SSブログ
古城めぐり(神奈川) ブログトップ
前の30件 | 次の30件

石巻下野守康敬陣屋(神奈川県横浜市泉区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00983.JPG←陣屋付近の現況
 石巻下野守康敬陣屋は、玄蕃城とも呼ばれる。石巻下野守康敬は三河出身の武士で、小田原北条氏に仕えた。1590年の春、豊臣秀吉が北条氏直に上洛して謁見するよう要求した時、氏直の使節として康敬が京に派遣され、上洛の遅れを咎められて監禁された。北条氏が滅ぼされると、康敬は徳川家康に預けられ、後に中田村を与えられて陣屋を構えたと言う。康敬の子康貞の代から江戸の屋敷に移った様である。
 石巻下野守康敬陣屋の地には、石巻氏以前に玄蕃守屋敷があったと言われている。しらゆり公園南側の丘陵地が陣屋跡地で、かつては東から南西にかけて低湿地が三日月状の堀となっていたと伝えられている。現在は一面の住宅地に変貌してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.409567/139.515606/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:陣屋
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

畠山六郎重保居館(神奈川県横浜市戸塚区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00981.JPG←屋敷地の戸塚高
 畠山六郎重保は、坂東武者の鑑と謳われた畠山重忠の嫡子である。北条時政の婿平賀朝雅と争ったことがあり、それが元で北条氏に讒訴されて、鎌倉由比ヶ浜で攻め滅ぼされた。その翌日、父の重忠も謀略によって二俣川で討死した。
 畠山重保は鎌倉の屋敷以外に戸塚にも居館を構えていたと言う。現在の戸塚高校の地に当たっているため遺構はないが、斜面上にあり眺望に優れた場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.399598/139.517108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

俣野五郎景久屋敷(神奈川県横浜市戸塚区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00965.JPG←屋敷伝承地1付近
 俣野五郎景久は、大庭景宗の末子で、俣野郷に分知されたため俣野氏を称した。源頼朝が挙兵すると、兄の大庭景親と共に石橋山で叛乱鎮圧のため戦い、源氏方の真田与一と暗夜の格闘をしたと伝えられている。その後、頼朝が安房で再起し、関東諸豪をその傘下に収めて鎌倉に入り、大庭景親を梟首にすると、景久は京に奔って平維盛の軍に合流した。そして倶利伽羅峠で木曽義仲の軍に敗れ、再度決戦を挑んだ加賀篠原の戦いで討死した。
 俣野五郎景久屋敷は、正確な場所は判明していないが、幾つかの伝承地が存在する。その内有力なものの一つは、国道1号線の藤沢バイパス出口交差点近くの台地上である。山林になっているがフェンスで周りを囲まれており、中に入ることはできない。日本城郭大系によれば、既に地形が改変されて旧状を失っていると言う。もう一つの伝承地は、そこから北に2.5km程の上俣野地区である。俣野神社の西側付近であるらしい。民家や畑となっていて、伝承地という以上のものはないが、近くには景久にまつわる観音堂がある。
上俣野地区の伝承地2→DSC00978.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【屋敷伝承地1】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.359927/139.492357/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【屋敷伝承地2】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.383583/139.491262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


週刊ビジュアル日本の合戦 No.40 源頼朝と石橋山・富士川の合戦

週刊ビジュアル日本の合戦 No.40 源頼朝と石橋山・富士川の合戦

  • 作者: 作成者
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/04
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(6) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平子平右馬允屋敷(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00804.JPG←屋敷地付近の真照寺
 平子氏は、武蔵七党横山党の一流とも、桓武平氏の一流とも、また相模の豪族三浦氏の庶流とも言われるが定かではない。1193年、源頼朝が富士で巻狩りを行った際、日本3大仇討ちの一つに謳われる曽我兄弟の討ち入りがあったが、平子平右馬允有長は曽我十郎と切り結んで勇名を馳せた。この後平子氏は、磯子に在住した有長の系統と、その弟で本牧石川を領した石川経長の系統に分かれた。磯子平子氏は、室町時代を通して鎌倉公方足利氏や関東管領山内上杉氏に従って活動したことが古文書などに見られる。しかし小田原北条氏の勢力が伸長してくると、徐々にその圧迫を受け、1516年に北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦氏を滅ぼし、更に2代氏綱が江戸城を支配した頃には、平子氏は相模から追われて越後に逃れたらしい。

 平子平右馬允屋敷は、現在の磯子小学校・真照寺の近辺にあったと推測されている。上屋敷・下屋敷の2つがあったとされ、上屋敷は真照寺の境内を含む北側に、また下屋敷は真照寺より400m程南の磯子旧道沿いにあったと言う。現在は市街化で遺構は全く残っておらず、日本城郭大系の要図に記された上屋敷地は、真照寺の墓地となっている。尚、真照寺は平子平右馬允有長が再興した寺で、平子氏の菩提寺となり、そこに伝わる毘沙門天像は有長の肖像と伝わっていると言う。それにしてもこの寺、変わった形の寺堂である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.414603/139.621071/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

玄蕃屋敷(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00801.JPG←屋敷伝承地の現況
 玄蕃屋敷は、伝承未詳の城館で、玄蕃という人物についても不明である。ただ、すぐ南には平子氏の屋敷の伝承地があり、すぐ北にも平子氏の一族石川経長の居館推定地があるので、おそらく玄蕃という人物も平子氏の一族か家人であろうと、日本城郭大系では推測している。
 玄蕃屋敷のある地は、丸山台と呼ばれる丘陵地に南から入り込んだ谷戸の中にある。周囲一帯は完全に宅地化されていて、遺構はない。しかしかなり急峻な斜面に囲まれており、背後の要害性はかなり高かったことが現状からでも想像できる。それにしてもこんな急斜面にもところ狭しと家が新築されており、よくこんな地形に家を建てられるものだと驚いてしまう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.423609/139.617487/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

太田道灌屋敷(神奈川県横浜市南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00793.JPG←屋敷地とされる太田小学校
 太田道灌屋敷は、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が屋敷を構えた場所と伝えられている。また日本城郭大系では、「新編武蔵国風土記稿」の記事から、小田原北条氏の家臣で1519年に当地に入部した桜井玄蕃重政の居館があった可能性を指摘している。桜井氏は重政・将監重信・将監宗信・将監宗重と4代にわたって北条氏に仕え、1590年に北条氏が滅びると、当地で帰農したと言う。
 太田道灌屋敷があったとされる地は、現在の太田小学校の建つ場所とされている。この地は大岡川北岸に位置する比高30~40m程の段丘上で、周囲をかなりきつい傾斜の急坂で囲まれている。遺構は残っていないが、大岡川を天然の外堀とし、海を望む事のできる高台で、江戸城品川御殿山城等と共通した選地であり、道灌の築城のセンスが感じられる場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.440900/139.617337/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

観音堂砦(神奈川県横浜市神奈川区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00782.JPG←宗興寺の裏に残る大井戸跡
 観音堂砦は、小田原北条氏の家臣間宮四郎左衛門が築いたと言われる砦である。権現山城からわずか200~300m程しか離れておらず、また権現山合戦の際に奮戦した北条方の武将の中に間宮彦四郎の名が見えることから、後に笹下城を築いて本拠とした間宮氏の一族が関与した城砦であったことはほぼ確実と思われる。おそらくは権現山城の出丸として機能したものであろうか。
 観音堂砦は、現在の宗興寺の建つ場所にあったとされている。現在の地勢から見ると、権現山のある段丘の東麓の微高地であったと思われるが、宗興寺の裏には江戸時代を通して使われた大井戸の跡が残っていることから、水の手として機能していたのかも知れない。いずれにしても市街化で遺構は湮滅している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.472414/139.631263/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

権現山城(神奈川県横浜市神奈川区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00740.JPG←権現山城遠望
 権現山城は、伊勢宗瑞(北条早雲)が初めて山内・扇谷両上杉氏と言う関東の大勢力に戦いを挑んだ権現山合戦の舞台となった城である。その創築は明確ではなく、一説には南北朝期の武蔵野合戦の際に、新田義宗・義興らに攻められて鎌倉を逃れた足利尊氏が籠った「狩野川の城」が権現山城であるとも言われ、またその後、伴氏の居城であったとも言われるが、定かではない。権現山城がはっきりと姿を表すのは、前述の権現山合戦の時である。1510年、関東管領山内上杉顕定が越後で敗死し、それを好機到来と見た伊勢宗瑞は、両上杉氏に反旗を翻した。そして扇谷上杉氏の家臣上田政盛を調略して権現山城で反旗を翻させ、自身は住吉の城を取り立てて後詰めとして出陣した。しかし権現山城は2万の上杉勢に囲まれ、衆寡敵せず10日後に落城したと言う。その後、権現山城は姿を消すが、多米氏の築いた青木城は、権現山城の一部本覚寺山を中心郭として、新たに取り立てられたと考えられている。

 権現山城は、現在の幸ヶ谷公園にあった。当然、市街化と公園化で明確な遺構は確認できない。しかし周囲より10m程切り立った段丘で、公園内には段差があり、城らしさを感じさせる地勢である。公園の段差は、ニノ郭であったものかも知れない。また、公園の東側の道路は切通し状になっていて、堀切跡かもしれない。周辺の道路も空堀の名残を感じさせるものがあるが、果たしてどうであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.471820/139.628881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

青木城(神奈川県横浜市神奈川区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00755.JPG←青木城遠望
 青木城は、小田原北条氏の重臣多米氏の居城である。三河の土豪多米元益は、伊勢宗瑞(北条早雲)にその勃興時より従った伊勢七騎の一として活躍し、小田原城奪取でも先鋒を務めたと言われる。その子元興(周防守か?)は、天文年間(1532~55年)に青木城を構えて居城としたらしい。この時、1510年の権現山合戦の舞台となった権現山城の一部本覚寺山を中心郭として、新たに取り立てられたと考えられている。その後の1569年、武田信玄の小田原侵攻の際に、多米周防守は、北条氏と姻戚関係にあった名族吉良頼康の本城蒔田城を防衛するため、自身の居城青木城を捨てて蒔田城に詰めて武田勢を防いだ。1590年の小田原の役の際には、元興の子多米周防守長定は、御幣山砦の守将大谷帯刀左衛門公嘉と共に上野西牧城に籠って戦い、討死した。北条氏の滅亡に伴って廃城になったと思われる。
 青木城は、JR神奈川駅のすぐ西側の本覚寺の建っている付近にあったと推測されている。段丘上に位置し、明確な遺構はないが、墓地の一部は腰曲輪だった可能性がある。また周囲の道路は空堀跡であろうか?今となっては、勝手に想像を巡らすほかはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.471960/139.626693/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中田加賀守屋敷(神奈川県横浜市保土ヶ谷区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00702.JPG←屋敷地周辺の現況
 中田加賀守は、小田原北条氏の家臣で小机衆に属していた。矢上城を本拠とし、その他にも井田城など多くの所領を持った大身で、この保土ヶ谷の川島村も領していた様である。1590年に北条氏が滅びると、加賀守は矢上城に戻り、同年に没した。その子藤左衛門は川島村に陣屋を移して居を構え、正観寺を建てて父加賀守の分骨を納めたと言う。その後、江戸時代にはその子孫が当地に住んで名主となった。
 中田加賀守屋敷は、環状2号線と国道16号線という主要道の立体交差の近くにある。かつては堀も巡らされていたというが、現在は市街化で遺構は残っていない。中田藤左衛門が開基となったという正観寺には、中田一族の墓所と多数の寄進物がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.473340/139.572405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鳥山館(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00632.JPG←鳥山町の八幡宮
 鳥山館は、源頼朝の家臣で、近江源氏佐々木氏の嫡流佐々木定綱の弟高綱の居館と言われている。高綱は、兄達と共に頼朝の挙兵より従って大功を挙げた。その後も、平家討滅の軍に従い、宇治川の戦いで梶原景時の嫡男景季と先陣争いをしたことで知られている。
 鳥山館の場所は正確には不明であるが、鳥山町の八幡宮付近と言われている。八幡宮は、比高10m程の丘陵地を控えた地勢に築かれており、中世の居館を置くには好適であったと思われるが、遺構はなく、詳細は不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.502116/139.601802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

池辺大丸(神奈川県横浜市都筑区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00628.JPG←大丸という地名の残る住宅地
 池辺大丸は、日本城郭全集では池辺城と呼ばれる城である。小田原北条氏の家臣で矢上城を本拠としていた中田加賀守の関連した城とも言われるが定かではない。池辺町の周囲の広い範囲に、大丸・小丸・二の丸・三の丸・中丸等の地名が残っている。ただ、地名の散在する範囲が広すぎ、地形としても丘陵地であるとはいえ、これほどの範囲となると全体としての要害性が低いことから、どうも城ではなさそうに思う。完全に市街化しており、当然遺構は存在しない。城としての存在が不確実であることから、ここでは「池辺城」という城郭の名ではなく、日本城郭大系の記す「池辺大丸」という名称を採用した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.540084/139.557320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(3)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

川和城(神奈川県横浜市都筑区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00594.JPG←城地付近からの眺望
 川和城は、歴史不詳の城郭である。鶴見川の支流谷本川の東岸の丘陵地に位置し、日本城郭大系では谷戸に築かれた居館と一体となった山城ではなかったかと推測している。また川和城は、小机城の西北西4kmに位置しており、小机城の支城であった可能性もある。
 川和城は、妙蓮寺の背後の丘陵上にあったと言われている。かつては土塁も残っていたと言われているが、川和団地の開発等の市街化と採土で破壊されている。また丘陵上は妙蓮寺の墓地となり、一部に土盛らしき高台があるが、遺構ではないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.525433/139.553136/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
nice!(7)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

恩田城(神奈川県横浜市青葉区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00555.JPG←堀の内の丘陵地遠望
 恩田城は、恩田堀の内とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。福昌寺東側一帯の丘陵地の斜面上にあった城の様で、「あかね台.net」というHPによれば、あかね台が開発される直前の1984~86年に行われた発掘調査で、杉山神社から福昌寺にかけての尾根に空堀が発見されたと言う。これが「新編武蔵国風土記稿」に記載される「から堀」であろう。
 恩田城は、現在は完全に宅地化されてしまい、遺構らしいものは地表には存在しない。立地的に足利基氏陣所に似た構造で、一時的な陣城であったものであろうか。現地には今でも堀の内の地名が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.541289/139.491209/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
nice!(6)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長津田陣屋(神奈川県横浜市緑区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00540.JPG←陣屋跡地の幼稚園
 長津田陣屋は、徳川家旗本の岡野平兵衛房恒の陣屋である。岡野氏は、執権北条氏の流れを汲むと言われ、最後の得宗北条高時の遺児北条時行の末流とされている。伊豆田方郡狩野庄田中を領し、泰行の代に田中氏を称した。戦国時代になると小田原北条氏に仕え、泰行の子田中融成は北条氏政の命で板部岡氏を継いだ。後に剃髪して江雪斎と号した。板部岡江雪斎融成は、北条家中に於いて主に外交を担当した重臣で、岩槻城主北条源五郎の死後、岩槻城を守った。また、北条氏政・氏直が出陣する際は、必ず江雪斎を留めて小田原城を守らせたと言われる程の信任を受けた。戦国末期、織田信長の天下一統の覇業を継いだ豊臣秀吉と北条氏との関係が緊迫してくると、江雪斎は上洛して秀吉に謁し、和睦の交渉に当たった。その甲斐虚しく1590年に小田原の役となり、北条氏が滅びると、秀吉は江雪斎の才を惜しんで家臣とした。この時、秀吉の命で岡野に改称した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原合戦の際、小早川秀秋の内応交渉に当たって功を挙げた。江雪斎の子が房恒で、房恒もまた岩槻城主北条氏房に仕え、小田原の役の際は、小田原城に入った主君氏房に代わって、岩槻城の新曲輪に籠って奮戦した。北条氏滅亡後は関東に入部した徳川家康に仕え、長津田を賜り陣屋を構えた。以後、徳川家の旗本となって幕末まで存続した。

 長津田陣屋は、現在の長津田幼稚園付近にあったと言われている。市街化で遺構はないが、背後に丘陵地を控えた地勢で、周囲には岡野氏縁の寺社が点在している。特に江雪斎の菩提を弔うために建立された大林寺には、岡野家の歴代墓所があり、そこの石碑にその由緒が刻まれている。私はそれを読んで、初めて岡野氏が北条得宗家の末裔だと知った。遺構はなくても、重要な歴史を秘めた場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.527930/139.495779/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国関東覇権史 北条氏康の家臣団 (角川ソフィア文庫)

戦国関東覇権史 北条氏康の家臣団 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2021/07/16
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

亀之甲山陣城(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00503.JPG←陣城から見た夕暮れの小机城
 亀之甲山陣城は、長尾景春の乱の際に、太田道灌が小机城攻めの為に築いた陣城である。景春の父、長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年6月、家宰職は景信の弟・忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、 反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。景春は関東各地の有力豪族を味方に誘い込み、大規模な反乱となった。武蔵の豪族豊島氏も景春方に付き、石神井城練馬城平塚城等に立て籠った。この時、山内上杉氏を輔翼する扇谷上杉氏はその家宰、太田道灌を派して乱の鎮圧に当たらせた。戦術に巧みな道灌は関東を転戦し、1477年、豊島泰経の拠る石神井城を落とし、泰経が敗走して籠った平塚城をも攻め落とした。泰経は更に景春方の矢野兵庫助らが立て籠もっていた小机城に逃れて抗戦を続けた。道灌は小机城を攻囲するに当たって、亀之甲山陣城を築いて本陣とした。そして2ヶ月の攻囲戦の末に小机城を落城させた。

 亀之甲山陣城は、小机城の北東1.4km程の高台に位置している。鶴見川北岸の丘陵の先端に当たり、鶴見川を天然の外堀とし、眺望にも優れ、小机城の動きを見張るのに絶好の陣場である。現在城跡は新横浜テクノヒルズ企業団地という工場団地となっており、遺構は湮滅している。しかし地勢は残っており、今でもこの地からは小机城がよく望見できる。折しも夕暮れ時に訪城したため、夕空に浮かぶ富士山をバックに小机城が見え、美しい光景だった。道灌もこの景色を見ていたのかと思うと感慨深かった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.517155/139.608389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大曽根城(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00493.JPG←大曽根城付近の遠望
 大曽根城は、大曽根砦とも呼ばれ、小田原北条氏の重臣笠原氏が築いたと言われる城である。笠原越前守信為は、北条氏の始祖伊勢宗瑞の古参家臣で小机城主となった。そして信為の庶子と言われる平六義為が、小机城の支城として大曽根村に砦を築き、小机出張城と唱えたと「新編武蔵国風土記稿」に記載されていると言う。その後の歴史は不明である。
 大曽根城は、「字殿谷の上の丘陵」にあるとされるが、地図上は地名が残っておらず場所がよくわからない。しかし大曽根地区は、鶴見川が北から東へ大きく蛇行する位置にあり、要害としての地勢を残している。地勢上は太尾見晴らしの丘公園付近が最も城砦を築くのに好適と思われるが、眺望には優れ、鶴見川を天然の外堀とはしているものの、なだらかな丘陵地で城塞としての要害性にはやや心許ない。とりあえず地図には、この公園の場所をリンクしておく。尚、近くの龍松院は小机城2代目城主笠原能登守康勝が開基の寺である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.532488/139.622144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

安達義景別荘〔附、鶴見原古戦場〕(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00462.JPG←別所にある熊野神社
 安達義景別荘は、鶴見別荘とも呼ばれ、安達藤九郎右衛門尉景盛の子秋田城介義景の別邸であった。吾妻鑑には、1241年に将軍藤原(九条)頼経が武蔵野開発の方違の為に安達義景の鶴見別荘に出掛けたことが記載されていると言う。

 安達義景別荘の所在地は明確ではないが、鶴見区北寺尾に別所の地名が残っており、この地の丘陵上にある熊野神社の付近ではないかと推測される。谷戸地形に面した丘陵地であるが、一面の住宅地で遺構は残っていない。

 尚、この地は交通の要衝であったため、南北朝期に2度の合戦の舞台となっている(鶴見合戦)。一度目は、1333年5月。上野で挙兵した新田義貞は、鎌倉街道を一路南下し、関東諸豪を糾合しつつ鎌倉に迫った。これに呼応して、下総有数の豪族千葉貞胤が鎌倉目指して進軍し、これを迎え撃った幕将金沢貞将と鶴見の地で合戦となった。貞将は惜敗し、鎌倉に退き引いた。二度目は、1335年の中先代の乱の時である。建武の新政が開始された後、北条方残党は得宗北条高時の遺児北条時行を奉じて関東で大規模な叛乱を起こした。その経緯は井出の沢古戦場の項に記載する。鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向け、鎌倉目指して南下する北条方の別働隊と、迎え撃つ鎌倉側の佐竹一族が鶴見付近で合戦となった。この戦いで佐竹貞義の5男義直が討死にしたと言う。現在の一面の住宅地からは、古戦場であったことなど想像もつかない変わり様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.515286/139.662226/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館 古戦場
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

諏訪馬之助館(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00451.JPG←館跡付近の現況
 諏訪馬之助館は、小田原北条氏の家臣諏訪氏が築いた居館である。諏訪三河守は、永享年間(1429~40年)に寺尾城を築いた時、寺尾城の北東に伸びる丘陵の突端にこの館を築いたと言われている。この館に居住した諏訪馬之助(午之丞ともされる)は、一説には三河守の子とも言うが定かではない。尚、諏訪氏の事績については寺尾城の項に記載する。
 諏訪馬之助館は、寺尾城より北東に約2kmの位置にある。現在は一面の住宅地に変貌しているが、段丘状の地勢は残っている。現地解説板の図によれば、段丘の北側を巡る急坂が旧諏訪坂で、その南側の宅地に館があった様である。かつては古井戸も残っていたらしい。その西側の道路は空堀跡とされる。この道路の南端には崖を降る歩道があり、竪堀の名残かもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.515636/139.670724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

潮田館(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00446.JPG←館跡の光永寺
 潮田館は、小田原北条氏の家臣潮田氏の居館である。潮田氏は駿河今川氏の庶流で、入野将監光興の嫡男光行の頃に潮田郷に入部して、潮田氏を称したと言う。潮田光行は、北条氏康に従ってこの地を領し、1568年に没した。
 潮田館は、潮田光行の嫡子左馬介光永が開基した光永寺の境内にあったと伝えられている。館跡は鶴見川河口近くの東にあり、かつては海に近い平地であったが、現在は海岸は埋め立てられて工場地帯となっており、寺の周囲も完全に市街化し、遺構は完全に湮滅している。おまけに館跡とされる光永寺は最近建て替えられたらしく、あまり寺らしくない外観でちょっと残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.500526/139.688448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小田殿屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00438.JPG←小田地区の日枝大神社
 小田殿屋敷は、歴史不詳の城館である。小田地区には殿屋敷という地名が伝承されていたと「新編武蔵国風土記稿」に記載されていると言う。また同書によれば、この付近には馬場先代官目という地名があり、殿屋敷に住む飯田七郎右衛門という百姓の家を「馬場先の代官」と呼んでいたことから、日本城郭大系では鎌倉期からの支配者の居館があった可能性を指摘している。尚、小田原北条氏支配時代には、江戸衆小菅摂津守の所領であったが、殿屋敷との関連は不明である。
 小田殿屋敷は小田地区の中にあったが、現在は完全に市街化しておりその場所もわからなくなっている。ここでは仮に日枝大神社の付近としておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.514675/139.700099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

上杉憲幸館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00429.JPG←殿町にある水神宮
 上杉憲幸は、室町時代中期より関東管領を世襲した山内上杉氏の一族と考えられる武士である。伝承によれば、上杉憲幸は山内上杉氏の武蔵北鎌田の城の城代を務めていた。後に家臣荒金国貞・貞経兄弟と共に小田原北条氏を迎え撃つため大師河原に城を堅め、稲田新田殿町に館を構えた。これが上杉憲幸館である。しかし1538年、関東管領上杉憲政の命で城を北条方に明け渡し、憲幸は上総姉ヶ崎の松原氏の元に預けられたと言う。これは、北条氏綱が、第一次国府台合戦で小弓御所足利義明・里見義堯らの連合軍を破って、武蔵を掌握した時期に当たる。その後、憲幸は本人の願いで北条氏に引き取られ、大師河原近くの藤崎に居館を構えた。その後、安房里見氏が鎌倉に乱入した際、迎え撃って討死にしたと言う。その子式部大輔氏幸が跡を継ぎ、北条氏は相模六浦の武田氏の息女を娶せた。憲幸・氏幸父子はその貴種性から、北条氏家中において「御牢人」と呼ばれる客分扱いとされ、六郷殿と尊称された。その居館は北鎌田にあったとされる。1590年に北条氏が滅亡すると氏幸も浪々の身となり、小机領星川に移住したと言う。

 上杉憲幸館は、現在は多摩川河口付近の南岸の殿町という地域の中にあったとされる。かつての多摩川は、殿町の南を流れていたと考えられていて、往時は多摩川の北岸に位置し、本拠地北鎌田を防衛する拠点であったことが推測されると言う。しかし現在は、一面の住宅地で遺構は残っていない。正確な場所は不明であるが、ここでは仮に水神宮付近としておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.540171/139.745418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

河崎氏館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00419.JPG←河崎氏縁の稲毛神社
 日本城郭大系では「川崎堀之内」と記載されるが、ネット上でこの名前を検索するとあらぬ関係のサイトが大量にヒットするので、ここでは河崎氏館としておく。
 河崎氏館は、坂東八平氏の一、秩父氏の庶流河崎氏の居館である。河崎氏は、秩父別当武基の孫基家が河崎庄に入部し、河崎冠者を称したことに始まる。また河崎冠者基家は渋谷氏の祖でもあり、基家の孫重国が相模国渋谷庄に移って渋谷氏となったと言う。この渋谷氏と縁を持った佐々木氏が、後に河崎氏に代わってこの地を領した。
 河崎氏館は、川崎の堀之内地区にあったと言われている。しかし河崎基家の堀之内在住の直接的な証拠はないらしい。伝承地の堀之内地区は完全に市街化し、関東有数の風俗街となっている。ただ私が行ったのは平日昼間であった為もあってか、風俗街は再開発と不況でうら寂びれて見えた。尚、堀之内地区の南には基家が勧進した稲毛神社がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.532960/139.705893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

間宮豊前守信盛居館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00413.JPG←居館跡の宗三寺
 間宮豊前守信盛居館は、川崎塁とも呼ばれ、小田原北条氏の重臣で、後に笹下城を築いて居城とした間宮氏の古い居館である。元々この地は渋谷氏の祖河崎冠者基家、その子平三重家の領地であったが、鎌倉時代になると、幕府創業の功臣佐々木高綱の一族が領したとされる。間宮氏はこの近江源氏佐々木氏の後裔であった為、いつの頃からかこの所領を伝え得たものであろう。そして間宮豊前守信盛は、永正大永(1504~27年)の頃、伊勢宗瑞(北条早雲)・北条氏綱に仕え、ここを居館とした。間宮氏の事績については、笹下城の項に記載する。
 間宮豊前守信盛居館は、現在の宗三寺の地にあったと言われている。この地は京急川崎駅のすぐ横に当たる市街地の只中で、遺構は当然残っていない。多摩川の河口に近く、古くから交通の要衝であったらしい。間宮氏が中興開基したという宗三寺には、間宮氏の家紋(=佐々木氏の家紋)、四つ目結が付いている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.532715/139.701644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

丸子城(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00404.JPG←日枝神社付近の現況
 丸子城は、日本城郭大系では丸子陣場と記載され、長尾景春の乱の際に登場する城である。景春の父、長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年6月、家宰職は景信の弟・忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、 反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。景春は関東各地の有力豪族を味方に誘い込み、大規模な反乱となった。武蔵の豪族豊島氏も景春方に付き、石神井城練馬城平塚城等に立て籠った。この時、山内上杉氏を輔翼する扇谷上杉氏はその家宰、太田道灌を派して乱の鎮圧に当たらせた。戦術に巧みな道灌は関東を転戦し、1477年、豊島泰経の拠る石神井城を落とし、泰経が敗走して籠った平塚城をも攻め落とした。泰経は更に小机城に逃れて抗戦を続けたが、この時豊島氏残党の一部が立て籠もったのが丸子城である。城主の名は不明であるが、「新編武蔵国風土記稿」では古河公方足利成氏に属する武将と推測している。

 丸子城は、日枝神社から上丸子小学校にかけての付近にあったと伝えられている。現在は市街化で全くその痕跡を残していない。多摩川西岸の平地に当たり、要害地形ではないことから、「城と言うより臨時で取り立てたもの」との推測もなされている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.578941/139.667848/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

泉沢寺砦(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00395.JPG←構堀の名残の二領用水
 泉沢寺砦は、足利氏に連なる名族、武蔵吉良氏の築いた寺院城郭である。吉良氏は、御一家衆として鎌倉公方足利氏より格別の待遇を受け、その家格故に扇谷上杉氏家宰太田道灌などからも「吉良殿様」と尊称された。その事績は、世田谷城の項に記載する。世田谷城主吉良頼康は、1549年、火災で消失した烏山の泉沢寺を、上小田中に移転再建した。この地は中原街道に面した交通の要衝で、頼康は寺の周囲に「構堀」と呼ばれる水堀を廻らして、城砦としての機能も持たせていた様である。多摩川流域の稲毛領に進出する拠点として築いたか、或いは、もう一つの拠点であった蒔田城と世田谷城との間の繋ぎの砦として築いたものかも知れない。
 泉沢寺砦は、現在でも泉沢寺として残っているが、明確な遺構はない。寺の北と東には二領用水が流れているが、これが構掘の名残とのことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.582449/139.649481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

今井館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00383.JPG←今井西町の現況
 今井館は、坂東八平氏の一、秩父次郎重忠の一族小宮筑後守入道重康の居館と言われている。小宮筑後守の事績は不明であるが、「新編武蔵国風土記稿」が書かれた江戸時代後期にも、その子孫が村の里正を務めていたと言う。
 今井館の伝承地は不詳であるが、今井村の西の方とされる為、今井西町の付近であったと推測されている。一帯は全て市街化し、中世の館跡らしい雰囲気は微塵もない。尚、今井上町にある今井神社は、かつては山王社と呼ばれ、鎌倉時代初期に小宮筑後守の霊を祀り創建したと伝えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.575119/139.648687/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

赤堀屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00376.JPG←住吉神社
 赤堀屋敷は、赤堀入道某という武士の居館であったと伝えられている。時代も定かではないが、おそらく鎌倉時代のことであろう。戦国時代には、小田原北条氏の家臣中田彦七郎がこの地を知行していたが、中田氏と赤堀屋敷の関連については不明である。
 赤堀屋敷は、現在の東急東横線元住吉駅の近くにある住吉神社の付近にあったとされている様だ。神社付近は駅に近いこともあり、渋川と言う小河川が流れる他は一面の市街地で、屋敷の名残すら感じさせない。遺構など望むべくもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.565781/139.654480/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

本間五太夫陣屋(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00374.JPG←陣屋跡地付近の遠望
 本間五太夫は、「新編武蔵国風土記稿」によれば、鎌倉幕府の時代に井田村に住んでいた武士であった。鎌倉時代で本間と言えば、厚木の本間氏を思い浮かべるが、或いはその一族であったかも知れない。陣屋の伝承地は、市立井田病院の立つ丘陵地の北麓の谷戸で、前面には矢上川を天然の外堀として構え、陣屋背後に高台を備えた中世の屋敷地として相応しい場所である。現在は住宅地と化し、地勢以外に遺構は残っていない。尚、屋敷地の北方400mの場所にあるクリーニング屋さんは、屋号を陣屋と言い、かつては陣屋跡に住んでいたためその名があると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.561295/139.641348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

桃井播磨守館(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00360.JPG←天神原の台地からの眺望
 桃井播磨守館は、「新編武蔵国風土記稿」によれば、「桃井播磨守某の館跡」と言われている。桃井播磨守と言えば、太平記にも名高い足利一族の武将桃井播磨守直常がすぐ頭に思い浮かぶが、風土記稿にわざわざ「某」と名前を濁している所から類推して、有名な直常ではなく他の桃井一族の武将の拠った館跡なのであろう。但し伝承地は明確に出来ず、地元での伝承自体も既に途絶えている様である。
 桃井播磨守館は、天神原と呼ばれる現・高田小学校付近にあったと伝えられている。この地は比高20m程の高台になっており、台地南東端には高田天満宮(天神社)があって、地勢から考えてこの辺りまで館域だった可能性が考えられる。尚、高田小の東隣にある興禅寺は「元応2年時の領主桃井播磨守直常によって再興された」と言われているが、元応2年と言うと鎌倉末期の1320年で、上野を本領とした桃井氏が既に鎌倉末期にこの地を領していたのかどうか、今後検証の必要があるかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.556163/139.619311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | 次の30件 古城めぐり(神奈川) ブログトップ