても機能したと見られ、両側の腰曲輪にそのまま繋がっていたものと思われる。三ノ郭は畑となっているが、一部が薮に覆われている。この他、先端の笹曲輪からニノ郭に至るまでの西側には腰曲輪が築かれている。以上の様に、東和泉城は簡素な縄張りであるが、遺構は良く残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.823330/140.346834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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長沼城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4638.JPG←主郭西側の横堀
 長沼城は、下総結城氏の祖結城朝光の5男朝良に始まる、長沼氏の居城とされる。朝良5世の孫朝教が長沼城を築いて居城とし、戦国時代にはその裔長沼五郎武俊が居城したと伝えられる。しかし長沼氏と言えば、藤原秀郷の血脈を誇る下野屈指の豪族小山氏の庶流で、小山政光の次男宗政に始まる小山三家の一、長沼氏のことで、同じく小山三家の結城氏からの分かれで長沼氏があったとは、この城以外で聞いたことがない。系図の混乱があるか、系譜の仮託があるかのどちらかであろう。又、別説では、長沼城は印東別当常閑、印東太郎師常、長沼淡路前司、大野修理らの城砦であったともされ、はっきりしない。

 長沼城は、比高20m程の独立丘陵上に築かれた、ほぼ単郭の城である。丘陵頂部は現在公園化されているが、周囲に低土塁を築いた平坦な広い主郭となっていて、その周囲にぐるりと腰曲輪を巡らしている。腰曲輪の南東角に小堀切を挟んで櫓台が築かれ、また北東角にも虎口を兼ねた腰曲輪の張出しがある。また主郭外周を一周する腰曲輪は、西側では横堀となって防御を固めている。小規模な城ではあるが、遺構は明瞭である。
南東角の櫓台と堀切→IMG_4617.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.836726/140.307309/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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飯塚砦(千葉県匝瑳市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4584.JPG←主郭外周の横堀
 飯塚砦は、下総の名族千葉氏の族臣飯塚氏の城である。砦の北方500m程の位置には飯塚城があったとされ、その出城か、もしくは両城一体として機能していたものと推測されている。

 飯塚砦は、比高20m程の丘陵上に築かれている。大きく弓形になった地形に沿って東から順に五ノ郭・三ノ郭・ニノ郭・主郭・四ノ郭と、主要な曲輪を直線的に連ねた連郭式で、曲輪間は堀切で分断し、周囲に腰曲輪を廻らした縄張りとなっている。妙見宮や妙見碑が建てられ、そこへの参道が整備されるなどしているので、地形が一部改変されている。しかし概ね遺構はよく残っており、主郭内部は倒竹や薮で踏査が大変だが、大体見て回ることができる。各曲輪の外周には土塁がしっかりと築かれ、隅櫓台も散見される。また改変の疑いがあるものの、主要な曲輪の虎口がはっきりと残っている。この城で特徴的なのは、この地域では珍しく曲輪外周に横堀を多用していることで、特に主郭と四ノ郭背後は明瞭で、四ノ郭のものは端部が竪堀となって落ちている。この他、主郭の北に伸びる支尾根に腰曲輪が置かれ、主郭周囲の横堀がそのままこの腰曲輪との間を分断する堀切となっている。但し、曲輪間の堀切もこれらの横堀・竪堀も、規模は小さい。また四ノ郭背後には堀底道に沿って左右に櫓台が築かれている。飯塚砦は、砦と言う名には似つかわしくない程、普請のしっかりした完全な山城である。尚、この山の持ち主の方と話す機会に恵まれたが、その方の話では城内で人骨も発見されたとのことである。
堀底道沿いの櫓台→IMG_4573.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.730980/140.558340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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八日市場城(千葉県匝瑳市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4426.JPG←ニノ郭先端の堀切
 八日市場城は、歴史不詳の城である。永禄~元亀年間(1558~73年)頃の『千葉胤富黒印状』に、八日市場城主押田権四郎の名が見え、千葉氏の家臣押田氏の居城と推測されている。尚、城内に少字名新城の地名があることから、南西部の池を挟んだ台地上に位置する要害台城が本城で、八日市場城と合わせて1つの城として機能していたとの説もある。

 八日市場城は、八日市場市街地の北側に連なる比高30m程の台地の一角に位置し、現在天神山公園に変貌している。縄張図によれば、一段高い小さな主郭と広大なニノ郭、そしてその周囲の腰曲輪から構成されていたとされる。公園化された現在でも、ほぼ同じ形状が残っており、腰曲輪も多数存在するようだが、改変が多くどこまでが往時の遺構を留めているのか、よくわからない。主郭には櫓台が築かれており、現在は櫓台に天神山浅間神社が鎮座している。主郭北東側にはニノ郭との間にわずかに堀が残っている。この他明確な遺構として、ニノ郭北東端に続く台地との間を分断する大堀切が穿たれている。ニノ郭南東斜面にも腰曲輪らしい平場があり、竪堀状虎口の様な地形も見られるが、改変が多い上、『図説 房総の城郭』の縄張図にも記載がない。これは遺構ではないのであろうか。過去に行われた発掘調査では、台地を取り巻く空堀や障子堀も確認されたというが、それらについてはおろか、城があったことさえ現地では言及がない。折角公園化するのなら、城址公園として解説板や標柱など、きちんと整備して欲しいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.704378/140.547601/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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新城(千葉県匝瑳市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4403.JPG←主郭搦手虎口と小郭
 新(しむら)城は、新村城とも記載され、千葉氏の庶流匝瑳三谷(さんがや)氏の居城であったと言われている。しかしその歴史は必ずしも明確ではなく、戦国末期に坂田城主井田氏の家臣三谷蔵人佐胤重が城主であったことが確認されるのみである。尚、三谷氏は、坂田郷を本領とする惣領家の大膳亮家が井田氏に滅ぼされた後、井田氏に降った匝瑳郡の庶家の蔵人佐家(匝瑳三谷氏)が惣領となった様である。

 新城は、栗山川支流の小河川北岸に半島状に付き出した比高20m程の丘陵上に築かれている。丘陵先端部には主郭が置かれているが、外周には土塁が築かれ、ニノ郭に繋がる虎口部は出枡形となって張出し、形の見事な土橋で連結されている。また主郭東側には内枡形の搦手虎口があり、外側には小郭を経由して腰曲輪に繋がっている。ニノ郭との間の堀切は直角に曲がってこの腰曲輪に繋がっている。三ノ郭内は数段の平場があって広い曲輪となり、ニノ郭と三ノ郭は切岸のみで区切られているが、間には堀状の一段低い平場が置かれている。ニノ郭の東西に腰曲輪が築かれ、特に西側では上段の腰曲輪に隅櫓台と竪堀状虎口が築かれている。またニノ郭虎口に対して、三ノ郭の張出し部から横矢が掛けられている様である。そして三ノ郭背後には大きな堀切があり、堀底に帯曲輪の様な段差が見られる。大堀切の先は四ノ郭で、中間に仕切り土塁が築かれ、西側に細長い腰曲輪が伸び、北側には堀切を挟んで先端の櫓台がそびえて城域が終わっている。新城は大きな城ではないが、坂田城を築いた井田氏の勢力下の城らしく、なかなか技巧的な縄張りを有している。
主郭大手の土橋→IMG_4375.JPG
IMG_4322.JPG←三ノ郭の大堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.699682/140.509439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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久方城(千葉県匝瑳市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4278.JPG←主郭虎口の横矢掛かり
 久方城は、歴史不詳の城である。永禄~元亀年間(1558~73年)頃の『千葉胤富黒印状』に、八日市場城主押田権四郎の配下として久方二郎右衛門・同兵庫助の名が見え、久方城との関連が指摘されている。

 久方城は、並木城と同じく、半島状に突き出した比高27mの丘陵上に築かれた城である。主郭の配置も酷似しており、丘陵南端に方形の主郭を置き、周囲に土塁と空堀を築いて防御を固めている。並木城と異なるのは、主郭土塁が空堀沿いだけでなく全周に築かれていること、中央付近にT字状に仕切り土塁が構築されていること、そして虎口に対して明確に横矢が掛けられていることである。また主郭の南角部はわずかに入り隅となっている。主郭の周囲は広大な外郭(ニノ郭)で、全面耕地化されているため往時の形状がよくわからないのも並木城と同じである。ニノ郭の北側斜面には、数本の竪堀群が穿たれ、その内の一つは竪土塁を伴っている。またニノ郭北側の小道に繋がる様に、西側斜面に大きな竪堀が穿たれている。この他、外郭の北東にある延命寺の周囲にも土塁が残っている。久方城は、基本的な結構は並木城と同じ兄弟城であるが、横矢掛かりや明確な竪堀など、より戦国後期に近い技術が使われている様だ。
外郭の竪堀→IMG_4208.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.712715/140.503785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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並木城(千葉県多古町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4136.JPG←主郭の空堀と土塁
 並木城は、下総の名族千葉氏の家臣飯田三左衛門の城と伝えられているが詳細は不明。並木城の周辺一帯は、南北朝時代に「千田庄動乱」の舞台となった。その経緯については土橋城の項に記載する。この抗争の中で、千葉侍所竹元氏が土橋城を攻め落とした際、並木城も落城したと伝えられている。この土橋城合戦は、1336年にあったという説と、1340年にあったという説がある様だ。その後の並木城の歴史は不明である。

 並木城は、栗山川とその支流借当川の合流点近くに半島状に突き出した、比高30m程の丘陵上に築かれた城である。丘陵南西端に方形の主郭を置き、その北と東の周囲に土塁と空堀を築いて防御を固めている。特に北側の空堀は二重空堀となり、北東角には隅櫓台を築いている。大手虎口は、現在畑となった主郭に通じる小道であったろうか。一方、主郭の南東隅に窪んだ内枡形形状の搦手虎口が築かれている。主郭の西側斜面には腰曲輪が築かれ、数ヶ所竪堀が穿たれている。主郭の周囲は広大な外郭(ニノ郭)で、全面耕地化されているので往時の形状はよくわからない。外郭北端部の山林内には僅かな堀跡と土壇が見られるが、あまり普請は明確でなく、遺構かどうか確証は持てなかった。並木城は、その遺構から考えれば室町後期~戦国前期頃までは使用されていた様だが、戦国後期には既にその重要性は失われていたと見られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.728638/140.485310/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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志摩城(千葉県多古町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4103.JPG←主郭西側の腰曲輪
 志摩城は、島城とも記載され、多古城と共に下総の名族千葉氏の内乱の舞台となった城である。室町後期の1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱が生起した。これが享徳の乱である。この余波で下総では千葉氏内部に内訌が生じ、上杉方の宗家千葉胤直・胤宣父子は、一族で成氏方の馬加城主馬加康胤・小弓城主原胤房らに攻められて千葉城(猪鼻城)を逐われた。敗走した胤直は弟胤賢と共に志摩城に立て籠もり、嫡子胤宣は多古城に立て籠もった。しかし両城共に攻囲されて落城し、胤宣は付近の阿弥陀堂で自刃し、胤直も東禅寺に逃れて自刃し、千葉宗家は滅亡した。志摩城もこの時廃城になったと考えられている。

 志摩城は、栗山川周囲の低湿地帯の中に文字通り島の様に浮かぶ台地上に築かれた城である。全面畑と化した三角形の広大な主郭と、その西側の腰曲輪数段から構成された、非常に素朴な縄張りである。主郭はだだっ広いだけのただの平場で、耕地化による改変のせいもあるのか、内部には土塁も空堀も確認できない。この三角形の台地と西側の台地の間は低地になり、現在車道が貫通しているが、往時は自然地形を利用した空堀になっていたらしい。主郭の空堀側には数段の腰曲輪が築かれており、現在公園として整備されている。また空堀の西側の台地は「ニノ台」と呼ばれ、二ノ郭であったと考えられるが、ほとんど自然地形のままの様である。結局、明確な遺構が腰曲輪の平場しかなく、ぱっと見では何が城なのか、普通の人にはまずわからない。駐車場と解説板と遊歩道が整備されているが、縄張図や標柱がないと、城歩きをしている人でも城と気付かない程、志摩城は室町期の古い城の形態の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.721984/140.474952/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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土橋城(千葉県多古町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4069.JPG←畑中に残る堀跡
 土橋城は、下総の名族千葉氏の支城である。土橋城の周辺一帯は、南北朝時代に「千田庄動乱」の舞台となった。この時代、諸国の武家は惣領制が崩れてきており、惣領家と庶子家が南北両朝に分裂して争うことが多かったが、千葉氏でも同じであった。鎌倉末期に千葉氏9代当主宗胤は元寇の際に九州に駐屯し、そのまま九州で幼い嫡子胤貞を残したまま他界した。宗胤の下総不在の間に、その弟胤宗が千葉氏の家督(千葉介)を横領し、その後、千葉介は胤宗の子貞胤(胤貞の従兄弟)に継承された。南北朝の動乱が起こると、惣領家を横領された胤貞は1335年、後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従って、宮方の新田義貞に属した貞胤と抗争を開始し、貞胤の「守護使」が胤貞の所領であった千田庄に乱入し、以後2年に渡って千田庄一帯で戦乱が繰り広げられた。これが千田庄動乱である。一方胤貞は、同年秋に同族の相馬親胤と連合して千葉城を攻めるなど、抗争は激化した。この後、千葉侍所竹元氏が土橋城を攻めて、城内の12人が討死にして落城したと伝えられている。この土橋城合戦は、1336年にあったという説と、1340年にあったという説がある様だ。時代は下って室町後期に生起した享徳の大乱の際には、千葉宗家の胤直・胤宣父子は庶流の馬加康胤・原胤房らに千葉城を逐われ、胤直は志摩城に、胤宣は多古城に立て籠もった。しかし間もなく両城とも攻め落とされ、胤直は土橋城近くの東禅寺に逃げ込んで自刃した。この事から、土橋城はこの頃まで要衝として機能していたと推測されている。

 土橋城は、栗山川西岸の比高25m程の丘陵上に築かれた城である。台地東南端に鎮座する妙見神社があるのが主郭であったと思われ、後世の変更の可能性があるものの、神社背後に土塁や堀が見られる。しかし台地上がほとんど畑化されている為、明確な城郭遺構は少なく、妙見神社からやや離れた北側に薬研堀が検出された堀跡が低い畑となって残り、また妙見神社から西に200m程離れた場所には土塁や虎口、腰曲輪状の平場などが確認できる程度である。しかしいずれにしてもささやかな遺構が散在するだけで、どのような縄張りの城だったのかはあまり明確ではない。室町期頃までの素朴な形態の城だったのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.757758/140.478610/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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要害台城(千葉県横芝光町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4006.JPG←腰曲輪と切岸
 要害台城は、歴史不詳の城である。寒風城の西方1.2kmの位置にある、三角形をした比高30mの独立丘陵に築かれている。周囲は住宅が密集している為、あまり山に取り付く場所がないが、私は北東の弘経寺の墓地裏から登った。山頂部の主郭を中心に、周囲に段状に曲輪を築いており、かなり多くの曲輪群が確認できる。切岸もはっきりしており、主郭付近では竪堀状の虎口が2ヶ所築かれ、城内通路もはっきり確認できる。特に主郭南東下方の城内通路は、側方を土塁で防御され、更に土塁の外側には竪堀が穿たれて腰曲輪との動線を完全に遮断している。また主郭の東と南の二辺には土塁が築かれ、周囲の曲輪と明確に区画されている。主郭西側には、僅かな段差で区切られたニノ郭があるが、ここには千葉には珍しい茶畑の放棄地がある。その先端には堀切と物見台があり、栗山川沿いの平野部を見下ろしている。ただ、城のある丘陵の南面から西面にかけては、急傾斜地崩壊防止のコンクリート壁が構築されているので、だいぶ改変されてしまっている様である。要害台城は、小規模な城砦ではあるが遺構は明瞭で、この付近が低地帯を挟んで志摩城並木城久方城などが居並ぶ城砦密集地帯であり、また千田庄動乱や享徳の乱での千葉氏の内訌の舞台となるなど千葉氏にとって重要な相伝の所領であったことから、物見の城として重視されたことが伺われる。
主郭の土塁→IMG_3987.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.706304/140.486239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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寒風城(千葉県横芝光町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3942.JPG←二重堀切の一部
 寒風城は、歴史不詳の城である。一説には、千葉氏の庶流椎名氏の城であったとも言われる。比高30m程の丘陵上に築かれた城で、大きく3つの曲輪と腰曲輪で構成されていた様である。いずれの曲輪も平坦で広いが、後世の耕地化などで改変されている上、現在は城域の多くが物凄い薮に覆われていて、ほとんどその形状を把握することができない。3つの曲輪の内、中央の曲輪が最も広いが、あまりにだだっ広く、主郭であったのかどうか、曲輪の機能が今一つ明瞭でない。余湖さんは敵の侵入時に村人たちが避難する「村人曲輪」であったのではないかとの説を提示している。この曲輪の南には二重堀切が穿たれており、この城で最も明確な遺構である。但し、二重といっても実際は1.5重に近く、外側のみ明確な空堀形状となっている。中央曲輪の北側も堀切状の地形で区画されているが、こちらは後世の改変の可能性があり、遺構とはにわかに断じ難い。いずれにしても寒風城は、入口に城址標柱がなければ、城だとわからないほど藪化が進んでいる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.707279/140.499564/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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坂田城(千葉県横芝光町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3864.JPG←主郭虎口横の櫓台
 坂田城は、飯櫃城主山室氏に属して勢力を拡大した井田氏の戦国末期の居城である。井田氏の事績は大台城の項に記載する。坂田城は、元々は14世紀中頃に千葉氏によって築かれたと言われ、その後、千葉氏の重臣三谷大膳亮胤興の居城となった。1555年、井田因幡守友胤は三谷氏の内訌に介入して胤興を攻め滅ぼし、坂田郷を併呑して居城を大台城から坂田城に移したとされる。しかし移城の時期や、その時の坂田城が現在の坂田城であるかどうかは不明な点が多い。井田氏は、千葉氏に仕えると共に小田原北条氏に属し、天正年間(1573~92年)には坂田城を拠点に東上総の地方領主として勢力を有し、牛久城岩槻城に在番した。1590年の小田原の役の際、坂田城も追討軍の前に落城したと言う。

 坂田城は、栗山川西方の比高25m程の舌状台地先端に築かれた城である。台地先端に主郭とニノ郭を置き、そこから台地基部に向かって三ノ郭・四ノ郭を築いている。いずれの曲輪も空堀と土塁で分断されているが、特に外郭に当たる四ノ郭のものは土塁・堀切とも規模が大きい。殊に堀切は二重に穿たれ、二重堀切の中間土塁は帯曲輪となって、この帯曲輪を障壁とする様に大手と搦手の虎口2ヶ所が築かれ、厳重な防備を固めている。中でも大手虎口は、土塁(帯曲輪)を迂回してから屈曲して堀切内に進入し、四ノ郭虎口に至る、巧みな動線構造となっている。三ノ郭虎口は、中央の土橋に対して両翼に張り出した櫓台から横矢を掛けており、空堀も櫓台に沿って屈曲している。但し、この部分はこの城の白眉であるにも関わらず、藪が多く遺構の確認が大変なのが残念である。主郭と二ノ郭も虎口の土橋に対して、櫓台を張り出させており、しっかりと横矢を掛けた構造となっている。この城には横矢掛かりが多数あり、北条勢力圏の数多い名城の中でも、大きな櫓台からの横矢掛かりをこれほど徹底して意識して築かれた例は少ない。特に主郭では、横矢張出しの櫓台・物見台が合計4ヶ所にも及ぶ。この他、曲輪外周の斜面に腰曲輪群が多数築かれ、東斜面では竪堀が、また西斜面では堀状の城道も残っている。坂田城は、舌状台地に築かれた城の究極形の一つで、外周斜面の腰曲輪群といい縄張りといい、相模大庭城に匹敵する技巧的な遺構である。
土塁を迂回する大手虎口→IMG_3753.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.664377/140.472872/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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山中南城(千葉県芝山町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3676.JPG←城内中央の枡形
 山中南城は、宿谷と呼ばれる谷戸を挟んで山中北城のすぐ南東に隣接して築かれた城である。2つの城が至近距離に並立し、別城一郭として機能していたと考えられる。その歴史については、山中北城の項に記載する。

 山中南城は、山中北城と同様、高谷川南岸の比高20m程の小丘上に築かれている。規模的には北城よりちょっと大きい程度だが、縄張り的にはより先端的な築城技術で構築されている。北端の方形の曲輪が主郭で、八幡社のある腰曲輪から城道が残り、枡形虎口を経由して主郭に至る。主郭とその南のニノ郭の間は一直線状の空堀で分断され、主郭側には空堀に沿って土塁が築かれている。二ノ郭は三角形状の曲輪で、土壇らしいものが残る。ニノ郭と南側の曲輪群の間は窪地で区画されているが、ここに巧妙な袋小路の枡形虎口が築かれている。この枡形は、三ノ郭に通じる城道は土塁の障壁で防衛され、周囲の4つの櫓台から集中砲火される巧妙な造りとなっている。この城内中央の枡形の南には三ノ郭と四ノ郭が東西に並立し、2つの曲輪間は堀切を兼ねた切通し状虎口で分断されている。三ノ郭背後と四ノ郭背後にはそれぞれ櫓台がそびえ、櫓台土塁は高さ5m以上もあって郭内を睥睨している。櫓台からは土塁が塁線に沿って伸び、三ノ郭から四ノ郭にかけての背後には堀切が穿たれて外郭と分断している。この堀切は、横矢が掛けられている。山中南城は、大規模な城ではないが、横矢掛かりの堀切と共に、巧妙な枡形虎口が戦国末期の最先端の築城技術を伺わせる。
三ノ郭背後の堀切→IMG_3645.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.701332/140.436268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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山中北城(千葉県芝山町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3565.JPG←主郭外周の二重横堀の一つ
 山中城は、戦国時代の大永~天文年間(1521~55年)頃に大台城主井田氏の客将和田五郎左衛門尉胤信によって築かれた城と言われている。和田氏はその後も小田原北条氏に属した井田氏の勢力の一翼を担い、胤信の子、和田伊賀守胤富は、坂田城主井田因幡守胤徳の軍代として150騎を率いて武蔵・常陸を転戦したと伝えられる。戦国末期の1587年、小田原の北条氏政が井田胤徳に宛てた書状には、井田氏の同心衆筆頭に和田左衛門尉(和田胤富か?)の名が記載されている。その後、1590年の小田原の役の後、廃城になったと思われる。尚、山中城は、北城と南城が宿谷と呼ばれる谷戸を挟んで至近距離に並立し、北城は一説には、和田氏の隠居城であったとも言われている。

 山中北城は、高谷川南岸の比高20m程の小丘上に築かれている。遺構はよく残っているが、曲輪の位置関係からするとどこが主郭であるか、判断に迷う。と言うのは、普通に考えれば空堀で厳重に囲まれた稲荷社の鎮座する曲輪が主郭と考えられるが、その北側の曲輪より低い位置に存在するからである。これは、北の曲輪を敵に攻め取られると主郭内部が丸見えになることを意味するので、位置関係的に主郭との判断が難しいのである。しかしここでは一応、稲荷社があるのを主郭とし、北側の曲輪をニノ郭としておく(千葉県の調査報告書では、前述の曲輪を三ノ郭としている)。三ノ郭は平坦な広い曲輪で、上段のニノ郭とは5m程の切岸で区画されている。南と西に大土塁を構えている。二ノ郭は外周に低土塁を築き、北西端に搦手虎口を置き、三ノ郭の大土塁との間は土橋状に連結されている。ニノ郭・三ノ郭と主郭との間は大きな空堀で分断され、虎口が切通し状に築かれ土橋が架かっている。主郭は、稲荷社の背後に土塁と櫓台を構え、その背後に円弧状に廻らした二重横堀が穿たれている。これは、規模は異なるが真里谷要害城の外郭三重空堀に雰囲気が似ている。横堀は城道を兼ねていた様で、主郭空堀の下では、竪堀状の城道が分岐して斜面を下っている。この堀の分岐点には櫓台が築かれて、堀底を監視しているのがわかる。山中北城は小規模な城砦であるが、その割には空堀の規模が大きく、構造も複雑で見応えがある。
櫓台と横堀・竪堀→IMG_3586.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.701592/140.434102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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大台城(千葉県芝山町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3500.JPG←主郭の空堀跡
 大台城は、飯櫃城主山室氏に属して勢力を拡大した井田氏の居城である。文安年間(1444~49年)に井田刑部大輔俊胤は、上総国山辺庄小池郷を領して山室氏に客将として仕えていた。1505年には、刑部大輔の嫡男井田美濃守胤俊が、千葉昌胤の元服式で礼酒の儀を務めるなど、千葉氏にも出仕しており、千葉勝胤から重く用いられた。1532年、井田友胤は山室氏から独立が認められて千葉昌胤の直臣となり、1548年には新たに大台城を築いて居城とした。1555年、隣接する三谷氏の内訌に介入して攻め滅ぼし、坂田郷を併呑して坂田城を築いたとされる。しかしこの坂田城が現在の坂田城であるかどうかは不明な点が多い。翌56年、友胤の子胤徳は居城の大台城を改修し、永禄年間(1558~69年)には正木氏の東総侵攻に激しく抵抗した。天正年間(1573~92年)には新たに坂田城を築き(改修か?)、小田原北条氏に属して牛久城岩槻城に在番した。1590年、北条氏が滅亡して徳川家康が関東に入部すると、井田氏は佐倉城主となった武田信吉に仕え、関ヶ原の戦いの後に信吉が水戸に転封となると、これに従って水戸に移り、この地を離れた。

 大台城は、飯櫃城から南にわずか1.9kmの位置にあり、同じく高谷川の西岸にある比高28m程の丘陵上に築かれている。台地先端部を空堀で穿って主郭を置き、その南にニノ郭・三ノ郭を配置している。また周囲にも腰曲輪を巡らしている。主郭・二ノ郭と一部の腰曲輪は現在畑に変貌しており、一部は改変を受けている。三ノ郭や腰曲輪の大部分は薮に埋もれ、冬でも踏査が困難で、ほとんど形状が把握できない。結局、薮に撃退され、主要部のみ確認して撤収した。大台城は、同じ井田氏の手になる坂田城や津辺城に比べると旧態依然とした縄張りで、空堀の規模も小さく、戦国末期にはその重要性が低下していたことが見て取れる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.712206/140.425237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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飯櫃城(千葉県芝山町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3419.JPG←主郭の空堀跡
 飯櫃城は、上総国山辺郡の国人領主山室氏の戦国期の居城である。山室氏は山室城を居城として勢力を養ったが、1532年に山室飛騨守常隆が新たに飯櫃城を築いて本拠を移した。山室氏は、上総から下総まで跨がる62城の族頭として大きな勢力を有し(現地の石碑の記述)、戦国後期になると小田原北条氏に属した。1590年の小田原の役の際、房総諸城は徳川方の軍勢によって攻略されたが、北条氏滅亡後の同年12月に、山室常陸介光勝は一門の将士を飯櫃城に集めて徹底抗戦し、徳川方の派遣した保科弾正正光率いる大軍と3日間の激戦の末、城兵800余騎が討死して落城したと言う。この戦いは、在地豪族が北条氏滅亡後の処遇に不満を爆発させて蜂起した反乱であったとの説も提示されている。

 飯櫃城は、高谷川西岸の比高30m程の台地上に築かれた城である。南東端に主郭を置き、ニノ郭・三ノ郭を梯郭式に配置した縄張りとなっている。曲輪はいずれも広く、居住性に優れると同時にまとまった兵を収容可能な拠点城郭であったことがわかる。主郭・ニノ郭とも、外周を空堀で防御しているが、曲輪は全て畑に変貌し、堀も畑や山林と化してしまっている。しかしその形状は明瞭で、主郭背後には櫓台が残っているのも確認できる。横矢の掛かった空堀も、往時はかなりの規模と深さであったことが容易に想像できる。三ノ郭背後の台地基部は大堀切で分断され、三ノ郭北辺のヤブの中には横堀の遺構も残っている。この他、畑や山林となっているが、腰曲輪らしい平場も随所に散見され、城域北東端の高野神社の部分も、腰曲輪や堀切・櫓台であったと思われる。尚、城の入口には遺臣の末裔が建てた城址碑があり、畑に変貌しつつも大切に守られている城であることが伝わってくる。
三ノ郭北側の横堀→IMG_3478.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.729225/140.421499/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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岩山城(千葉県芝山町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3365.JPG←そびえ立つ主郭
 岩山城は、飯櫃城主山室氏の支城である。飯櫃城の北西の防衛拠点として、山室氏の家臣斎藤清氏・清長らが居城としていたと言われている。

 岩山城は、飯櫃城の西北西わずか1.2kmの、比高20m程の丘陵上に築かれた城である。細長く伸びた丘陵の先端部ではなく、中間部に築かれている点では、駒井野城と似ている。三ノ郭・ニノ郭・主郭・四ノ郭と連なった連郭式を基本とし、周囲に腰曲輪を廻らした、比較的簡素な縄張りである。三ノ郭先端は堀切が穿たれて城域を区画している。三ノ郭とニノ郭には堀切に沿って土塁が築かれている。また三ノ郭とニノ郭の間は、堀切を兼ねた曲輪となっている。主郭は、5m程の切岸でニノ郭の上にそびえ立つように築かれており、前面には坂虎口が築かれている。主郭背後には櫓台が築かれ、その背後は円弧状の堀切で分断されている。その先は四ノ郭とされるが、どこまでが城域かは判然としない。この他、北側の腰曲輪は広く、四ノ郭の側方に腰曲輪間の虎口が確認できる。民家背後の山林に、良好に遺構が残っている。
主郭背後の円弧状堀切→IMG_3384.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.733319/140.408367/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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山室城(千葉県山武市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3249.JPG←三ノ郭の空堀
 山室城は、上総国山辺郡の国人領主山室氏の居城である。山室氏の出自は明確ではなく、鎮西八郎源為朝の子孫であるとも、下総の名族千葉氏の一族であろうとも言われるが定かではない。いずれにしても山室城を本拠として勢力を養っていたが、1532年に飯櫃城を築いて本拠を移した。その後も山室城は支城として存続したが、16世紀後半に廃城になったと推測されている。

 山室城は、木戸川とその支流の合流点北東の比高30m程の台地先端部に築かれた城である。梯郭式に近い縄張りで、先端に主郭を置き、その西側にニノ郭、更にその北から西にかけて三ノ郭を廻らしている。主郭とニノ郭の間は幅20m程もある幅広の堀で、戦国後期に鉄砲戦を想定して改修されたものと考えられる。ニノ郭と三ノ郭の外周も空堀が穿たれ、空堀に沿って土塁が築かれている。いずれの堀も直線的で横矢掛かりは少ない。この他、ニノ郭内部に仕切り土塁と横堀が築かれ、三ノ郭の南西には腰曲輪が、また主郭周囲にも腰曲輪が築かれて、防御を固めている。戦国前期の特徴を示す遺構がよく残っており、末永く保存してもらいたい。
主郭の広幅の空堀→IMG_3287.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.667804/140.421175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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松尾城(千葉県山武市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3216.JPG←東辺の土塁跡
 松尾城は、明治2年に築城された稜堡式の近代城郭である。明治元年(1868年)、新政府が樹立され、恭順した徳川慶喜が駿府に移ると、これに伴って徳川宗家を相続していた徳川家達も駿府70万石に移封となった。これにより駿遠の幕臣大名は多く配置換えとなり、掛川城の太田資美は上総柴山に国替えとなった。そして新たに松尾城を築き、まず知事邸と藩庁を完成させた。しかし1871年の廃藩置県によって築城は中止された。極めて短命の城であった。

 松尾城は、国道126号線の西側に位置する比高30m程の台地を利用して築かれた城である。築城途中で廃城となり、更にその後の市街化による改変が進み、現在ではイマイチ往時の縄張りがわからなくなってしまっている。松尾自動車教習所の位置に藩庁が置かれ、松尾中学校の位置に知事邸が置かれていたらしい。明確な遺構として唯一残るのは、東辺の胸壁と呼ばれる45度の急角度の切岸で、竹藪の中にその土塁がわずかに残っている。松尾中の東側の急斜面もその一部らしいが、こちらは擁壁などが構築されて改変されているので遺構とは認定できない。今となっては幻の稜堡式城郭である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.641111/140.452954/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近代城郭
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津辺城(千葉県山武市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3089.JPG←横矢掛かりの大空堀
 津辺城は、歴史不詳の城である。『上総国誌』によれば、天正年間(1573~92年)には坂田城主井田氏の支配下にあり、その重臣白桝和泉守が城将であったとされる。

 津辺城は、境川の曲流部に付き出した比高40mの台地先端部に築かれた城である。大規模な空掘と横矢掛かりを多用した、技巧的な縄張りを有している。台地南東端に主郭を置き、その北側に広いニノ郭、その西側に三ノ郭・四ノ郭や外郭を配置し、ニノ郭の北側下方にも腰曲輪を配置している。主要な曲輪間は空堀で分断されているが、特に主郭・ニノ郭の西側の空堀は規模が大きく、土気城に匹敵するレベルである。しかも主郭の方はジグザグに屈曲して横矢が掛かり、またニノ郭虎口の土橋に対しても両側の空堀がL字状に入り込み、両翼に張り出した櫓台から虎口に侵入する敵を迎撃できる様になっている。主郭虎口にはしっかりした角馬出が備わり、更に主郭に通じる土橋に対して側方の出枡形櫓台からの横矢が掛けられているなど、虎口構造は厳重を極めている。この他、三ノ郭や四ノ郭外周にも空堀が穿たれ、ニノ郭北側下方の腰曲輪は大きな横堀で分断されている。大規模な掘と横矢掛かり、更に角馬出の存在など、その構造から考えれば小田原北条氏の息の掛かった城であることが明確である。しかし一方で、この地の拠点城郭である成東城からは、作田川の氾濫原を挟んでわずか1.4km程しか離れておらず、同じ北条勢力圏内にこれほどの城を築いた理由は今一つはっきりしない。いずれにしても必見の城である。
ニノ郭の土橋→IMG_3195.JPG
IMG_3146.JPG←主郭の角馬出
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.615207/140.413369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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成東城(千葉県山武市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2987.JPG←主郭の空堀と土橋
 成東城は、下総の名族千葉氏の庶流成東氏の居城である。元々は、応永年間(1394~1428年)に千葉氏の家臣印東氏が築城したと言われ、その後1530年に千葉氏21代勝胤によって再興されたと言う。この時の城主は勝胤の弟胤家とも、或いは勝胤の5男胤定とも言われるが、いずれにしても成東氏は千葉氏宗家の近親という有力な家柄であった。胤定の嫡子将胤は、本佐倉城の城代を務めた千葉氏の重臣であったが、1590年の小田原の役の際、小田原城の攻防戦で討死し、成東城も落城した。徳川家康が関東に入部すると、成東城は石川康道・青山忠成等によって領有されたが、1620年に青山氏が武蔵岩槻城に転封となると、成東城は廃城となった。

 成東城は、比高40m程の台地上に築かれた城である。作田川南岸の独立丘陵全体を城域としていた様で、台地北東端を大きな空堀と土塁で区画して、主郭とニノ郭を築き、周囲の台地全体を外郭としていたと考えられる。現在残っているのは城址公園となった主郭・ニノ郭と周辺腰曲輪部だけで、外郭は住宅地が造成されて遺構は湮滅している。しかし残っている部分だけでも見応えのある遺構で、主郭とニノ郭には横矢掛かりの大きな空堀が廻らされ、櫓台や土塁も規模が大きい。主郭とニノ郭の間には、馬出し状の腰曲輪があり、主郭虎口を防御している。一方、湮滅した外郭の南端にも山林の中に切岸と空堀が残っている。縄張り的には、同じ千葉氏の城であった本佐倉城や臼井城と似ており、この地の拠点城郭として機能したことが伺われる。
外郭に残る空堀→IMG_3057.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.604235/140.405387/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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田間城(千葉県東金市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2914.JPG←竪土塁と堀切状虎口
 田間城は、東金酒井氏の支城である。1509年、土気城主酒井定隆は嫡子定治に土気城と家督を譲り、田間城を新たな居城として築いて3男隆敏と共に移った。しかし城地が狭隘であった為、間もなく東金城に居城を移し、以後東金酒井氏の支城となった。

 田間城は、田間神社後背部の比高50m程のなだらかな丘陵上に築かれている。丘陵頂部に堀切で分断された主郭・ニノ郭を連ね、その周囲に広い腰曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭も二ノ郭も広く、居住性のある城であったと思われる。間の堀切は鋭さのない幅広の堀で、堀切兼用の虎口曲輪のように機能した様に考えられる。主郭・ニノ郭とも周囲の腰曲輪からは5m程の高さの切岸で囲まれている。ニノ郭南端には堀切を介して櫓台が築かれている。この城で特徴的なのは、ニノ郭の西面から南面にかけて広がる腰曲輪群で、腰曲輪が多数築かれ、最下段は6本程度の放射状に築かれた竪土塁で区画されている。これらの竪土塁群は細尾根城郭の変則形とも言え、竪土塁の根元部に堀切状虎口が数ヶ所築かれている。こうした放射状の竪土塁群は類例が殆ど無い。この他、竪堀状の城道が腰曲輪群を貫通している。傾斜の緩い地形の弱点を技巧性で補った縄張りの様である。
 田間城は、城地としては細尾根城郭の東金城より腰曲輪など広やかで、「城地が狭隘で城を移した」という伝承は疑問に思う。城地の狭さより、要害性に乏しい地勢故に防備の弱さを感じて居城を移したという方が正しいのではないだろうか。
主郭・ニノ郭間堀切→IMG_2863.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.572512/140.369317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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