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古城めぐり(神奈川) ブログトップ
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有馬城山(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00341.JPG←有馬城山付近の丘陵部
 有馬城山は、小田原北条氏の家臣窪田又五郎に関連すると推測される城館である。窪田又五郎は有馬を領し、北条氏の御馬廻衆一手持であったと言う。
 有馬城山は、多摩丘陵支脈の東端に位置し、有馬川北岸の丘陵上にあった。現在は宅地造成によって丘陵上部が10m程削られたらしく、遺構は既に存在しないと言う。城山の場所も今となってははっきりしないが、川崎北高のある付近の台地にあったものと思われる。ここには現在でも高台は残っているが、改変されている様だ。台地の麓には、日本城郭大系で「兵蔵山」の屋号を持つと記されている持田家の居宅が多数あり、古くからこの地に居住した一族であることを物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.573094/139.586095/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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大学屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00325.JPG←上宿の溝口神社
 大学屋敷は、歴史不明の城館である。東急田園都市線溝の口駅のすぐ北方は地元で上屋敷と呼ばれ、その更に北側の溝口神社(旧赤城社)にかけてを上宿、その西側の宗隆寺一帯を下宿と言い、その他にも下屋敷・牢屋敷・猿屋敷などの地名が残っていたと「新編武蔵国風土記稿」に記されている。その為、上下両屋敷が一体となって、「然るべき人の屋敷」(風土記稿の記述)があったと推測されているが、伝承は残っていない。戦国時代の北条氏所領役帳によれば、この地域は海保新左衛門が知行していたことになっているが、関連は不明らしい。
 大学屋敷は、溝の口駅に近い市街地の只中に当たる為、遺構は全くない。宗隆寺背後は丘陵となっていて、往時は屋敷を構える適地であったのかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.602375/139.610406/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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作延城(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00315.JPG←城址の緑ヶ丘霊園
 作延城は、歴史不詳の城である。作延城があったとされる場所は丘陵から東に突き出した要害地形で、城山と呼ばれていた。また城山堀・矢倉塚・天守台等の地名が残っていたと言われ、伝承によれば枡形城主稲毛三郎重成の築いた城であったとされる。作延城は、多摩川南岸に連なる多摩丘陵の一角を占め、小沢城・枡形城などが築かれる相模北方の重要な防衛線に位置している為、鎌倉時代に鎌倉防衛の一翼を担ったことは勿論、戦国期にも小田原北条氏にとって、武蔵の扇谷上杉氏との抗争で重要な役割を果たしたことが想像される。ちなみに北条氏所領役帳によれば、北条氏の時代の上作延村は増田氏が領していたと言う。
 作延城は、現在は緑ヶ丘霊園の一角となり、一面の墓地となって遺構は確認できない。丘陵の先端部に当たる為、周囲への眺望に優れることはわかるが、如何せん景観が変わりすぎていて城の実在を確かめることはできない。霊園内に、城址碑と解説板があるのだけが城の存在を伝えるのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600683/139.598175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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平屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00306.JPG←葛山平氏縁の東泉寺
 平屋敷は、小田原北条氏の家臣葛山平氏の居館である。「北条氏所領役帳」によれば、葛山平氏は稲毛庄平村を11貫350文で領していたと言う。葛山平氏は、桓武平氏の祖葛原親王の後裔とされるが、その事績は不明である。
 平屋敷は、日本城郭大系によれば、東名高速脇の平地区に「屋敷」「馬場」等の屋号が残っている付近とされる。場所はよくわからなかったが、仮に葛山平氏に縁のある東泉寺付近としておく。周辺は谷戸地形が多く起伏に富んでおり、中世の居館を置くには適していたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.601154/139.578091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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稲毛館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00288.JPG←傾斜地に建つ広福寺
 稲毛三郎重成は、鎌倉時代初期の御家人である。小山田荘の別当であった小山田城主小山田有重の子で、北条時政の娘(北条政子の妹)を妻としていた。源頼朝とは妻を通じて義理の兄弟に当たっていた為、その寵遇を受け、鎌倉北方防衛の要地の一つであった稲毛荘を領した。この時、枡形城を詰城として築き、その北麓に居館を築いたとされる。これが稲毛館である。しかし頼朝死後、同じく妻方の義兄弟に当たる畠山重忠を讒訴して滅ぼした為に誅殺された。
 稲毛館は、現在の広福寺の地にあったと言われている。枡形城の築かれた枡形山の北麓の傾斜地中腹に当たり、前面の五反田川を天然の外堀とした地勢だった様である。遺構は残っていないので、地勢からその存在を推し量るしかない。尚、広福寺には、稲毛三郎重成のものとされる墓があるが、「新編武蔵国風土記稿」では重成のものとすることに否定的見解を示しているらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.614517/139.559530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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北条氏直館(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00267.JPG←土塁らしき地形
 北条氏直館は、小田原北条氏5代目の北条氏直が旅の館(屋形)を構えたと言われる場所である。比高10~20m程の丘陵地となっていて、本城山と呼ばれている。港南区役所HPの「歴史の散歩道~こうなん道ばたの風土記」によれば、氏直の時代にこの付近で戦闘があったらしく、1622年に戦死者の供養のため光照院名遍寺が建てられ、再建時の棟札には「北条氏直が旅の館(屋形)を建てて当地にて軍勢を駐屯した。」という意味のことが記されており、巡検時の頓地と考えられているようだ。
 北条氏直館のあった本城山は、現在一面の住宅地となっていて、明確な遺構は確認できない。前述の区のHPには、「台地の平坦地に土塁を巡らした掘割や空濠が遺構を留めている」と記載されているが、どこのことか確認できなかった。ただ、住宅地の脇に土塁らしき地形は見られた。それにしてもこの住宅地、道が狭く車で行くと大変である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.418171/139.562105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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殿屋敷(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00259.JPG←殿屋敷の名が残る丘陵
 永谷高校のある丘陵地には、「殿屋敷」の地名が残っている。「殿屋敷」の名は、韮山で小田原北条氏の家臣団に参入した大津氏の祖が、永禄(1558~70年)の頃、東海道の守りにつく為にこの地に入部したことに由来すると考えられると言う。
 殿屋敷には、特に城館の遺構はなく、現在一面の住宅地として開発され尽くしている。この丘陵地からは、中世の遺構ではなく、縄文時代の大規模な環濠集落と方形周溝墓が発掘されているそうだ。丘陵途中に殿屋敷公園があって、殿屋敷の名を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.413257/139.563071/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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藤原乗国居館(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00249.JPG←居館推定地の永野小
 藤原乗国は、宅間憲忠のことと推測されている。宅間氏は、鎌倉府で関東公方足利氏を輔翼した上杉四家(山内・扇谷・犬懸・宅間)の一つで、四家の中では最も勢力が弱かったが、足利家に連なる名門上杉氏の一族であったため、戦国時代に入っても小田原北条氏から「宅間殿」と尊称された。その居館は、上永谷町の「伊予殿根」にあったと推測されているが、「伊予殿根」の地名は、宅間憲忠の子憲方が伊予守を称しことから生じたと考えられている。北条氏支配時代には宅間伊織綱頼が領主で、北条氏の傘下に入っていたと言う。尚、上杉氏は藤原氏の流れであった為、藤原とも呼ばれたのであろう。

 藤原乗国居館は、現在の永野小学校付近と推定されている。港南区のHP「歴史の散歩道~こうなん道ばたの風土記」に、「馬蹄形の丘陵に囲まれて、南口が開き、前には水掘の役目を果たす永谷川が流れる地形は、鎌倉期の城郭を想像させるものがある」と記載されている通りの地勢で、市街化で遺構は望むべくもないが、居館が築かれる地形的条件は揃っていたようである。

 尚、居館推定地南方の天神社・貞松院背後の天神山と呼ばれる丘陵地は、日本城郭大系では宅間氏関連武将の居館と推測し、港南区では宅間氏の詰城と推測している。天神山頂部は平場となっているが、すぐ南に市営地下鉄が通っているために山が削られており、元がどの程度の広さの平場であったのかは、現在では確認できない。独立小丘であるが、近くで見るとなかなか威圧感のある山容である。
天神山頂部の平場→DSC00240.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【居館推定地】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.405544/139.570323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【詰城推測地】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.402833/139.570345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


関東上杉氏一族 (中世関東武士の研究22)

関東上杉氏一族 (中世関東武士の研究22)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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野庭関城(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00225.JPG←本丸跡とされる丘陵頂部
 野庭関城は、市営野庭団地の中心部にあったとされる城砦である。一説には、鎌倉時代初期に幕府侍所の初代別当となった和田義盛が、鎌倉北方の防衛の為に鎌倉古道の通るこの地に城を築いたとも言われる。地元に残る伝承では、1213年の和田の乱の際、和田義盛に味方する一党が関城に立て籠もり、義盛が鎌倉で滅ぼされた後も、乱の原因を作った泉親衡と共に20日間の籠城戦の末、攻め落とされたと言う。また、日本城郭大系によれば、戦国時代、小田原北条氏の玉縄城の支砦として、野庭の領主石巻康保・安藤良整らが城を構えていたと言い、玉縄城と笹下城の繋ぎの城として機能していたとされる。1590年に北条氏が滅亡すると、廃城となったとされる。

 野庭関城は、現在ほとんど団地となっているが、本丸跡とされる中心部は公園となっていて、丘陵上の地形が残っている。しかし改変が進んでいるせいもあって明確な遺構はなく、高台であったぐらいしかわからない。公園の西部に堀状に窪んだ小道があるが、さすがに遺構とは思われない。尚、港南区のHP「歴史の散歩道~こうなん道ばたの風土記」によれば、公園の北東部にある調整池はかつての沢地で、水堀となっていたらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.389890/139.570602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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織部屋敷(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00219.JPG←真南台の遠望
 織部屋敷は、詳細不詳の城館である。港南区の日野9丁目には「真南台」と呼ばれる高台があり、「新編武蔵国風土記稿」によれば織部屋敷、又は古陣屋とも言い、鎌倉時代の頃に陣屋が置かれたと言う。但し、織部氏については一切不明である。一方、日本城郭大系では、戦国時代にこの地を知行していた小田原北条氏一門の重鎮北条幻庵の代官屋敷ではなかったかと推測している。
 織部屋敷があったとされる真南台は現在完全に宅地化されており、遺構は全く見られないが、現在でも周囲より5m程の高台となっていて、陣屋が構えられたらしい名残をわずかに残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.385359/139.572297/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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小菅ヶ谷殿館(神奈川県横浜市栄区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00213.JPG←城山付近の現況
 小菅ヶ谷殿は、鎌倉幕府3代執権北条泰時の娘と伝えられ、その館が現在のJR本郷台駅前の高層住宅団地の地にあったと言われている。この地は城山と呼ばれ、かつては高さ20m程のひさご形の小丘であったというが、戦前は海軍燃料廠が建設され、現在は宅地開発により全く地勢を残していない。海軍燃料廠の建設以前には、小規模な石積みもあったと言われる。その痕跡は残っていないが、付近には「城山橋」があって、城山と呼ばれた名残をわずかに残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.366376/139.550346/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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斎田左衛門屋敷(神奈川県横浜市栄区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00208.JPG←鍛冶ヶ谷付近の地形
 斎田左衛門は、鎌倉時代初期の武士で、源頼朝の近侍の士であったと伝えられている。その屋敷は、鎌倉街道が港南区から戸塚区に入る付近にある「東谷山」周辺に比定されており、地元では現在の鍛冶ヶ谷第1公園付近と伝えているそうである。
 斎田左衛門屋敷があったとされる鍛冶ヶ谷付近は起伏の多い丘陵地形で、どこが東谷山かもよくわからない。また付近を探しまわったが、屋敷跡と伝承される鍛冶ヶ谷第1公園も見つけることが出来なかった。結局場所は探し出すことが出来なかったが、付近の丘陵地のどこかに屋敷が構えられていたのだろう。いずれにしても一面の住宅地で、遺構は望むべくもない。尚、探しまわった中で「鍛冶ヶ谷中居公園」というのを見つけた。「中居」というのもよく城館に関連する用語として出てくることから、仮にその場所をリンクに記載しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.367268/139.556805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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松本城(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00196.JPG←城址の天照大神宮
 松本城は、笹下城主間宮氏が本城防衛の為に築いた周辺城砦群の一つである。笹下川と日野川に挟まれた高台にあり、周囲を睥睨できる絶好の陣場である。「新編武蔵国風土記稿」によると、16世紀中頃、間宮豊前守がこの辺に城をつくり、役所を設けて税を取り集めたと言う。
 松本城のあったとされる地には、現在天照大神宮が置かれている。神社周囲の地は全て市街化しており、境内にも周囲にも遺構はない。しかし現在でも独立丘であり、物見に最適であることがよくわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.395452/139.593111/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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間宮氏森居館(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00198.JPG←屋敷地周辺の現況
 間宮氏森居館は、小田原北条氏の重臣間宮氏が、その本城である笹下城の周辺に築いた屋敷である。「新編武蔵国風土記稿」では、間宮豊前守康俊の屋敷とされている。康俊の父信元は、最初川崎堀之内にいたが、後に笹下城を築いた。安房里見氏の侵攻に備える為、1526年に北条氏の命で笹下城に居城を移し、子の康俊を前衛の森に配置したと考えられている様だ。尚、間宮氏の事績については、笹下城の項に記載する。
 間宮氏森居館は、京急屏風ヶ浦駅の東方の通称「お屋敷」という場所にあったとされるが、現在は完全に市街化し、遺構はおろかその正確な場所すらわからない。地勢も不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.394648/139.613196/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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間宮氏杉田陣屋(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00106.JPG←陣屋跡付近の現況
 間宮氏杉田陣屋は、笹下城主間宮氏が築いた陣屋で、杉田港防衛のための前進拠点と推測される。伝承では、杉田間宮氏の祖信常(信次)以来の陣屋とされ、1526年に安房里見氏が小弓御所足利義明の命で鎌倉に侵攻しており、これを契機として防衛陣地として構築したものと、日本城郭大系では推測している。間宮信常は、北条氏綱・氏康に仕えて安房里見氏との戦いで討死した。その子信忠、孫の信繁も北条氏に仕えて忠功があったが、北条氏滅亡後の1592年に徳川家康に召し出され、御使番・御鷹方を勤めた。1740年に無嗣断絶となり、杉田陣屋も廃された。
 間宮氏杉田陣屋は、笹下城の東方約2kmの位置にある。京急杉田駅とJR新杉田駅の間にあり、市街化で遺構は完全に湮滅している。ただ付近には、「陣屋」の屋号が残っているという。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.383837/139.618152/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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笹下城(神奈川県横浜市港南区・磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00122.JPG←本丸付近の切岸
 笹下城は、小田原北条氏の重臣間宮氏の居城である。間宮氏は、近江源氏佐々木氏の庶流で伊豆馬宮を本貫としていた。伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆を平定すると、間宮氏は宗瑞に従って相模東進の先鋒を務めたと言われている。1510年の権現山合戦では、間宮彦四郎(信冬、またはその子信盛と言われる)は宗瑞に呼応して上杉氏に叛し、首謀者の上田政盛と共に権現山城に立て籠もって勇戦した。以後、間宮氏は小田原北条氏麾下の相模衆14家の筆頭となり、信盛の子間宮信元は笹下城を築いて川崎の居館から移り、居城とした。信元は、笹下城の周囲に杉田陣屋森陣屋氷取沢陣屋松本城などを構え、安房里見氏の侵攻に備えた。1590年の小田原の役の際には、間宮豊前守康俊は箱根を押さえる最重要拠点の山中城に入って、前衛となる岱崎出丸で寡兵を物ともせず力戦して討死した。この奮戦に感じ入った徳川家康は、関東入部後に間宮一族を多数召抱えて家臣とした。江戸時代にはその一族から、間宮海峡を発見した間宮林蔵や、解体新書を著した杉田玄白を輩出した。

 笹下城は、港南区・磯子区にまたがる広い台地に、複雑に谷戸が入り込んだ地形を利用して築かれていた。現在は市街化により遺構の湮滅が進んでいるが、地勢は健在で、大まかな城郭配置が確認できる。台地東麓を流れる笹下川を天然の外堀とし、成就院背後の台地上に本丸を置いていたと考えられている。成就院の東側には空堀跡とされる地形が残る他、IHI笹下団地の中には武者走り跡、北の環状2号線沿いの笹下中央公園には犬走り跡の地形が残るとされる。また、御下公園は下屋敷跡、若宮八幡宮背後の台地は若宮曲輪跡で、笹下川に架かる元笹下橋が笹下城の総門跡とされる。笹下城から森陣屋方面には「森道」と呼ばれる間道もあり、現在でも車道として残り、往時の雰囲気を残している。城域は広範にわたり、一通り見て回るには数時間を要する。遺構はほとんど無いものの地勢が往時の雰囲気を良く残しているので、街中の湮滅遺構としては中々楽しめる。しかしせめて各所に解説板が欲しいところである。尚、港南区役所HPの「歴史の散歩道~こうなん道ばたの風土記」に、笹下城の遺構が詳しく記載されている。
武者走り跡→DSC00121.JPG
DSC00174.JPG←総門跡の元笹下橋
森道→DSC00170.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.387738/139.598089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    (本丸付近)
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豊島刑部少輔陣屋(神奈川県横浜市金沢区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00082.JPG←豊島明重父子の墓
 豊島刑部少輔陣屋は、徳川幕府初期の旗本豊島刑部少輔明重の居館である。明重は、武蔵の名族豊島氏の後裔とされる布川城主府川豊島氏の一族四郎兵衛頼重の子で、小田原北条氏に仕えていたが、1594年、北条氏滅亡後に関東に入部した徳川氏の麾下となり、1615年には大阪夏の陣で御使番を務め、1700石を領して目付役となった。しかし老中井上正就との間に遺恨が生じ、1628年、江戸城中にて正就を殺害して、自らも自刃し、所領は没収された。
 豊島刑部少輔陣屋は、慶珊寺付近の谷戸にあったと言われている。この付近は起伏の多い地形で、往時の雰囲気を部分的に残しているが、何分にも宅地化による地形の変化が著しく、陣屋の明確な位置は明確にはできない。尚、明重が建立した慶珊寺には、明重の姉によって建てられた明重・吉継父子の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.371975/139.634879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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青ヶ台城(神奈川県横浜市金沢区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00072.JPG←台地南端の平場
 青ヶ台城は、執権北条氏の一族金沢氏の居城と言われている。金沢氏は、2代執権北条義時の孫越後守実時を祖とする名門で、有名な金沢文庫を創始したことでも知られる。鎌倉末期の当主金沢貞顕は14代執権北条高時の連署となり、高時が病気で執権を辞すると、短期間ではあるが執権となった。しかしこの時には、既に得宗独裁(得宗とは北条氏の嫡流家のこと)が強化され、執権とは名ばかりで、実質的には得宗家に仕える内管領長崎高資らによって幕政が主導されていた。また高時の後任にその弟泰家を推す生母覚海尼とその一族安達氏らの強い抵抗によって、10日あまりの短期間で執権を辞した。1333年5月、上野で挙兵した新田義貞は、疾風の様に鎌倉街道を南下し、小手指ヶ原・分倍河原で相継いで幕府軍を破り、鎌倉に迫った。化粧坂・巨福呂坂極楽寺坂と鎌倉防衛の要衝で激戦が展開され、引き潮を利用して稲村ヶ崎を突破した義貞は鎌倉を制圧した。金沢貞顕は、得宗高時ら多くの北条一門と共に東勝寺で自刃した。貞顕の嫡子貞将は、山内方面で7ヶ所の疵を被りつつ奮戦し、最期は大軍の中に突撃して壮絶な戦死を遂げた。

 青ヶ台城は、現在阿王ヶ台と呼ばれる南東に突き出した半島状の台地の上にあったと推測されている。台地上は一面の住宅地となり遺構は残っていないが、台地南端に畑となっている平場が見られ、腰曲輪だった可能性がある。この地は眺望に優れ、遥かに東京湾を望むことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.349191/139.611093/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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伊丹屋敷(神奈川県横浜市金沢区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00066.JPG←堀の内の谷戸の現況
 伊丹屋敷は、小田原北条氏の家臣伊丹右衛門太夫の屋敷である。北条氏所領役帳に拠れば、江戸衆に属する伊丹右衛門太夫と弟孫五郎が釜利谷を領していたと言い、「壬寅検知増」の注があることから1542年以前の所領と考えられ、北条氏初期の武士であったと推定される様だ。
 伊丹屋敷は、釜利谷小学校裏手の堀の内地区にあったと推測されている。周囲を丘陵で囲まれた、東南に開いた狭い谷戸で、城館を築くには適地だったことが現在でも推測される。しかし、周囲の丘陵も含めて屋敷推定地は一面の住宅地に変貌しており、遺構は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.343835/139.606694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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米倉氏六浦藩陣屋(神奈川県横浜市金沢区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00061.JPG←陣屋跡地付近
 米倉氏六浦藩陣屋は、六浦藩主米倉丹後守の陣屋跡である。米倉氏は甲斐武田氏の庶流で、武田氏の始祖新羅三郎義光の三男義清の孫義行を祖とし、その孫信継が甲斐国八代郡米倉郷に入部して米倉氏を称した。信継から10代目の重継は、武田信玄・勝頼父子に仕えたと言う。1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされると、重継の子忠継は徳川家康に仕え、幕臣米倉氏の初代となり、幕末まで存続した。
 米倉氏六浦藩陣屋は、現在の京急金沢八景駅の西に広がる狭い谷戸に築かれ、この谷戸は「御屋敷」と呼ばれていたと言う。しかし現在は市街化で一面の住宅地となって、遺構は完全に湮滅している。谷戸状の地形は残っていて、陣屋を置くのに適していたことはわかるが、陣屋のあった面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.329937/139.619054/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:陣屋
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平作城(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00008.JPG←「城の腰堰」の碑
 平作城は、相模の豪族三浦氏の支城である。三浦氏の本城衣笠城の北西1.8kmの位置にあり、衣笠城搦手の防衛の為に築かれたと考えられている。かつては丘陵先端に伸びる尾根が瘤状に高くなった独立丘の地形となっており、城山と呼ばれていたが、現在は宅地化されて消滅した。市営阿部倉アパートの建っている地が城地であったと思われる。城址南のしょうぶ園内に、「城の腰堰」の碑が建っており、かつて城があったことをわずかに物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.257482/139.641327/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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永島藤六屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00153.JPG←古沢集落の遠望
 永島藤六は小田原北条氏の家臣で、中郡古沢に所領を持っていたと言う。山間の窪地となっている古沢集落に、その屋敷があったと推測されているが、定かではない。かつては「堀ノ内」という地名もあったらしいが、既に現在は失われていると言う。
 永島藤六屋敷については、「新編相模国風土記稿」に記載があるだけで、遺構だけでなく地名も伝承も失われており、全ては時の彼方に消えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.459849/139.313582/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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板倉新次郎某屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00148.JPG←「まといば」付近の現況
 板倉新次郎は、小田原北条氏の家臣である。新次郎は戦国時代初期の武士で、「北条氏所領役帳」にはその子と思われる板倉修理亮の名が記載されていると言う。恩曽川西岸の平野部の山裾に「まといば」と呼ばれる地名があり、この付近が屋敷跡だったと言われている。この地は新次郎の墓の伝承地で、近年宝篋印塔と五輪塔が出土したと言う。
 板倉新次郎某屋敷は、現在民家となっていて、遺構の確認もできない状態である。遠目に眺める他はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.458503/139.318603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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毛利季光屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00146.JPG←堀跡の様に見える道
 毛利氏は、鎌倉幕府創業の功臣大江広元の後裔である。その功によって、相模国毛利庄など多くの領地を与えられ、各地に一族が広がっていった。広元の4男季光は、毛利庄に入部して毛利氏を称した。南北朝時代の毛利時親の時に、足利氏に味方して安芸の領地に移り、安芸毛利氏の祖となった。その後裔が、戦国時代に中国の覇者となった毛利元就である。
 毛利季光屋敷は、現在の三島神社の地と推測されている。周囲よりやや高台となっているものの明確な遺構は見られない。しかしよく見ると、神社の北側下方を通る道が堀跡のように見えるが、どうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.457506/139.321414/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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跡部屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00132.JPG←諏訪神社下の平場
 跡部屋敷は、徳川家康の家臣跡部茂右衛門正次の屋敷である。正次は元々甲斐武田氏の家臣であったが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされると、多くの武田家旧臣と共に徳川氏に仕えた。1590年に小田原北条氏が滅び、豊臣秀吉の命で家康が関東に入部すると、正次も関東に入って相模国愛甲郡内で150石余の采地を得た。正次は1600年の関ヶ原の戦いにも供奉し、1609年に松平忠輝付となって越後に移った。この時、相模の知行地は長男重員に与えられたと言う。
 跡部屋敷は、現在の諏訪神社付近と推測されている。この地は周囲より比高10m程の高台となっており、神社下にやや広い平場があって、いかにも屋敷地らしき雰囲気を醸し出している。しかし明確な遺構は見られず、確かなことは不明である。尚、諏訪神社の南隣りの妙昌寺には、近代跡部氏一族の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.446302/139.326264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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土屋豊前守屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00124.JPG←法界寺
 土屋豊前守は、その事績は定かではないが、小田原北条氏の重臣松田康長の家臣と推測されている武士である。名も伝わっていないほどなので、中級の武士だったと思われる。屋敷の場所ははっきりしないが、法界寺付近であったと推測されているようだ。1600年に没したと伝えられている。法界寺は、北条氏直が松田康長に命じて造立させたと伝えられており、寺の北西には康長の屋敷があったと伝えられている。
 土屋豊前守屋敷の推定地は、現在宅地や畑となっていて、全くその面影を残していない。現存遺構は望むべくもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.477499/139.339997/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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安達藤九郎屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00121.JPG←屋敷推定地付近の現状
 安達藤九郎盛長は、源頼朝の古くからの側近である。平治の乱で源義朝が敗れ、その子頼朝は池禅尼の平清盛への助命嘆願によって一命を許され、伊豆の蛭ヶ小島に配流となった。盛長はこの配流時代からの数少ない家臣で、頼朝の挙兵にも従って石橋山で戦うなど、鎌倉幕府の創業に貢献した。頼朝が死ぬと出家し、2代将軍頼家時代の1200年に病没した。
 安達藤九郎屋敷は、現在の聖眼寺の地にあったと推測されている。この地は中津川の西岸の丘陵部の東側傾斜地に当たり、鎌倉期の屋敷地としてはよくある地勢である。遺構はなく、境内に藤九郎盛長の墓とされる宝篋印塔があるだけである。尚、傾斜地の上部に祠があったが、屋敷跡と何か関係があるのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.493119/139.342743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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松田直長屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00113.JPG←屋敷推定地付近の現状
 松田直長は、小田原北条氏の重臣松田康長の子である。松田氏では、北条氏康以来3代にわたって筆頭家老を勤めた松田憲秀が有名であるが、康長はその従兄弟に当たり、従って直長は憲秀の従甥である。松田氏の事績については、松田城の項に記載する。康長は、1590年の小田原の役の際に箱根を押さえる最重要拠点山中城の守将となり、奮戦したものの衆寡敵せずわずか半日で落城し、康長は討死した。その遺領は直長が継いだが、間もなく北条氏は豊臣秀吉の軍門に降って滅亡し、直長は関東に入部した徳川家康に仕えた。その際、屋敷を構えたのがこの地であるとされる。
 松田直長屋敷は、その場所は正確には判明していないが、荻野小学校・中学校付近と推測されている。遺構はないが、荻野川東岸の段丘上に位置し、周囲より高くなった高台であったことが今でもわかる。南東に「馬場」の地名が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.491949/139.321243/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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田名氏館(神奈川県相模原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00070.JPG←水堀と土塁?
 田名氏館は、武蔵七党横山党に属する田名氏の居館である。田名氏は、横山時広の二男広季が田名郷に入部して田名二郎兵衛を称したことに始まるとされる。相模川対岸の小沢氏、上流の小倉氏など、横山党一族はこの地に勢力を扶植していた様である。田名広季とその子時季は、1213年の和田合戦で和田義盛に味方して討死した。
 田名氏館は、田名地区の堀之内にあったと考えられている。大杉の池という溜池の背後にある田名大杉公園は周囲より一段高い高台となっており、この高台の池側の辺縁部には土塁の様な形状で、池を含めて全体を見渡すと見るからに水堀と土塁という趣である。それ以外に遺構は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.548621/139.334933/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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中依知本間屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00065.JPG←屋敷地からの眺望
 中依知本間屋敷は、鎌倉時代に依知郷を支配していた本間六郎左衛門重連の屋敷地の一つと推定されている。本間氏の館は、金田・中依知・上依知の3ヶ所にあったと伝えられ、金田のものが本拠で、交通の要衝であった中依知には一族か家臣の者を配置した可能性があるようだ。本間氏の事績については、金田の本間屋敷の項に記載する。
 中依知本間屋敷は、現在の蓮生寺の地にあったと推測されている。この地は、相模川西岸の河岸段丘の縁に位置し、金田・中依知・上依知の3ヶ所中、最も要害性がある。遺構は全くないが、比高20m程ある段丘の上からの眺望は素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.481361/139.368256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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